小林製薬製の紅麹入りのサプリメント服用による健康被害の件で、小林製薬が「未知の成分が検出された。」と発表した。
この“未知の成分”というワードに、不穏なものを感じてしまうのは、自分だけだろうか?
直感的に人為的なものを感じてしまった。
ファミマにも紅麹を使用した製品を販売していたが、健康被害は報告されていない。
いずれにせよ、これは小林製薬の原料の管理責任問題である。
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前回は厚木バスセンターから半原バスセンター迄行き、服部牧場で多大な時間を費やした。
今回は前回と同じバス路線に乗り、上荻野、まつかげ台、みはる野、鳶尾などの諸地区を歩き回る予定だった。
実際に歩き回ったのは、荻野川より東の上荻野地区。荻野川付近、まつかげ台、泉バス停付近。
半原線 厚01系統は国道412号を走るバス。
ここは、中津川と荻野川の間にある台地である。バスの車窓から見た限りでは、このコースの地域は冬季の風を避けられる山陰があり、川が遠くない場所に流れている。川迄の段丘が緩やかで、足労がキツく無さそうに見える。冬営地としては適切な場所だと思える場所である。
「上荻野」という地区は広大である。
相州病院の脇の緩い降り坂があり、低い場所を目指して歩く。
護岸が決して高くはない小川が流れていた。
荻野川
バスの車窓からの予想通りで、この川は崖っぷちではなく、台地から川迄の勾配がなだらかで、家畜の足にも優しく、冬営地からここ迄の足労も楽である。現在は護岸工事の為、川位置が下がっているかのように見えるが、400年前は川の水面の位置が今よりも高かったのであろう。
以前散策した角田(スミダ)地区とは違い、荻野川の両岸は田地ではなかった。川の東側は台地であった。この地域に400年前、定住農耕民はいたのであろうか?いたら非常に厄介である。
*カネディアン🔱は定住農耕民とは棲み分けていたと考えられる。
《カネディアン: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる》
先日テレビでイラン🇮🇷の遊牧民の事が放映されていた。この牧民一家は家畜を数百頭擁し、幾つもの中継地点を経て目的地へと移動する。
その途中、家畜が定住農耕民の村に立ち入ってしまい、夜中に牧民一家の主が、農民のおっさんにボコされるという事件が起きる。最終的に目的地に辿り着くが、今後も伝統的な長距離畜群移動を自分の力で行いたいという意志を固くする。
昨今主流になったトラックや列車での家畜移送は行わない方針とする。
このような事例から、カネディアン🔱牧民もイラン牧民と似たような経験をしていると考えた。
江戸時代中期以降の、倭人(大和民族)の田人(稲作農耕民)による入植(新田開発)が行われるよりも前の時代、どこが定住農耕民の居住地であったかをどのようにして調べたら良いのか?
カネディアン🔱は、倭人の入植期から自由を奪われ夏営地のひとつ、*カナダ地区(ダルハン地区)が彼らの抑留地となり土地に縛りつけられ、農業従事、つまり年貢搾取(奴隷搾取)されるようになった。
《カナダ地区: 金田地区(カネダ)というものが倭人が定めた行政区画である。カナダ地区というものはモンゴル牧民目線でなんとなく定めた地区のひとつ》【ダルハンの意味はモンゴル語で鍛冶屋といい、金田と同じ意味】
厚木市郷土博物館にもう一度足を運んで、どの地区からの寄贈品があるのかをもう一度調べる。郷土博物館は倭人農耕民の歴史しか相手にしていない。昨年は、「金、鉄展」をやってたので、武士の鎧兜や刀剣などの展示もあったが、通常は武士に関する展示は、非常に数少ない。
大半は、土器や農民に関する物、近代の生活に関するものなどである。
金田地区からの寄贈品は探したが、一つも無かった。金田地区は、本間重連が封建領主を務めていた時期があったが、室町時代頃には消滅していた。その後、江戸中期の倭人入植までの空白期間がある。人の定住が無かったのではないか?と考えられる。
厚木市内の地区の郷土史を全て読み、人の定住の無い空白期間などがある地区をピックアップし、後で検証する。
上荻野地区で、冬営地候補として可能性のある場所を散歩する。
冬営地は、世帯毎に持っている。遊牧民は、部族全員で移動するのではなく、世帯毎で勝手勝手に移動する。
ここは現在、宅地&畑地となっているが、昔は何もない草地だったのだろうか?
この金色(冬枯れ)の小山の麓に畜舎を建て、そこでひたすら冬籠りをする。宅地になっているので当然、石囲いの跡は無かった。
この辺りの民家では、庭に薪を所有している。
金色の小山の麓は冬の北風や北西の寒風は防げるが、この辺りは東に小山の連山がある。反対側に聳える高い連山は荻野川の向こうであるが、この連山は冬の北風や北西の風を防げられるのか、逆に吹き下ろしが厳しいのか、その日には解らなかった。
金色の丘の上に登ってみたい。この丘の上は まつかげ台という。
まつかげ台辺りに、*オボーがあればいいなと思っている。
《オボー: モンゴル人が天神や先祖霊を祀る祠のような場所》
オボーは、丘の一番高い所などにあるという。オボーは永遠に定着するものではないが、よほど運が良ければ天神を祀るものが見つかるかも知れない。
一番高い所を目指そう。
まつかげ台は、山を切り拓いて作った閑静な住宅街。おおよそ碁盤の目状に作られている。
登り切った。
これよりももっと高い丘がある。
オボーがあるとしたら、ここから行くことはできないが、あの辺りだろうか?
ショベルカーの場所にオボーがあってもおかしくはない。
まつかげ台宅地群は、憶測だが山一つを崩して傾斜を緩く均されている気がする。この山体の上にもかつて祭祀オボーがあったかも知れない。
宅地開拓よりもっと昔にオボーやチベット仏教関連のものは江戸幕府によって、全て破壊し尽くされてしまったのかも知れない。
日本中、どこを探し歩いても、異民族が築いたオボー跡が今だに大切に祀られている所は金田地区以外には無いのではないか?とも思えた。
徳川幕府は大々的な戦を起こさなかったが、異教徒と異民族に対する粛清、弾圧を激しくやっていた。
金田地区のオボーに出くわせた事は、一生のうちにあるかどうかの幸運である。
遊牧遺構を、幾ら探し歩いても、不毛である。
テングリを祀るオボー跡の発見にしても、長距離競馬神事(ナーダム神事的なもの)の記述の発見にしても、ダルハンは鍛治地名だという情報にしても、石囲いの画像にしても
他から与えられた偶然だった。カネディアン🔱という牧民の祖霊から与えられているようにも感じられる。
これなら家でゴロゴロしながらネットでも弄って遊んでた方が、偶然得られる情報が多いのではないか?
自分がこれらを探して、歩き回る意味はあるのだろうか。
自分で実踏して得られたものとは、地図では解らない地形の確認やGoogleマップで見れない場所の確認など。それに基づいて妄想を膨らませるだけである。実際目の前に居ない家畜の脚を気遣うなどをするしかなかった。
遺構を探して見つけて「あった!」というものは未だひとつもない。
それでも諦めずにより高い所へ。
(馬鹿となんとかは高い所を好むという)
ここは本来、こんな感じだった。隅々まで祀られているものがないか探したが何も無かった。
隣はオセアンボールパークアリーナ厚木の駐車場。隈なく探したが、あるはずも無かった。しかしとても素晴らしい場所にある競技場である。
隣にはまつかげ台山の手公園。公園なら何か祀られているものがあるかも知れないと探したが、無かった。
その後、まつかげ台宅地群内にある公園という公園に行き、天神が祀られているものがあるか探した。結局何も無かった。
最後に訪れたまつかげ台丘公園を出た所に、土が高くなっている場所があり、蒙古オボーではないのは解るが、古墳か何かだったのではと思える。昔、公園だったようだ。
登った。右端にこぶのような土盛りがある。
これは怪しい。
まつかげ台から下に降りる。長い階段の途中から、貯水池が見える。
いつもカネディアン🔱という牧民の気紛れに振り回されているようだ。
彼らは何故全滅せずに現在に至るまで、その痕跡を残し、生き残れたのだろうか?江戸時代には忽然と消えた村などが多数存在する。
多くは「疫病」という理由で片付けられている。実際には、幕府によって粛清されたり、強制的に離散させられたり、島流しにされたり、村全員が自害したりしていた。
その多くに倭人化を拒む異民族集落なども多数存在する。百姓一揆などを頻発させる集落や、反逆者を出した集落なども諸共、粛清や離散や流刑をさせられた。そもそも移民の多い日本列島に「倭人」しか存在しない事が不自然である。
カネディアン🔱は幕府から「離散」させられる事は問題ない。元々離散した形で生活している。
生き残れた理由の一つとして考えられるのは、蒙古人には自害という習慣がない事と、族長が交渉能力に長けており、藩の役人などとの交渉で手腕を発揮した。これが鍵を握るのではと考えた。
徳川幕府は、莫大な軍事力を背景に、幕府に抵抗する者と反逆する者、例え庶民であっても徹底的にぶっ潰していた。役人主義だが、武士とお江戸の町人という特権階級に対して非常に手厚く扱っていた。例え農民を全て餓死させても、武士と役人と江戸の町人という特権階級だけを潤していた。この幕府がもし隣国に大々的な戦を仕掛けたらあのハゲ爺と同じだろう。
気になるバス停「泉」
さっき見たまつかげ台の麓の貯水池は湧水だったのか?だから「泉」?
泉付近を歩いてみた。地図だけを見る限りだと、平地ではない。勾配や複雑な地形の為、このような入り組んだ道になっているのでは無いか?と考えていた。
しかし実際に訪れてみると、入り組んだ道は平地の上にある。
しかしこの地区を進み、水色の川のような所、図の右下のピン📍上荻野760に近づくにつれて谷になっていく。
これが泉⛲️であるようだ。
泉は、牧民が非常に喜ぶ。特に川などが殆ど無いゴビ砂漠地帯では貴重な存在である。ここはゴビ地帯とは違い、水が豊富である。先ほどの貯水池も湧水なのかも知れない。ここは小山の麓なので湧水があってもおかしくはない。
散歩して気づいた事は、川や湧水の近くではただの石や彫刻された石板などが祀られているという事。
荻野川付近の石1
荻野川付近の石2
貯水池付近の石
これらはカネディアン🔱と関係あるのかは不明だが、この辺りの人民は水を非常に大切にしている。
この日は長い距離を歩いていないにも関わらず、非常に疲弊してしまった。
ロシア情勢、ナワリヌイ氏の訃報以来、気分があまり優れない。
ロシアの反政権派指導者のアレクセイ・ナワリヌイ氏は収監されていたヤマロ・ネネツ自治管区の刑務所で2月16日に死亡した。
ナワリヌイ氏は、独裁体制を打倒する一縷の光であった。ナワリヌイ氏の妻ユリア氏は、「プーチン大統領が私の夫を殺害した。彼の命令で夫は3年間拷問を受けた。
プーチン氏はロシアに対してしたこと、平和な隣国だったウクライナにしたこと、そして、私の夫にしたすべてのことに答えなければならない」
と訴え、プーチン氏に対する責任追及の姿勢を明確にした。
欧州議会は29日、「ナワリヌイ氏の殺害はロシアでの弾圧の増大化と組織化を表す新たな兆候である」と指摘する決議を採択した。決議では、ナワリヌイ氏の死亡について、「刑事的・政治的責任はすべてロシアにあり、特に大統領であるプーチン氏が責任を負うべきである」として、独立性と透明性のある国際的な調査を要求した。
ユリア氏は「アレクセイ(ナワリヌイ氏)を殺すことで、プーチンは私の心と魂の半分を殺しましたが、まだ半分が残っており、諦めることは許されません。私はアレクセイ・ナワリヌイの仕事を続けます。国のために戦い続けます」夫・ナワリヌイ氏のユーチューブチャンネルで、プーチン政権と戦い続けたナワリヌイ氏の仕事を引き継ぐと決意を明かした。
プーチンは、アレクセイ・ナワリヌイを殺すことで、トゥバ共和国の人民の魂の半分を殺しました。
以前自分が投稿したトゥバ動画の中で、トゥバの公園の落書きに「ナワリヌイ」と書いてあったのを思い出した。トゥバの人民も、ナワリヌイ氏に一縷の光を見出していたという事だろう。
ウクライナ侵攻で多数のトゥバの人民が徴兵され、犠牲になった。
生活水準は後進国の中でも下の下の水準である。アル中、薬中、エイズなどで命を落とす者が多く、若者の自殺者も年々増加している。ロシア最凶の治安の悪さである。これを一日でも早く打開する為にも彼の力は必要だった。
ナワリヌイ氏の葬儀後暫くは、献花に訪れる人が後を絶たなかった。今も献花に訪れる人がいる。
ご冥福をお祈り致します。同時に、ユリア氏にはご健闘を祈ります。
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モスクワ郊外のイスラム国(IS-K)による銃乱射と放火テロは143人以上の死者を出した。
自分はこれを他人事とは思えなかった。
これが起きたのはコンサート中の劇場だった。これは自分が犠牲になっていてもおかしくはないと思った。
先日、立て続けにライブに行ったその数日後の出来事だったから余計に気の毒に思える。
もし幕張メッセでテロが起きていたら…
もしZepp Yokohama でテロが起きていたら…
テロ組織は武装集団である。誰も食い止められない。
幕張もZeppも入場者に対する検査が甘いとは感じたものの、当初余り気にならなかったが、武装組織となれば、どうにもならない。
助かる道はあったのか?と考えて頭が痛くなった。
ボケ老人プ爺は、ウクライナの攻撃だと嘯いていたが、犯行はイスラム国。
専門家によると、これを機にプ爺政権は強権化しるのではないかという憶測。不安因子ばかりの情報を流す。
ロシアには敵が多い。このイスラム国武装組織は、シリア戦争の時からロシアに怨恨を持つという。
ロシアにはウクライナ、NATO、中共、イスラム国、その他数え切れない敵が潜んでいる。ウクライナの件は絶対的にロシアが悪い。
テロによる犠牲者にご冥福をお祈り致します。
日本も決して他人事ではないという事を肝に銘じなければならないと思う。
長文のご精読ありがとうございます😭