ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/8/12~8/18

2018-08-18 16:03:12 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/8/12~8/18

2018 日々の聖句 8月12日㈰
神の下僕の言葉:(わたしを)打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。(イザヤ50:6)

それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。(ヘブル13:12~13)

私の黙想:
「神の下僕の言葉」はローズンゲンの編集者が付けた言葉。イザヤ書の「主の下僕」を思わせる。それが誰かイザヤ書内では確定できないが、一種の文学的霊感によって形成された「理想の人物像」であろう。キリスト教では「主の下僕」像が十字架刑に至るイエスの姿があまりにも似ているので、これをイエスの予型と見做している。

2018 日々の聖句 8月13日㈪
あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。(申命記13:5)

イエスの言葉:わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ15:12)

私の黙想:
「ねばならない」、厳密に言うとこの言葉はここに並んでいるすべての動詞にかかる。口語訳も同じような訳である。文語訳では「汝らは汝らの神ヱホバに從ひて歩み、之を畏れ、その誡命を守り、その言に遵ひ、之に事へ、これに附從ふべし」。同じ意味であることはわかるが、文語の「〜〜べし」は短くて力でよく歯切れがいい。これを口語だと、どう訳すべきか。そうだ「べきだ」でいいのだ。「ねばならない」だと、押さえつけられ無理矢理にさせられる感じが残るが、ここでは「当然のこと、自発性」でなければならない。さすがにフランシスコ会訳では「〜〜しなさい」と単純な命令文になっている。

2018 日々の聖句 8月14日㈫
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。(詩62:2)

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

私の黙想:
口語訳では、「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る」で、ほとんど同じである。ただ気になるのは「沈黙して」というのと「黙して」とは同じか。面白い!フランシスコ会訳では「沈黙」も「もだす」もなくて、「ただ神にあって安らぐ」、新改訳は「黙って」。岩波訳はチョット変化球で「神にのみ向かえ、わが魂よ、沈黙して」。ただ、これだけの単純な言葉ではあるが、突っつくといろいろ出てくるものである。関根訳は口語訳とほとんど同じである「神」を「ヤハウェ」と言う。聖公会の祈祷書では「わたしは静かに神を待つ」と訳している。ヘブライ語ではどうなっているのか知らないが、もはや興味が失せた。現代人ならスマホをいじくりながら「神を待つ」のかも知れない。
どうぞ、各自でお好みの訳をご採用ください。私は義理もあるので、やはり聖公会の「わたしは静かに神をまつ」ことにする。どんな待ち方をしても、結局は私の救いは神から来るのは間違いない。

2018 日々の聖句 8月15日㈬
主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる。(箴言18:10)

神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)

私の黙想:
「力の塔」とは何か、考え込んだが、口語訳を開いて、なんだ「堅固なやぐら(櫓)」じゃないか。「主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る」。素直に訳せばそういうことか。まぁ、結局同じことではあるが翻訳者たちはいろいろ工夫をしていて比較すると面白い。フランシスコ会訳は「主の名は堅固な櫓。正しい者はそこに避難して助かる」。新改訳は「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である」。岩波訳はチョットキザに「ヤハウェの御名は、堅固な砦。義人はその中へと駆け込み、保護される」。
より取り見取り、どの訳もそれぞれいい訳だが「力の塔」だけは頂けない。私なら「正しい者」「義人」の部分を「賢い人は」としたいが、それでは翻訳にならない。

2018 日々の聖句 8月16日㈭
わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる。(イザヤ48:17)

主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。(2テモテ2:7)

私の黙想:
私の主、私の神は、私の主体性を重んじてくださる。だから、ご自分でなさらず、私を教え、実行力を与え、何をすべきかを指示してくださる。私は耳を傾け、その指示に従って行動する。そうすれば、私の「平和は大河のように、恵みは海の波のようになる」(18)。預言者イザヤはバビロン捕囚中のイスラエル語りかけている。「バビロンを出よ」(20)。現状に落ち着いてしまわず、現状を打破して新しい道へと進むべきことを語る。

2018 日々の聖句 8月17日㈮
主の言葉:お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。(ヨナ4:10~11)

自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。(1コリント10:24)

私の黙想:
ヨナ書後半のクライマックス。神が心変わりした理由を述べている。
ヨナ書のメインテーマは「悔い改め」。ヨナは神からニネベの町に出かけて、神の怒りによってニネベの町は滅ぼされると語り、「悔い改め」の説教をする。その結果、ニネベの人々は王を初めすべての国民が悔い改める。
そこまでが第1部。ヨナは自分の仕事が成功したことに満足し、町の見える丘に座ってニネベの町が滅ぼされる状況を見物しようとする。日差しが強すぎるとかブツブツ不平を言っていると、不思議なことに「とうごま」の枝がするすると伸びて日陰を作ってくれて喜んだのもつかの間、とうごま枝は直ぐに枯れてしまい、またまたブツブツ言い出したところに、神の言葉がひびく。
後半のテーマは「神の悔い改め」で、悔い改めた人々を見て、神は心変わりして、町は滅ぼされない。そうすると預言者ヨナの「滅びの説教」は実現せずヨナの説教は嘘になる。その不満を神に訴えたときの神の答え(言い訳)が今日の聖句である。

2018 日々の聖句 8月18日㈯
主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。(ヨシュア24:16)

キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。(コロサイ2:7)

私の黙想:
旧約聖書の人物の中で、欠点とか失敗がほとんどない人物と言えばヨシュアぐらいだろうか。五書に登場するアブラハム、イサク、ヤコブなどは別として、モーセと比べてもヨシュアには失敗がない。むしろ、模範とすべき人格者である。そう考えると、今日の聖句の中の「するはずがありません」という言葉は、まさにヨシュアにおいて真実である。
さて、今日の聖句は、イスラエルの民がヤハウェの約束の地に侵入し、いろいろな民族と戦い、いろいろな神々を見てきた上で、「どの神をわれわれの神とするか」という決定をするいわゆる「シケム契約」と呼ばれている場面である。学者によってはこの場面こそ「アンフィクチオニー」で、こここそがリアルなイスラエルの民の成立だとする。ここで有名なヨシュアの宣言がなされる。それぞれ自分自身の判断によって「神を選べ」と命じた上で、「但し我と我家とは共にヱホバに事へん」(24:15)と宣言する。今日の聖句はそれを受けての民の決意表明である。「するはずがありません」は非常に強い言葉である。口語訳では「決していたしません」、フランシスコ会訳では「まったくありえません」、新改訳は「絶対にそんなことはありません」、岩波訳「とんでもないことです」。ついでに文語訳を見ると「ヱホバを棄て他神(あだしかみ)に事(つか)ふることは我等きはめて爲(せ)じ」。これがシケム契約の核心部分である。
ついでに、ひとこと、ここでのヨシュアの言葉(15節)こそ、私たちの両親が結婚するときに交わした「約束」の言葉であり、結婚式場な正面に掲げられていた聖句である。

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