カネディアンの宿営地について
再びカネ🌹ディアン🌹という人たちのネタになります。金田地区はかつて*ホトだった。以上。
それで終わり🔚にしたかった。
ホト: 宿営地集団。遊牧民の移動可能なテントや家畜が群がる所。
カネディアンを最初から説明すると無茶苦茶長くなるけど、端的に言うとカネディアンとはチベット仏教とテングリ信仰(天神信仰)を併せもった蒙古族。当時は北元、明からは北虜と言われていた。
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金鎧人とカネ=ディアンについて - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる
それらの一部が約400年前に倭国へ渡ってきた。
カネディアンはチバリアンと同じネーミング法則で名づけました。
金田地区に宿営していたから、カネディアン。
カネディアンの末裔は未だにこの地区に定住していると昔の記事に書いた。
この地区にはオボーがあった。現在は天神祠という石祠が2つあり、一つはテングリ。もうひとつは菅原道真。これらを「相殿にしている」天晒しの一角である。かつては石堆であった痕跡がある。
ここはオボーだったのでは?
で前の記事は終わっている。
祠といえば大体、建物付き、屋根付きが多い。祠を検索しても小さい建物がヒットする事が多い。しかしここは祠とはいえ、天晒しである。
テングリ信仰らしく、空から見える作りになっているのである。ここのホト住民が敢えて天晒しにしたとも考えられる。
オボー(天神祠)の説明書きをかいた人は○○市教育委員会などでは決してなく、金田地区の村人である。テングリ信仰の口承を聞いた事のある者。
ということは彼はカネディアン(蒙古族)の末裔で、金田地区にはカネディアンの末裔がいまだに居住している。
さて本題。
カネディアン🇲🇳(蒙古族)について色々知りたい事が出て来た。
カネディアンの倭国🗾での生活。
⭐︎宿営地や放牧地について。
・カネダホト🎪は定住地だったのか?遊牧宿営地の一つだったのか?
・遊牧宿営地の一つであるなら春夏秋冬どの営地なのか?
・倭国🇯🇵には家畜が馬🐴と牛🐮と山羊🐐しかいなかったのか?
・北元(中国でいう明代🇨🇳)は“遊牧宿営地遠方移動のしきたり”🐏🐐があったのか?倭国に於いても遠方移動をしていたのか?
・農民という定住民🏘️がいる場所で遊牧は可能なのか?
カネディアンは倭国にて遊牧をしていたと仮定したときの憶測💭
中世に行われていた、上依知から金田までの10km強の、金田神社⛩️の競馬神事🏇はカネディアンがどの季節に行う神事だったのか?
長距離競馬神事🏇はモンゴル国のナーダムという一大祭りに行われる競技のひとつである。
現在の国家ナーダムは7月11-13までの3日間に行われる🏇🏹🤼♂️
ナーダムの始まりは13世紀チンギス=ハン👑時代にまで遡る。当時はモンゴルの建国記念🇲🇳・遊牧民の越冬・家畜の出産、またモンゴル国民にとって一番良い季節である夏が来たことを祝ったことが起源と言われている。
《参照: TECRA株式会社》
という事は金田神社の長距離競馬神事は“夏”であった可能性が高い。カネダホト🎪は夏営地☀️であった可能性が高いということ。
梅雨と秋雨の間の雨が少ない時期に宿営したと見られる。昔は今のように線状降水帯が発生することは無かった。
この時期は水浸しになる事は少なかったようだ🏞️
但しカネダホト🎪が万が一洪水で水浸しであった場合には別の夏営地を探し、宿営していた可能性がある。
ある人の話によるとナーダムは匈奴(フンヌ)の時代からあったらしい。
・*カナダホト🎪は夏営地(ゾォスラン)だったのか?
文献によると遊牧民にとって夏季は他の季節に比べ温暖な気候や様々な牧畜作業と収穫により、1年で最も快適な季節を過ごすことのできる時期であるとともに、他の季節に比べ宿営地に多くのゲルが集まり、世帯同士及びグループ(*ホト・アイル)同士が協力関係を持ち、共同作業や祝宴(祭りや儀礼)が最も盛んに行われる時期である。この宿営地はウランバートルから50km及び80km圏域に位置している。
ホト・アイル: 近隣協同体
夏営地においては家畜の飼養や搾乳、それに伴う乳製品づくりが活動の中心であり、川の近くや風通しの良い場所など、遊牧民及び家畜にとって1年で最も快適な季節を過ごすにふさわしい場所を宿営地としている。
夏営地☀️(ゾォスラン)
・6月になってから移動
・より多くの草を家畜に食べさせて肥育するのが目的
・風通しの良い丘陵の尾根部分や水の得やすい湖畔に営地をつくる
(やや集合する傾向がある)
5月-8月搾乳期
馬乳をしぼる儀礼(しきたり) 7月上旬
オボー祭り 7月上旬-中旬(旧暦の5月8日もしくは13日)
秋営地🍂(ナマルジャ)
・8月下旬から移動
・家畜をさらに脂肪をつけさせて11月中旬からの屠殺に備える
・オトルが頻繁に行われる時期
・冬に備えて干し草、フェルト作成等の準備をする
秋営地においては厳しい越冬前に家畜を肥育させるためにオトルが多くなる傾向がある。
9-10月交尾期
11月中旬-12月中旬屠畜
11月終わり-12月始まり屠畜の儀礼(しきたり)
*オトルは社会主義時代に生活様式の定着化と生業方式の移動化を同時に果たす方法として積極的に推進された。
冬営地⛄(ウールジョ)
・12月上旬に移動
・厳しい冬越しのために家畜を畜舎に入れて管理し、水を確保する
・厳しい北西風を避けることのできる山かげに営地をつくる
(分散する傾向がある)
・専ら越冬に明け暮れる
春営地🌷(ハウルジャ)
春営地(ハウルジャ)と冬営地は(ウールジョ)は通常近接していることが多い。
・2月下旬から3月下旬までに移動
・家畜の出産を無事に行うのが目的
2月中旬-4月上旬出産期
4月中旬-下旬去勢
耳印
剪毛
3月上旬-中旬春の祝福
3月中旬-下旬子畜をとらせる儀礼(しきたり)
4月中旬去勢の儀礼(しきたり)
5月初旬-中旬乳をそそぐ儀礼(しきたり)
《参照: モンゴル・ウランバートルに暮らす遊牧民の生活環境に関する研究
日大生産工(院)、モンゴル科学技術大学》
この文献によるとカナダホト🎪は夏営地(ゾォスラン)である可能性が非常に高い。
カナダホト🎪は川に近く、風通しがとても良く、湿地帯でもなかった。
ホト・アイルや家畜が多数寄り集まっても問題が起こらなさそうな広大な場所である。
カナダホト🎪は金田地区及び下依知地区をも含まれる。
・移動する際に行う土地(自然)に対する配慮
移動する際に行う土地(自然)に対して配慮している事項を自由意見より抽出すると
「ゴミの処理をした後、土地の神様に感謝し乳製品を供える(儀礼)」
「また戻ってくるので土地を元に戻すように出来る限りきれいにする」
「人の手が加わって変えたもの全てを元に戻す」
「モンゴルの伝統的な習慣を守って土地を掃除し、掘った穴を埋める」
等が挙げられ、概ね全ての遊牧民世帯が儀礼・習慣・掃除への高い意識を有していると共に、保持していることが判明した。
《参照: モンゴル・ウランバートルに暮らす遊牧民の生活環境に関する研究
日大生産工(院)、モンゴル科学技術大学》
遊牧民は同じ宿営地に戻ってくる習慣がある。カナダオボーで、オボー祭りが行われていたという妄想は間違いではない。
カナダオボーに限らず、夏営地(ゾォスラン)の営地はオボーがよく設置されている場所と被っている。
カナダホト🎪のホト構成員は可変であったかもしれない。その時代の遊牧民は氏族単位で生活していたのか、そうでなかったのかはよく分からない。カネディアンは約400年前の遊牧民なので現在のモンゴル人と同じホト構成員ではない可能性もある。
これらの宿営地の情報は清帝国時代や社会主義時代を経て社会主義崩壊後の現代の情報なので、400年前のカナダホト🎪宿営人の慣習とは異なっていると思います。
宿営地に集まるゲルの数は自然環境や季節に応じて変わる。
概ね夏季は集合し、春・秋・冬季は分散する。
自然環境が厳しい時期(草が少ない時期、自然災害の発生時等には*オトルを行い、家畜の飼料を求めて移動する。
オトル: 季節的な宿営地の移動に加えて、更に別途移動する分派的な移動であり、一部の者が(大抵は男のみ)家畜の一部を連れて移動する。ゾド(雪害)やガン(旱魃)の時などは難を避けるためにオトルが多くなる。
カナダホト🎪: 元々はカネダホト🎪カネダオボー、カネ🌹ディアン🌹と表記していた。
しかしモンゴル化したいという事でカネダオボーとカネダホト🎪は完全にモンゴル読みにする事にした。
モンゴル語の母音の法則によればカネダ(Kaneda)という語は存在しない。
男性母音(a,o)と女性母音(e,u)は同じ語に共存出来ない。中性母音(i)はどちらとも共存出来るという。島村一平先生が文春の記事で教えてくれた。
モンゴル人に「カネダ」と言わせても「カナダ」或いは「カノダ」と言ってしまう。いずれにせよカネダに違和感があると思う。
金田はカナダ🔱とも読めるので問題はない。
*金田で「カノダ」と読む場合があるかもしれない。でもこの場合「鹿乃田」などの転用になる事が多く、金田=カノダは稀
漢字表記重視。
カネダは倭、カナダは蒙古。
という事で金田の読みは蒙古読み優先で「カナダ」に変更する。
カネディアンについては、そのまま続行する。チバリアンと同じネーミング法則。これはモンゴル語ではなく和製英語のようなもの。
これから先は完全なる妄想が止まらない。
カネディアンは掠奪した馬🐎に乗り、掠奪した牛🐂や山羊🐐で遊牧していたと考えられる。
カネディアンは北部日本海側で遊牧はしていなかったと考えられる。北部日本海側は雪害が酷過ぎて遊牧に適さない。
日本海に辿り着いて酷いゾド(雪害)で一度家畜を失い、分水嶺を越えて太平洋側に出た後も農家などの家畜を掠奪し、遊牧をやり直した可能性がある。
群馬の平地は放牧に適しているように思えるが、冬営には不向きだった。
冬営の為に北西の風を阻む山麓にあっても、赤城山からの吹き下ろしのからっ風が厳し過ぎて家畜に良くない。
寒波により歩くのが困難になるほどの強風になり馬の走行に支障を来たし、馬の脚をダメにする。
群馬や埼玉の平地、現在では広大な田地になっている地域は湿地帯や沼地であった為、放牧には適さない。
ホト・アイルで倭国の地理情報を集めて、山地に沿って南下。辿り着いた先は相模国などの標高の高い広大な平原。
自然災害などの情報もホト・アイルで得ていた。
ピンが打っている辺りがカナダホト🎪
今日はここまで。長文をご精読ありがとうございます。
文献📖:モンゴル・ウランバートルに暮らす遊牧民の生活環境に関する研究
日大生産工(院)、モンゴル科学技術大学