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■瀬戸内寂聴さんの心に残る名言たち

2021-12-12 04:58:23 | 日記

 


■瀬戸内寂聴さんの心に残る名言たち

 


・あなたは苦しんだ分だけ、愛の深い人に育っているのですよ。

 


・人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。

 

 

・どんな悲しみや苦しみも必ず歳月が癒してくれます。そのことを京都では『日にち薬(ひにちぐすり)』と呼びます。時間こそが心の傷の妙薬なのです。

 

 

・人は所詮一人で生まれ、一人で死んでいく孤独な存在です。だからこそ、自分がまず自分をいたわり、愛し、かわいがってやらなければ、自分自身が反抗します。

 

 

・人生はいいことも悪いことも連れ立ってやってきます。不幸が続けば不安になり、気が弱くなるのです。でも、そこで運命に負けず勇気を出して、不運や不幸に立ち向かってほしいのです。

 

 

・私は「元気という病気です」とよく言います。ある講演会の司会者が、「瀬戸内さんの元気という病気が、ますます重症になるようにお祈りします」と挨拶して、会場が爆笑の渦となりました。

 

 

・どんなに好きでも最後は別れるんです。どちらかが先に死にます。人に逢うということは必ず別れるということです。別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。

 

 

・生かされているのですから素直に有り難いと思いましょう。生きている値打があるから生かされているのですもの。

 

 

・人は、不幸のときは一を十にも思い、幸福のときは当たり前のようにそれに馴れて、十を一のように思います。

 

 

・たくさん経験をしてたくさん苦しんだほうが、死ぬときに、ああよく生きたと思えるでしょう。逃げていたんじゃあ、貧相な人生しか送れませんわね。

 

 

・死というものは、必ず、いつか、みんなにやって来るもの。でも、今をどのように生きて行くか、何をしたいか、生きることに本当に真剣になれば、死ぬことなんて怖くなくなるもんです。

 

 

・お子さんに「何のために生きるの?」と聞かれたら、「誰かを幸せにするために生きるのよ」と答えてあげてください。

 

 

 

 

■瀬戸内寂聴とは?


瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年(大正11年)5月15日 - )は、日本の小説家、天台宗の尼僧。
俗名晴美。京都府在住。僧位は権大僧正。

学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。学位は文学士(東京女子大学)。
元天台寺住職、現名誉住職。比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学学長。徳島市名誉市民。京都市名誉市民。

徳島県の徳島市で生まれ育った瀬戸内寂聴さんは元々の姓は『三谷』でしたが、父が従祖母の家である瀬戸内家の養子になり、姓が『瀬戸内』に変わりました。
父:三谷豊吉、母:コハルの次女として生まれる。

両親は、徳島県徳島市中州町の仏壇店(瀬戸内商店)を営んでいました。
瀬戸内寂聴は幼いころ、身体が弱く、本を読むのが好きな子供でした。

小説家を目指していたものの、東京女子大学に在学中21歳で結婚し、旦那は中国古代音楽史を研究する学者で、旦那の仕事の関係で北京に同行します。
中国で女児を出産しました。

北京から帰国後、瀬戸内寂聴さんは旦那さんの教え子と、不倫関係になり、旦那さんや子供を残してその教え子と駆け落ちします。(夫の家庭内暴力もその原因だったようです)
瀬戸内寂聴はその時24歳。娘はまだ3歳。

そのことが原因で、父親とモメた挙句、親子の縁をきられる。
しかしその後、その青年から捨てられます。

一人になった瀬戸内寂聴は自立を目指し出版社に就職します。
今度は、そこで出会った小説家・小杉慎吾と恋に落ちます。

そんな時に、お別れした青年が12年ぶりに瀬戸内寂聴に会いにきて、放っておくことが出来ず再び関係がスタート、二股に。
1973年に51歳で岩手県の中尊寺にて出家し、1987年に岩手県の天台寺にて住職に就任します。

出家を決意したのはやはり過去の不倫したことに対する、罪滅ぼしとも言われています。
代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。1988年以降には『源氏物語』に関連する著作が多い。

これまで新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞している。
1997年文化功労者、2006年文化勲章。


三浦春馬さんが支えた子供達…ラオス小児病院から涙の感謝状~三浦春馬さん〝ラオス支援〟の全容~

2021-12-12 04:57:40 | 日記

 


■三浦春馬さんが支えた子供達…ラオス小児病院から涙の感謝状

女性自身 2020/08/06

https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1883062/


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《春馬さんには、これまでAct Against AIDS「THE VARIETY」の活動を通じてラオ・フレンズ小児病院へは3度の視察にお越しいただき、現地の子供たちの状況を知っていただく機会がありました。

 

その時に見た「何ができるのか」「何をすればいいのか」と考えてくださっている真剣な横顔や、村の子供たちへのキラキラとした優しい笑顔は、これまでも、そしてこれからも、ラオスの全ての子ども達が健康になって欲しいという私たちの目指すゴールの大きな支えとなっています》

 

三浦春馬さん(享年30)の急逝から2週間が過ぎた。その悲しみは、今も日本中に広がっている。

そんななか、アジアの子供たちへの医療支援を行う認定NPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」が7月25日に冒頭のような追悼文をHPで発表した。

 

《いまだに信じがたいことで…また、信じたくないことでよくわからない気持でもあります》という内容から始まったコメントは、さらにこう続いていた。


《今もきっと見守っていてくれていると信じています。そして、私たちはラオスの子供たちの笑顔を一人でも多く春馬さんへ届けられるように頑張るのみです。心よりご冥福をお祈りいたします》

 

実は、三浦さんは仕事で多忙な合間をぬって「Act Against AIDS(以下、AAA)」に参加していたのだ。

「AAA」はエイズやHIVへの偏見をなくし、正しい知識の普及を目的とした啓発運動。

三浦さんも’07年から参加し、精力的に活動を続けてきたという。

 

「『AAA』は、’93年に岸谷五朗さん(55)の呼びかけで活動がスタートした団体です。岸谷さんと寺脇康文さん(58)が中心となり、世界エイズデーの12月1日には俳優や歌手とともにチャリティライブイベント『THE VARIETY』を日本武道館で開催。集まった支援金でエイズやHIVの啓発活動、医療支援などを行ってきました。

その支援金などをもとに、’15年にはラオスで『ラオ・フレンズ小児病院』も設立。三浦さんが初めてラオスを訪れたのは’14年、小児病院が建設中のころでした。そこで出会ったHIVポジティブのトンシーちゃんは当時、9歳。病いと闘う姿を目の当たりにした三浦さんは、医療支援の大切さを改めて感じたそうです。

以来、三浦さんはこれまで以上にライブなどで『みなさんの支援がまだまだ必要です!』と訴えるようになったといいます」(芸能関係者)


三浦さんは’16年にもひそかに現地を視察し、’17年にはトンシーちゃんとも再会。

温かく子供たちを包み込む様子は、「THE VARIETY」でも動画などで紹介されてきた。


「これまでライブの進行役は、発起人である岸谷さんと寺脇さんが務めてきました。しかし最近では、三浦さんも『AAA』の新たな中心人物として期待されるようになっていたといいます。岸谷さんも寺脇さんも『春馬のような後輩が出てくると思ってなかった。本当に一生懸命に頑張ってくれている』『僕らの意志を後輩である春馬が継いでくれている。とても頼もしいことだ』と話すなど、本当に高く評価していました……」(前出・芸能関係者)


「AAA」は、今年7月20日に活動を終了。27年に及ぶ活動のなか、エイズ啓発において一定の役目を終えたと判断してのことだった。

しかし、同時に今後は「Act Against Anything」と名称を変更。

より広い支援活動を継続していく予定だという。

そこには三浦さんの姿も――。誰もがそう信じていた。

そんななか、訃報を知ったラオ・フレンズ小児病院から“涙の感謝状”が届けられた。

「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」のHP上で日本語に訳されたこの追悼文。《春馬さんへ》と始まり、次のような言葉がつづられていた。


《私たちは、ラオ・フレンズ小児病院のアウトリーチチームのスタッフです。ラオスの国を、そして、ラオ・フレンズ小児病院のことを特に支援し続けて下さった春馬さんが、もう、私たちと一緒にいないと聞いて、とても悲しいです。この場を借りて、春馬さんがして下さったことに対して、心から感謝の意を示したいと思います。

春馬さんのことは、ずっと私たちの記憶に残り続けるでしょう。春馬さんのご家族の皆さまが健康で安全でありますように。ご冥福をお祈りいたします。最後にもう一度、春馬さんに感謝の気持ちを込めて。ラオ・フレンズ小児病院 アウトリーチチーム 一同》


三浦さんの奮闘は、ラオスの子供たちの中にしっかりと根付いていたのだ。

「私たちの記憶に残り続ける」というその言葉はきっと、天国の三浦さんにも届いているはずだ――。

 

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三浦春馬さんが支えた子供達…ラオス小児病院から涙の感謝状
女性自身 2020/08/06
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1883062/

 

 

 

 

 

 


■訃報から1週間 ラオスの小児病院も三浦春馬さんに感謝「ずっと私たちの記憶に残り続ける」3度視察し支援

スポニチ 2020年7月25日

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/07/25/kiji/20200725s00041000226000c.html


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ラオスやカンボジア、ミャンマーを中心にアジアの子供たちへ医療支援を行う認定NPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」(東京都中央区)が25日、今月18日に急逝した俳優の三浦春馬さん(享年30)を公式サイトで追悼した。

三浦さんが3度視察に訪れ、支援してきたラオスの小児病院からも感謝のメッセージが届いた。

8月26日に予定通り発売される三浦さんの2ndシングル「Night Diver」の売上の一部は、三浦さんが毎年取り組んでいたチャリティーイベント「Act Against AIDS」で支援を続けていた認定NPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」を通じて、ラオスのラオ・フレンズ小児病院に寄付される。

追悼文は以下の通り。

春馬さんへ

三浦春馬さんが急逝され、1週間が経ちました。

いまだに信じがたいことで…また、信じたくないことで、よく分からない気持でもあります。

春馬さんには、これまでAct Against AIDS「THE VARIETY」の活動を通じてラオ・フレンズ小児病院へは3度の視察にお越しいただき、現地の子供たちの状況を知っていただく機会がありました。

その時に見た「何ができるのか」「何をすればいいのか」と考えてくださっている真剣な横顔や、村の子供たちへのキラキラとした優しい笑顔は、これまでも、そしてこれからも、ラオスのすべての子どもたちが健康になってほしいという私たちの目指すゴールの大きな支えとなっています。

今もきっと見守っていてくれていると信じています。

そして、私たちはラオスの子供たちの笑顔を1人でも多く春馬さんへ届けられるように頑張るのみです。

心よりご冥福をお祈りいたします。

この訃報を現地病院スタッフへ伝えたところ、一緒に村へ行ったスタッフから春馬さんへの感謝のメッセージが届きましたので、ここに併せて掲載させていただきます。

どうか、このメッセージが春馬さんへ届きますように…。

英語文中、多少の修正が必要ではありましたが、敢えてスタッフの気持ちをそのままお届けしたいので、送ってくれたそのままの原文を掲載させていただきます。


フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN代表
ラオ・フレンズ小児病院 看護師
赤尾 和美

<ラオ・フレンズ小児病院のメッセージ和訳>

春馬さんへ

私たちは、ラオ・フレンズ小児病院のアウトリーチチームのスタッフです。

ラオスの国を、そして、ラオ・フレンズ小児病院のことを特に支援し続けてくださった春馬さんが、もう、私たちと一緒にいないと聞いて、とても悲しいです。

この場を借りて、春馬さんがしてくださったことに対して、心から感謝の意を示したいと思います。

春馬さんのことは、ずっと私たちの記憶に残り続けるでしょう。

春馬さんのご家族の皆さまが健康で安全でありますように。

ご冥福をお祈りいたします。

最後にもう一度、春馬さんに感謝の気持ちを込めて。

ラオ・フレンズ小児病院 アウトリーチチーム 一同


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訃報から1週間 ラオスの小児病院も三浦春馬さんに感謝「ずっと私たちの記憶に残り続ける」3度視察し支援
スポニチ 2020年7月25日
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/07/25/kiji/20200725s00041000226000c.html

 

 

 

 

 

 


■ありがとう!三浦春馬さん 本紙がつかんだ〝ラオス支援〟の全容

東京スポーツ 2020年08月03日

https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/2035845/


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30歳という若さで先月18日に急逝した人気俳優・三浦春馬さん。

俳優仲間を中心に、関わった人々がSNSで発信した追悼コメントからも、その人柄の良さはひしひしと伝わってくる。

そんな三浦さんが毎年のように通っていたのが、東南アジアでもとりわけ小さな山岳国ラオス。

HIV(エイズウイルス)に感染した子供などのための病院を地道に援助し、癒やしを与え続けてきた。

心に闇を抱えながら、三浦さんはそんなそぶりを仕事で一切見せず。

ファンや視聴者、仕事で関わる人々に癒やしを与え続け、プロに徹した。人気シンガー・ソングライターのJUJUとスタジオ司会を務めたNHK「世界はほしいモノにあふれてる」(木曜午後10時30分)が、そんな生きざまを体現している。

自死2日前が最後の収録に。三浦さんと楽屋が隣になった元サッカー日本代表の前園真聖氏(本紙評論家)は「スタッフの人たちの声とか談笑している声も聞こえてて…」と出演番組で明かしている。

その日撮った収録の1本は先月30日に放送され、残り2本は今月20、27日に放送される。

そんな三浦さんがずっと支援してきたのが、アジア諸国の子供たちに医療支援を行うNPO法人「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」が運営する「ラオ・フレンズ小児病院」だ。

2014年に現地ラオスを初訪問。

翌15年2月の病院オープンに合わせ、再びラオスに足を運んだ。

病院のオープニングセレモニーに立ち会い、笑顔でテープカット。

その後はカメラ片手に、うれしそうな表情で院内を視察した。

当時の様子は、病院が配信した動画に収められている。

翌16年と17年にも、音楽業界によるエイズ啓発運動「Act Against AIDS」のチャリティーイベント「THE VARIETY」を通じ、ラオスを訪れている。

そのときも病院をくまなく視察し、生まれながらにHIV感染した赤ちゃんやその家族と面会、優しく励ますなどした。

毎年12月1日の「世界エイズデー」に合わせ行われるイベントのステージでは、観客へ向け、イベント収益により病院に車両が増強され、山奥のへき地へも診察できるようになったことなどを報告。

また病院の拡充、人材育成に協力してほしいと訴え、拍手を浴びた。

発展が著しい東南アジア諸国の中でも、ラオスはまだまだ経済的に厳しい「世界最貧国」のひとつだ。

医療は未発達で、地元富裕層や在住外国人が治療を受ける際は、隣国タイの病院へ行くケースも。

国連児童基金(ユニセフ)の一昨年の統計によると、5歳未満の死亡率が人口1000人あたり54人で、1000人あたり3人の日本と比べても、子供が亡くなる確率は非常に高い。

「病院が建てられたのは、山岳地帯で医療機関へのアクセスが困難な、ラオス北部のルアンプラバン近郊。今では先進的な医療設備とスタッフが揃い、地域医療の拠点となっていて、現地ではとても感謝されている」とは、首都ビエンチャン在住の駐在員。

三浦さんの遺作となってしまった2ndシングル「Night Diver」は、ミュージックビデオがユーチューブでいま爆発的に再生されている。

また4月に出版した雑誌連載の書籍化「日本製」も、急逝を受け注目が集まり、このほど重版が決まった。これらの売り上げの一部は、病院へ寄付される。

こうした動きを受け、前出NPO法人は公式サイトに追悼コメントを掲載。

「その(視察の)時に見た『何ができるのか』『何をすればいいのか』と考えてくださっている真剣な横顔や、村の子供たちへのキラキラとした優しい笑顔は、これまでも、そしてこれからも、ラオスのすべての子供たちが健康になってほしいという私たちの目指すゴールの大きな支えとなっています」などと、三浦さんの人柄を振り返った。

また三浦さんと同行し村へ行った病院スタッフからは「支援し続けてくださった春馬さんが、もう、私たちと一緒にいないと聞いて、とても悲しいです。この場を借りて、春馬さんがしてくださったことに対して、心から感謝の意を示したいと思います。春馬さんのことは、ずっと私たちの記憶に残り続けるでしょう」というメッセージが届いたという。


【北ラオスの医療の中心に】

ラオ・フレンズ小児病院は2015年のオープン以来、年間約2万人以上の子供を治療。
栄養、予防接種、病気予防など育児に関する知識を広める教育センターにもなっている。

ラオス北部では唯一、新生児サービスを提供できる病院だ。

英ロイヤルファミリーの一員で、アンドルー王子とセーラ・ファーガソンさんの長女、ベアトリス・オブ・ヨーク王女も一昨年に訪問。

現地の子供たちのためチャリティーハーフマラソンを主催し、当時の模様は現地メディア「ラオティアン・タイムス」でも大きく報じられた。

ルアンプラバンは街が丸ごと世界遺産に登録されているため、外国人観光客が献血に協力することも。

なお、病院を運営する「フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダーJAPAN」は、日本人カメラマン井津建郎氏が1995年に設立した国際NPO。

ラオスのほかカンボジアにも小児病院を開設している。

遺作曲「Night Diver」の売り上げの一部が病院へ寄付されるというニュースは、英訳されシンガポールでも配信された。

三浦さんの急逝はアジア中で惜しまれている。


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ありがとう!三浦春馬さん 本紙がつかんだ〝ラオス支援〟の全容
東京スポーツ 2020年08月03日
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/2035845/


三島由紀夫【三島の持論】(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

2021-12-12 04:54:45 | 日記

 

■三島由紀夫(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB


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【三島由紀夫】

■三島の持論

・自衛隊論


三島は、国の基本的事項である防衛を最重要問題と捉え、「日本国軍」の創立を唱えながら、「一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様」である国家という「一定空間の物理的保障」を守るには軍事力しかなく、もしもその際に外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、「決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない」とし、日米安保に安住することのない日本の自主防衛を訴えている。

三島は1969年(昭和44年)の国際反戦デーの左翼デモの際に自衛隊治安出動が行われなかったことに関連し、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう」と説いており、その時々の「政体」を守る警察と、永久不変の日本の「国体」を守る国軍の違いについて言及している。

また、「改憲サボタージュ」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘し、本来は「祭政一致的な国家」であった日本が、現代では国際強調主義と世界連邦の線上に繋がる「遠心力的」な「統治的国家(行政権の主体)」と、日本の歴史・文化という時間的連続性が継承される「求心力」的な「祭祀的国家(国民精神の主体)」の二極に分離し、「後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる」状態にあるとしている。

現状では自衛隊の最高指揮権が日本の内閣総理大臣でなく、最終的には「アメリカ大統領にあるのではないかといふ疑惑」があり、現憲法の制約下で統治的国家の「遠心力」と祭祀的国家の「求心力」による二元性の理想的な調和と緊張を実現するためには、日本国民がそのどちらかに忠誠を誓うかを明瞭にし、その選択に基づいて自衛隊を二分するべきだという以下のような「自衛隊二分論」を三島は説いている。

1.航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で「国連警察予備軍」を編成し、対直接侵略を主任務とすること。この軍は統治国家としての日本に属し、安保条約によって集団安全保障体制にリンクする。根本理念は国際主義的であり、身分は国連事務局における日本人職員に準ずる。

2.陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で「国土防衛軍」を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う。

2.の「国土防衛軍」には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている。なお、三島は徴兵制には反対している。

三島は、自衛隊が単なる「技術者集団」や「官僚化」に陥らないためには、「武士と武器」、「武士と魂」を結びつける「日本刀の原理」を復活し、「武士道精神」を保持しなければならないとし、軍人に「セルフ・サクリファイス」(自己犠牲)が欠けた時、官僚機構の軍国主義に堕落すると説いている。

そして、戦後禁忌になってしまった、天皇陛下が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜すること、文人のみの文化勲章だけでなく、自衛隊員への勲章も天皇から授与されることを現下の法律においても実行されるべきと提言し、隊員の忠誠の対象を明確にし、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくこと」こそ、日本および日本文化の危機を救う防止策になると説いている。


「栄誉大権は単に文化勲章や一般の文官の勲章のみでなく、軍事的栄誉として自衛隊を国民が認めて、天皇が直接に自衛隊を総攬するような体制ができなくちゃいかん。それがないと、日本の民主主義は真に土着的な民主主義にはなり得ない。」

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」

 

・日米安保について


日米安保については、「安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がする」と三島は述べており、そうした問いは結局のところ、アメリカを選ぶか、中共・ソビエトを選ぶかという、本質的には日本というものの自主性が選べない状況の中での問題であり、当時の激しい安保反対運動(安保闘争)がひとまず落ちついた後の未来に、日本にとっての真の問いかけが大きな問題として出てくるとしている。
そして、そこで初めて「われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないか」と語っている。


「私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成といふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。」

三島由紀夫「日本とは何か」


別の場の発言でも、安保賛成はアメリカ派で一種の「西欧派」であり、安保反対も中共・ソビエトという共産党系の「外国派」であるとし、「日本人に向かって、『おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるか』といったら、ほんとうの日本人だったら態度を保留すると思う」と述べている。

そして、「国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していない」として、「まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況」にあり、安保反対派(中共・ソビエト派)の運動が激化していた当時の状況においては、西欧派の自民党の歴史的な役割として、「西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい」という考えを福田赳夫に伝えたことを1969年時点で語っている。

また、日米安保に関連する沖縄の米軍基地問題についても三島は、日本人の心情として日本の国内に外国(アメリカ)の軍隊がいるということに対する反対意識は、イデオロギーを抜きにすれば一般国民のナショナリズムや愛国心に訴えるものがあるため、それを外来勢力の共産党系左翼(天皇制・国体破壊を目論む者)に利用されやすいという、日本独特の難しい状況も語っている。


「日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。」

三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」

 

・核武装について


三島は、ナチスのユダヤ人虐殺と並ぶ史上最大の「虐殺行為」の被害を広島がアメリカから受けたにもかかわらず、日本人が「過ちは二度とくりかへしません」と原爆碑で掲げていることに疑問を呈し、「原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文字は、終戦の詔勅の『五内為ニ裂ク』といふ一節以外に、私は知らない」と述べている。

そして、そうした「民族的憤激」や「最大の屈辱」を「最大の誇り」に転換するべく「東京オリンピックに象徴される工業力誇示」を進めてきた日本人だが、はたして「そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか」として、唯一の被爆国である日本こそが核武装する権利があるという見解を1967年(昭和42年)の時点で以下のように示している。


「日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。」

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」


また、日本の自主防衛に関連し、1969年(昭和44年)に受けたカナダのTVインタビューでも、「私は、多くの日本人が、日本での核の保有を認めるとは思いません」と悲観的な予想を示しながら、自衛隊を二分し予備軍が国連軍に加わることで「核兵器による武装が可能になる」と答えている。

そして自決前の『檄』の後半では、日本にとって不平等な核拡散防止条約 (NPT) のことも語っている。


「諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。」

三島由紀夫「檄」


この警告について西尾幹二は、三島が「明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵」を意識し、このままでよいのかと問いかけているとし、三島自決の6年前に中国が核実験に成功し、核保有の5大国としてNPTで特権的位置を占め、三島自決の1970年(昭和45年)に中国が国連に加盟して常任理事国となったことに触れながら、「国家百年の大計にかかはる」と三島が言った日本のNPTの署名(核武装の放棄)を政府が決断したのが、同年2月3日だった当時の時代背景を説明している。

そして、三島が「あと二年の内」と言った意味は、この2年の期間に日本政府とアメリカの間で沖縄返還を巡り、日本の恒久的な核武装放棄を要望するアメリカと中国の思惑などの準備と工作があり、日本の核武装放棄と代替に1972年(昭和47年)に佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞し、表向き沖縄返還がなされたことで、自衛隊が「永遠にアメリカの傭兵として終る」ことが暗示されていたと西尾は解説している。

 

・特攻隊について


三島の天皇観は、国家や個人のエゴイズムを掣肘するファクター、反エゴイズムの代表として措定され、「近代化、あらゆる工業化によるフラストレイションの最後の救世主」として存在せしめようという考えであったが、三島の神風特攻隊への思いも、彼らの「没我」の純粋さへの賛美であり、美的天皇観と同じ心情に基づいている。

三島の考える「純粋」は、小説『奔馬』で多く語られているが、その中には「あくまで歴史は全体と考へ、純粋性は超歴史的なものと考へたがよいと思ひます」とあり、評論『葉隠入門』においても、政治的思想や理論からの正否と合理性を超えた純粋行為への考察がなされ、特攻隊の死についてもその側面からの言及がなされている。

三島は日本刀を「魂である」としていたが、特攻隊についても西欧・近代への反措定として捉えており、「大東亜戦争」についても、「あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。

ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである」としている。

この捉え方は、戦時中、三島が学生であった頃の文面にも見られる。


「僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。
「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。」

平岡公威「三谷信宛ての葉書」(昭和20年4月21日付)


敗戦時に新聞などが、「幼拙なヒューマニズム」や「戦術」と称し、神風特攻隊員らを「将棋の駒を動かすやうに」功利、効能的に見て、特攻隊の精神がジャーナリズムにより冒涜されて「神の座と称号」が奪われてしまったことへの憤懣の手記も、ノートに綴っていた。


「我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒?の語を放ち出した。」

 平岡公威「昭和廿年八月の記念に」


また、三島は戦後に『きけ わだつみのこえ』が特攻隊員の遺書を「作為的」に編纂し、編者が高学歴の学生のインテリの文章だけ珍重して政治的プロパガンダに利用している点に異議を唱え、「テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる」と唾棄している。

『きけ わだつみのこえ』を題材とした映画についても「いはん方ない反感」を感じたとし、フランス文学研究をしていた学生らが戦死した傍らにシャルル・ボードレールかポール・ヴェルレーヌの詩集の頁が風にちぎれているシーンが、ボードレールも墓の下で泣くであろうほど「甚だしくバカバカしい印象」だと酷評し、「日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが論理的」であるとしている。

 

・愛国心について


「愛国心」という言葉に対し、三島は官製のイメージが強いとして「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向こう側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」とし、キリスト教的な「愛」(全人類的な愛)という言葉はそぐわず、日本語の「恋」や「大和魂」で十分であり、「日本人の情緒的表現の最高のもの」は「愛」ではなくて「恋」であると主張している。

「愛国心」の「愛」の意味が、もしもキリスト教的な愛ならば「無限定無条件」であるはずだから、「人類愛」と呼ぶなら筋が通るが、「国境を以て閉ざされた愛」である「愛国心」に使うのは筋が通らないとしている。

アメリカ合衆国とは違い、日本人にとって日本は「内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的」にあるものだと三島は主張し、「われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である」としている。


「恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。」

三島由紀夫「愛国心」


こうした日本人の中にある内在的・即自的なものを大事にする姿勢と相通じる考え方は、三島が18歳の時に東文彦に出した書簡の中にも見られ、「我々のなかに『日本』がすんでゐないはずがない」として以下のように述べている。


「「真昼」―― 「西洋」へ、気持の惹かされることは、決して無理に否定さるべきものではないと思ひます。真の芸術は芸術家の「おのづからなる姿勢」のみから生まれるものでせう。近頃近代の超克といひ、東洋へかへれ、日本へかへれといはれる。その主唱者は立派な方々ですが、なまじつかの便乗者や尻馬にのつた連中の、そここゝにかもし出してゐる雰囲気の汚ならしさは、一寸想像のつかぬものがあると思ひます。我々は日本人である。我々のなかに「日本」がすんでゐないはずがない。この信頼によつて「おのづから」なる姿勢をお互いに大事にしてまゐらうではござひませんか。」

平岡公威「東文彦宛ての書簡」(昭和18年3月24日付)

 

・国語教育論


三島は、戦後の政府によって1946年(昭和21年)に改定された現代かなづかいを使わず、自身の原稿は終生、旧仮名遣ひを貫いた。三島は、言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したらもうだめだと主張し、中国人は漢字を全部簡略化したために古典が読めなくなったとしている。

また、敗戦後に日本語を廃止してフランス語を公用語にすべきと発言した志賀直哉について触れ、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と批判した。

国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが「古典主義教育の完全放棄」だとし、「古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」と主張している。

そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し、「美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。

みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる」と文部省の役人や教育学者を批判し、自身の提案として「ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか」を先生たちにやってもらいたいと述べている。

三島は、日本人の古典教育が衰えていったのはすでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出して「日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた」と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から『源氏物語』を暗唱させるべきだとしている。

また、『論語』の暗唱、漢文を素読する本当の教え方が大事だとし、支那古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、「日本の文体」も非常に弱くなったとしている。


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■三島由紀夫(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB

 

 

 

 

 

 

 

■三島由紀夫「檄文」全文


われわれ楯の会は、自衛隊によって育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このような忘恩的行為に出たのは何故であるか。

かえりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後ついに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑いもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛冽の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなお、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった。 

われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を、なしてきているのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤った。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとえに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようという決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむずかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねじ曲った大本を正すという使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしていたのである。
 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起ったか。総理訪米前の大詰ともいうべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終った。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起ったか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」という火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になった。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬かぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家たちにとってはそれでよかろう。しかし自衛隊にとっては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
 銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日という日は、自衛隊にとっては悲劇の日だった。創立以来二十年に亘って、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとって、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だった。論理的に正に、この日を境にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあろうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みていたように、もし自衛隊に武士の魂が残っているならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であろう。男であれば、男の衿がどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」という屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかった。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかっているのに、自衛隊は声を奪われたカナリヤのように黙ったままだった。
 われわれは悲しみ、怒り、ついには憤激した。諸官は任務を与えられなければ何もできぬという。しかし諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、という。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のように人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。繊維交渉に当っては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあったのに、国家百年の大計にかかわる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかわらず、抗議して腹を切るジエネラル一人、自衛隊からは出なかった。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。共に起って義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇えることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

三島由紀夫