日本国に於いて、遊牧集落の痕跡と、遊牧遺構を探している。
結論を出す事は非常に早いと思うが、いくら探してもこれ以上の物は出てこないという結論に至った。
*金鎧 : 金田集落
金田の“田”が農耕民族的で非常に気に食わなかったので極力別の字を充てた。遊牧民に農耕民族のような呼び名をつけるのは余りに失礼なので、金田人を金鎧人と呼ぶ事にし、金鎧集落と呼ぶ事にした。
郷土博物館で係員に資料を見せて頂き、金鎧集落に関するもの大まかにまとめてみたが、資料には、“蒙古”とか“突厥”とか“遊牧民”とか“放牧”など一切書かれていなかった。更に“テングリ”“天神”“国土を守護する天乃神””オボー““石堆積”等も一切書かれていない為、ここは本当に蒙古集落だったのか?決定打はない。
2023/5/17の記事
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金鎧集落について 結論(前編) - 斑爾里(カルガリー)ちゃんねる
先日の記事を元に、蒙古系渡来人がいたと仮定して同じ事を書いてみた。
戦国時代かその前、この地に野盗か野武士だと思われる者たちが現れる。彼らは村々に襲撃や掠奪を繰り返していた。
彼らは当時のモンゴル帝国の民で、ゾド(雪害)などで家畜を失った元々遊牧民だった人たちである。内陸では生きていけない。沿海州に辿りつき、女真族などに船頭と舶を手配して、日本海をわたり倭国へ。倭国を流浪し、相模国へ。
そして彼らはこの船田村(海賊の村)を襲撃し、潰し、川と川に挟まれたこの地に宿営した。
彼らはこの土地の現在の名称、金鎧の由来となった民、”金鎧人“である。
戦国時代には“金なにがしか”という地名だったという記録がある。”*アルタンなんとか“という特定の個人名を集落につけた可能性も考えられる。
*アルタン : 金
金鎧人は掠奪や狩猟や商売などで生計を立てていた。シャーマニズムの精神を伝統的に守り続けたいと考える金鎧人は、元遊牧民。土を掘り起こす事を頑なに拒み、農業従事をしなかった。
金鎧人の主流、族長などが率いる大半は大永年間(1521-1528)にこの地を離れて流浪し、愛知県西尾市一色町に移住する。
遊牧民はこうあるべき。と保守的な蒙古人は、残留より流浪を選んだ。しかし、一部はここに残留した。
残留金鎧人は、この地の利は商売に適していると判断した為残留した。
しかし残留金鎧人の中には特定の武将に投降し、正式な武士になる者もいた。
金鎧集落という、倭国の中の蒙古集落のひとつとなる。
木柱のテングリ(天神)祭祀場を建てる。自分達はモンゴル帝国の民であるという意識が高い。ハーンの建てた国を想う心が強かった。
海賊や倭人の生き残りは、マイノリティとして同じ集落の中にいた。船来田明神が維持されたのも彼らに依るところが大きい。
数度に渡り、大陸から蒙古系民族が倭国に漂着する。彼らは蒙古系コミュニティー(集落)を頼って金鎧集落に移住。
17世紀以降、モンゴルがチベット仏教導入後、来日した蒙古人が金鎧集落に移住。そして木柱テングリ(天神)祭祀場に影響を与え、祭祀場は石堆型になる。
江戸時代中期に、幕藩体制が確立した後、中央から倭人の管理者が派遣され、金鎧集落も倭人の管理下に置かれる。人間が人間を徹底管理、支配するという治世が始まり、金鎧集落には農業従事用の土地を幕府から与えられた倭人が流入し、稲作が再開される。幕府は、蒙古人たちと倭人を強制的に政略結婚をさせ倭人化し、それらを田に縛りつけ農業従事させ、蒙古人のコミュニティを田地に変えた結果が金田の由来だ。
金鎧は金田となった。
その過程に紆余曲折あり、幕府軍と戦い犠牲となった蒙古人も数多くいたと考えられる。
金鎧以外でも、日本全国の異民族集落は倭人化をさせられた。
テングリ祭祀場は元々、金鎧人(蒙古人)が信仰していた「国土を守護する天乃神」を中心に「地神」「雷神」「龍神」など色々な神を祀り、集落の鎮守としていた。
倭人化後、倭人の天神「学問を奉ずる神」「田神」や「五穀豊穰の神」「地母神」などの雑多な神もそこに祀られるようになる。
昭和に入り、第二次世界大戦勃発や、高度経済成長期などがあり、石堆積天神祭祀場の大量の石は、他の河原の石同様にセメントの材料などとして、強制的に買収される。
現在も金鎧人の後裔が、厚木市金鎧に住む。その後裔の誰かが、石堆積天神祭祀場の跡に天神杜を作り、あの立札を書く。金鎧の古くから居住している住民は天神杜に石を置き、再び石堆積化させようとしている。
古地図や歴史書にある集落、部落、大字、小字の名前は江戸期に固定された。
江戸期以前の地名は、倭人にとって重要視されなければ実はよく分かっていないものが多い。
憶測の域を出ないが、和病の起源は江戸幕府による倭人化。江戸期を境に倭国から日本になったという感じだ。
江戸期まで倭国には野放図に移民がそこらへんに集落を作っていたが、天下統一した、徳川家中央集権独裁軍事国家である江戸幕府の政治体制下では、人民も統制される。全ての日本の人民は徳川の隷属民。今までの世界線とはガラリと変わる。江戸期が現代日本の世界線の礎となる。鎖国だの単一民族だのと言い出したのも江戸期から始まる。
先日、斬首動画を上げたロシア兵士がいたという非常に胸糞の悪い事件を聞き、金鎧天神祭祀場にロシア、ウクライナ問題について持って行き場のない想いを伝えに行った。
天神祭祀場に供える石を相模川河川敷で拾って来たかったが、河川敷に通じる道が,ない。。。当局の意地悪??すぐそこに川が見えてるのに🥹
金鎧天神祭祀場から相模川河川敷までの距離は本当に近い。
天神祭祀場から河川敷は直接行く事が出来ず、間に畑や、樹木林などがあり、容易に行く事が出来ない。
これは政府や倭人による妨害なのでは?
天神祭祀場に供えるための丸石は河川敷にたくさんある。丸石を容易に天神祭祀用に持って来られないようにわざと河川敷から天神祭祀場までの道のりを遠くしている意図を感じとれる。
遊牧信仰(倭人にとっての異教)を嫌らしく妨げるという意図が感じ取れた。
とはいえ、倭人も一概に言えず、蒙古人と共存する倭人もいれば差別する倭人もいる。
旧金鎧集落の、新ごみ焼却場建設に反対する会の立て札に書いてある「金田はもう充分協力してきた 建設反対」というのが、色々と考えさせられる。
河川敷まで遠い遠い道のりであった。その途中には水道橋かガス橋か、管の橋がある。
ようやく河川敷に出られる。
人が渡れない橋ではあるが、美しい。
自分はこれを、金鎧橋(キンガイキョウ)と勝手に名づける。本当の名称はあるのだろうけど。
そして、天神祭祀場に持って行き、手を合わせ、持って行き場のない想いを伝え、世界平和を祈るのだが…
この金鎧(田)集落は蒙古集落であったのか?の真相は闇の中。
蒙古集落の決定打と思えるものは、天神杜の立て札に書いてある「国土を守護する天の神」という神観。これはモンゴル帝国時代そのものの神観である。倭人は到底こんな発想には至らない。倭人にとって国土を守護するのは天の神などでは決してなく、地の神(国津神)である。
遊牧民は適当に移動して、土地などに執着が無いと思われ勝ちだが、国を築くとなれば何より「領土」を重要視する。つまり国土だ。
テングリ祭祀場に関する、モンゴル帝国時代そのままの神観、信仰観を子々孫々に口承で伝えられ、立札に神観、信仰観を記しているというのは、モンゴルの歴史からすれば非常に凄いことではないか。日本という異国にモンゴル帝国の一部がそのままある。
口承というものの凄さを知る。金鎧人が日本に来て400-500年経つが、今だ口承が残っている。書物であれば、火災などで焼失してしまえば終わりである。
もうひとつは頭文字が「金」で始まっているという事。
頭文字が金である金田と、国土を守護する天神の組み合わせというのが、ここは蒙古集落であると決定づけられる。
他は何も出て来なかった。遊牧民は足跡を残さない。ゲル地区のような入り組んだ道は、船田人(海賊)と倭人が作ったが、金鎧人は何も手をつけていなかった。後世に残るような建物を建てる事も無かった。
長文のご精読と、今まで蒙古集落跡(金田集落)の記事に付き合って下さいましてありがとうございました。
金鎧集落に出会えた事に感謝致します。