学校の改善点についてですが、あらゆる分野にも言えることですが、「第一印象」が「改善ポイント」になることが多いと思います。
それゆえ「第一印象」が大事なのですが、そこを改善せずにほったらかしにして「慣れ」てしまうと、どれが欠点だったか忘れてしまい、結局、改善すべきところを改善できずに、良くない状態で停滞してしまうことが多い。
そこに「進化」はないし、より良い将来はありません。
「理想」と「第一印象」と「初心」を忘れずに、より良く変化させていくことを日常的に意識しつつ、尽力していくことが大事だと思います。
一人一人の教員が、そういう意識を日常的に持っていれば、学校という職環境と教育システムは、上からだけでなく下からも、どんどん良い状況に変化して行くことでしょう。
学校の先生方は、日々の職務でいっぱい、いっぱいで、環境や教育システムをいかに変化させていくかというところにまで協議して変化を起こしていく時間と心と環境の余裕がないのが現状です。
それに「慣れ」てるしかなくて、慣れてしまっている印象でした。
今の時代の「職員室」に、「夢」や「憧れ」を感じることができませんでした。
美術の先生は、私の実習校の中学校には、たった一人しかいません。
1・2・3学年「すべて」、一人の先生が授業を請け負っていました。
「美術」の授業は他の教科と違って、材料の下準備と後片付けに時間と手間がかかります。
この手間と時間を惜しんででいては、「もの創り」が本業である質の良い「美術」の授業は、実現不可能です。
準備と後片付けを短時間で済ませたとしても、創作時間が35分しかありません。
創作が波に乗る寸前で、後片付けを始めなければいけません。
また、その35分以内に、一人一人の個性や独創性に気付き褒めて伸ばしてあげることもできません。
そして、美術が苦手で描けない子供のフォローに手が回りきりません。
「美術」は、美術教員の一人でできる仕事量が超過すると、教員自身の心の余裕がなくなり、心のフォローが必要な子(こういう子どもにこそ教育が必要)にたいしてのフォローをすることができません。
実際にコラージュ授業の後片付けに、教室内に散らかったコラージュの素材(ゴミの山)を片づけるのに、授業終了後40分はかかりました。
準備に20分です。
「美術」は、「最低2人」は必要です。
この良くない教育システムの現状を実践的に改善してくれる文部科学大臣などの政治家が、現れればいいのですが。
また、「美術」という科目を軽く見られている印象を受けました。
校長、教頭先生、その他の科目の先生方が、「美術」が何のためにあるのか、教育にどのような影響をもたらすのか、認知していないと感じました。
教育実習の出来事の中でも、これは非常に残念な出来事でした。
「美術」が教育で、他の科目では実現不可能な「創造力」「想像力」「心」「コミュニケーション能力」「行動力」「生きる力」「精神」「考える力」を育む科目はありません。
教育の面でも大きなポテンシャルを持った「科目」です。
では、どうして「美術科」は出来たのか、この機会に考えてみました。
美術品は、「創り手」により「作品」が次々に創造され生み出されてきた。
一番古くは4万年前のラスコーの壁画から始まり、エジプトのピラミッド、ルネサンス時代の絵画達、江戸時代の浮世絵に、ピカソの油絵、アンディ・ウォホルのトマト缶の版画etc…長い時間の経過により、時代を象徴する作品がのこり、美術品の数がたまってきた。
これらの作品から「時代」を知ることができ、「人間の発想力」「創造力」の凄さと可能性を知り、その美術品を創った「作家とその人生」を知り、その作品がその時代に社会に与えた「影響」を知り、作品から「感動」をもらい、作品は「心が形となって現れているものなので、作品を通じて「心」を感じ取ることができ、これまでの自分に無かった「新しい本質」について作品から気づかされたり、、、これらを学ぶために『美術』という科目が出来たのだと思いました。
「美術」は「ゼッケン作り」ではないのです。
本当に、これらの事が、学校の「美術」の授業で学ばれているのかが、とても疑わしい。
「美術の時間」を無駄にしているように思います。
「生きる力」を養う教育方針なのなら、もっと「美術」を活用する手はありません。
質の良い「美術」の授業が全国の学校で展開されることを、願って止みません。