刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【必見!】考古学と民俗学からわかる日本の建国!(#^.^#)

2025-02-27 21:32:15 | 古代史

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#2020-02-11 13:06:31に「【祝】日本建国(令和二年)」という表題で記事にしましたが、リンクが切れていたので修復し、その他新たな知見を加えて整理し直したので、標記のタイトルに変えました。よろしければ、またお付き合い下さい(#^.^#)

卑弥呼の死の直前の247年の状況から三世紀末に奈良県桜井市纏向遺跡で初代ヤマトの祭祀王として応神天皇が即位する、ヤマト王権成立までを考古学や民俗学の成果などから推理しましたので、以下に概略を説明します(注1)。

ヤマト王権成立を「記紀神話」では紀元前六百六十年に神武天皇が九州から大和に乗り込んで武力で征服したとしていますが、三世紀後半の纏向遺跡で出土した外来土器に九州のものはほとんど有りませんから(あっても1%以下)、神武天皇が東征したのではないことが分かります。同時に、九州に在った邪馬台国が東遷したのでもないことも分かります

三世紀の奈良盆地に戦争の跡は見られませんから、九州の人々が押し寄せて武力で建国した証拠は存在しません。三世紀以前に奈良盆地に王権があったとわかる王墓も存在していませんので神武天皇の話は虚構です。

逆に、下図で示すように、三世紀の終わりには列島各地の集落の環濠や溝から鉄鏃・銅鏃が出土していますので、一方的に纏向遺跡の勢力が敵対する列島内の勢力を武力で制圧して日本が建国されたことが考古学の成果から分かる事実です(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

それでは、纏向遺跡の勢力に平定されたのはどういう勢力かを見ましょう。

下図は鍛冶製鉄遺構の分布を示すもので、在来の鍛冶遺構の勢力と、半島南部との交流によって高温鍛冶技術を導入した倭国の勢力が対立していたことを示すものです。

上で述べたとおり三世紀の纏向遺跡に、北部九州の伊都国や奴国などの倭国の人々が来ていないことから、纏向遺跡で行われた重要な祭祀に倭国の人々が参加していないので、纏向遺跡は邪馬台国ではないと分かります。むしろ邪馬台国と敵対する勢力だったと考えられるということです。つまり邪馬台国と対立する狗奴国は南九州ではなく、纏向遺跡にあったと考えられます(^_-)-☆


このことから、魏志倭人伝にある卑弥呼の死後に男王が立ってそれに不服な勢力と殺し合いになって、千人が死んだ事件は、その勝者が倭国王に立って、外交上13歳の台与を卑弥呼の宗女として女王に立てて、魏を後ろ盾にして纏向遺跡の狗奴国と対立した人物だと分かります。そして列島主要部を傘下にしたこの人物が、記紀神話で大国主命とされた人物だと分かります。最初に男王に立ったのは記紀で仲哀天皇とされた尾張王ですが(纏向遺跡の外来土器の約半数が東海のもの)、大国主に討たれてしまいます。台与は記紀で神功皇后のモデルとされた、応神天皇の母です。応神天皇の本当の父は、後で示しますが、仲哀天皇ではなく、大国主だったのです。



記紀神話で大国主と呼ばれた人物は、山陰や越を根拠地としたムナカタ海人族を束ねた王でした。楽浪郡と交易し、半島南部の鉄も独占して高温鍛冶技術も導入し、傘下に惜しげもなく分け与えて大国主は人気者でした。倭国は狗奴国を圧倒するほど強勢になりました。魏志倭人伝で狗奴国の官狗古智卑狗(豊岡市久久比神社の祭神で木の神久々遅彦、最後の奴国王スサノヲの子孫の出雲・丹後国王の襲名)で、記紀では神功皇后に寄り添う三百歳の老臣武内宿禰です(注2)。

しかし、尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、日本武尊のモデル)が九州に遠征し、苦難を乗り越えて大国主らを討ち、仇討ちを成功させたのです(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。そして最初に見たように三世紀末に纏向遺跡の狗奴国勢が列島を統一して、全国に纏向遺跡発祥の前方後円墳が六世紀ころまで各地で営まれています。大国主・台与の倭国を滅ぼしてヤマト王権が纏向遺跡で成立した証拠ということです。

初期の前方後円墳での祭祀は、主に吉備の祭祀が中心となり、北部九州や出雲、そして近畿に由来していることが判明しています(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!(^_-)-☆」参照)。

奴国宮廷楽師の師升らのクーデターで宋史王年代紀18代奴国王スサノヲが殺されました。その王子イタケルが、奴国を逃れて日本海沿岸部を根拠地とするムナカタ海人族を束ねる出雲王久々遅彦(王の襲名)となりました。そして、その子・孫(八束命・日高彦)が倭国大乱で活躍しました。さらに先ほどの内戦に勝利した曾孫の大国主高野御子が師升の子孫難升米からの倭国を取り戻しました。 この史実を記紀では日向三代の神話を創って徹底的に隠しました(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!(@_@)」参照)。

また、スサノヲの弟ニギハヤヒもクーデターを逃れ、裏切り者の吉備の勢力を討って奴国を再興し、倉敷市楯築王墓に葬られ、19代王天照大神尊と呼ばれました(先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命、詳細は【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)参照)。ニギハヤヒ大王の子孫が王都を遷した纏向遺跡が狗奴国と呼ばれた旧奴国だったのです 狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)が大国主の倭国を討って日本を統一しましたので、崇神天皇はハツクニシラススメラミコトと諡されました。

ところが、魏末期に司馬懿(179-251年)の次男司馬昭がまず蜀を滅ぼし(263年)、さらに魏の帝位を禅譲された司馬懿の孫司馬炎(236-290年)の西晋(265-316年)が、呉を滅ぼして(280年)、後漢(25ー220年)の末期から続いた動乱の時代がようやく終わります。

西晋に朝貢していた大国主と女王台与の倭国を狗奴国が滅ぼしたので、次に狗奴国が西晋に討伐されると卑弥弓呼大王崇神天皇は恐れ、民も動揺しました。日本書紀では三輪山の大物主大神(大国主)が祟ったため、大国主の子オオタタネコを探し出して、大国主の祭祀をさせると祟りが収まったとあります。最初に述べたとおり初代ヤマトの祭祀王が応神天皇です。箸墓古墳で母台与を改葬し、さらに桜井市外山(トビ)茶臼山古墳で父大国主を改葬して、邪馬台国の後継国として、狗奴国をヤマトと呼ぶことにしたのです(注3)。西晋の仕返しを避けるための知恵でした。

建国時に狗奴国のせいで不慮の死を遂げた三柱の貴人(卑弥呼・大国主・台与)の祟りを大和朝廷は最も畏れました。地震や落雷などの祟りを抑えていただくように、三柱のゆかりの地である邪馬台国のあった宇佐神宮で祀りました(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
」参照)。特に、国譲りをした大国主高野御子については、三輪山大神(おおみわ)神社で祀り、後に出雲には日本最大の杵築大社を造り祀りました。それ以外に神話で創作された様々な神は、実は史実を隠すために、ほとんどこの三柱の別名・分身を祀っています(詳細は「古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆」参照)。

今上陛下までの歴代の天皇陛下には皇祖神(天照大神尊ニギハヤヒ大王)の霊(みたま)と一体になる厳しい修行によって、国家の安泰・国民の安寧をひたすら祈り続けていただいています。天皇に関する儀式は日本国憲法第7条に定める国事行為がありますが、それにあてはまらない公的行為として、wiki「皇室の儀式」にある皇室に関する様々な儀式が定められています。参加したことがないので詳しくは存じませんが、儀式の名称だけ見ても、また数もとても多く、内容も大変なものだと想像しますので、自然と頭が下がりますね(^^;)


 

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(注1)古事記が日本書紀で隠された史実を暴露する暗号書であると分かったので、古事記の崩年干支から応神天皇の即位が293年と判明しています。詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)」をご参照ください。


(注2)大国主の父は倭国大乱で活躍した英雄日高彦ですが、スサノヲを殺して倭国王となった師升の子孫の伊都国男王難升米に討たれました。詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。

(注3)「記紀」では応神天皇の父は仲哀天皇とされているが、「日本書紀」の記事から計算すると仲哀天皇は父ヤマトタケルが薨去して38年後に生まれたという勘定になる。住吉大社の伝承では仲哀天皇のモガリに神功皇后と住吉大神が夫婦の密事を交わしたとあり、仲哀天皇が応神天皇の本当の父でないことを暴露している。関祐二さんは本当の父親は常に皇后に寄り添っていた武内宿禰ではないかとしている。武内宿禰は五代の天皇に仕えた三百歳の老人という設定になっているが、魏志倭人伝で狗奴国の官狗古智卑狗が狗奴国王卑弥弓呼よりも先に紹介された狗奴国王の臣下の中でも最重要人物であることから「記紀」の中で武内宿禰とされた人物だと推理した。詳しくは、「狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆」をご参照ください。

以下の図は上で示した三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況で判明した日本建国の戦いの史実が、日本書紀の崇神天皇の四道将軍の遠征から応神天皇即位までの約350年間の話として引き延ばされていたことが分かりました。また、大国主神話の国譲りとしていることも分かりました(詳細は「国譲り神話は都合の悪い史実を隠すためだった!」参照)。

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【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆






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弥生・古墳時代に引き継がれた縄文信仰の謎?(@_@)

2025-02-26 00:00:01 | 古代史

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【海外の反応】「世界的に比較しても日本がおかしいんだ」イギリス学者が長年の研究で発見した縄文時代の真実に世界中が絶句
JAPAN日本の力 @YouTube


@katumoku10
すばらしい情報をありがとうございます。

最後のストーンサークルの話ですが、ストーンサークルとしては知られていましたが、造成時代がほとんど知られていない、実は弥生時代後期から古墳時代初頭のものを発見しています。謎の日本古代史研究の中で得られました。

首長霊信仰のはじまり、つまり古墳時代の起源のような、人々の信仰心が大きく変化した時期に、縄文時代の天文観測目的ではない、更に発展した形態で、神秘的な現象の霊ライン(レイラインの作られた目的が霊に拠るもの)を発見しています。

もしもご興味がわけば、「米神山と佐田京石の秘密」・「【刮目天の古代史】霊ラインの謎?」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

(1)久々遅彦の霊ライン



ほとんどの方は気づいていないようですが、狗奴国は南九州ではありません。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱で活躍した狗奴国の官狗古智卑狗は、山陰から越を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を束ねる王久々遅彦(王の襲名、奴国宮廷楽師の師升に殺されたスサノヲ大王の子孫の出雲・豊後王国の王)です。久久比神社の本殿略記(右)に、「胸形(宗像)大明神と称され木の神久久遅命を奉斎した」とあります(^_-)-☆

米神山と佐田京石の秘密( ^)o(^ )

(クリックするとMapが現れますので、ご確認ください!)

巳年に因み大国主の住む米神山の話です!

米神山で大国主の化身にお会いする不思議な体験をしました(#^.^#)

(2)スサノヲの霊ライン

スサノヲ大王は丹後半島で奈具神社の末社で新羅明神として祀られていますが、倭国東北一千里のタバナ国出身の倭人と伝えられる新羅4代脱解王のモデルでした。丹後半島から豊岡市にかけてスサノヲとその子孫の出雲・丹後王が活躍した史実を隠すために、伊勢神宮外宮で祀られる豊受大神(内宮で祀られる天照皇太神大国主久々遅彦の妃の女王台与・神功皇后のモデル)をこの奈具神社の主祭神としていますが、地元のスサノヲ・大国主所縁の人々は末社「新羅神社」でしっかりと祀っていました。

古代史ロマンを壊すようで申し訳ないですが、丹後半島や列島各地の天女の羽衣伝説や列島各地の神社伝承なども史実を隠す目的で藤原氏が作った伝承だと推理しています。しかし地元の方々のご努力によって、摂社などで本当の祭神を祀り続けているようですよ(;^ω^)

日本の古代史の悲劇は、奴国王伊弉諾尊と縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊との政略結婚で生まれたスサノヲが奴国王となった後も、母方のムナカタ族と共に辰韓の鉄の支配(慶州市隍城洞遺跡)や丹後半島の玉造工房の整備(奈具岡遺跡など)などのために奴国の王宮(須玖遺跡群 春日市奴国の丘・熊野神社)を留守にすることが多く、そこで慣れ親しんだ縄文式のでかい銅鐸を奴国の伝統的な宮廷祭祀に持ち込もうとしたことによって、宮廷祭祀の楽師たちの反乱を招いたことが原因と推理しました(霊ラインの端点の豊岡市気比銅鐸出土地は気比大神スサノヲゆかりの土地でした)。

古事記にも、捕らえられた乱暴者の神スサノヲが八百万の神たちから拷問を受けて高天原から追放されたとあります。日本書紀でも奴国を儺県(なのあがた)として追儺(鬼やらい)があったことが示唆された地名になっています。スサノヲは日本の疫病神の元締めとして、平安時代から熊野信仰御霊信仰・祇園祭などが行われています。

古代から伝わる現代日本人の精神文化を深く理解するためには、残された大きな古代史の謎「霊ラインの秘密」の解明が必要なのですよ(^_-)-☆

【刮目天の古代史】霊ラインの謎?( ^)o(^ )


(左クリックでGoogle MapのMy Mapで見ることができます。そこからさらにGoogle Earthに飛ぶと3D地図になり楽しめます)

以下の二つの記事は現地を調査してきた話です。

【葦嶽山の秘密】能ある鷹は爪で指す?の巻!

【葦嶽山の秘密】多婆那国は丹波の奴国!の巻

もしもご興味がわけば、現地に行っていろいろと調査してレポートしてください。よろしくお願いいたします(#^.^#)

 

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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邪馬台国への道?( ^)o(^ )

2025-02-25 00:00:01 | 古代史

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#2024-09-26 19:24:26に公開しましたが、有難いことに、大きな反響がありました(#^.^#)

その内容を追加して本文末尾の【関連記事】に掲載しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)

 

第23回邪馬台国への道⑦伊都国と斯馬国1/3~水行十日陸行一月を詳しく解説!

 

いい解説をありがとうございます。

呼子が上陸地点だと、糸島方面へはそのまま船で行くのが合理的です。魏の船は威厳を保つために大型船が考えられます。長期に停泊するので博多湾に向かうはずです。そうすると陸行の記述と合いませんので、大型船の長期停泊可能な伊万里湾に入ったと考えられます。そこから陸路で唐津方面に出て、おっしゃるように背振山系の南から山越えして伊都国三雲遺跡に向ったと考えると、三雲遺跡から奴国まで東南百里とすれば伊万里から五百里という表現は比率的にあっています。

でも方角は伊万里からやはり北東です。90度狂っています。方角がなぜ狂っているのかは明らかです。

帯方郡から東南万二千里に女王の都の邪馬台国があって、魏のライバルの呉を東海上から圧迫する戦略上重要な位置にある戸数15万戸以上の大国としたいから東を南にするためなのですね。

後に、伊万里を起点に西側を北松浦半島、呼子側を東松浦半島と呼ぶようになっているので、白村江の敗戦ころに敵の地理感覚を混乱させるために魏志倭人伝に習って地名をつけたと推理しています。長崎県や佐賀県、大分県、山口県(北浦海岸)までそういう間違った方角の地名が散見されますね(^_-)-☆

魏志倭人伝は西晋の創業者司馬懿の功績を称揚するのが目的で書かれたものだと推理できますから、距離や戸数もかなり過大に書かれていると思います。不弥国から里数ではなく日数表記したのは得意の十倍水増しだと推理しています。ですから行程記事をそのまま解釈して、誰もが邪馬台国と納得する場所にはたどり着けないです。

ですから、邪馬台国の場所は考古学や民俗学成果から推理する以外にないのですが、決め手は径百余歩の急造りの冢(直径約150mの日本最大の円墳)と東側が海に面しているなどの条件ですね(^_-)-☆

邪馬台国の場所も卑弥呼の巨大円墳や卑弥呼に関わる遺跡・遺物や地名から特定していますが、詳しくは「刮目天の古代史 卑弥呼の墓は見つかってるよ!」や考古学・民俗学的根拠を示した「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

【関連記事】

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)

考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室は宗像三女神の降臨地の伝承がある安心院町三女神社と分かったので、逆に、どのようなトリックをしたのかを推理したのが以下の図です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった?」「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。

【参考記事】

北浦海岸の名前の謎、判明 2015-02-08 09:34:45 日本の歴史と日本人のルーツ

混一彊理歴代国都之図 2015-02-08 09:38:32 日本の歴史と日本人のルーツ

 

【関連記事】(2025.2.25 追加)

陳寿愛の漢籍のお師匠さんから当記事に以下の反論を去年の9月に寄せていただきました。

新・私の本棚 刮目天ブログ 「邪馬台国への道?( ^)o(^ )」1/2 追補

新・私の本棚 刮目天ブログ 「邪馬台国への道?( ^)o(^ )」 2/2 追補

折角、貴重なご意見を頂いたので、すぐにこれらの記事への反論を以下に掲載しています。

以下の反論を無視して、最近再びそのまま掲載されていましたのでここに載せておきます。

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発想の転換は「ちゃぶ台返し」ではないですヨ!(その1)

2024-09-29 14:37:39公開)

発想の転換は「ちゃぶ台返し」ではないですヨ!(その2)

2024-09-30 00:01:41公開)

 しかし、卑弥呼の墓「径百余歩の冢(ちょう)」を直径十歩つまり15mの円形墳墓と解釈されているのはお師匠さんくらいでしょう。短里で直径約25mと計算する方もいますが、ほとんどの研究者は直径百余歩、約150mの円形墳墓と正しく解釈しています。何故正しいと言えるかですが、文献に書かれた内容の物証「三柱山古墳」が見つかっているからですよ(;^ω^)

【邪馬台国問題】天才范曄に従うべし!( ^)o(^ )

5世紀の范曄がすでに解決していたのですよ。

邪馬台国問題が終わったら困るので、この事実を認めたくないというのは心情的に分かりますけど、

すでに300年も検討したのですから、いい加減にダタこねるのはもう終わりにしましょうよ(;^ω^)

「三柱山古墳」は卑弥呼の墓の有力な候補のひとつですので、もしも対抗馬が出てくれば、どれが卑弥呼の墓かの検討は、これからもやるべきでしょう。

そういう議論は続けるべきですよネ(#^.^#)

 

最後まで読んでいただき、感謝します。

通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)

初めての方は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!

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【刮目天の古代史】どうして日本の古代王墓に墓誌がない?(^_-)-☆

2025-02-24 00:00:03 | 古代史

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#2019-09-16 19:20:28に記事にしましたが。図や記事のリンクが切れていたので修復し、文中に赤字で追加しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

大和岩雄さんは「箸墓は卑弥呼の墓か」(大和書房、2004)で「魏志倭人伝」にある卑弥呼の墓は、247年の魏使張政の体験と行動から考えて比較的短期間に築造したものと判断し、10年から30年かけて作られた箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと意見を述べている(pp.49-51)。

また「日本書紀」に被葬者とあるヤマトトトビモモソヒメは、トトビ(鳥のように飛んで)モモソ(沢山の魂)を運ぶ高貴な血筋の巫女という普通名詞であるとしている。また巫女(シャーマン)を「祝(はふり)」というが、図に示すように鳥の羽を付けた三本指の巫女が描かれた土器などが唐古・鍵遺跡などで出土していることから、「羽振る」から来たと説明して、卑弥呼か台与であるとしている(pp.51-57)。



そして、築造年代が通説の250年代は卑弥呼の墓にしたいため無理やり持って行っているが、出土した布留0式期の土器から280年代と見るのが有力だと述べている。しかも大物主の妻であるので、夫のいない卑弥呼の墓ではなく、台与のものだいう結論なのだ(注1)(2025.2.23 赤字追加訂正)


「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」の記事の中で神功皇后台与が伊都国で戦死して埋葬されたとしたが、大和さんの説から考えると280年ごろに応神天皇が即位して、ヤマトで母台与を箸墓古墳に改葬したものと考えられるのだ(と書いたが、その後空白の世紀と倭の五王の謎(その1)で応神天皇は293年に即位したと考えているので、箸墓古墳はその後に数年かけて丁寧に造成したということになる)。従って、戦死した大国主ククチヒコが祇園山古墳(久留米市)に丁重に埋葬されたが、父のククチヒコも後で述べるが、桜井茶臼山古墳に改葬したのだと考えられる。地名が桜井市外山(トビ)で、その南側に宗像神社がある。トビはヘビ神大国主久々遅彦(魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗)を意味し、久々遅彦は豊岡市久久比神社の祭神久久遅命(くくちのみこと)で宗像大明神とも呼ばれていることが社伝にある(下図の右)。縄文海人ムナカタ族を束ねた王の襲名なのだ。古事記は神武東征神話でナガスネヒコの別名をトビヒコと暴露している。従って、以前に示したヤマト王権の成立過程の図を以下のように若干訂正したい。(2025.2.23 赤字追加訂正)



久久比神社の本殿略記(右)に、「胸形(宗像)大明神と称され木の神久久遅命を奉斎した」とある。(2025.2.23 赤字追加)



 





前回の記事「狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆」の中で(注4)を追加したが、ムナカタ族は列島出身の、縄文時代からの海人族で列島や半島だけでなく、長江河口やもっと南部の越人の地域まで活動して、蛇や鳥を神とする越の文化を取り入れたと思われる。紀元前4世紀に楚によって越が滅ぼされると越人の集団の一部が出雲方面に避難して伝えた可能性もある。米子市の角田遺跡に鳥の羽根飾りを付けて舟を漕ぐ羽人を描いた土器片が見つかっている。若狭湾東部の敦賀から北陸・新潟までの地名を越と呼ぶのも越人が入植したことを示すものと思われる。



「魏志倭人伝」に倭の風俗が海南島のものと同じと書かれている。しかし、「魏略」逸文では「倭人は太伯の後」つまり倭国の使者が大夫を自称し、倭国の王族が江南の呉王の末裔だということが書かれていたのだが、陳寿はその伝承を採用しなかった。卑弥呼の後に倭国を支配した大国主ククチヒコが越人の文化を取り入れていたことを魏使張政が報告したためということもあるかも知れない。

ちなみに、富来隆先生が蛇神はナーガやトビなどと呼ばれると指摘していた(「卑弥呼」学生社、1970,pp.68-113)。江南の呉人に由来する奴国王族や安曇族が開発した地名にナカ・ナガ・ナガラなどが見られる。一方トビヘビの鳥のように飛ぶ姿から越人あるいはムナカタ海人族が蛇をトビと呼んでいたので蛇神に纏わる地名などをトビ・トミなどと呼んでいたのだと考えられる。神武東征でニギハヤヒに殺された登美のナガスネヒコの話はニギハヤヒを祖とする崇神天皇卑弥弓呼王に大国主ククチヒコが殺されたことを暗示する話であり、出雲の富氏などは大国主久々遅彦を祖とする氏族であることを示している。そしてククチヒコが改葬されたと考えたのは桜井茶臼山古墳の場所が外山(トビ)という地名だったからなのだ。その北側の三輪山大神(おおみわ)神社の御祭神大物主大神(大国主大神の和魂)の化身が「へび」であり「巳(み)さん」と呼ばれている。(^_-)-☆

さて、表題の「どうして日本の古代王墓に墓誌がない?」だが、やはり建国の真相は物部氏主導の初期ヤマト政権にとっても西晋に対して不都合な事情があったし、八世紀に入って「日本書紀」を編纂する段階で藤原氏にとって建国の真相は極めて不都合であったので、ヤマトの王墓に正しい墓誌を入れることができなかったからではないだろうか。

日本の神道の特徴は、普通の宗教と異なり、教義を書いた経典もないし、勧誘もしないということもある。そして、一般に「言挙げせず」というのが相手の心を大事にする日本人の特性のひとつではあるのだが、その裏には建国の秘密を保持するための暗黙の了解だったということなのではないだろうか。つまり、朝廷に従うからには朝廷の指示を忠実に守らねばならない。その通達文が現在残っているわけではないのだが、各地の王墓にも墓誌は書き入れないというのが初期ヤマト王権からの習わしになったのではないだろうか?

それでも建国当時に活躍した秦氏や大伴氏など、特に没落させられた氏族はとても真相が隠されるのは不満なので、「古事記」や「万葉集」に真相を暴く暗号を埋め込んだということなのだろう。多人長が書いたと思われる古事記の序文の中で撰者とされた太 安万侶の墓誌が1979年に発見されている。人長は日本書紀の内容に沿いながら、所々で情報を追加しているが、この情報が
日本書紀が隠した史実に導く暗号になっていることが分かった(注2)。

多氏は神武天皇の皇子カムヤイミミを祖神としているが、神武天皇は応神天皇の史実を隠すために日本書紀が創作した応神天皇の虚像なので、多氏は応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ、宇治天皇)の末裔だと暗に主張しているようだ。多氏は代々史実を伝えて来た家系であるので、朝廷に逆らって太 安万侶の墓誌を残したとみられる。秦氏も同様で、秦河勝を祖とする日本の伝統芸能である「能楽(猿楽)」は日本書紀に隠された史実を伝えようとしているのだ(「秦氏と古事記の関係?」参照)。(2025.2.23 赤字追加訂正)

しかしいくら朝廷が隠しても、伝統的な日本人は神々の祟りが怖ろしいと考えているので、現代人から見ると祟られる方に問題があるということで、つい真相が垣間見られることになる。これも日本ならではの話でしょう。

しかしそういう天罰や神の祟りを畏れる気持ちがなくなると、日本人から確実に倫理観が失われることになり、日本人が日本人ではなくなる。これこそ本物の神の祟りなのかもしれない。

伝統的な日本人の道理・倫理観である教育勅語は復活すべきでしょう(;´Д`)

 

(注1)(2025.2.23 追加)

日本書紀では箸墓の被葬者を大国主の妻ヤマトトトビモモソヒメということにしていますが、この姫の名前が台与の史実を意味していました。

たった十三歳で妃にされ、最後はヤマトに滅ぼされたので、ヤマトとトビ(トビヒコは大国主・宗像明神の別名)を恨んでその名を何度も何度も唱える気の毒なお姫様(百襲姫)という意味だったのです。ちなみに台与は伊都国でヤマト勢に囲まれて、剣を振り回して抵抗したようです。ですから平原王墓で葬られて、その棺の上に素環頭太刀が置かれており、斧・鉞をもって活躍した女傑の神功皇后のモデルとされたのだと分かります(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。

(注2)(2025.2.23 追加)

古事記が暴露した主な史実は以下のとおりです。

(1)新唐書・宋史が記した王年代紀で示した初代奴国王天御中主を、日本書紀で高天原に最初に登場する神として古事記でも登場させ、日本書紀の神代七代前に五代の別天神を紹介することによって、神代の高天原の神々が、宋史王年代紀に記載した倭国を支配した奴国王のことだと示唆した(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)

(2)高天原を追放された乱暴者の神が、八百万の神々に髪の毛をむしられ、手足の爪を剥がされ、全財産を没収されて追放されたと書くことによって、107年に後漢に朝貢した倭の伊都国王師升が第十八代奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った史実を示唆した(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

(3)日本書紀の神武東征神話が真の初代応神天皇の即位の史実を誤魔化す話であることを示唆した。日本書紀で登場するナガスネヒコの別名をトビヒコと明かすことにより、トビヒコの正体の大国主がヤマトのニギハヤヒ大王の子孫に殺された後に大国主の祟りにより、大国主の子(応神天皇)が祭祀王として纏向遺跡に呼ばれてヤマト王権が成立した史実を示唆した(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。

(4)日本建国の主役であったスサノヲの子孫の出雲・丹後王三代の王八束命(出雲国風土記の神八束水臣津野命の略称)・日高彦(大国主高野御子の父)の正体を日本書紀は日向三代の神話で隠したことを示唆する神名を与えた。八束命は淤美豆奴神(オミズヌノカミ)とした。またその子日高彦(穂高彦)を天之冬衣神(アメノフユキヌ)としたが、冬の季語がホダ(木切れ)なので八束命と日高彦が木霊イタケルの子孫であることを暗示した(詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」参照)。

(5)空白の四世紀の謎を解明するためのヒントを与えた。仁徳天皇が、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ、宇治天皇)を暗殺して皇位を奪った史実や卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)の孫の菟道稚郎子の妹八田皇女と仁徳天皇の子住吉仲津彦(住吉天皇)が即位した後、異母兄弟たち(履中天皇・反正天皇)に暗殺された史実に加えて、倭の五王の系譜を示唆するために日本書紀と異なる崩年干支を記載した(「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その3)」参照)。これによって富雄丸山古墳の被葬者が判明した(詳細は「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」参照)。

(6)日本書紀が隠した天智天皇の真の系譜に気付かせるヒントを与えた。日本書紀が天智天皇の祖父とした押坂彦人大兄の妃糠手姫皇女(ヌカデヒメノヒメミコ)が、日本書紀が天智天皇の母とした宝皇女(タカラノヒメミコ、皇極・斉明天皇)と同じ名前の宝王(タカラノヒメミコ)だったことを明かすことで天智天皇(中大兄、中津王)の真の母が糠手姫皇女であったことを示唆した(詳細は「天智天皇とは何者だ?( その4 )」参照)。



【参考記事】
越と出雲&羽人はシャーマンか?・前編
越と出雲&羽人はシャーマンか?・後編

当時の丸木舟の絵に全て羽人が描かれているのではないので、比較的少数の越人の風俗だと考えている。何故なら現代男性のY染色体DNAの中で、(江南)倭人系(O-47z)が25.1%に対して越人系(O-M95)は1%未満だからだ。また、羽人がすべてシャーマンとは限らないが、卑弥呼や台与などのムナカタ海人族のシャーマンは羽人の格好をしていたことは確からしい。つまり縄文系海人族のムナカタ族が越人の文化を一部取り入れたということだと考えている。

【関連記事】(2025.2.23 追加)

言挙げしてはいけない古代史の秘密(;^ω^)

奈良時代から平安時代にかけて、朝廷は以下の四柱の神様だけ皇族に与える特別な位階の神階「品位(ほんい)」一品を差し上げているのです。

伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神・八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)

宇佐神宮の八幡神(大国主命)・比売大神(市杵島姫命・卑弥呼)、そして吉備都彦命とされて隠されたニギハヤヒとその父イザナギのこれら四柱にだけ最終的にすべて一品(いっぽん)をお贈りしていますので分かりました。大国主の子孫のヤマトの大王から皇位を奪ってしまったので、最も祟りを怖れる大国主大神を祀る出雲大社にはどなたも行幸して参拝できないのでしょう。代わりに本当は大国主である天照皇大神を伊勢神宮で丁重にお祀りしているのですよ。

日本の古代史の学術的な探求で分かったので、これらの秘密は決して、神社・仏閣に行って尋ねないでくださいネ!

葦原あしはら瑞穂みづほの国はかむながら言挙げせぬ国ですから(;^ω^)

 

日本人はもともと「和の精神」だった!(その1)(その2)(その3)

日本人の心と和の精神は日本人特有の素晴らしい文化です。それは1万年以上続いた縄文時代に列島で生きた縄文人と紀元前十世紀に日本に水田稲作を伝えた江南の倭人の混血したのが日本民族だったからなのです。倭人は人類の始祖神である中国神話の人面蛇体の天皇伏羲と泰皇(人皇)女媧の末裔で、夏王朝を建てた禹王の流れを汲む呉太伯の後裔の呉王の子孫の天御中主(あめのみなかぬし)を皇祖神とする天皇を戴く人々なのです。ですから日本民族の本当の神話は中国(なかつくに)神話だったのですよ。五千年の伝統を持つ現存する世界最古の王朝なので、不比等や人長が天皇陛下を「権力の無い君主」としたわけではないのですよ。


通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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【刮目天の古代史】蛇鈕の金印は奴国王を示す!(^_-)-☆

2025-02-23 00:00:01 | 古代史

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#范曄後漢書 倭伝に書かれた内容が史実だということを示す国宝金印ですが、ニセモノという説が横行して困ります。漢代金印の金の純度が95%ということは現代になっていくつかの金印が発見されて判明したのですから、間違いなく本物だと言えます。ニセモノと主張するのならば、河村哲夫先生が主張するように、江戸時代にすでに漢代の金印の純度が95%とわかっていて、金印作成を依頼したことが分かる確かな証拠が必要です(河村哲夫「第2回志賀島の金印論争と奴国その2)。

志賀島出土の金印は范曄後漢書の記述が正しいことを示す重要な物証なのです。

107年に後漢に朝貢した師升が下で示すように、奴国の宮廷楽師だという物証が125年と彫られた室見川銘板です(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)。57年と107年の倭国の朝貢は、文献と物証が一致しているので史実だと考えられます。以下の動画に、また金印の話題が出ていましたのでコメントしました。よろしければお付き合いください(#^.^#)

 

【金印】疑惑の出土?漢委奴国印の真実のストーリー

岡上佑の古代史研究室@YouTube

@katumoku10
いろいろ調べていただき有難うございます。

国宝金印が本物であることも、何故志賀島で発見されたかも分かっています。
伊都国の井原鑓溝王墓は帥升王のものだと推理しています。

シナ版wiki「帥姓」に「帥本姓師,避晉宣帝諱改帥氏」とあり、本当は師姓だったのを帥姓に書き換えさせたということです。師姓は「風俗通義」によると周王朝以前から宮廷祭祀の楽師の官位を表す姓だったのです。

また、通説では范曄後漢書の原本には倭面土国王師升とあったとされています。白鳥庫吉は魏志倭人伝の記述から男王は伊都国に居たので、面は回の俗字「」の誤写として 土(ウィト)国王師升が正しいとしました。


つまり師升は奴国の宮廷楽師だった人物で、反乱を起こし奴国王を殺して倭国を乗っ取って伊都国に王都を遷した人物ということになります。

殺された奴国王は宋史 王年代紀18代奴国王素戔嗚尊だったのです。記紀神話で暴れん坊の神として高天原を追放される話になっていますが、史実は師升らのクーデターだったのです。スサノヲが拷問されて全財産を奪われて追放されたと古事記は伝えています。古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だったのです。

高天原は奴国王が支配していた北部九州の倭国だったのです。

師升は金印を手に入れて奴国王に成りすます目的だったのですが、いち早くスサノヲの部下が金印を持ちだし、逃げる途中で志賀島に寄って土の中に隠したので、107年に160人ものスサノヲの部下を奴隷として後漢安帝に献上し倭国王に認められたのです。ですから金印は本物なのです。

そして日本書紀の中でも仲哀天皇四年に奴国を儺県(なのあがた)と記していますので、全部分かりました。儺は「追儺、鬼やらい」を意味します。土(ウィト)国を伊都国と書いて魏に教えた人物が景初三年(239年)に魏への朝貢のために帯方郡に行った倭大夫とされた難升米だったのです。難は儺のニンベンを省略した減筆だったのです。

つまり、師升が奴国王を追放した事績が殷(商)王朝初期の伝説の政治家伊尹(いいん)が放蕩者の王を追放した事績と一致することから、師升の王都を伊都国と書いて教えたのです。そして難升米は師升(儺升)王の子孫の本当の倭国王だったということです。米は「め」と呼んで頭目(かしら)の意味です。

卑弥呼は政治的に倭国の女王とされたムナカタ海人族の姫巫女です。

倭国の王都が伊都国では近すぎて都合が悪いので帯方郡から万二千里(洛陽から万七千里)にあって戦略的に重要な位置にある邪馬台国としたいためです。その他行程記事にある国名や人名(職名)などは全て難升米が書いて教えたと分かりました。そして、全て漢字に意味があることも分かりました。これによって邪馬台国問題は解決しました。詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

@岡上佑の古代史研究室
コメント有難うございます!  なかなか独特のお考えですが、金印は伊都国のもの、その点が共通しているなら面白いですね! 是非論考の参照にしていただければ嬉しいです。

@katumoku10
早速お返事をありがとうございます。

金印の印面は委奴国とあるので、イト国と解釈する説もありますが、申し訳ないですが

倭の奴(な)国というのが正しいことは、考古学の成果からも地名からも判明しています。

つまり、当時の日本で一番繁栄した場所が、比恵・那珂遺跡群です。奴国の時代に列島最大の交易センターがあり、列島各地の人々が品物を運んでここで取引していた大都会だったのです。最盛期は吉野ヶ里遺跡の4倍の広さになっています。奴国王は南の春日丘陵の須玖遺跡群に王都と青銅器製造の官営工場を置いて、奴国に集まる人々から税を徴収して、さらに伊都国には王族を派遣して楽浪郡などからの華僑との取引を任せて、隆盛になったのです。

三雲遺跡の番上地区から楽浪土器が集中して出土していますので、華僑を滞在させ、注文を聞いて奴国から仕入れて取引していたのです。だから、57年に後漢光武帝は華僑の権益を奴国王に保護してもらうために冊封体制に取り込んだのです。

奴はナーガ=龍蛇神を表す漢字で、中や長も同じ意味です。那珂、那賀、長柄、中山などはナーガ=龍蛇神を意味する地名です。

新唐書・宋史 日本伝にある初代奴国王は天御中主とあり、天はアメ・アマつまり海を意味し、ナーガを信奉する海人族(江南の倭人)の王という意味なのです。三雲南小路遺跡からガラス璧の破片が出土しており、奴国王墓須玖岡本遺跡D地区王墓からも出ており、周王朝の子爵の王標なのです(賀川光夫「再生鏡の配分と弥生後期の社会」別府大学 史学論叢22 1992 p.14) 。つまり奴国王も伊都国王も同じ出自、呉王族なのです。あと筑前町峯遺跡からもガラス璧が出ていますので、奴国王が筑紫平野の支配を任せた奴国の王族だったと推理しています。

そして、師升王のクーデターを逃れた奴国王族が出雲と吉備を根拠地として倭国と対立したのです。半島の情勢が混乱して楽浪郡との交易が衰退したので、出雲王の勢力が大野川沿岸から阿蘇山麓にかけて半島南部の鉄を持ち込み鉄製武器の製造コンビナートを作りました。さらに菊池川沿岸に前線基地(方保田東原遺跡など)を築いて山陰や畿内の兵士を呼び寄せて筑紫平野の倭国側の集落を攻撃して倭国王を苦しめました。倭国大乱を指揮したのが狗奴国の官狗古智卑狗です(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

吉備に根拠地を作ったのがヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王です。倉敷市楯築王墓の被葬者です。楯築神社のご神体が人面蛇体の亀石です。シナの神話の天皇伏羲と同じ人首蛇身だったので天皇のルーツとわかりました(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照)。纏向遺跡はニギハヤヒの子孫が王都としたので、難升米は旧奴国を狗奴国と呼んだのです。纏向遺跡にみられる弧帯文はナーガのデザインです。

出雲や吉備を中国地方と呼んでいますが、中国はナーガの国、「なかつくに」なのですよ(^^;)

ですから新唐書・宋史に「委奴国」ではなく日本は古(いにしえ)の倭の奴国と記されてますよ。

 

【関連記事】

【邪馬台国問題】女王卑弥呼は宗像女神?(@_@)

不弥国(ウミ国、つまり宗像市田熊遺跡群)で生まれた卑弥呼は、倭国大乱期は物騒でしたので、ヤマ国(宇佐市安心院町宮ノ原遺跡、三女神社)に疎開していたのです。ヤマ国を難升米は台(女王)の居たヤマ国という意味で邪馬台国と書いたのです。卑弥呼の居た三女神社を基にして、行程記事を水増しして書いたので、研究者が自分の思う場所を邪馬台国として、行程記事を解釈しても、他の人は納得できないので解決しなかったのです。ですから行程記事だけでは邪馬台国を見つけられないのです。卑弥呼の墓「径百余歩の冢(ちょう)」を探せば候補が見つかりますので、その他の条件を精査すれば邪馬台国がどこか分かるのです(^_-)-☆

投馬国へ水行してみませんか?

卑弥呼の墓の有力な候補が宇佐市安心院町「三柱山古墳」と分かりましたので、邪馬台国への行程記事のトリックが分かったのです。

魏の大型船が長期停泊可能な場所が末盧国の伊万里湾なので、上陸地点で方角を、北を東に変更し、不弥国まではほぼ正しい比率の距離になっています。そこから先を、呉の東の海上に邪馬台国を持っていきたいので、水行三十日・陸行ひと月としましたが、実際の日数の10倍に水増ししたようです。赤丸が宿泊を想定した場所を示しています。

最初の魏使梯儁(ていしゅん)は、出発前に帯方郡太守から伊都国で倭国王難升米に面会するように指示されていたので、伊都国より先へは行っていないと考えられます。二人目の魏使張政は、卑弥呼の死後の内戦が終わった後に、勝利者の大国主と女王台与と一緒に邪馬台国まで行って、卑弥呼の墓を確認したと考えられます。


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆

日本神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )

日本人の本当の神話は「中国(なかつくに)神話は日本人の神話だった?」にありますよ(^_-)-☆


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