善意と悪意の差。
例えば、キミがビッコだとする。
不便なのは仕方ないが命に別状はなく、普通の人と比較すると、ライフスタイルや人生はやや異なるものの、生死に関わらない。
それは、若者と老人ほどの差と言ってもいいほどで、若者には老人の苦しみは、まだ分からないもので、いつ何時、ビッコになるかは誰もわからず、老いる時を迎えられない若者もいる。
そこで、キミがビッコだとする。
普通に生活する誰かの美しさを羨み、そいつをビッコにしようと企むのが悪意である。
性格が良いビッコなら、普通に生活する誰かの美しさを憧憬しても、破壊しようとは思わない。それは善意まではいかないが、普通の自然な感情だ。
自分と違って美しいからといって破壊させるのは、ただのワガママで、他人の思考を正す必要もないのに、自分の方が正しいと主張する為に他人をあげつらうのは悪意だ。
私の思考や日本語は誰かに正される必要はなく、今現在、この時点でも、私の日本語や思考を脳殴打・ほのめかしで邪魔をしながら盗聴記録し、私の思考を自分らの思考かのように話し、「頭の良いヒトのふり」をするのだ。昔、えっちゃんという大嶺リエ✗の姉にそうされたことがある。東アジア民族が気持ち悪い理由だ。
頭の良い私・東郷嘉奈/元・蘇カナ(中日バイリンガル:文系大学卒業)のふりで、男らを釣りたいのかもしれないが、セックスで十分だろう?アジア男なんぞ。
それとも、西洋人を釣りたいのか?