斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

自分は100%日本人でした

2023年04月21日 | ザ・日本人の気持ち

これは「日本人には混血があってはならない?!」の記事の続きです

日本社会には混血があってはならない?! - カルガリーちゃんねる

 

遺伝子検査のマイヘリテージで自分の遺伝子を調べてみた。これは人種的なルーツとか、遺伝に依る疾患、性格(個性)や、肥満になりやすいかなりにくいかという事その他が色々と知る事が出来る。

綿棒で口の中(頬の内側)をこすって、返送する。約1ヶ月強後、結果が郵送された。

 

結果は、悲しいながら、100%アジア日本だった。周りとはちょっと違うという違和感をうすうす感じていた。それは自分が100%純日本人のせいなのか?

 

日本人の中でも100%日本人というのは本当に稀らしく、日本人全体の0.5%つまり、200人に1人という割合らしい。日本人の大半は、どこかしらと混交があり、現存する民族の誰かしらと親戚関係があるらしい。日本人の中で最も多いのが漢人(長江以南)、高麗人(南鮮)との混交。次に多いのが東南アジア、南太平洋、その次が漢人(長江以北)、高麗人(北鮮)、蒙古、北東アジア、中央アジア、フィンランド、ハンガリー等で、稀に東欧やロシア、コーカサス、イラン、インド。次に中東、中欧。本当に稀に、アフリカや西欧、北西ヨーロッパ、北米や中南米の部族、アボリジニの順らしい。

 

説明書に依ると、自分の祖先は約5万年から3万年程前の間(←アバウト)に日本列島に渡った、古代大陸の人であるという。

自分の遺伝子は日本特有で、太古の遺伝子のまま外との混交が一切なく温存され、現在に至る。

 

まさに日本固有種の原種ともいうべきであろう。

とお褒めの言葉なのか?そんな言葉が書かれていた。

他の現存するいかなる民族との繋がりもない。とも書かれていた。

自分は純血種の古モンゴロイドである。これは断言出来る。世界的に見てもかなり原始的な遺伝子である。

 

自分の憶測だが、大陸の戦争は皆殺しなので遺伝子が寸断されている。皆殺しにされる前に安全な日本に渡って来たせいで生き残る事が出来た。

大陸に残っていたら後から出来た、より進化した新モンゴロイドに殲滅させられていただろう。

こんな差別主義的発言はマイヘリテージは決してしていません。

 

自分の親類は血液型がRh-が数多くいる。

それも太古の遺伝子ゆえの事だろう。クロマニョン人時代、人は皆Rh-だったと言われている。

進化に従ってRh+となった。

 

Rh-が多い民族は、ジュンガル盆地に住む一部の先住民や、ハプログループDがほぼ100%のアマンダン人や北センチネル島の部族であると言われている。

それらの民族は太古の遺伝子のまま、他と混交なく現存する血統だ。

という事は、自分の親類がRh-が多い原因は、遺伝子が太古のままで、進化なく今まで生きて来た証だという説明がつく。

 

血液型がRh-の日本人の、日本人全体における構成比率は0.5%だと言われる。

って、なんかさっき書いた覚えある数字だな。

 

戻って確認してみたら、100%純血種日本人が日本人全体における比率と一致するではないか!!

 

Rh-は劣勢遺伝の為、新モンゴロイドとの混交が多ければ多い程、現れなくなってくる。

 

純血種の日本人とは一体どんな性格なんだろう?

と気になるかも知れないので載せる。

 

「穏やか」「おおざっぱ」「愚直」「マイペース」「調和を重んじる」「独占欲が強い」「執心が強い」

 

とあった。

 

マイペースで調和を重んじるとはどういう事やねん?!

 

自分としては、諍い事を好まず、*日和見主義に動き、自分のペースを守る性質だと思っている。

この心が理解出来る人は、原始日本人の心を持っている。自分に直接関係のない事は、自分にとってどうでもいいのです。これが原日本人。

 

*日和見主義 : ある定まった考えに基づいて行動するのではなく、形勢を見て有利な側方に追従しようという無定見な考え方のことである。

 

神経質な性質や同調圧力に弱いなどの性質は、ヨソから入って来た要素であると確認出来た。

 

自分は周囲のような神経質な要素を含んでいないので、長年の周囲との違和感を覚えて来たが、これでスッキリした。

 

本来の日本人は神経質ではない。同調圧力に屈せず、マイペースに生きて来た。

 

憶測の域を出ないが、原始日本人は、渡来人の神経質さと管理主義の性質に相当苦難して来ただろうと思う。

 

遺伝による疾患は、2型糖尿病と、高脂血症による動脈硬化、脳梗塞、心筋梗塞。

 

生活習慣病のように見えるが、純血種日本人は遺伝病なのかも。

 

肥満にはなりにくい。その代わりに2型糖尿病になりやすい。

 

「長生きをする」とも書かれていた。

 

パーソナルスペースを広く取る事や、人と距離を置くという性質は、先天的なものではなく、後天的なものであるという事もわかった。

 

パーソナルスペースを広く取るようになったのは、コロナ禍の後遺症であると思う。

人と距離を置く性質は、会社の環境に依るもの。多人種社会に投げ込まれたり、大量の他国人達に踏み込まれるようになると、人は人と距離を置くようになる。

 

遺伝子テストに、自分とアルタイ型言語族との繋がりや、スラヴ人との繋がりを期待していた。

スラヴ人はとても美人なので、自分にその要素があれば嬉しいと思っていた。ロシア音楽に非常に血が騒ぐので、もしかして自分にはロシアやウクライナなどの血があって、それが喜んでいるのだと確信していたが、血が騒ぐものと実際の血とは関係が無かった。大いなる勘違いだった。

トゥバ音楽にもハンガリー音楽にも血が騒ぐが、それらとも無関係だった。

 

アルタイ型言語族は、騎馬遊牧民なので格好いいので自分にもその要素があれば非常に嬉しい。

遊牧民の神事なども、日本の伝統的な競技、神事、武芸などと共通点が多く、親近感を覚える。

 

以前別の記事で

「日本は単一民族とされて来たし、孤立言語を話し、孤立文明である。外国人からよく「精神の孤児」と長年言われて来た。技術や政治や法律を学んでも、その精神は取り入れなかったという。世界中でこれだけ自己完結している国は日本しか存在しない。遊牧世界やアジアに覚醒して解った事だが、日本以外のヨソの国は他国と歴史的な深い繋がりがあり、同じ語族としての血縁関係がある。身内意識もある。

 

日本人の大半は、現存する外国のどの民族とも実際に繋がりのない非常に独特な孤立人種なのである。

 

遺伝子が精神構造などの内面にも影響しているという考えは持ってはいけない。思ってもいけない。

 

といつも自分に言い聞かせているが、うすうす遺伝子の影響もあるんじゃないかと思ってしまう。これは差別に繋がるから本当に良くないのだが、民族性は遺伝子で決まっているのではないか思える節もある。もちろん慣習や環境や歴史なんかもあるのだろうが、それらのものが遺伝子に刻み込まれていると、薄々思う。動物はそうなので、人間が例外という事ではないと思います。」と書いた。

内陸アジアに迷い込んだと錯覚する所を散歩 - カルガリーちゃんねる

 

 

更に別の記事で「自分の一族としての、現存する民族との明確な繋がりの証明が欲しいです。自分の一族はどう生きて来たのか?どういうメンタリティの傾向があるのか?

孤立人種ではなく実際に世界との繋がりの証明が欲しいと思っています。」と書いた。

日本社会には混血があってはならない?! - カルガリーちゃんねる

 

もし日本の有事の際、自分はどこの国へ移動すれば良いのか?の目安等、色々考えたが、この結果を見ると自分は日本以外には何処にも居場所がない。という事になる。

 

自分のいるべき所は日本だ。それ以外にはない。

 

自分が昔書いた事が、自分に降りかかって来た。自分の一族は、全くの単一民族であり、非常に独特な孤立人種であった。

 

カルガリーなどというテュルク系の名前が、いかに自分に相応しくないか

 

倭風な名前にした方が良いに決まっている。自分らしい。

 

ただ、それは自分が抱える問題なだけであって、日本人の大半は、他国と歴史的な繋がりがあり、血縁関係がある。

 

自分らしさとは、まさに原初の日本人らしさ。他の大半の日本人は他国との混交があり、神経質で口がうるさいが、自分は他とは違う、原始日本人。

これで自分の民族的オリジナルアイディンティティーか。自分の本来の性質がこれか。自認している性格は「大ザッパ。」それだけ。

 

世界中のどことも血が繋がっていないのは非常に哀しく思う。

 

以降、自分はにほんじんらしさを意識して行動している。自分はにほんじんだから無理して陽キャを演じていなくて良いんだ。無理して「要領・効率」を意識しなくて良いんだ。と自然体で行動している。

 

以前より物事が上手く行くようになった。

 

純血原始日本人である自分の容姿。女だが

身長が150cm未満で体重が46kg

豊胸、尻が大きい。若い頃は尻が上に上がっていた。短距離走者(スプリンタータイプ)

髪質は柔らかい天然パーマで髪色が真っ黒ではなく、濃い茶と赤毛の中間のような色。白髪体質。

長頭。目の色は微妙な色で茶色と金色の中間。

肌の色は浅黒い部類で、赤系の皮膚色。

顔は東南アジアやポリネシア寄りに見えるような骨格をしている。

足の形はエジプト型。

 

の特徴を見てみると、縄文人の特徴にとても良く似ている。

 

石器時代・縄文時代の人間は赤毛でアンバー色の瞳が多かったという話も聞いた事がある。

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我が国日本における遊牧無形文化遺産

2023年04月11日 | 遊牧アディクト

自分が、日本において遊牧無形文化遺産だと思えるものは以下の通り。

・相撲

・鷹狩り

・競馬

・流鏑馬

 

なぜそう思い込んでいるかというと、遊牧民族の伝統競技にもこれらに似たものがある。

 

モンゴルのナーダムでは、ブフ(蒙古相撲)、競馬、弓射の3つの競技が行われる。ナーダムとは、モンゴルにおいて年に数回行われる国民行事、民族の祭典である。

まるで日本の伝統競技みたいだ。あるいは武芸のようでとても親近感が湧く。

 

中央アジアにはノマドゲーム(国際遊牧民競技大会)という2年に1度開催される、遊牧民の伝統競技を推進し、祝福するためのイベントである。

それにも、競馬、相撲、鷹狩り、騎射(流鏑馬と基本同じ)が盛り込まれている。

 

日本に無いものは、ヤギをボールに見立てたポロ。その他もあるかもしれないが、よく分からない。

 

今回は日本の相撲と蒙古相撲について書く。

 

蒙古相撲と日本の相撲は、服装とルールこそ違えど、組み合って闘う点では根本的に同じ。

 

日本では国技である。モンゴルでも国技である。

日本でもモンゴルでも神事の性格を備えた格闘技。蒙古相撲(ブフ)は土俵やリングはなく、伝統的に草原で行われてきた。頭、背中、肘、膝、尻などが地面に着くと負けとなるが、掌は地面についてもよい。

技は複合技などを含めると400以上あるといわれ、決まり手は500種類を越える。

 

試合は、いわゆる立ち会いはなく組み手の駆け引きから開始される。技を仕掛けてはそれをかわすことを繰り返す。「投げる」「倒す」が基本。試合は長時間に及ぶことが多い。

 

蒙古相撲は約2500年の歴史があり、日本の相撲と技の共通点も多く、その源流という説もある。

中世には兵士の鍛錬として行われた。チンギス・ハンも愛好したといわれる。

 

 

日本相撲の起源は、力自慢の取っ組み合いが相撲の始まりと言われる。古事記(712)や日本書紀(720)にある力くらべの神話や、当時出雲国にいた野見宿禰(のみのすくね)と大和国にいた当麻蹶速(たいまのけはや)*天覧勝負の伝説が挙げられる。相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となる。

 

* 天覧勝負 : 天皇の前で試合を行う事。

 

また、相撲の天覧勝負がはじめて行われたのは4世紀よりも昔、今から2000年も前だとも言われている。キックやパンチも繰り出される取っ組み合いだったらしい。知らんけど。今のような相撲のスタイルになるのは、江戸時代に入ってから。

 

定期的に相撲が開催されていた資料が残っているのは奈良時代以降から。相撲に魅了された聖武天皇が定めたとされている。

 

鎌倉から戦国時代にかけて、相撲は武士の鍛錬として盛んに行われるようになる。四股名がつくようになり、プロの力士が誕生したのもこの時代から。織田信長も大の相撲ファンだったようである。

 

江戸時代になると、武士の娯楽であった相撲が大衆へと広がっていく。技も現代のスタイルになる。

 

格闘技は、基本どの民族でも同じような事を考えるが、モンゴル相撲が日本の相撲の起源であると考えられなくはない。

 

日本の相撲と技の共通点が多いという事や、2000-2500年の歴史があるという事から思うに、両者は起源が同じと考えてもおかしくはない。神事の性格という共通点もある。

 

古事記日本書紀では倭国で起きた事柄しか取り上げていない。当時は入国管理など全くしていなかった為、いつどこでどこから倭国に一般人が流入したかなど逐一取り上げていない。

 

古代、いつの間にか流入した北方遊牧民族がいつ間にかそこら辺で力比べの取っ組み合いをやっていて、それを書かれた。それだけ。知らんけど。可能性としてはゼロじゃない。

 

もう一つ考えられるのは、北方遊牧民族は古代だけではなく戦国時代などの中世にも流入があった。中世代はモンゴルも日本も似た様な事をやっていた。武士の鍛錬の為、相撲をしていた。中世になれば、古代よりも現代に近いスタイルの相撲になる。これは単に自分の憶測だが、中世は倭国と蒙古は相互に人的交流があったのではないか?と思われる。

 

江戸時代にスタイルが固まる直前ぐらいまでは、人的交流があり、相撲という遊び、神事に、互いに影響を与え合った。その為、倭国相撲と蒙古相撲、双方に共通するが生まれた。

違う民族から生まれた競技で無数にある技の中で共通する技があるのは奇跡に近い。

 

それでも蒙古相撲は、倭国相撲よりも遥かに技の数が多く、競技人口が日本より遥かに多いそうなので、その中で勝ち抜いて日本に来た力士は強い。モンゴル人力士が非常に強い理由はそれかと思われる。

長文をご精読ありがとうございます😊

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アルタンボラグの意味について。

2023年04月08日 | 自己満

アルタンボラグの意味について。

アルタンボラグの意味は金泉であって金田ではありませんでした。

 

金田は“アルタンバグ”……………です。

ていうかアルタンバグという解釈をして良いですか?

アルタンボラグではありません。

直訳は金の村。

 

日本の地名に使用される〜田とは実際に穀倉地帯という意味の他に、集落や部落といった地域単位を意味する場合もある。村と言う意味でもある。

 

村という意味のモンゴル語訳は「バグ」

それで金田はアルタンバグ。

(Алтан) (Баг)

 

で、現存するであろう蒙古集落金田に最初に定着した*金田人は、何の部族なのだろうか?という事が最近では疑問になっている。答えが出るのはまだまだ先になるのだろう。

こないだ書いた天神杜についての記事にある、論文の宇宙三界観によると、金田人はトルコ系ではなく、モンゴル系のような気がする。

 

*金田人:家畜を飼育していれば金田牧民と表記しているが、家畜を失った牧民は、その時点で牧民ではないのでただの人。それで金田人と称する。

☆因みに金田人は金帳汗国民を意味するものではない。紛らわしくて大変申し訳ございません。

 

 

「モンゴル地名 アルタン」でググってみたらAltanbulag/Алтанбулаг(アルタンブラク)の意味・使い方-goo辞書。

 

いっそこの際 ●●県☆☆市金泉にしてしまえばいい。

 

アルタンボラグ

金田

金泉⭕️

 

 

自分のブログgooですが、多分誰かがモンゴルのアルタンボラグの由来をgoo辞書に載せてくれた。

自分も知らなかったのでありがとうございました♪

 

 

アルタンバグのオボー(←天神杜)言う奴は完全にアタマ、イカれてるよな!☆☆市内に異世界。大陸と同じ世界線!

 

金帳汗国(キプチャク汗国)は世間一般に認知が普及されてないと、こないだDMで言われた。

 

自分しか理解して無かった。完全に自己満足で独善的な事を言ってしまった。

 

しかも金田という酷くローカルなネタ、地元の民以外誰が理解出来て誰が面白がるんだろう?

 

酷く自己満足で独善的なネタだ。

 

金田の天神杜という祠は信仰の方向性から倭人の神観ではない。宇宙三界観の記事と照らし合わせるとテングリ信仰に思える。金田は川に近い集落。

遊牧民は川や湖などの水に近い位置に宿営する傾向があるらしい。これは家畜を飼育していようがしていまいが、そのような慣習は簡単に抜けないように思える。

 

地名の頭文字にがあると遊牧と関わりがあるのではないか?非常に気になる。遊牧大好き界隈なら、その気持ちを理解出来る人が他にもいると思う。

 

川崎市麻生区金程(キンテイ)って読むの?

金程には金帳汗国を連想する事は出来ない。実に不思議だ。

そしてググった結果

 

川崎市麻生区金程(かなほど)の由来

頭文字だからといっても、アルタンとは何の関係も無かった。しかしタタラ製鉄のネタが触り程度にあるので嬉しかった。

 

モンゴル語の漢字音写一覧

 

モンゴル(蒙古)

アルタン(阿勒坦)

チンギス(成吉思)

ダルガチ(達魯花赤)

タンマチ(探馬赤)

カン、ハン()

カガン 、カアン、ハーン(可汗)

 

丹町(タンマチ)という町があったらそれも多分現存する蒙古集落だろう。これは金田(カネダ)とは違って、読みとか響きの分野。

 

金田のある場所が、金田という漢語表記ではなく阿勒坦という漢語音写で書かれていたらもう完全に蒙古集落の線が強い!しかし、バグってどう漢語音写で書くのだろう?

 

カネダというワード、モンゴル語、満州語、タタール語等はあるのだろうか?

 

モンゴル語、満州語、タタール語はアルタイ型言語といいます。日本語と語順だけは同じだが、日本語はアルタイ型言語とは言い切れないそうである。

 

“カネダ”と似たもので、昔高校の図書館にあった大地図で沿海州にカナタという地名を発見して学校の同期と「遥かカナタ」とか言うてロシア弄りをして面白がっていたが、あれは今考えると絶対ロシア語ではないよな。多分デルスウ・ウザーラ語?!沿海州少数民族の言語。

 

学校で授業の為に購入する世界地図にはカナタは記載されていなかった。「遥かカナタ」とは、モスクワから沿海州は遥か「彼方」と「カナタ」という地名と掛けて勝手におもろがっていた。

 

当時はロシアというだけで、ただただ面白かった。若かった。今はそんなコドモっぽい冗談で嬉しくなったりは出来ない。その当時からロシアとか大陸とかそんなとこばっかの地図を好んで見ていた。

 

いつまでも見ていられた。

そんなMy Russiaはもういなくなってしまった。頼もしいロシアももういなくなってしまった。

 

ロシアを弄るには「ロシアおそろしあ」の方がダジャレだけど良い。定番のネタは最強。

 

バスで金田を通過する際には、TheDelkhii band - Uuhaiを聞こう。敬意を込めて。

 

そしてその日、そのつもりで昨年のハワリンバヤルで購入したマスクをつけて来た。遊牧遺構(天神杜)は、オボー跡地(天神祭祀場の石堆跡地)のようだ。バスにクラクション鳴らせと要求するわけにはいかない。

 

モンゴルではオボーを通過する際、クラクションを鳴らすだけでも参拝した事になる。

 

しかし遊牧遺構なんて、こんなじじむさい内容誰が関心持つんだろう?

 

そもそも日本では、海賊アニメは人気出ても今まで遊牧アニメなんか皆無に等しかった。乙嫁語りと、天幕のジャードゥーガルに期待するしか無い。

 

遊牧遺構転がってるのに、探す気になれば見つかる気がする。

↓モンゴルのオボーの歴史

234067019.pdf (core.ac.uk)

天神祭祀に石堆を使うのは、意外にも新しかった?!チベット仏教採用後から始まる。石堆を作るのは元々チベットの慣習だった。

 

もし金田人がほんとにあのあたりに来たとして、シャーマニズムの祭祀場などを作っていたとすれば、それは時代的に石堆ではなく木柱の祭祀場だったであろうと思える。金田人は1521-1528年頃(16世紀)には厚木から愛知県西尾市へ移動してしまった。

 

日本国内遊牧遺構がある!なんて声を大にして言ったところで、誰に相手にされようか??

素晴らしいものを発見しても、宇宙人とかUMAとか超能力と言わない限り都市伝説からも取り上げられない。

さて、この件誰に掛け合おう。市報?

 

という事でこんな自己満な記事をご精読ありがとうございました。

 

パカパカー

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遊牧遺構3 元寇防塁

2023年04月01日 | 遊牧アディクト

これは倭人が建てたので、厳密には「遊牧遺構」というのか判りませんが遊牧勢力(蒙古軍)と倭国武士の衝突を健在に残す証拠の他なりません。

 

元寇防塁は建治2(1276)に北部九州の博多湾沿岸一帯に石により築かれた防塁。中山平次郎の命名で石築地(いしついじ)が本来の呼び名である。

 

文永の役(1274)では元軍が百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。その後この防塁が築かれた。

 

西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。

 

海への傾斜面に幅11.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。

 

大正9年、西新の防塁が発掘され、昭和44年に本格的な発掘調査が行われた。防塁は、砂丘の上に粘土を敷いて基盤を安定させた上に、基部幅3.4mで石を積み上げていることがわかった。

 

西南学院大学第1号館の建設に当たって検出された防塁の発掘調査では、石塁の背面に約1mほどの間を置いて土塁がつくられ、二重構造であった。

 

西新地区の防塁は、昭和53年の発掘調査に整備され、見学できる。また、西南学院大学で検出された防塁は、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されている。


 ただし、現在埋め立てによって海浜は大きく北に移動しており、かっての百道松原の面影はまったく失われている。

 

文永の役(1274)の戦場の赤坂付近では激戦が繰り広げられ、苦戦を強いられた。

 

苦戦を強いられた原因の一つは、果敢に一騎打ちを挑む日本の武士たちに対して、元軍はドラや太鼓を合図に集団で攻めかかる戦法であったこと。元軍が用いた短弓が、日本の弓矢のおよそ2倍の射程距離があり、その上その矢尻には毒が塗ってあったこと。てつはうと呼ばれる炸裂弾を使い、日本の武士たちが乗る馬を驚かせ士気を混乱させたことなどが挙げられている。

 

日本の武士たちは、大宰府守護(防衛軍司令官)の少弐景資(しょうにかげすけ)を中心に善戦する。元軍No.2の副司令官に重症を負わせたのが幸いしたのか、1021日になると元軍は忽然と姿を消し、立ち去っていたのだった。

 

その後、博多湾から引き揚げた元軍を暴風雨が襲い、船の大半は沈没したといわれている。

 

弘安の役(1281)の際には防塁が築かれたところからは元高麗軍は一切上陸することが出来なかったといわれている。

 

長崎県内にも防塁が存在する。長崎県松浦市星鹿町から平戸市田平町の海岸線40-50キロメートルにかけて、防塁が古代のまま現存している。開発の進んでいないこの地域には元寇に関連する遺跡も多数あり、また、それに関連すると思われる「火立場」「血田」「追い出し」などの地名や、昔からの言い伝えもあるが、発掘等の詳しい調査はなされていない。

 

俗にいう神風が倭国を救ったという表現があるが、これは倭国は無傷であり神風“()によって元軍が倭国岸に近づく事さえ許さずに全滅させたという誤解を与えかねないニュアンスだ。

 

自分も5年前迄はそう思い込んでいたが、大いなる勘違いをしていた。

 

倭国国土を守護すべく戦った戦士達や、犠牲になった一般人民、壱岐、対馬の島民達がいた事を知るべきだった。

 

壱岐では武士全員が討ち死にしたと言われている。九州の北部、一部の犠牲によって当時の大半の倭国民が犠牲から免れた。

 

この犠牲についてもっと教育の場やメディアに取り上げられても良いのではないかと思う。現地だけではなく、全国的に取り上げられるべきだと思う。翌年2024年は弘安の役、元寇から750年である。

 

この件で犠牲になられた方々に、ご冥福をお祈りします。

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