これは、日本での話です。
日本国、アルタンボラグ。この集落内で、テングリ信仰の跡地だと思える聖地と邂逅しました!
テングリとは、トルコ、モンゴル族における天神。天の神。
先日の記事でアルタンボラグのコンビニ寄った時、月餅の取り扱いが無かった問題で「ここはアルタンボラグだから月餅を忌避するのか?!」と書いた。
先日、アルタンボラグ地区に月餅という月餅が売っているのか大変気になり、わざわざ確かめに行ったのと、フィールドワークのつもりで実踏した。
月餅は売っていたので購入してしまいました。美味しかったです。
日本国アルタンボラグ。これがどうしても知りたい方は、モンゴル語のАлтという単語をGoogle翻訳機で翻訳すると一文字の漢字が出て来るので、その漢字が頭文字の日本国内の場所です。
ここは、鎌倉時代頃にユーラシア大陸から舶来(渡来)した遊牧民の集落なのか?
遊牧民集落という事を仮定して足を踏み入れました。
遊牧世界と関連する目ぼしいものが見つかりますように!
その時はモンゴルのHIP HOPのICE TOPをYouTubeで聞いていました。
おすすめの動画はランダムで、どういう仕組みで出て来るのか解らない。
2曲目に、朝青龍、白鵬、鶴竜について歌った曲に巡り会えた。彼らは力士として日本で成功し、日本に根付いた英雄です。
ここに非常に相応しい曲に出会えて楽しかったです。なんか歓迎されているような気がしました。ここは、モンゴル人の領域のようにも思えてくる。
これを書いている2月21日はツァガンサール・旧正月です!
この集落の住人ももしかしたらツァガンサールを祝う家庭があるのかも知れません。
アルタンボラグ、まるでスラム街のように非常に入り組んでいて迷い込んで、日が暮れたら出られない怖さがあった。
丘陵地帯でもない、比較的平坦な土地でこれまで入り組む理由があるのか?
迷路みたいでぐちゃぐちゃだった。多分※ゲル地区に足を踏み入れても似たような感覚に陥るのかもしれない。
※ゲル地区:モンゴル、ウランバートルで遊牧民が移住して、同市周辺に形成されたゲル(移動式テント型住居)や簡易な家の居住区。
ここも700年前から800年前はゲルテントばっかだったのかも知れない。そんな事を妄想するとビリビリする。
ここは、ゲル地区の名残りを感じる区画。
ゲル区画を真っ直ぐな道が斜めに貫通している。
妄想歴史秘話だが、鎌倉時代に舶来した遊牧民がそこら辺で比較的自由に定住牧畜生活をしていたが、鎌倉幕府が遊牧民をここら辺一帯に強制移住させて集積させた。人工的に作られたゲル地区。
元寇の時代よりだいぶ前で、侵攻目的で来た兵士とは違い、世帯持ちや血族の繋がりのある遊牧民の一グループだと思いたい。
国家国民として、攻めて来たわけではないと思う。
区画はゲル地区のように家屋の置き方がぐちゃぐちゃだが、家屋自体は立派で、古くから住む世帯が多い印象。
まさか700-800年前から代々住んでいる人は流石にいないだろう。住んでいる人の見た目はそこら辺の日本人と何も変わらない。彼らの中にその遊牧民の血を引いている人はいるのだろうか?
遊牧民の後孫はどこかへ行ってしまったのだろう。
もし本当にこの集落が、本物の遊牧部落であれば、日本と遊牧世界の水入らずのプライベートな繋がりの拠点である。
川に向かって歩くと、穀倉地帯にぶつかる。
アルタンボラグの奥にあるこの穀倉地帯は元は穀倉地帯などではなく、定牧の場、今ドキの言い方だと牧場のような所だっただろうと思わされた。柵で囲ってその中で牛馬、山羊、羊、駱駝、ヤクなどの家畜を入れていた。という憶測。
穀倉地帯の端の方に、松を植えた「天神」を祀る一角があった。
野晒しの原野の隅の一角に「天神」として祀られているさまは、まるでテングリ信仰の石が積まれた司祭場の跡のようにも思える。
「国土を守護する天乃神と学問を奉ずる天神とを相殿にし….」
とある。後者の学問を奉ずる「天神」は菅原道真の祟りを鎮める為に、「天の神」として祀った、本来の天上神とは根本的に違っている。
前者の「天乃神」とは、テングリ信仰のことを指しているのか?
もしかして、テングリ信仰とは国土を守護するという要素もあるのか?
↓ちきゅうの暮らしかた/カルムイク人幸せの秘訣
いつかここに、テングリの儀式をしに行こうかしら。
この日が晴天だったら良かった。
五穀豊穣を祈願して創設された。とある。
元々はこの狭い空間に石がうず高く積まれていたのだろう?倭人は石積みを解体し、跡に天神杜を創設したのだろうか?
倭人は、テングリ神をも農耕神として扱ってしまう。
いつ石積み状態から、このようにされてしまったのだろうか?しかし、木の周りや祠の周囲に石が置いてあるところを見ると、石が積まれていた頃の名残りなのか?現在に至っても石を積みたいと強く望むこの辺りの住民がいるのかと思いました。
テングリ信仰では蒼天そのものに対する崇敬から天の神格化が行われた。
この地に移住させられた民はここで、草原の空を想い故郷を強く慕う。
「草原の空を想う」は実際にこの場に行った時に降ってきた言葉です。
穀倉地帯を離れると、水路がゲル地区を斜めに直線に貫通する道沿いにある。穀倉地帯用の水路か。水路ひかれたのは、早くても江戸時代からだろうか?
いや、そんな事はない。年貢を納めなければならない倭国税制度の下では水路を引いて穀物を作らなければならない。その為か知らんけど、鎌倉時代にはもう開通していたという。
牛久保用水
穀倉地帯は冬枯れの最も美しい時期なら、黄金に輝き非常に美しいと思う。
この集落の正式名称の由来は文字通りのGolden 穀倉地帯なのだろうか?
「アルタンボラグ下宿」のバス停から駅方面に50mぐらい歩いて少しゲル地区に踏み込んだ所に、アルタンボラグ及び下依知付近の地域の入り組んだ道についての説明書きがあった。
本間氏とは、アルタンボラグ神社(当時船来田神社)を建てた地頭という役人である。アルタンボラグに750年間も代々居住し続けている本間氏という者がいるらしい。
おそらくそれが、それだと思う。
地頭は鎌倉時代の警察のような暴力機関と言われていたが、この本間という人物は集落の人民の敵ではなかったようだ。
定住生活を始め、時を経るに従って定住の知恵がついてくるようで、本間氏宅を衛る為に複雑な道が作られたらしい。城下町のように。
本間氏はここらへんの領主だったらしい。
この事柄で日本の歴史と、当時の13世紀前後の遊牧社会についての知識を得る必要があると思いました。
ガバガバな遊牧アディクト目線が勝手な妄想をすると、本間氏という人物は多分、アルタンボラグ牧民の首長であったのではないかと思われる。
遊牧首長についても勉強しないといけない。遊牧首長は、世襲制なのか?役人などのように一代限りで終わりなのか?
遊牧民 首長↓
例としてキルギスの遊牧首長、マナープについてのWikipediaです。
遊牧社会の首長と、倭国の領主と、非常によく似ていると言っても過言ではないようです。
遊牧してれば首長。定住してれば領主。
鎌倉幕府は、ソ連のようにパネル住宅を建てて、強制移住させた人民をそこに住まわせるなどという事はしていないと思われる。
パネル住宅の個別の決められた部屋に強制移住させられた遊牧民は、首長制というのが途絶えてしまった。
鎌倉幕府は、船田地区の一画に遊牧民を集積しただけだろう。その為か首長制が途絶えず、長年続いたのではないかと思われた。
もしも本間氏が遊牧民首長で、強制移民後アルタンボラグ地区の領主だったとしたら?!厚木市アルタンボラグという部落は、日本の定住社会におけるガチの遊牧部落である。
これはガバガバな憶測の域を出ませんが、大陸、中国、韓国、モンゴル、中央アジアなど、頭文字に「金」と着く地名が多い。ここもそうだ。
厚木市遊牧部落はどこから何処までかはっきりとは分からないが、依知郷とよばれる辺りではないかと思われる。領主(首長)の本間氏の居住している地域はアルタンボラグ地区という。
本当に憶測だが「金」の地名の由来とは、部族の首長や、汗などの王がいる(或いはいた)あたりに「金〜」と名付けたのではないのか?とも思える。
ジョチ・ウルスではカーン(可汗)の座を「金の玉座」とも言ったそうです。
これは古代中華思想の影響かも知れませんが、陰陽五行説四神の関係での中央の色が「金」(黄)北が「黒」南が「赤」東が「青」西が「白」
ベラルーシの国号は「白ロシア」だが、この「白」というのは、タタール軛時代(ジョチ・ウルス支配下時代)にタタール人(モンゴル人?)が持ち込んだ風水の影響だとも言われる。
それと同じように。
元々は船田と言われた地域であった。それがいつの間に「金田」と言われるようになっていた。
砂金でも採れたか?とか色々思った。金が採れるような場所は、付近に金沢など、他の「金」とセットになっている場合が多い。この金田周辺には金と着く地名は見当たらない。
それともタタラ製鉄や刀剣製造など金属加工に携わる部落なのか?
とも思えた。その場合、「金田」の読み方が少し変形してna になるのではないかと思える。
金物を「かなもの」と読むように。
アルタンボラグは「かねだ」(ne)と読む。
金田…..という漢字表記は、このブログを読む皆様に「金帳(キプチャク)」を連想させると思い、紛らわしくさせると悪いので、極力使って来なかった。アルタンボラグの牧民は、ジョチ・ウルスを知らない。だから金田(“きぷちゃく”とも読めてしまいそうな)特定の国を連想させる表記は避ける。
歩き廻って、タタラ製鉄跡地の碑などが見つかれば今までの憶測が全て覆る。
それでもいい。
砂金でも金物やタタラでもないのであれば、何故?と疑問が湧く。
この部落が目についたのも、遊牧アディクトの目線で見れば頭文字が「金」で始まる為、もしかして…
と気になった。アルタンボラグ神社の説明書にも非常に気になる事が書かれていたのでWで、もしかしたら….
アルタンボラグ地区の相模川に近い場所で、清掃工場の建設をしていた。
穀倉地帯に立て看板があり、こう書かれていた。
「アルタンボラグは充分協力してきた。清掃工場建設は絶対に反対」
とある。
この地域はまるで自治共和国のように見えなくもなく、そういう偏見で見れば、長年、倭国や倭民族と様々な軋轢があり、和解と共存が非常に難しい歴史を歩んで来たという印象を受ける。
ウクライナ、ロシア戦争の影響は大きい。今までこんな考えを持った事は無かった。この戦争の特殊性でもある。
戦争が始まって約1年が経つが、今思う事は
戦争を一度始めたら終わる事はない。
ドンパチ戦争が終わったとしても、この先、潜在的で見えにくい戦争犯罪の応酬と応酬の戦争が始まるような気がしてならない。
ロシアとウクライナは長年の歴史で、和解と共存の道を探し苦悩してきた。火種は数百年前に遡り、目に見える戦争が終結しても潜在的な泥沼戦争は続いていたという。
ドンパチ戦争は今に始まった話ではない。という戦争の苛烈さを感じました。
所で、話を変えます。
現代のウランバートル郊外のゲル地区は、社会構造がどうなっているのかさっぱり分からんが、アルタンボラグ地区のようにぐちゃぐちゃである。
中世モンゴルと現代モンゴルでは、違うのだろうか?
アルタンボラグ、遊牧集落説はあくまで仮説に過ぎず、まだ仮縫いの段階で自分の憶測や妄想や好き勝手な歴史を言っている段階。
これから知識増やして、整合性があるのかどうか?検証をしていきたい。知識を増やす毎に幾度かここを訪れると思います。
アルタンボラグ地区が遊牧部落であろうと無かろうと、このブログネタを機に日本にはこのような遊牧部落の可能性のある地域があると考えられるきっかけになれば良いと思います。