斑爾里(カルガリー)ちゃんねる

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遊牧遺構3 元寇防塁

2023年04月01日 | 遊牧アディクト

これは倭人が建てたので、厳密には「遊牧遺構」というのか判りませんが遊牧勢力(蒙古軍)と倭国武士の衝突を健在に残す証拠の他なりません。

 

元寇防塁は建治2(1276)に北部九州の博多湾沿岸一帯に石により築かれた防塁。中山平次郎の命名で石築地(いしついじ)が本来の呼び名である。

 

文永の役(1274)では元軍が百道浜に上陸し、祖原、鳥飼、赤坂一帯が戦場となった。その後この防塁が築かれた。

 

西の今津から東の香椎浜までの約20kmにわたって築かれた。そのほぼ中間にあたるのが西新・百道地区の防塁である。

 

海への傾斜面に幅11.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補強していることが判明した。

 

大正9年、西新の防塁が発掘され、昭和44年に本格的な発掘調査が行われた。防塁は、砂丘の上に粘土を敷いて基盤を安定させた上に、基部幅3.4mで石を積み上げていることがわかった。

 

西南学院大学第1号館の建設に当たって検出された防塁の発掘調査では、石塁の背面に約1mほどの間を置いて土塁がつくられ、二重構造であった。

 

西新地区の防塁は、昭和53年の発掘調査に整備され、見学できる。また、西南学院大学で検出された防塁は、12mほど北東側の1号館内に移築復元され、公開されている。


 ただし、現在埋め立てによって海浜は大きく北に移動しており、かっての百道松原の面影はまったく失われている。

 

文永の役(1274)の戦場の赤坂付近では激戦が繰り広げられ、苦戦を強いられた。

 

苦戦を強いられた原因の一つは、果敢に一騎打ちを挑む日本の武士たちに対して、元軍はドラや太鼓を合図に集団で攻めかかる戦法であったこと。元軍が用いた短弓が、日本の弓矢のおよそ2倍の射程距離があり、その上その矢尻には毒が塗ってあったこと。てつはうと呼ばれる炸裂弾を使い、日本の武士たちが乗る馬を驚かせ士気を混乱させたことなどが挙げられている。

 

日本の武士たちは、大宰府守護(防衛軍司令官)の少弐景資(しょうにかげすけ)を中心に善戦する。元軍No.2の副司令官に重症を負わせたのが幸いしたのか、1021日になると元軍は忽然と姿を消し、立ち去っていたのだった。

 

その後、博多湾から引き揚げた元軍を暴風雨が襲い、船の大半は沈没したといわれている。

 

弘安の役(1281)の際には防塁が築かれたところからは元高麗軍は一切上陸することが出来なかったといわれている。

 

長崎県内にも防塁が存在する。長崎県松浦市星鹿町から平戸市田平町の海岸線40-50キロメートルにかけて、防塁が古代のまま現存している。開発の進んでいないこの地域には元寇に関連する遺跡も多数あり、また、それに関連すると思われる「火立場」「血田」「追い出し」などの地名や、昔からの言い伝えもあるが、発掘等の詳しい調査はなされていない。

 

俗にいう神風が倭国を救ったという表現があるが、これは倭国は無傷であり神風“()によって元軍が倭国岸に近づく事さえ許さずに全滅させたという誤解を与えかねないニュアンスだ。

 

自分も5年前迄はそう思い込んでいたが、大いなる勘違いをしていた。

 

倭国国土を守護すべく戦った戦士達や、犠牲になった一般人民、壱岐、対馬の島民達がいた事を知るべきだった。

 

壱岐では武士全員が討ち死にしたと言われている。九州の北部、一部の犠牲によって当時の大半の倭国民が犠牲から免れた。

 

この犠牲についてもっと教育の場やメディアに取り上げられても良いのではないかと思う。現地だけではなく、全国的に取り上げられるべきだと思う。翌年2024年は弘安の役、元寇から750年である。

 

この件で犠牲になられた方々に、ご冥福をお祈りします。

コメント
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