*カネディアン🔱牧民の軌跡を探している。
前回は、カネディアン🔱牧民の冬営地候補の一つと踏んだ上三増(カミミマセ)に行った。
カネディアン: 金田地区という蒙古集落の痕跡が残る集落に定住する人達の祖先。
*蒙古.... 特定の国の名前を冠してしまいました。大変申し訳ない。
カネディアン🔱とは約400年前、日本に渡航して来たモンゴル系牧民である。
冬営地・前回の記事
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前回、家畜の糞・薪などの燃料を囲う「石囲い」を探した。
石囲いがどんなものか?以前は想像上だけであったが、石囲いらしいものをツイッターXから入手した。
モンゴルの冬営地での動画。石囲いというより、土を人為的に固めたものによる囲いである。
規模感は掴めた。
モンゴルの丘陵地は日本のように雑木林ではない。
400年前のカネディアン🔱は、家庭にもよるが、平均的にどれだけ家畜の数を有していたのであろう?
家畜の数によって石囲いの規模も変わる。
往時の倭国(戦国末期から江戸中期頃)に存在した家畜といえば、牛と馬と山羊しかいなかった。
カネディアン🔱絨毯問題を考えていたが、山羊の毛で作っていたのであろうか?
祖国から持ってきた絨毯は羊毛だが、倭国に来てからの絨毯は山羊毛?毛先が痛そうである。
カネディアン🔱はどこから倭国にて家畜を得たのだろうか?
農村などからの掠奪である。
幕藩体制以前の倭国に於いて、馬は騎乗に使われていた。その他には荷物運搬用の駄馬としても使われていた。農耕にも使われていた。牛も同様に農耕や荷運びに使われていた。山羊は非常時の食用として飼育されていた。
冬営地にも*オボーがあるのではないかと考えるようになった。
オボー: モンゴル人が神や先祖を祀る祠のようなもの。
モンゴルの旧正月、ツァガーンサルでは丘の上にあるオボーに牛乳や米などの白いものを撒いたりしている。
ツァガーンサルは「白い月」という意味。
2024年のツァガーンサルは2月10日。
冬営地にも夏営地にも祭祀オボーがある。
春夏秋冬全ての宿営地にあるのだろうか?
カネディアン🔱冬営地にも天神(テングリ)祠がある可能性がある。
あるとすれば丘の上だろう?
祠なり、何らかの形で残っていればいいが、オボーは永遠に定着するものではない。
愛川町 角田(スミダ)地区に行ってみた。
冬営地と踏んだ理由は、川(中津川)の近くで、緑色の部分の近くである為。
緑色の部分は小山で、北西の風を避けられる場所であろうか?
地図上で見る限りそう見える👀
愛川町役場前のバス停で下車し、角田地区へ向かうが...
緑地というのは小山ではなく、段丘に沿って茂る雑木林であった。角田地区にはこの段丘を降らなければ行く事は出来ない。
段丘というより、寧ろ「崖」
これでは山羊🐐以外の家畜が降れない。人も降れない。
降った先には田地が広がる。
これが角田地区。
地図上で見てるだけでは絶対に分からない地形。
台地から対岸までの地形
台地→崖→田地→高い堤防→川(中津川)→対岸の山
田は、川沿いに延々続いている。
堤防から見る田んぼ
中津川沿いは延々田地のようだ。
中津川は狭い川である。
中津川河畔を宿営地にして、放牧地にする事は難しい。
まず、どうやって中津川河畔エリアに入り、角田地区まで行くのか?
中津川沿いの厚木市妻田まで戻らなければ入れない。
中津川は、崖と崖の間に挟まれている状況である。
両岸の田地は湿地帯だったのだろうか?
川の近くには、高い堤防があり、田んぼの方が川よりも低い位置にあるように見える。
このような場所は400年前には定住農耕民が住み、カネディアン🔱とは棲み分けていたのだろう。
カネディアン🔱は耕作に不向きな台地で放牧。
今昔まっぷを見なければ昔の植生は分からないが、今昔まっぷも遡っても江戸までだろうと思う。
カネディアン🔱の末路はどうなるのか知っていても、それまでの自由な余生をどう過ごしていたのか?
それにしても田地から台地まで上がるのは非常に大変だった。
角田地区には石囲いとオボー(天神祠)は無かった。
石囲いは本当にあるのだろうか?
愛川町役場付近。ここは台地だ。
ここから小山が見える。
ここの方が冬営に向いているのかも知れない。
機会を作ってまた行くつもりだ。
営地選択は一筋縄には行かない。当時のカネディアン🔱の倭国の複雑な地形に於いて、営地選択の苦労が伺い知れる。