斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

平和ボケのただの日本人が、中央アジアのネタと、日本に残る遊牧遺構の記事など書いた。

動物のディアスポラ問題

2024年08月08日 | 自己満

動物の世界にも人間と同じくディアスポラが存在する。ディアスポラとは民族離散。故地を離れ、別の土地に移り住んだ人間を指す。

 

これは動物にも当てはまる。

 

動物がディアスポラになる理由は大きく、以下のようなものがある。

 

・人間によって故意に持ち込まれるケース(害獣駆除や食用家畜(ペット)やゲームフィッシング)

 

・自然環境の変化で移動したケース

 

・人間の活動によって自然環境が変化し、離散、孤立してしまったケース

 

・人間の移動に付随したケース

 

 

 

1. 人間によって故意に持ち込まれるケース

 

人間によって持ち込まれた所謂「特定外来生物」は幅広く、上げればキリがない。

 

・ウシガエル ・アメリカザリガニ ・コクチバス(ブラックバス)    ・ブルーギル ・アリゲーターガー ・アメリカナマズ ・ミシシッピアカミミガメ(緑亀)   ・カミツキガメ ・ワニガメ ・アライグマ ・マングース 等

 

 

食用家畜

ウシガエル コクチバス(ブラックバス)   ブルーギル アメリカナマズ

 

愛玩家畜(ペット)

アリゲーターガー ミシシッピアカミミガメ(緑亀)    ワニガメ カミツキガメ アライグマ

 

害獣などの駆除

マングース。

 

これはインドから、ハブやネズミ駆除の為に日本の沖縄に持ち込まれた。1910年であった。しかしハブ駆除には役に立たなかった。

 

その他

アメリカザリガニ。ウシガエルの餌として持ち込まれた。

 

特定外来生物は、捕食性が高く(肉食で大食い)日本在来種の魚や昆虫などを無限に食べてしまう。それらには日本に天敵がいない。食物連鎖の頂点になる為、手がつけられない。

 

この中で、日本の生態系に比較的馴染んでいるのはザリガニと緑亀ぐらいだ。あとはバケモノばかりだ。

 

法律上の問題で、特定外来種のアメリカザリガニと、ミシシッピアカミミガメ以外は移動を禁止させられている。移動禁止というのは、特定外来種を捕獲して生きたまま、別の池や川に放すのはもってのほかだが、生きたまま家に持ち帰るのも禁止。生きたまま家に持ち帰って、清水で泥抜きも禁止。飼育も禁止。

 

特定外来生物をただ駆除するのはもったいないというか、タダでは起き上がらない根性で、これらを捕獲して食べようという動きもある。こんな記事を見つけた。カミツキガメを捕まえて食べたらしい。これらは上の法律故、捕獲した場所で〆なければならない。〆れば自宅で調理しても良い。

 

 

カミツキガメを捕まえて食べた記事。カミツキガメとはとある人のあだ名にもなったが…

カミツキガメを捕まえて食べた

《掲載:デイリーポータルZ》

 

ゲテモノ喰いの記事をぶり返すが、凄いバケモノなのに調理されるととても美味しそうになるから不思議だ。そして実際には鼈(スッポン)より美味いらしい。

 

ゲテモノ喰いの記事(これは刺激が強いので閲覧は自己責任)

ゲテモノ料理 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

今読み返して思った事だが、ソ連時代に日本人が狩猟したら「密猟」に当たらないかが気になる。「密猟」がバレて捕まったらシベリア送りじゃ済まされないかも。ましてや日本人なんてどんな扱いうけるものやら。それ想うとこの人の度胸に感服。エリアによって猟禁止の動物は違うんだろうけど。

 

特定外来生物の各々のエピソードを見るとどれもドラマのあるストーリーだ。Wikipediaに書いてある事しか読んでないがそれでもリアルな現実が描かれていた。

 

特定外来生物に罪は無い。自分の意志でもないのに、食害や、外来種と在来種が交雑する遺伝子汚染などの理由で生態系を壊すという名目で駆除されていく。無念でならない。

 

人間の身勝手な理由で持ち込んだのだから、罪は人間にある。

 

人間の世界でも移民は環境を破壊する。自国でもない国土に好き放題傷をつける。森林伐採や水質汚染など。日本人を駆逐する。土地や水源を買い漁る。政界や財界を乗っ取る。移民らのエゴで日本の良き伝統がぶっ壊される。移民の輩は結局自分の国ではないから日本などどうでも良いと心底思っている。これを教訓に、自分は趣味で外国に永住権とって移住する事は絶対にすべきではないと思った。自分も、自分と全く関係ない他国に永住したら結局自分と関係ないからやりたい放題しないとは限らない。日本にいるよりも気が大きくなり、現地の人の気持ちも考えないで、馬鹿をやるかもしれない。いくらやらないと誓っても、それを忘れてしまうくらい気が大きくなるらしい。

🐊🐢🕷️🦂🦞🐸🐍🦜🦝🦨🦫🐐🐏🐎🐄

 

 

2. 自然環境の変化で移動したケース

 

南の海の生き物が三陸に!?

 

 

《動画掲載:日テレNEWSのYouTube 》

 

動画と同じ内容が書いてある記事

https://news.ntv.co.jp/n/mmt/category/society/mma1f3de43ff95470d88a94fea2896032f

《掲載:ミヤテレNEWS NNN》

 

カラッパという、丸っこい体型で、両手で口元を隠しているようなこの海の動物は、本来東京湾から南に生息し、三陸にはいなかった。大きさは10cmほどで、手乗りサイズである(ハムスターぐらい)。今まで見たこともないこの小さな動物を手に乗せて、つぶらな瞳でウインクなんかされたら漁師はどう感じるのであろうか?

海の温暖化に伴い、伊勢エビや暖かい海の魚なども増えているという。黒潮に乗って流れて来て、冬になっても生き残り、そのまま居着いてしまったのだろう。温暖化の深刻さを考えさせられる。

カラッパとか熱帯魚が北の海で死滅せず定着する代わりに、ホタテやズワイガニが死滅する。気候変動のダメージは寒い地域ほど強く受ける。

 

以前からカラッパブームはあったらしいが、自分がその存在を知ったのは今年の6月頃。アクアリウムやってる人が海水魚などを飼育している動画をみていた。そのチャンネルの動画のひとつに、メガネカラッパ👓🐈🐸という不思議な動物が珊瑚と砂の水槽にいた。猫みたいなカエルみたいな今まで見た事のない顔。ブタみたいな鼻を持ち、水が少ない所に持っていくと、鼻から水を吹き出し、カラッパ噴水をやる。爪でアサリを割って器用に食べていた。水槽の中に猫がいるような癒される空間であった。カラッパにネコミミつけてネコ吸いしたくなる。カラッパは夜行性で昼間は砂に潜っている。夜でも砂から目だけ出している事が多いらしい。砂に潜る姿が可愛い。

 

これは別の家のカラッパだが、シッタカ貝を食べるシーン

 

 

《動画掲載:マリンキープchのYouTube 》

 

カラッパが砂に潜るシーン

 

 

《動画掲載:すさみ町立エビとカニの水族館YouTubeチャンネル》

🐾🐸🐈🐸🐈🐸🐈🐸🐈🐸🐈🐸🐈🐸🐾

 

 

3. 人間の活動によって自然環境が変化し、離散、孤立してしまったケース

 

古代ローマ遺跡の下巨大蟹の孤立した群れ

古代ローマの遺跡の下、当時からすむ「巨大」なカニが急速に減少

《掲載:NATIONAL GEOGRAPHIC》

 

イタリア固有種で唯一の大型淡水ガニの孤立した群れ。古代ローマ帝国時代の下水道工事が原因で、テベレ川から切り離され、仲間から隔離されて都市のまんなかに取り残された。

 

「彼らは古代からずっとローマの中心部から動けずにいたのです。今われわれが目にしているのはかつて生息していた古代の群れの生き残りです。」

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

自分はこの記事のこのページしか読んでいないので、このカニについては何も分からない。自分がこのブログで「動物のディアスポラ」をネタにしようと思いついたきっかけになったのは、約2600年の間、仲間から隔離されて孤立しているカニの問題のこの記事を読んだ事である。この問題に目が留まった原因は、自分が過去記事に書いた、蒙古族ディアスポラが約400年前に日本に渡航し、徳川幕府の政策が原因で300年以上もずっと同じ集落から動けずにいて、彼らは元帝国の生き残りであるという内容と非常によく似ていた為である。自分はローマのカニの記事から、言葉には表し難い衝撃を受けた。こんな事もあり得るのか?!というのが率直な感想である。

 

移民族ディアスポラの問題を取り扱っていると、甲殻類に過ぎない、食材に過ぎない動物の問題にも深刻にショックを受ける。動物も、人間と同じ境遇に置かれてしまう事がある。動物の方がもっと過酷で、徳川のような戦争犯罪ではなく、下水道工事という人間の何気ない活動によって隔離、孤立を余儀なくされるという事が起こり得るという事が衝撃的だった。この下水道工事が、カニにとって戦争と同じ悲劇を生んでしまった。人間と動物は生存を懸けた戦争を続けており、共生の糸口は見つかっていないのかもしれないと思った。環境破壊と言うと、森林伐採、宅地化、農地化、焼畑農業、大気汚染、水質汚染、ダム建設、核実験、採掘調査、兵器を使用した戦争などが挙げられる。下水道工事は、現代の「温暖化」や「汚染」に繋がる「環境破壊」と言われる活動ではないと考えられてきた。古代ローマ時代の人は環境破壊などという概念は無かった。

 

もしカニに人間のような意識があれば、自分らが何処から来た何者であるのか?どのような経緯で地下でずっと動けずにいる状態になってしまったのか?故郷に帰りたいと思っているのか?カニと言葉が通じる人がいれば聞き取り調査をして頂きたいとさえ思った。カニを故郷に戻す動きが出てもおかしくはないと思う。この記事には色々と考えさせられる。

🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀🦀

 

 

 

4. 人間の移動に付随したケース

 

これにはネズミやヒアリなどが当てはまる。人間の運ぶ荷物に混ざって、故地から世界各地へ移動し拡散して行った。

 

ドブネズミの原産は、東アジアや中央アジア、シベリア南部の湿地帯と考えられている。或いはインド原産とも考えられている。

ドブネズミの世界への拡散の経緯については諸説ある。

ドブネズミは、野ネズミに対して人家やその周辺に棲息する家ネズミと言われる。下水の周りや河川、海岸、湖畔や湿地など水辺や湿った土地に棲息している。

ドブネズミの拡散についての諸説ある中の一つに、ドブネズミの拡散は、インド文化の伝播に伴い拡散して行ったという説がある。ユーラシア大陸と陸続きの東アジアには一桁世紀にドブネズミが入って来たと言われている。1300年代半ば(14世紀)にはヨーロッパにドブネズミが入って来て、ペストが大流行したらしい。日本に初めてドブネズミが渡って来たのは、大正時代にヨーロッパから来たと言われている。それも船に積んだ荷物に紛れて来た。

 

動物の侵入時期で、人間の流入時期が割り出せるようにも思える。日本の文物、芸術、建築技法は、インドをも含むシルクロードを通って、瀬戸内海を通って、終着点の奈良に天平年間(729-749)に辿り着いた物が多いとされている。シルクロードを経て日本に来たと言われれば、同時にシルクロード沿線の人間も日本に流入して来たと考えるのが普通だ。自分は、シルクロードから流入した人の影響で現在の日本が形作られていると考えてきたが、この「ドブネズミ、インド文化伝播付随説」を読む限りだと、どうやらシルクロード沿線から日本への人の流入は無かったようである。先日、トゥラン主義の主張を思い上がって書いたが、今思えば随分と短絡的だったと思う。

 

ヒアリは、2017年5月に中国広東省広州市から神戸港への貨物船で運ばれた海上コンテナの中から発見された。同年7月14日には横浜本牧埠頭のコンテナヤード内のアスファルトの割れ目から700匹以上のヒアリが見つかった。

ヒアリは南米大陸原産の世界の侵略的外来種ワースト100選定種である。主にアルカロイド系の毒と強力な針を持つが、人間が刺されても死ぬことは稀で、痛み、痒み等の軽度の症状や、体質によりアレルギー反応や蕁麻疹等の思い症状が出る場合もある。アレルギー症状の中でも特にアナフラキシーショックが起きた場合は、命の危険がある。そのため殺人アリと呼ばれることもある。

《抜粋:Wikipedia》

🐀🐜🐀🐜🐀🐜🐀🐜🐀🐜🐀🐜🐀🐜🐀

 

 

5.国内外来種

国内外来種の代表的な生物といえば、ドンコという純淡水魚。本来は新潟県、愛知県以西の本州、四国、九州、大韓民国巨済島に棲息していたが、近年では相模川(神奈川県)や東北地方(福島県)にも棲息している。国内でも本来棲息していない所に、人の手によって持ち込まれた種を国内外来種という。

 

長文のご精読ありがとうございました。

 

 

 

《写真:旬の食材百科》

 

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モンゴルカード🇲🇳もう少しで2500!

2024年06月30日 | 自己満

モンゴルカード🇲🇳(カネディアン🔱カード)もうすこしで2500人に達成!!

 

国外のモンゴル系住民に「モンゴル民族カード🪪」を配布し、🇲🇳への移住や就労をスムーズに行えるようにさせて、という嘆願を🇲🇳国家大会議へもちこむための署名らしい。

あなたの声がチカラになります

 

賛同を求めるわけではないがあと少し!

 

モンゴル🇲🇳カード🪪(カネディアン🔱カード🪪)を扱った記事

カネディアン🔱はモンゴル人🇲🇳になれるのか? - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳

6 月の 20 日間で、その数は 20% 増加しました。

 

2024/06/28

 

友達、素晴らしいニュースです! 2024 年 6 月 27 日、change.org 上の「モンゴル地図」を支持する私たちの請願は 2400 署名を超えました!💪

6月の20日間で20%増加しました!🙏🙏🙏

400 人が目標に近づいています!👍👍👍

請願活動の勢いが増していますが、これは良いニュースです!👍

すでに購読していただいている皆様、本当にありがとうございます🙏🙏🙏

 

でも、そこで終わるのはまだ早いです☝️

Но на этом заканчивать еще рано☝️

でも、そこで立ち止まるのはまだ早いです☝️

Но останавливаться на достигнутом еще рано☝️

私たちはあなたに尋ねます:

そこで止まらず、署名を続けてください。

あなたの親戚、愛する人、友人、そしてすべての思いやりのある人々に署名を依頼してください。

ソーシャルメディアで請願についての情報を広めてください。

人数が増えれば増えるほど、私たちの声は強くなります💪

一緒に「モンゴル地図」を実現しましょう!💪💪💪

https://chng.it/PMcXsfqBF7

 

🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳🇲🇳

原文 原文はロシア語ですが、これの筆者がロシア・ブリヤート共和国在住のようでして

 

За 20 дней июня нас стало больше на 20%!🙏🙏🙏

 

2024/06/28

Друзья, отличная новость! 27 июня 2024 года наша петиция в поддержку "Карты Монгола" на сайте change.org преодолела рубеж в 2400 подписей!💪
За 20 дней июня нас стало больше на 20%!🙏🙏🙏
На 400 человек ближе к нашей цели!👍👍👍
Петиция набирает обороты, и это не может не радовать!👍
Огромное спасибо всем, кто уже подписался!🙏🙏🙏
Но на этом останавливаться рано!☝️
Просим вас:
Не останавливайтесь на достигнутом, продолжайте подписывать петицию.

Приглашайте подписать родственников, близких, друзей и всех неравнодушных людей.

Распространяйте информацию о петиции в социальных сетях.

Чем больше нас будет, тем сильнее будет наш голос!💪

Вместе мы сделаем "Карту Монгола" реальностью!💪💪💪

https://chng.it/PMcXsfqBF7

 

🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳🔱🇲🇳

 

モンゴルには「外国部族民」といわれる「在外同胞」は世界中にたくさんいる。代表的な例を挙げると

 

ロシア連邦 ブリヤート共和国

ロシア連邦 カルムイク共和国

中華人民共和国 内蒙古自治区

 

自分のブログによく出てくるカネディアン🔱も「外国部族民」のひとつである。

 

カネディアン🔱とは元帝国滅亡後、チベット仏教を信仰するようになったモンゴル系民族で、約400年前に沿海州の海洋民に船を手配して、身と移動式テント、家財道具一式のみ携えて倭国(当時の日本)に渡来して来た民。

 

これについてはカナダオボーの記事にも書いた。

カナダオボー(金田鄂博)についての考察🪨🔱🔴🔵🟡🟢⚪️🎽 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

 

話は少し変わって、日本は世界からの寄せ集めの民で成り立っている。元々は血統的にバラバラの民であった。しかし日本は単一民族の非常に珍しい国とされている。江戸時代、幕府は世の平定の為に鎖国し、紛争や有事の芽をつむ為、完膚なきまでの倭人化を行った。幕府による倭人化政策に抵抗する異民族は徹底的にぶっ潰され、潰しにかかっても殲滅出来なかった異民族は、ある頃から特定の場所に強制的に抑留させられ、そこに居住させられ、賎民として扱われる事になった。

 

完膚なきまでの倭人化の末、倭人一色の平和な世が実現し、黒船来航により開国。単一国家日本🇯🇵として開国。現在に至る。

 

先ほどのカネディアン🔱は、奇跡的に生き残った異民族である。

 

カネディアン🔱の末裔の住む金田地区は、近年まで特定小集落だったそうだ。

《神奈川県人権啓発センターのYouTube 動画より一部抜粋》

現在この金田地区は解放されたらしいが、差別などが今だに残るように見受けられる。この住民は差別のせいか、行政の管理によるものかよく分からないが労働時間帯が夜勤時間帯に制限されているように思えた。小集落村民は、そこに住民票を置く以上日勤の仕事に就けないなどという話をよく聞く。夜勤時間帯で日勤と同じかそれ以下の賃金で使われているという話もよく聞く。

 

そのような特定小集落村民は、引っ越しなどの移動は許されない。また、同地区内の人としか婚姻が許されない。国民皆保険制度に加入出来ない為、よほどの金持ちしかまともな医療を受けられないという事も聞く。

 

この地区を観察すると、村内貧富格差がある。村内で事業をするような富裕層が村内の貧困層を雇用しているように見受けられた。村内の倉庫や工場などから同じ村内の自宅への帰宅が目につく。村内富裕層による雇用にありつけなかった貧困層が夜勤で外部に働きに出ている感じに見えた。ほとんど村内で完結しているといった感じだった。結束が強いだろうと思う。

 

特定村民は、事業を始める事は許されているのだろうか?日本の国の制度というのもよく分からないもので、外と関わらなければ、自分自身の責任で生きていく分には国からのお咎めは無しなのだろうか?

 

江戸期に於ける身分制度の影響が残る集落や、在日の半島出身者などは、政府の光が当てられ、この集落よりは大事にされているらしい。

 

カネディアン🔱よりも埼玉川口にたくさん居住しているクルド系移民の方が、とても大事にされている。行政がクルド人に金をエグいほど与えている。戦後からの移民には、移民様様である。

 

ミドルカマー(中世から鎖国までの間)の移民が日本において最も苦労していると思う。カネディアン🔱はミドルカマーに当たる。

 

金田地区という蒙古系特定集落の村民(カネディアン🔱)には自由がない。モンゴルカード🪪はこの蒙古集落の人民の一縷の光かも知れない。彼らは祖国と繋がってるだけでも心強い。

 

と、前の記事に書いた。

 

もしこの法案が通ったら、日本の中で村八分され飼い殺しにされた状況にあるよりは旅券を手に祖国へ帰った方が良いのだろうとは思う。彼らは日本国に日本人として扱われているとは言い切れない為、国民皆保険制度や旅券の問題も抱えている可能性がある。日本の国は江戸期の身分制度の名残りのある人達や在日の半島出身者と違って、このような異民族集落問題については完全に放置している。

江戸時代の身分制度の名残のある人々や在日の半島系は、その数も少数異民族集落に比べて桁違いに多い為、声を上げる人の数も、多い。その為か、日の目を見る事が出来るのだろうと考えられる。

 

この法案が通ったら、カネディアン🔱はモンゴル大使館(モンゴル国)からモンゴル人として認められる。そしてモンゴルのパスポート(旅券)が発行されるはず。カネディアン🔱は祖国に帰り、日本に住むよりは自由に就労し、自由に結婚も出来るのである。

 

 

自由は手に入った。しかしカネディアン🔱は蒙古系だが、モンゴル人とは違う。大陸を離れて400年以上も経つ。その間両者は別々の道を歩んで来た。カネディアン🔱は清帝国支配下も知らなければ、社会主義政権下も知らない。社会主義崩壊後の混乱も知らない。モンゴル人と血を分けたが、途中から別々に生きた為、感覚的に遠くなってしまっている所が多いのではないかと思う。蒙古族の血はあるが、全く違う世界に生きているので、現代のモンゴル国🇲🇳を祖国だと思えるのだろうか?江戸時代に文化断絶をされ、長い年月が経ち、モンゴル語も喋れなくなってしまい、別物になってしまった彼らは、祖国に帰って上手くやっていけるのだろうか?

 

日本開国から今まで、集落差別下においてモンゴルと文化的交流も許されていたとは思えない。いきなり飛び込んだところで、日本の環境に馴染んだ彼らは、日本に舞い戻りたいと思うのではないか?とも考えられる。居住地はアレでも実際には日本という環境に住んでいたことに変わりはない。日本の気候は温暖だし、衛生面や交通の利便性や買い物などの生活の利便性や娯楽にも恵まれていた。日本に於いて良い思いをしなかった彼らだが、ここが祖国だと、いざモンゴルへ帰ったところで「・・・・」となってしまわないかが懸念される。

 

モンゴルカード法案は、そもそも、日本なんか相手にしていない、というより眼中に無いのではないか?という懸念もある。

 

日本という国の見られ方。日本は単一民族の国(琉球王国とアイヌ民族、華僑、在日朝鮮・韓国人を除く)という通常概念が世界中に定着していて、モンゴル人から見ても、「日本には日本民族しか元来存在していなかった。」と見做されているのではないかといった懸念もある。この筆者の指すモンゴル・ディアスポラというのは主にロシア、中国国土内にいるモンゴル系部族を指すように見える。この人にとって「まさか日本にカネディアン🔱なんかいる」とは夢にも思わないのだろう。

 

自分はこの法案が通ったら、一番最初に、カネディアン🔱という人たちにこれを知らせたい。

 

大変不謹慎な話、この金田地区から辺境ヒップホップが生まれたら推そうかと考えている。

 

金田地区名称問題だが、この村落名称を少し前までは、蒙古人抑留村落という意味で「カナダ村🎪」という呼称にしていたが、カナダなどという村落名をいつまで使っててもしょうがない。ちゃんとした国の名前をつけたいと考え、以降「カナダ村🎪」を「大元集落🎪」と銘々する事に決定した。暫くは「旧カナダ村🎪」という事はあると思うが、慣れればカナダ🔱などという呼称は使わなくなる。

 

カネディアン🔱の祖国は元帝国(大元ウルス)

 

という事で長文のご精読ありがとうございます。

 

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カナダオボー(金田鄂博)についての考察🪨🔱🔴🔵🟡🟢⚪️🎽

2024年06月08日 | 自己満

カナダオボーについての考察🪨🔱🔴🔵🟡🟢⚪️❤️💙💛💚🤍🎽

 

この記事は、遊牧アディクト(addict:中毒)が裏目に出て、在倭国蒙古族遊牧遺構に真摯に向き合う余り、不覚にも、読者の労力と時間を削る長大な物になってしまいました。これは単なる忘備録です。

 

よほどの遊牧民、遊牧国家好きな人でない限り、読むのが苦痛に感じる記事なので、読む事を強いるなどは致しません。

 

 

・カナダオボー🐦‍🔥とは?

 

カナダオボー🐦‍🔥とは、倭国の関東圏の南部、丹沢山塊のよく見える小集落にある、天神祠と云われる天ざらしの一角を指す。この一角は、テングリ(テンゲル)という遊牧民が信仰する天神だと考えられる神と、菅原道真とが相殿にされ、祀られている。この天神祠が元はオボー(Овоо)だったのではないかと読んでいる。オボー(Овоо)とはモンゴルで建てられる一種の標柱である。オボーはおもにチベット仏教の祭礼が行われる場所であるとともに、山岳信仰、テングリ(天神) といった宗教的意味を示す役割を持つが、同時に境界標識や道標としての役割も持つ。オボーが建てられる主な場所は、平原や平原にある小高い丘、あるいは山頂や峠のような高所に建てられることが多い。川や湖や湧水地の近くにも建てられることが多い。

《引用: Wikipedia》

 

 

 

モンゴル本国にあるオボー

 

 

“カナダ”という、この奇妙な名称の成り立ちは、この小集落の名に由来する。この小集落の名称は金田(カネダ)というが、これをモンゴル語の発音に直したら“カナダ”という奇妙な音になってしまった。

《モンゴル語の母音の法則によれば、男性母音(a,o)と女性母音(e,u)は同じ語に共存出来ない。中性母音(i)はどちらとも共存出来るという。島村一平先生が文春の記事で教えてくれた。》

 

この天神祠をモンゴルオボーとして扱う以上は、モンゴル語の読みを充てる。金田(カネダ)地区にあるオボーを、カネダオボーとするよりカナダオボー🐦‍🔥とする方が適切である。

 

カネダとカナダとは、感覚的にはキエフとキーウ、チェルノブイリ原発とチョルノービリ原発のようなものである。

 

両者は“金田”という共通の漢字表記を持つが、言語による棲み分けを意識した為、カネダとカナダとを分けた。モンゴル人らのフィールドでの話に関しては、この記事では金田(カネダ)村ではなくカナダ村🎪と書かせて頂く。

 

 

 

・テングリ(テンゲル)について

 

テングリ信仰では蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。テングリとは、トルコ、モンゴル族などの北方遊牧民における天の神である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

トルコ族、モンゴル族における物質的実在としての天。およびシャマニズム神観上の精神的実在としての天神,または天神の下にいる神々をいう。モンゴル語ではtengri,tenggeri とも表記されtängriは古代トルコ語のローマ字表記である。蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。

《引用:コトバンク 吉田順一著》

 

アジア北方の遊牧民族に共通な、「天上世界」もしくは「天上神」「運命神」「創造神」を意味する概念。中国史の史料上はしばしば「天」と訳されている。

 

「テングリ」は中国史における「天」概念と非常に類似しており、天上世界を指すとともに運命神であることも共通している。ただし中国史において天の人格神である天帝が北極星と同一視されているのに対し、テングリは澄みきった青空のことであると考えられており、その点で相違する。「テングリ」崇拝は匈奴時代から確認されている。また、人格神としての「テングリ」はモンゴルの宇宙創造神話において「テングリ・ハイラハン」という地上を作った創造神として現れ、これも中国には見られない。テングリは男性神であり、女性神である大地に対応する。

 

今日においては、カムチャッカ半島からマルマラ海に至るまで遊牧民の間で、シャーマニズムに基づいてテングリへの祭祀(テングリズム、テングリ信仰、テングリ崇拝)が行われている。

《引用: Wikipedia》

 

 

・何故これが、モンゴルのオボーではないかと考えるに至ってしまったのか。

 

⭐︎カナダオボー🐦‍🔥の立地。大きな川に近い場所にある。

 

⭐︎カナダオボー🐦‍🔥には、カナダ村🎪の人による手記の、この祠についての説明立札がある。その始まりの一文に「国土を守護する天乃神」とある。その信仰観が、ソーハン・ゲレルト氏の論文によると蒙古人のものであるように思えた。

 

⭐︎このオボーがある場所の近くにある神社の、中世に行われていたとされる10km超の長距離競馬神事の記述。

 

この神社は倭人が建てたが、不思議な事に何故か長距離競馬神事がかつて存在した。長距離競馬神事というのがモンゴルのナーダムという夏祭りに行われる競技の一つにある。本番モンゴルでのナーダムは30km強を走る。ナーダムは別名「オボー祭り」とも云われる。

 

 

・カナダオボー🐦‍🔥と出会った経緯

 

2023年始に遡るが、寺社仏閣巡りが流行った。自分も流行りに乗ろうとして、手当たり次第寺社巡りに赴いた。ただ拝むよりは寺社の由来を調べてから巡る方が良いと考えた。その頃行きつけの喫茶店で勉強などをしていた。暗く危険な為バスを利用して駅まで帰る途中の、ある神社が気になっていた。それが金田神社。金田神社についてググルと色々なサイトが出て来たがその中の一つに「中世に“長距離競馬神事”が催されていた」とあった。

上依知から金田までの10km強の競馬。これにはナーダムを連想させられた。それが気になって気になって仕方がなかった。

神社というのは集落毎にあるものなので、金田集落はもしかして…..

 

 

金田、頭文字が「金」、アルタンである。

モンゴルには「アルタン〜」という地名が多数あって、頭文字「金」地名が目についた。

アルタン地名とナーダム的な祭り。それだけで、実踏しよう。となった。それが全ての始まり。

 

以前から、この川の左岸の台地には、昔、牧民が暮らしていたのではなかろうか?という気がなんとなくしていた。牧民が暮らしやすそうな環境であるような気はしていた。川の両岸の台地は、良馬の産地であると聞いていたので、余計にそういうふうに思えていた。金田村(カナダ村🎪)は意外にも川の右岸だった。

 

カナダ村🎪に足を踏み入れる。穀倉地帯の端の方に、松を植えた「天神」を祀る一角があった。天ざらしで、床部分は円形(正確な円ではないが、大体円)であった。

 

 

 

 

カナダ村🎪人民によるテンゲルオボーの説明

 

「天乃神」と学問を奉ずる「天神」とを別々のものとして扱い、相殿にしているという点について違和感を覚えた。

 

何故この天神杜を、テングリ信仰と結びつけられたのかは自分でもよく解らない。多分だが、菅原道真を指す天神以外の天神が出てきたので、違和感を覚え、これはもしかしたら、テングリ信仰の可能性もあるのではないか?と考えたのかもしれない。お天道様説も考えたが、あれは太陽を指すので天乃神ではない。

 

テングリ信仰とは国土を守護するという要素があるのか?という疑問が湧いたので

「テングリとは?」でググった。

 

「モンゴル帝国時代における ハーンたちの世界観について」早稲田大学モンゴル研究所客員研究員 ソーハン・ゲレルト氏の論文に出会う。

 

その中でモンゴル人の宇宙三界観で、天神は地上界に保護と善と幸福をもたらすという。

天神の子とされる英雄は、悪魔を退治し、理想的な国を立て、自らハーンとなって人間社会の秩序を保護し、人びとの幸せな生活を保障する。

 

地上界=人間界=黄金の世界(Altan delkei)の概念しかなかったものが、チンギス・ハーンの即位以降、地上界は、天神の子、ハーンが立てた理想的な国になったと解釈しても良いのだろうか?

 

その国はハーンと天神によって守護される。このオボーは少なくとも、チンギス・ハーン即位からこっちの時代に出来たものと思われる。

 

 

 

・天神祠にある“国土”について

 

「国土を守護する天乃神」と表記されているが、「国土」の概念は、殆どのモンゴル帝国のウルス(属領)に当てはまらない。ほとんどのウルスは、国土や国境と言うよりは縄張りという程であった。国境もくっきり引いたのではなく、大体ここら辺ぐらいの認識であった。言語統制や宗教統制などはせず、ウルス内の人民は、納税だけしてればよかった。納税が出来なくなると非常にやばい事になった。

 

これは現代の事だが、遊牧国家のウルス、ハンの影響の強かった国在住の人民に「あなたは何人ですか?」との問いに、定住者であれば町や村などの名前で答え、遊牧民であれば部族名で答える。国の名前で、日本人、アメリカ人などとは言わない。国民国家への帰属意識が希薄である。

 

しかし例外的に、元帝国(大元ウルス)だけは、国土の概念を持ち、国民国家への帰属意識があったらしい。現在のカナダ村人民🎪の手書きの立札には「国土」というワードがある。これは日本(倭国)の国土ではなく、「元帝国」の国土を意味するのではないかと自分は考えている。

元帝国は、モンゴル人君主が中華を倣った専制君主統治をしていたため、このような国民国家の概念が生じたのではないかとも考えている。カナダ村人民🎪の言う”国土“とは“元帝国の国土”を指すのではないか?“元帝国”!”元寇“の“元”である。

 

大元帝国は、漢人の明帝国によって滅亡。その後中原(漢民族の定住農耕地域)より北のモンゴル高原に退いた“元”の残党勢力を北元と称する。北元の首都はカラコルム。黒砂礫という意味の都市。*カネディアン🔱らは、「北元」の後の、ドチン・ドルベンの時代に倭国に渡航したのではないかと考えている。

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる 》

 

ウルスでも、国の概念というのはあったのかも知れない。ハーンが存在する以上、国は存在するし、単に縄張り程度の認識でも、ハーンの支配地域である以上、そこは国土であるとも考えられる。天神の子、ハーンが建てた理想的な「国」の「国土」を指すとも考えられる。

 

————————————————————————

元帝国=大元ウルス[モンゴルの国家]

元朝、ダイオン・ウルス、大元大蒙古国とも呼ばれる。第5代皇帝クビライが東アジアに建てた政権であり、以後モンゴル皇帝の称号はクビライの末裔が継承することになる。

 

大元ウルスの「大元」は易経の「大いなるかな、乾元」から採用したもので、乾元は「天、宇宙」を表しモンゴル系、テュルク系が崇める「テングリ」にあたる。

《引用:AIでウマ娘と化したオゴディのX》

 

 

前述したようにカナダオボー🐦‍🔥はモンゴル系遊牧民が作ったものだと考えられる。カネディアン🔱は大元蒙古国に於ける*主流民族であるモンゴル系遊牧民である。他のウルスの被支配民とは認識が異なる。自分は大元蒙古国の国民であり、土地は大元蒙古国の国土であると考えていてもおかしくはないと思うが。

《主流民族: 政権を担う民族》

このスマートフォンで元帝国の国旗の絵文字が出て来たら面白いものである。

 

 

・倭国で信仰されている天神について

 

カナダオボー🐦‍🔥の天神は、倭人の「天神」のひとつではないか?という疑問も持った。自分の勘違いで、倭人の天神信仰と、全く関係のない金田神社の長距離競馬神事を一緒くたにしている可能性もあるとも考えられる。この神事も、倭人の神事かも知れない。当時は武士もいたし、相撲神事と同じで、稲作民族の五穀豊穣を祈願する長距離競馬神事だった可能性もある。

 

これだけモンゴルの事ばかり考えていると、思い込みによる勘違いが生じる場合がある。自分は遊牧アディクトなのでそういう傾向にある。

 

倭人には「国土」を憂うという風習はないと考えられる。何故なら、倭国は「国土」の守護を祈願するほど、倭国国土全体が危機に瀕した事は歴史上あまりにも少なかった。倭国は長い歴史の中でたったの2回しか侵攻された事が無かった。

 

一度目は元寇(紛らわしくて大変申し訳ない)。しかしそれは、壱岐、対馬と九州北部の一部だけであり、倭国全土ではない。結果的に失敗に終わった。

 

もしこれが九州で、国土の守護を祈願する天神を祀る一角があるとすれば、元寇による侵攻からの守護祈願であっても不思議ではない。

 

もう一つの侵攻は第二次世界大戦の米軍による爆撃。これは日本国土が焦土と化した。カナダオボー🐦‍🔥がいつの時代に出来たのかは、正確には分からない。下手をすれば戦時中にただの日本人の村人が戦時中に、爆撃から日本国国土を守護する祈願をし、天神を祀り石を積み始めたのかも知れない。学問を奉ずる天神の方が古い可能性もある。

 

しかし、*金田村の人民の手書きによる天神祠の説明を読む限りではそのような事に起因するものでは無さそうである。

《*金田村(カネダ)と表記するのは、この一文では、倭人(日本人)目線のフィールドでこの村や祠を扱った為》

 

倭人の神観の天神は幾つか存在する。

 

⭐︎学問を奉ずる天神、菅原道真。

 

菅原道真の祟りを鎮める為に、「天の神」として祀った。「天満宮」というお社は、菅原道真を祀ったものである。

 

⭐︎高天原(タカマノハラ)の天の神

 

高天原とは、日本の最高神、天照皇大神(アマテラスオオミカミ)の統治する天界。

“天”の神の系統は高天原の神様。それに対して“地”の神の系統は、元々その土地におられ守護していた土着の神様、或いは、天の神の子孫で地にお住みになった神様を言う。

“天”の系統の神を天津神、“地”の系統の神を国津神という。天津神はヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神。国津神はヤマト王権によって平定された人々(蝦夷・隼人など)が信仰していた神である。漢字で天津神を「天神」(テンジン)、国津神を「地祇」(チギ)とも言う。地祇は、*葦原の中つ国の国土の神とされる。天神は天界を守護し、地祇は国土を守護する。国土を守護するのは天の神などでは決してなく、地の神(地祇)である。

《葦原の中つ国: 高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界》

《引用:Wikipedia》

 

⭐︎天照皇大神(アマテラスオオミカミ)

日本の最高神。これは「天」や「空」ではなく、太陽神である為、天神とは別物である。

 

⭐︎空の神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)

 

空の神、伊邪那岐命(イザナギノミコト)、大地の神、伊邪那美命(イザナミノミコト)

イザナギノミコトとイザナミノミコトは夫婦で、イザナミノミコトは日本列島を産んでいる。

 

 

⭐︎十二天の「天部」

 

十二天(ジュウニテン)は、仏教の護法善神である。護法善神とは、仏法および仏教徒を守護する主に天部の神々のこと。護法神、あるいは諸天善神などともいう。仏教の法(ダルマ)を守護する者はダルマパーラ、漢訳では護法という。

仏教における「天」あるいは天部像とは、仏教流布以前の古代インド神話やバラモン教の神々が仏教に取り込まれ、護法善神となったものである。十二天とは、八方(東西南北の四方と東北・東南・西北・西南)を護る八方天に、天地の二天と日月の二天を加えて十二天としたものである。

 

帝釈天、火天、焔摩天、羅刹天、水天、風天、毘沙門天、伊舎那天、梵天、地天、日天、月天

《引用:Wikipedia》

 

⭐︎火雷天神(雷神)

 

日本における天神信仰は元々、雷神に対する信仰の事である。特に菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。本来、天神とは国津神に対する天津神のことであり特定の神の名ではなかったが、道真が没後すぐに、天満大自在天(テンマンダイジザイテン)という神格で祀られ、つづいて清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結びつけて考えられ、火雷天神と呼ばれるようになった。

《引用:Wikipedia》

 

⭐︎田神(火雷大神(ホノイカヅチノオオカミ)

 

田の神様、生産、生成の神様という色彩が強く、生産・生成や地域に貢献し生産の心の支えとなられた方が祀られている。

《引用: NPO法人 基山の歴史と文化を語り継ぐ会》

 

この田神というのも、日本における元々の天神である雷神(火雷大神)である。

雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神と考えられている。

雷神、水の神、伊邪那美命の御子神、雨乞い、稲作の守護神。

《引用:Wikipedia》

 

ここでもう一度、金田村(カネダ)の天神祠の立札をおさらいしよう!

 

「この祠は国土を守護する天乃神と学問を奉ずる天神を祀り、五穀豊穣を祈念して創設された天神杜で*?に天神様という五穀豊穣の達?は天地の恵みと人々の英智努力によって稔るものである」

 

*読めなかった文字

 

この祠の天乃神は、この文章を読む限り、最後の田神=火雷大神=雷神と、菅原道真を祀った祠のようにも見えて来る。五穀豊穣を祈念して建てられた祠であれば、筋が通る。火雷天神(火雷大神)は、同時に学問を奉ずる神、菅原道真をも指す。しかし、もしそうであれば「相殿」という形にして、菅原道真と火雷天神をわざわざ分断する理由が解らないのである。

 

 

この天晒しの円形に形どられた範囲内には、2棟の石祠が建っている。一つは菅原道真で、もう一つは火雷天神なのだろうか?

 

火雷天神は、稲作の守護神である。国土の守護神の概念とは掛け離れている。

 

一つ、この文章から導き出せるのは、「……….学問を奉ずる天神…以下」は、筋が通る。「国土を守護する天乃神」をここから除けば、農耕民である倭人の信仰としての筋が通るのである。

 

問題の「国土を守護する天乃神」

 

これがもし、「国土を守護する地乃神(地祇)」であれば、倭人の神観に沿う。「天地の恵み」というのが、「菅原道真(火雷天神)」と「国土を守護する地乃神(地祇)」の神によるものとされれば、これも倭人の神観としての筋が通る。

 

金田村(カネダ)の人民は、「国土を守護する地乃神」と書くべき所を「天乃神」と誤って書いてしまったのではないか?とも考えた。

 

しかしこの円形の一角を、金田村の人民は「天神杜」と称する。「天地神杜」ではない。

 

「天神」同士を相殿にしてあるから「天神杜」である。だから誤って天乃神と書いたものではないという事がわかる。

 

 

金田村の「国土を守護するという天乃神」は、倭人の信仰する天神の神観のどれにも属さなかった。

 

倭人には天神が国土(地上世界・人間世界)を守護するという天神の概念は存在しない。

 

 

ところで、農民は天神ではなくて地神を信仰する。

 

 

「地神」とは大地を象徴する神様、十二天の一つと言われ、その信仰は神奈川県全域から静岡県東部にかけて顕著に見られます。

《引用:厚木市郷土博物館》

 

地神は農業の神でもある。

 

地神は十二天の地天だとされ、大地をつかさどる女神であって、これが仏教に取り入れられたものである。

《引用:Wikipedia》

 

金田村は神奈川県に存在する。金田村の人民が五穀豊穣を祈念するのであれば、地神を祀っていても良いと考えられる。

 

金田村の人民は、別の所で地祇や地神を祀っているのかも知れない。

 

 

・モンゴル国にあるカナダ型オボー

 

 廣田千恵子先生のインスタで、モンゴル国内で撮影されたオボー🦩がカナダオボー🐦‍🔥と似ていた。

 

 

廣田先生に、このオボー🦩はモンゴル国内の何処にあるのか質問をした。

 

オボーの形には、地域差があるとする文献があった為、カナダオボー🐦‍🔥に似た形状のこのオボー🦩のある場所が分かれば、*カネディアン🔱の出身地がどこだか分かる気がする。

 

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる 》

 

・廣田先生の答え

 

「実際この写真は、ウランバートルから車でゴビ方面へ向かい、アルタイ山脈を辿ってバヤン・ウルギーに行くという長旅のどこかで撮影しました。」というご回答を頂いた。

GPS機能がついているカメラではなかったので、正確にどこの場所で撮影したのか分からない状況にあったという。

 

偶然出会ったオボー🦩モンゴルの長旅では、今どこを走っているのか全然分からなくなりそうだが、この答えから推測出来る事は、旅の初めの方(ウランバートル近郊)と終わりの方(バヤン・ウルギー近郊)ではないと考えられる。それともう一つ、アルタイ山脈寄りでもないと考えられる。アルタイ山脈はランドマークになり得る。

 

写真を見る限りでは、ステップ(草原)地帯の、砂に覆われた丘の上にオボーがあるように見える。ステップの度合い(グラデーション)では*土漠よりやや緑の濃い所である。

《土漠: サラサラの砂ではなく、硬い土や石に低木や草が疎らに生える》

 

アバウトな分け方でモンゴル国の北の方か南の方かで分けると、南の方である。北は緑色のステップ地帯や緑に覆われた山岳、タイガ(針葉樹林)地帯。南は茶色寄りのステップ、土漠、ゴビ(砂漠)地帯。廣田先生の写真によれば、緑の濃い地域ではなく、比較的砂漠寄りの植生である。先生の通った道は、モンゴル国の北ゴビである。カネディアン🔱はこのような風土の故地を離れて倭国に渡航したと考えられなくもない。

 

 

・何故両者が似ていると感じるのか?

 

廣田先生が撮影されたモンゴル国内のカナダ型オボー🦩は、綺麗な円錐形ではなく、一番下の段の右端が長く見える。この写真はオボーの左端が切れているので、全貌が見えないが、それでも右端(片側の裾)が長く見える。

 

 

カナダ村🎪のオボー:カナダオボー🐦‍🔥は床部が円形で、直径約7m。スマホの計測アプリで計測。7月、8月に訪れた時、円形の周囲に雑草が生えているのに対して円の中には生えていない。見た限り、踏んだ限りだと、円の下には大きな石が多数埋まっている様子であった。円の中の土から直径15cm-20cm大ぐらいある石の一部がはみ出ていた。松とその他の木が植えられている。松は浅根性で、岩に直接生える事もある。寧ろ松は岩のような場所でなければ生きられない。という事はこの円形の下はどうなっているのか?この円形の下には砂利ではない大きな石がたくさん埋まっている。それも土深くまで。

周囲の雑草が枯れている。この枯れている範囲がこのオボーの本当の大きさだろうと考えられる。このオボーは、円からはみ出し、片側だけが長い。このような特徴から、元の形は廣田先生の撮影したオボーのようであったのではないかと考えた。インスタでたくさんのモンゴルオボー🦩を目にするが、カナダオボー🐦‍🔥の様に片裾だけが長いというものは見た事がなかった。カナダオボー🐦‍🔥は、何故これらの石堆が埋まった状態であるのか。それは長年に渡って川の氾濫により土砂が堆積しオボーの下の部分は土に埋まった。川は現在の水面の位置よりも高かったと考えられる。

川砂利の過剰採取とダム建設による砂利の供給力低下で、橋脚が剥き出しになるほど砂利が少なくなり、川の水位も低下した。

 

 

 

 

・カネディアン🔱が約400年前に倭国に渡航して来たと考えた理由

 

菅原道真が祀られた石祠と、もうひとつの国土を守護するという天乃神様が祀られた石祠。

菅原道真以外の天神の存在、それ自体が異国の神様だと考えられた。

 

何故、カネディアン🔱が約400年前の倭国に渡航したのかと考えられるのかというと、オボーに石堆を使うのはチベット仏教採用後から始まる。石堆を作るのは元々チベットの慣習だった。彼らが倭国に渡航したのは16世紀末から1641年(倭国の鎖国)ではないかと考えられる。元帝国滅亡後、北元の時代を経て、ドチン・ドルベンの時代(1388〜1691)に即位したアルタン・ハーンの在位中にオイラトに侵攻してカラコルムを支配下に置き、チベットやカザフスタン方面にも進出した。

 

1578年 アルタンはチベット仏教ゲルク派の高僧ソナムギャンツォと会見。16世紀末になると、シャマニズムに対するチベット仏教の排斥活動が進み、モンゴルのシャマニズムは衰微に向かった。とくに仏教受容が早かったのは、アルタンが統治した青海からオルドス、山西にかけての地域だった。16世紀の末から17世紀初頭。アルタンとソナムギャンツォとの会見からわずか20年程でモンゴルに仏教が広まった。

 

カネディアン🔱の中には、シャーマンはいなかったと自分は考えている。カネディアン🔱は仏教徒である。しかし、石堆形のオボーを作る。モンゴルの仏教受容後、オボーの祀り方にも仏教様式が取り入れられ、様々な制約が進んだ。テングリ信仰を依然続けながら仏教徒として生きていた。その時代、シャーマンが仏教から弾圧され、ついにいなくなってしまった。現代のカナダ村🎪にもシャーマンは存在しないであろうと思われる。

 

 

かつては石堆が高く積まれ、ルンタ(rungta)(風の馬)と言われる*五色の布が飾られ、木の枝などが刺してあり、そこには青い布が巻かれていたのかも知れない。

 

*⬜️🟦🟥🟩🟨

 

立札は、市の教育委員会ではなく、ここの村人が書いた。もし、市の教育委員会が説明書きを書いたら「国土を守護する天乃神」とは記さないだろうと思う。

 

祠や石祠の置いてある場所で、床の部分が円形になっている時点でそこは、石堆のオボーをどけた跡に見えた。通常そのような場所の床が円形である所は殆ど存在しない。

 

よってカナダオボー🐦‍🔥は、倭人によって建てられたものではない。カナダオボー🐦‍🔥にはモンゴル語の正式名称があるはず。

 

 

・まとめ

 

日本各地の集落には、独自の風習や神社祭祀がある。そのようなものをわざわざ突き詰めていくと、そこ独自のものではなく、日本発祥とも限らずユーラシア大陸の何処かと同じ事をやっている可能性があるという事が分かって来る。ユーラシア大陸から渡航して、ここに根付いている可能性もある、つまり、ユーラシア大陸にルーツがあるという事。日本人は単一民族・一枚岩ではないと私カルガリーは考えている。

 

例を挙げると、埼玉県新座市の新座とは、かつて半島に存在した“新羅”という国を意味する。同じく埼玉県の高麗郡の高麗とは、新羅と同じ時期存在した“高句麗”という国を意味する。古代朝鮮半島人ディアスポラ(オールドカマー)が倭国に存在するなら、中世モンゴル人ディアスポラ(ミドルカマー)が倭国に存在していても不思議ではない。カナダ村🎪も、“カナダ”とかいう珍妙な単語ではなくて、“蒙古”の国の名称を冠した地区名称にすべきかも知れません。新羅、高句麗が国なので、これも“蒙古村”に改名しようと考えている。カナダという単語はメルキト部族の言語で“村”を意味するので、外交問題に発展するのではないかと内心ヒヤヒヤ。幸いカナダと自称する部族などが現在では確認されていない。もしカナダ族なるものが存在したら、外交問題にも発展するだろうし何らかのトラブルが避けられなくなるだろう。

 

カナダオボー🐦‍🔥の説明が終わったので、以後はカナダ村🎪を蒙古村🎪と変更する。

 

 

非常に長い文章で申し訳ないと思いますが、こんな面倒くさい記事のご精読ありがとうございます😊

 

土地の主という意味のThe Delkhii bandの曲

 

 

《参考文献:特集◎モンゴルシャーマニズムの世界から モンゴル帝国時代におけるハーンたちの世界観について ソーハン・ゲレルト・早稲田大学モンゴル研究所客員研究員》

 

《参考文献:東海学院大学紀要 7(2013)  モンゴルのオボーの歴史 今井秀周。》

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宮ヶ瀬 清川村

2024年06月01日 | 自己満

だいぶ前に宮ヶ瀬湖畔園地に行った。

 

今日は本厚木駅5番乗り場から宮ヶ瀬行きのバスに乗り、終点の宮ヶ瀬湖まで行った。先日はその途中の「上飯山」で下車した。

 

牧民の遺構が見つかるか見つからないかは、天の采配が大きいという事で、遺構探しに凝らなくてもいいと思った。

 

*カネディアン🔱が倭人から略奪し、手に入れた和種馬や家畜の脚質は、日本の山勝ちな地形に適していて、山岳地帯を越える事も出来たのではないかと思う。

《カネディアン🔱: 約400前に日本に渡航して来た蒙古系遊牧民。現在、金田(カネダ)地区に定住している人民の祖先だと考えられる》

 

 

倭人は牧畜目的の家畜を飼育しておらず、農耕用か荷運び用の牛🐮や駄馬🐴非常食用の山羊🐐などを飼育していた。

 

峠を越えて、長野、山梨へ足を伸ばしていたのかも知れない。

 

山を登れど登れど更に高い山が現れる。終点の宮ヶ瀬に到着。

 

宮ヶ瀬ダム🦫は、中津川に完成した首都圏最大級の人造湖、ダムである。現在、神奈川県に欠かせない水源地となっている。

 

宮ヶ瀬のバス停を下車後すぐそこに宮ヶ瀬湖畔園地がある。ここは親水地で、芝生広場や、吊り橋、池のある庭園、カヌー🛶や焼き肉などが出来る場所も設けている。カヌー🛶は庭園の池で出来る。遊覧船に乗ってダムを航行する事も出来る。

 

バス停を降りて山と芝生を見渡す景色

なんて雄大な景色なんだろう!

 

宮ヶ瀬ダム🦫

 

宮ヶ瀬の未来を見つめるモミの木

 

説明書

群馬や長野のモミ🌲は、このような温暖で高温多湿な場所では難しいのかも知れない。

カネディアン🔱の家畜も、こんな高温多湿な相模國なんかより、長野・群馬など高原の方が快適なのかも知れない。

 

長野・群馬まで夏営地を求めて移動した年もあったのかも知れない。

牧民はその年の気候に合わせて営地を変更する。ある年はカナダ地区🏹🔥(ダルハン地区🏹🔥)、ある年は信濃國(長野)

 

庭園の池。この時期も良い。切り拓いて人工的に作った空間だが、それも良い。向こう側に見える疎に木がある所に馬を放牧したら絵になる。

 

吊り橋

 

池に浮かぶ島

 

吊り橋からのダム🦫

 

今日は、ダムの水が少ない。ダムの縁の薄い緑色の部分何だろう?鉱物にも見える。

 

吊り橋全景

 

この辺り一帯には元々、モミの木が自生していたらしい

 

自生していたモミの木🌲

ここ宮ヶ瀬は、長野のような寒冷地ではないがモミが自生するような植生であった。

先ほどのモミの木とは違う種類なのかも知れない。

 

モミの木の説明書

 

みやかぜみーや館に入る。ここは、クラフトなどの工房。

 

ネズミ🐭自分にはこのような個体同士の関係性が感じられるモノは作れない。

 

 

清川村・宮ヶ瀬水の郷交流館に入る。ここは歴史的な遺物や逸話などを展示している。

 

宮ヶ瀬の七不思議というコーナーがあった。そのひとつに、おとぼうが淵というものがある。

 

 

「オトボウよオトボウよテンゴボウが負われて連れていかれるぞい」

 

自分はこれを見て一瞬、何これ?と思った。*オトゴンテンゲル山🏔️(エンフ・タイワン)というものを連想してしまった。

《オトゴンテンゲル山🏔️: モンゴル国🇲🇳西部ザブハン県にあり、ハンガイ山脈に属する。標高4,008m。古くから神聖な山として信仰されている。》

 

考えられるのは、カネディアン🔱の父親と「オト坊」などと名付けられた息子との日本語での会話。「テンゴ坊」というのは別の息子ではないかと考えられる。

 

カネディアン🔱という蒙古人🇲🇳アイディンティティーを持ちながら、倭人と共存する複雑な立ち位置を表しているのではないかと考えられる。

家の外では日本語を話し、息子には蒙古名を残したいという想いがありながら、対外的には「倭人」として生きなければならない為、倭人男児にありふれた「坊」という呼称でよんでいると考えられなくもない。そして、山岳信仰のとても強い家族なのではないか?

 

或いは、倭人と共存するカネディアン🔱僧侶(チベット仏教僧(ラマ))は一般家庭よりも更に複雑な立ち位置であった。「〜坊」は僧侶の呼称。オトボウ、テンゴボウは、山岳信仰オトゴンテンゲル山🏔️信仰を彷彿とさせられるが、人名に坊をつけているのだろう。これは僧侶同士の会話という事が考えられる。状況と時代背景を考えると、平穏な話題ではない。彼らは外で日本語ではない言語を喋っているところを倭人に見つかると、身が危険である。江戸時代は異教徒と異民族に対する弾圧が苛烈だった。前者の親子でも、平穏な内容の話題とは限らない。

 

将軍徳川家と言われるが、正確には(征夷大)将軍徳川である。征夷大将軍は平安、鎌倉辺り迄で終わってしまい、蛮族が征服された時点でいなくなってしまったと勘違いする。

 

「征夷大将軍とは、東方の「蝦夷(蛮族)」を征討することを任とする大和朝廷の役職である。 権限の大きさから臨時にしか置かれなかった。 後に、武家の棟梁の称号となり、源頼朝の鎌倉幕府の頃より、武家政権の為政者としての意味を持つようになる。」

《引用: Yahoo JAPAN》

 

しかし、将軍とは、江戸時代になっても(征夷)の意味が含まれていた事が分かった。単にMilitary leaderを意味する武家政権の為政者ではない。

徳川家はMilitary Leaderであり、倭人以外の民族を討伐する役割もあった。倭人以外とは、外国人移住者、倭人化を拒む在倭異民族を意味する。徳川家は、有事の芽を摘む、紛争の芽を摘む為に、異民族を討伐していた。幕府としては天下平定の為、倭人一色にしたかった。

 

倭族とは、日本に於いて、時の主流民族を指した。日本の主流民族とは、戦で政権を勝ち取った民族を指す。邪馬台国の倭族と、大和政権(朝廷)の頃の倭族と、徳川時代の倭族はそれぞれ全く違う血統的種族であった。日本は昔から平和だったと言われるが、戦争ばかりをしている。

 

倭人というのは、ある郷土史資料によれば、倭族化した人を言う。元々血統的には異民族だが、倭族と同じ慣習で生きるようになり、日本語を話すようになり、倭族と同じ宗教に改宗し、倭族に吸収されてしまった人達をいう。

 

自民党一党独裁に通ずるような気もする。

 

オトボウ、テンゴボウの話に戻る

淵の近くで息子に語りかけている男の声が、偶然通りかかった漁師の耳に入り、漁師はこれを、淵の中の魚が、自分の悪口を言っていると勘違いして逃げ出したと解釈できる。

 

或いはそれと同様の会話を僧侶がしていた所を偶然漁師が通り掛かった。(以下同文)

 

淵の中の魚同士の会話で、ある魚が「オトボウ」という名の魚に話し掛けている。「テンゴボウ」という大魚が捕まえられ、背負われて運ばれていくと言う。漁師は、大魚を連れて行くと祟りなどが起きると思い、魚を置いて逃げ出してしまったのかも知れない。

 

昔の倭人には、自然界と密接に共存していると考える精神世界があった。

 

いずれにせよ、日常的に耳覚えが無い言葉なので不気味に聞こえたのであろう。

 

オトゴンテンゲルという言葉を知らなかったら、これを見ても反応できなかったのかも知れない。

 

 

 

昔の倭人は、現代では分かりずらい感覚の中で生きている。

 

遠くに見えるとうもろこし畑が、敵の槍に見えて自決した話などが書かれていた。

勝ち目がない戦だと思えば、敵を探る事や逃げる事を考えず自決する。

 

敵に囲まれた大将は、仲間の為に投降する。自分が犠牲になれば仲間の命を助けてくれると敵を信じる。投降した自身は殺されると分かっている。

自分が死んだ後、仲間がどうなるか責任が持てない。敵は敵だから裏切るに決まっていると思うが、敵も律儀に、自己犠牲の精神を重んじ、仲間を殺す事はなかった。

 

昔の倭人は、そのような精神で生きていた。

 

宮ヶ瀬の歴史

 

鎌倉から江戸の部分を抜き出す。

 

宮ヶ瀬を開墾したと伝承される人物は、井上角之承(イノウエカクノショウ)という。

 

鎌倉時代を過ぎた頃の宮ヶ瀬は足利の領地だった。今までに二度開墾されたという

 

宮ヶ瀬は江戸時代 天領(幕府直轄地)

その為、税収が安定していた。

 

歴史博物館の存在がとても有難い。オトボウ・テンゴボウに出会えた事もそうだが、歴史が調べてあるものがまとめてそこに置いてあるという状態がとても有り難かった。

 

清川村を経て帰る。

カネディアン🔱はこの辺りで狩猟をしていたのだろう。清川村は細長い構造の村である。山間部はどこもそう。

 

 

超越した者が、自分の注意を引こうとする力が働いているような気がする。

カネディアン🔱の行動範囲が限定されていない事や、営地をランダムに選定していた可能性のある事を考えると、どこでカネディアン🔱に出くわすか分からない。

 

普通、点が先に現れてそれを繋ぐ線を考えるものだが、自分には線が先に見えていたが「点」が見つからなかった。最近になって、線上に「点」が現れ始めた。

 

オトボウ、テンゴボウのおとぼうが淵の逸話は、今に伝える暗示を含んでいる。オトゴンテンゲル🏔️に関するメッセージ性がある気がする。

煤ヶ谷や宮ヶ瀬は山岳地帯である。

 

オトゴンテンゲルと直接関係が無くても何かありそうである。

 

この逸話で、自分たちの存在を後世に伝えたかったのでしょうか?

 

実際には謎の声も漁師も無かったのかも知れないけど。オトボウとテンゴボウを連呼する事で人々の注意を引く意図が垣間見える。

 

全く関係ない場所で込み上げて来て、堪えるのが大変だった。他人がいて恥ずかしかった。

 

江戸時代にはこういう話がめちゃくちゃ多い。

 

テンゴボウはどこに連れて行かれてしまったのか?

 

オトボウ、テンゴボウは多岐に渡る解釈が出来る。

 

「オトボウよオトボウよテンゴボウが負われて連れていかれるぞい」

 

韻踏みをしている。ラップの一文にも聞こえる。この歌詞の続きが知りたい。

 

ここ(宮ヶ瀬)迄来て再度カネディアン🔱に真正面から遭遇した。

 

以前、歩き回る事は無駄で馬鹿馬鹿しいと書いたが、歩き回る、出掛けるなどしないと得られない情報もある。これが貴重であったりする。

 

決してネットには載ってない事も多々ある。

 

ここ最近カネディアン🔱🇲🇳が出現する。

 

カネディアン🔱出現事例

 

・厚18系統 飯山行き路線沿線で出会った謎の石群を後で見返したところで、カネディアン🇲🇳は実在したと確信出来た事から始まる。石囲いの跡ではないかと確信。

 

・廣田千恵子先生が上げたインスタで、モンゴル国内🇲🇳で撮影したカナダ型🏹🔥かと考えられるオボー☸️🕉️を上げていた。

 

・ブルーオーシャンというラジオ番組のパーソナリティ住吉美紀氏が、自称「カネーディアン🔱」と連呼していた。

 

・清川村 宮ヶ瀬の観光地の歴史博物館で見た宮ヶ瀬の七不思議のひとつに「オトボウ オトボウ テンゴボウ」という声が聞こえたという話。

 

宮ヶ瀬湖畔園地は、連れや相棒など懇意にしている人と来る事を勧める。宮ヶ瀬界隈はバスより車での移動が良い。

 

オトゴン・テンゲル山。インスタからの引用であるが、その美しさがよくわかる。

長文のご精読ありがとうございます😊

 

《カナダ地区🏹🔥: 倭国にある地区名称。金田地区(カネダ)というものが倭人が定めた行政区画である。カナダ地区というものはモンゴル牧民目線でなんとなく定めた地区のひとつ》

 

*「カナダ(金田)🏹🔥」と使うのは、牧民が鏃などを盛んに鍛造していた事を意味するが、幕府軍や奉行などの火縄銃と牧民らの弓矢🏹と戦ったら戦果は一目瞭然、牧民らは火器の餌食。恐らく牧民らが幕府軍と相対し紛争が起きた時、彼らの約半数は戦死しただろうと考えられる。元寇の頃は「てつはう💥」という火薬型の火器を使ったが、西洋人の開発した銃は持っていなかった。これはモンゴル本国にいる人も同じであった。

 

ロシアのコサック軍とモンゴル軍が戦った時と同じでロシア軍の火縄銃が弓矢のモンゴル軍を打ち破った時のように、鉄器は火器には勝てなかった。

 

ご精読ありがとうございます。

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厚18系統 上飯山行き

2024年04月19日 | 自己満

少し昔にボルシチがロシア料理かウクライナ料理かで揉めて、料理屋のアカウントを袋叩きにして、削除に追い込み、店名まで変えさせるというナンセンスな事態が起きた。

 

元は「ロシア料理とパンの店 ××」だったものが「スラヴ料理とパンの店 ××」に変わっていた。

この料理店は、スタローヴァヤ(食堂)を意識したという。

 

これは、自分だったら店名について以下のように提案する。

 

特定の国や民族名を出さずに、そこの地名+××(店舗名)にすればいいんです。

 

「西武東伏見 ××食堂」

そうすれば円くおさまると思います。

 

地名というのはそういう意味ではとっても便利である。スタローヴァヤは食堂を意味するので、何の遜色もない。(*伏見というと京都と勘違いする人も出てきて、別の意味でボコされる)

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先日は、厚木市の中津川と荻野川にある台地を走る国道412号沿いを実踏してきた。

 

この台地は、冬営に適する場所が幾つかありそうであった。しかし400年前の*カネディアン🔱に直接聞き取り調査した訳ではないので妄想でしかない。

 

《カネディアン🔱: 金田(カネダ)地区という蒙古集落に定住する人達の祖先。》

 

 

牧民は基本的に世帯単位で勝手勝手に動き、定住村落などを作らず、離散した形で生活をしている。営地は各世帯主が決めるものである。

 

厚木市内は地図で見た限り冬営地に適した箇所が非常に多く見える。

 

北西の風を防げる山と、その近くに河川などが多い。

 

 

 

バス会社のバスルートを表示して遊んでいた。バス会社の地図を見ると何をどう解釈したら良いのか解らない。

 

iPhone の地図は、高低差は全く描かれていないが、山と川と緑地が省略される事がなく書かれている。

 

バス会社のバスルートマップは、主要な川以外は重要視されておらず、荻野川などは灌漑農業用水並みに細く描かれている。

何処が山なのか解らないほど、山に色が塗っていない。主要な山には山を表す記号と名称が書かれている。緑色の土地は、公園かゴルフ場か墓地などである。しかし、拡大すると等高線があるのが分かる。そして、ランドマーク的なものや目的地が目立つように書かれている。

 

自分は、山と川などを基準に見ており、何の川と何の川の間に何番の国道や県道が走っているのか?道の行き止まりはどこか?地形はどうなっているのか?という目線で地図を見ている。

 

バス会社の等高線は有難い。

 

厚木のバスは面白い。本厚木駅前では様々な行き先のバスがあり何処へ向かうのか。

 

今日は厚18系統の上飯山行きに乗る。小鮎川沿いの県道60号を行くバス🚌。終点、上飯山迄行く。地形などを見てみたいからである。

上飯山は温泉地♨️である。この路線の地域も、田地などではなく、平地、台地である。戸室周辺には小山があり、ここの山陰も冬営出来そうである。橋場のバス停辺りから山勝ちになっていく。

 

 

この道をそのまま行くと清川村に行く。

 

 

猿🐒だの熊🐻だの亥🐽だの、獣被害が凄い地域だ。

 

小鮎川が流れている。鮎が獲れるのだろう。

 

 

 

小山付近の開けた地。ここは小鮎川からも近く、これも冬営には良いような気がする。

 

 

この開けた地から、横断歩道を渡ったすぐ近くに、石がゴロゴロ置いてある。かつて*石囲いだったものの残骸だろうか?

 

《石囲い: 遊牧民の冬営地にあると云われる石囲い。この石囲いは家畜の糞や薪を囲うものである。糞や薪は家畜の防寒用の燃料になる。》

 

 

道祖神の石碑を写真に収めていないが、道祖神があった。道祖神があるという事は「古道」。いつの時代からあるのかは解らないが、近年新規開拓された道ではない。ここには人の往来があった。県道60号は古道だったのか?

 

以前実踏した「上三増」に行く県道65号も道祖神があり、古道である。

 

「道祖神がある道は古道」というのは「アキドチャンネル」のアキド氏から得た情報。

 

牛はどのくらいの勾配迄耐えられるのだろうか?山羊はどんな急斜面でも選り好みせず、歩行出来る。馬は、日本馬(和種馬)は、山岳地帯向きの脚質の種の骨格があれば、山岳地帯も乗り越えられる。モンゴルのモウコウマよりも遥かに日本に適した馬だ。

 

家畜がある程度の勾配に耐えられて、古道というものが有れば、カネディアン🔱は何処にでも行ける。厚木近郊の、水菜(もみじクッキー)の左半分の山のどん詰まりから抜け出る事が出来る。

 

家畜は機関車ではないのでそこまで難しく考えなくて良いのではないか。彼らは、自分が考えるよりも遥かに日本の地形に適している。

木曽馬などは蒙古草原馬だけではなく、*タルバン系高原馬のルーツもあると言われている。

 

《タルバン系高原馬: 現在の中国西部に存在していたと言われる馬で、漢の武帝の頃、汗血馬、千里馬、天馬などの駿馬を得た頃に中国に入ってきたとされている。》

 

高台に登る急な坂を見つけて登る。

 

 

畜舎発見。匂いからして牛。

 

 

敷地内の犬が吠える。大丈夫。犬は繋いである。言いたい事は沢山あるのだろうが、人間(主)に密告したりはしない。自分は牛を泥棒するつもりはない。

 

ここは北西の風を防げるような気はする。この日は南風が強かった。高台に開けた地が広がる。

 

 

 

近くに小鮎川がある。

 

 

高台に広がる土地

 

 

この高台にも石囲いの残骸を妄想させられる石群がある。

 

 

少し高台に神社を見つける。赤いので稲荷神社だと思うが、登って見てみた。狐が祀られていたので稲荷神社だった。

 

ファミマを見つけた。遠出先で出会した自販機やコンビニの存在は本当に嬉しい。

 

しかしこの店良い景観立地にある。

 

 

 

 

これでは太る街道まっしぐらだ。健診で空腹時血糖値が高く糖尿病一歩手前だと言われた。普段から甘いものや穀物をそんなに食べないのに。歳もあるし体質もあるな。

 

 

 

遺構の話に戻る。遊牧遺構との出会いは、超越者による采配が大き過ぎる為、自分の思い通りには行かない。

 

遊牧民もそれと同じで、自分で計画して放牧地、営地を選択するが、モンゴルとは違う日本の自然環境下や社会環境下では自分の思い通りにならない事の方が多かった。以前の記事ではカネディアン🔱牧民の気まぐれに振り回されているように感じていた。しかし、それは逆で、牧民自体が日本の自然環境の気まぐれに振り回されていたのではないかと思える。

 

モンゴルの環境に於ける牧民について書かれた文献は、ほとんどアテにならない。牧民自体がモンゴルと同じにしようとしても、それが叶わなかった事が伺える。

 

だから、遊牧遺構を敢えて探そうとはせずに、そこら辺を散策して、運良く遺構が見つかれば良いという程度にする。カネディアン🔱牧民の判断で全てを決めた事である。

 

自分が考えて、当てられる事などはほとんど無い。

 

言い方を変えると、個人の考えている事を言い当てるのと同じくらい難しい。

 

カネディアン🔱個々人の家庭の事情により、違うのである。

 

カネディアン🔱は一括りに出来る集団ではない。一括りにした方が幕府とか行政にしたら扱い易かっただろう。

 

 

 

ここは「宮の里」という場所に近い。そこへ行ってみる。

 

定牧場がよく見える。牛舎から、牛の声が聞こえた。

 

 

 

普段、ここで牛を放牧しているのだろうか?

 

水が溜まっている所がある。牛が飲む水だろう。

 

宮の里地区は高台にある。こんな事はスマホの地図には書いてない。宮の里は、飯盛山(メシモリヤマ)⛰️と言われた山であった。これは江戸時代から言われ始めた。平安時代には印山と言われていたようである。石碑に書いてあった。

 

飯盛山にしても印山にしても倭人がつけた名前だ。これでは、この世にはまるで倭人しか存在しなかったかのように思える。しかし、カネディアン🔱牧民も実在していて、この山と関わりがあったのかも知れない。

 

まずは公園へ。公園などに入る時、不審者に見られるのではないかと気になる。

 

公園に*テングリ(天神)を祀るオボーがあるだろうと安易に考えている。

《テングリ: 遊牧民が信仰する天の神》

 

 

 

確かに公園のある場所と、テングリを祀るオボーは必ずしも同じではない。寧ろ神社仏閣の方がテングリを祀るオボーがあるに相応しい所だ。

 

この地区(飯盛山)のいちばん高い所を目指す。

 

高い場所からの景色。

 

 

それでも自分は遊牧遺構を探そうとする。無駄な努力。

 

 

 

ここが徒歩で行かれる範囲内での宮の里地区で最も高い場所。先日行ったまつかげ台よりも標高が高そうである。

 

 

 

もしテングリを祀るオボーがあるとすれば、この崖の上である。

 

熊野神社⛩️があった。必ずしも神社仏閣というのは山の一番上にあるとは限らない。

 

 

鳥居の位置。

 

 

参道ではなく、駐車場に面している。

 

すぐ隣の稲荷神社⛩️。由来などが書かれている。

 

 

宮の里地区の山を降りて、荻野運動公園の脇を通る道を通って、荻野川を渡り、国道412号に辿り着く。

 

荻野川を渡る前に、石囲いの残骸のような石群があった。

 

 

国道412号沿いにはこのような石群が全く見当たらなかった。

 

以前訪問した、上三増(カミミマセ)地区にも石がたくさん転がっていた。

 

上三増訪問の記事

冬営地 - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

 

上三増での石は、かつて庭石🪨として使われていたが、住む人がいなくなり、家が解体されて無くなってしまったが庭石だけが残って端に寄せられているという印象を受ける。

 

しかし、この県道60号線にたまにある石群は、敷地のような場所ではなく、ランダムに、そこらへんに転がっているので庭石🪨ではなさそうである。

 

本当にカネディアン🔱が使った、冬営用の燃料を囲う石だったのでは?と思えてしまう。石群がある場所が、冬営に適した、風が避けられて水の近い場所が多かった。

 

今更ながら、カネディアン🔱は本当にここに存在したとしか思えない。

 

石は何百年でもそこに在り続ける。この辺りは、開発が進んでいない地域で、爆撃機の戦火も免れている。

 

かつては綺麗な囲いだったのかも知れないが、他人が持って行ってしまったのだろう。

 

他の場所にも妙な石群があったのかも知れないが、宅地開発などで撤去されてしまった。

 

この石の成分などを調べれば、何処から持ってきた石なのか解るかも知れない。そういう事が出来るのが研究機関である。自分にはどうする事も出来ない。

 

家に帰って一日の散策を振り返った。

 

遊牧遺構は偶然出逢えればそれでいい。と考えていたが、写真を見直して、石群を見て、遊牧遺構に出逢ってたやん。と初めて気がつく。

 

 

 

この散策と何も関係がないが、モンゴルに*カナダ型🏹🔥ではないか?と思われるオボーがあった🇲🇳

(カナダ型オボー:倭国カナダ地区🏹🔥にあるものと同じ型のオボー)

 

 

(🐫本当はダルハン型🏹🔥と書きたいが、このオボーも“ダルハン🏹🔥”という都市も互いにモンゴル国🇲🇳に存在する。紛らわしさを回避する為、“カナダ🏹🔥”という倭国にある地区名称を使う。倭人が作ったわけではないので“カネダ”とはいわない。倭語読み→カネダ、蒙古語読み→カナダ)

 

*カナダ:モンゴル国領土内にこの地名があれば、更に紛らわしさ回避する為に別の名称を考えなければならない。”カナダ(Kanada)”或いは”カナタ(Kanata)”という地名は、ロシアの沿海州に実在する。ネットで得た情報なので信憑性に欠くが、”カナタorカナダ”は、メルキト部族の言語でいう、一時的な近隣共同体、一時的な村落共同体、モンゴル語でいうところの”ホト”と似たような意味である。

 

ホトもカナタも、ゲルなどの移動式住居がある特定の季節に於いて、集中する傾向にある場所を意味する。メルキト部族は、チンギス・ハーンの時代が始まる頃のモンゴル族の怨讐部族である為、自分としてはこの”カナダ”という名称に少なからず抵抗を覚えてきた。

 

金田(カネダ)という倭語名称を、モンゴル語に変えたが、それが怨讐メルキト部族のところの言う”村”のような意味になってしまう事が何とも遺憾である。だから早くカナダというメルキト語に替わる意味の語を見つけたかった。蒙古族も敵が多い。

 

メルキト部族の残党が沿海州にいるような気がしてならない。メルキト語のような地名が残っているということは、その可能性が高い。

 

カナダホトを読みで訳すると、村村という意味になってしまう。

色々とねじれが起こる為、自分も頭の中がごちゃごちゃになる。自分が遊牧民の戦争に巻き込まれているような錯覚に陥る。

 

廣田千恵子先生の続き文章。

 

《引用: chieko_hirotaインスタ》

 

廣田千恵子先生は、『カザフ刺繍』の著者であり、モンゴルのバヤン・ウルギー県などをフィールドワークする。モンゴル国在住のカザフ人と主に関わる。

 

廣田千恵子先生、このオボーと出会ってくれて、撮影してインスタに掲載して頂きありがとうございます。

 

オボーの形にはある程度の地域性があるらしい。

だから“ダルハン型オボー”と言ってしまうと、ダルハン地域型のオボーという解釈が出来る為、問題になる。

 

このオボーのある場所が分かれば、カネディアン🔱の故郷がある程度特定出来るかも知れない。

 

 

床部が円形で、周囲に雑草が生えているのに円の中には生えていない。実際円の下には大きな石が複数埋まっている様であった。

 

松とその他の木が植えられているが、松は浅根性で、岩に直接生える事もある。寧ろ松は岩のような場所でなければ生きられない。

周囲の雑草が枯れている。この枯れている範囲がこのオボーの本当の大きさ。

 

往時は石堆が高く積まれていたのかも知れない。

 

廣田千恵子先生が撮影したオボーを見た瞬間、カナダオボーと似てると直感した。

 

似ていると考えた理由を後日書くつもりである。先生は自分とは違い、モンゴルをフィールドワークしている研究者である。

 

自分は廣田先生のインスタの文章をモンゴルを知る手がかりとしている。

 

しかしこのオボーが”カナダ”などというメルキト部族の言葉と丸被りする名前で呼ばれてしまう事は不憫である。

カネディアンという名称も考えものである。まるでメルキト人のように思えなくもない。

 

長文のご精読ありがとうございました😊

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