刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)

2024-11-28 00:00:05 | 古代史

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#2020-03-05 11:37:36に記事にしましたが、最新の知見を追加します。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)

熊本県菊池市付近が狗奴国じゃないかとする説は、菊池の地名が「魏志倭人伝」に登場する狗奴国の官狗古智卑狗に因むものではないかということと、北部九州に邪馬台国があるのならその南に狗奴国が在るという記事からだと思う。また、菊池付近で鉄器が数多く見つかって、邪馬台国を圧迫する強大な軍事国家ではないかという推測から、この説を信じる方は多いのだと思う。

特に、従来から鉄の本格的な国内生産は6世紀ごろだと言われていたが、弥生時代後期後葉(3世紀後半)にすでに始まっていることが、広島県三原市の小丸遺跡に製鉄炉の跡の発見で知られるようになっている。菊池付近でも鉄を生産していたのではないかということのようだ。

これらはあくまで製鉄炉跡の確認をもって製鉄があったとみなしているのであって、直接法(注1)による場合は鉄塊を取り出す際に炉を破壊する必要があるため炉跡が残らないのが通常である。よって炉跡が発見されていないからといって製鉄がなかったということにはならない。むしろ各地の弥生時代後期以前の遺跡からは数多くの鉄器とともに製鉄段階で発生する鉄塊や銑鉄の鉄滓などが遺物として発見されていることから弥生後期以前より製鉄が行われていたと考えるほうが自然である。◆古代の製鉄 2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)より)

ということだが一方、「魏志 韓伝」に「弁辰の国々は鉄を産出し韓・濊・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。」という記事もある。(藤堂明保等「倭国伝」講談社学術文2010,p.92)

この記事は弥生後期前葉(1世紀)以降の半島南部(弁辰)のことだろう。この鉄は鉄鉱石を直接還元して得られる錬鉄の塊りであり、炭素量が銑鉄よりも少ない軟鉄であり、板状鉄製品として北部九州を経由して、西日本にもたらされている(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書、2015,p.209)。多分7世紀までの日本は、主としてこの半島南部の鉄資源を確保するために出兵してがんばっていたのだろう。

従って、すでに弥生後期には国内(備後・丹後など)で生産された鉄も一部にはあるが収量や質の問題があるから、主として半島からこの鉄素材を入手して列島内で鍛冶製鉄によって武器や農機具などの鉄器が造られていたと考えている。国産で十分に賄えていれば半島の鉄資源は不要だからだ。

そこで、鉄器が数多く発見されている阿蘇付近の狩場遺跡群の鉄器保有の様相を見ると、以下のとおりだ。
「九州北部でみられたような鉄鎌や鋤先などといった大型鉄刃農具の出土数は少なく、その多くが鉄鏃、次いで鉇(やりかんな)、摘鎌といった小型鉄器が主体となる。また阿蘇郡を中心とした阿蘇山麓周辺の弥生時代後期の大規模集落には、多量の鉄器、鉄片とともに鉄滓が頻繁にみられる。このため、当該地域では鉄器だけでなくその原料素材さえも生産していた可能性が指摘されている。北部九州に素材を頼らずに地域内で成品を加工した可能性もありえよう。」(野島永「弥生時代における鉄器保有の一様相」京都府埋蔵文化財論文集6、2010,p.45)



菊池の遺跡群方保田東原遺跡・うてな遺跡でも鉄鏃が大量に出土しており、筑紫平野を抱えた奴国のような食料を自給する国ではなく、主として鉄鏃などの武器を生産する軍事拠点であり、鉄素材や食料などを外部から供給していたと推理した。(2024.11.27 赤字追加)

それでも菊池付近が邪馬台国に対抗する狗奴国だと主張するならば、3世紀の後半に纏向ヤマトで誕生したヤマト王権について前回の検証で見たとおり(【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆)、北部九州から土器がほとんど運ばれていないことから考えて纏向ヤマトは邪馬台国ではないし、北部九州の邪馬台国が纏向ヤマトに東遷したのでもないことも考古学から分かる事実だから、それでは邪馬台国でも狗奴国でもない纏向ヤマトはいったい何者なのか、どういう経緯でヤマト王権が成立したかということが全く説明できない。

ということで、纏向遺跡が菊池の狗奴国(注3)を操っていた黒幕だというのは、鉄鏃が大量に出土した方保田東原遺跡から山陰や畿内の土器が出土しており、狗奴国王卑弥弓呼は纏向遺跡に居たと考える方が自然だろう。つまり菊池の遺跡群は纏向遺跡の狗奴国の出先の最前線軍事拠点で、狗奴国の官狗古智卑狗が指揮して北部九州の倭国と抗争していたと考えることができる。
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!で弥生後期後葉の第一次倭国大乱期の鉄鏃・銅続の出土状況を示したが、鉄の供給ルートを以下の図のとおりと推理した。(2024.11.27 赤字追加)



つまり、年齢的には、大国主の先代の狗古智卑狗だが(最後の奴国王スサノヲの子孫の出雲・丹後王の八束命・日高彦親子、豊岡市久久比神社の祭神久久遅彦は王の襲名、詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)、スサノヲ大王の時代からコネのある半島南部(弁辰)の製鉄場から鉄素材を仕入れて、備後(三次・庄原)や丹後半島の鍛冶炉で鉄製品を作り、吉備のニギハヤヒ大王やその直系の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(注2)に供給し、ヤマトの拠点集落の開発を行ったのだと考えている。同時に、阿蘇から菊池にかけて鉄鏃などの武器製造の集落(軍事拠点)を造り、北上して倭国の領土である筑紫平野を攻撃したのだろう。これが第一次倭国大乱だ。(2024.11.27 赤字追加)

上記のとおり恐らく、阿蘇・菊池付近でも一部は在地で製鉄炉を作り、砂鉄や褐鉄鉱を直接還元して鉄素材を供給していたのだと思うが、大量の鉄素材が必要なので半島からも板状鉄製品を供給したものと考えられる。倭国が師升一族の伊都国男王難升米(スサノヲ大王を殺した帥升の子孫の王の襲名)に支配されていたために「魏志倭人伝」にある壱岐・対馬経由のルートが使えないこともあり、ムナカタ海人族の助けを借りて沖ノ島ルート(海北道中ルート)を使って供給していたのだと推理した。大和朝廷が4世紀以降におこなった沖ノ島祭祀はこの頃のムナカタ海人族の貢献を称え、卑弥呼(イチキシマヒメ)の怨霊を抑えてもらうために行われているのだと思う(詳細は「【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 」参照)(2024.11.27 赤字追加)

【関連記事】

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)

奴国宮廷楽師帥升(正しくは師升)らの反乱を逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒが吉備の裏切り者を征伐して、吉備で奴国を再興した。ヤマト王権の基礎を築いて、宋史王年代紀に第19代奴国王天照大神尊とされている人物。今上天皇はその子孫と推理している(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?( ^)o(^ )」参照)。

 

【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!

日本の建国において最も活躍したのは、王として、列島各地に散らばって活動していた縄文海人ムナカタ族を束ねたスサノヲの子孫たちでした。日本書紀は神代の日向三代の神話などを創って徹底的に隠しましたが、考古学や民俗学などの成果から推理しました。(^_-)-☆

 

 





(注1)紀元前2000年頃のヒッタイトの遺跡から製錬された鉄が発見されている。ヒッタイトはこの鉄器によりオリエントを制したと言われているが、このときの製鉄法は塊錬鉄製鉄法であった。紀元前12世紀頃、ヒッタイトが滅亡するとこの製鉄技術が四方へ伝播し、紀元前9世紀には中国に伝わった。
 中国では伝来当初は塊錬鉄製鉄法であったが、華北地方では紀元前15世紀頃から始まった銅精錬と製陶技術を応用して鋳鉄製造が早くに始まった。当時の製陶においては1280℃の高温を得ることができたことから、1200℃を越える製錬温度で溶融銑鉄を製錬する間接製鉄法が発達した。春秋戦国時代には製錬炉で溶融銑鉄を撹拌脱炭して効率的に鋼ができるようになり、漢の時代には間接法による製鉄技術がほぼ完成されることとなる。
 一方、江南地方ではオリエントやインドからの伝播と思われる海綿鉄の直接製鉄法が発達したことにより、紀元前後(日本における弥生時代中期の終わり頃)、広大な中国大陸では華北では間接法、江南では直接法という具合に2つの製鉄法が並立することとなった。
◆古代の製鉄 2016年08月22日 | 古代日本国成立の物語(第一部)より)

(注2)卑弥呼がヒメミコからくるとしたらヒコミコの誤写で卑弓弥呼だったのではないかと考えられる。天照大神尊ニギハヤヒ大王直系の男子の皇子(ミコ)が王になっているということだと考えている。

(注3)第一次倭国大乱の時期では狗奴国の王都はニギハヤヒ大王の吉備の遺跡群(倉敷市上東遺跡など)にあった。楯築王墓はニギハヤヒ大王が被葬者だと推理している(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?(*^▽^*)」参照)。敵対する倭国が公孫氏などと交流して隆盛になったので、ニギハヤヒの直系の子孫卑弥弓呼王が播磨から河内に展開し、拠点を築いたと考えている。纏向遺跡は204年以降に卑弥呼が女王に共立され、半島南部から鉄素材が供給されなくなったので、その対応として卑弥弓呼王(記紀の開化天皇)が各地に散らばった旧奴国王族を結集するために纏向遺跡に政治都市を建設したと考えている。狗奴国の名称は倭国王難升米が旧奴国の蔑称として作ったと考えている。(2024.11.27 赤字追加)


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渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )

2024-11-27 00:00:02 | 古代史

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#2021-11-27 19:23:30に公開しましたが、図のリンクが切れていましたので修理し、その後の研究で藤原鎌足の正体も判明していますので、(注3)に記事のリンク先を追加しました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)


#2018-06-17 00:54:34の記事ですが、この話も重要なのですがあまり読まれていないので、注記を追加して再度アップします。実は、(注2)と(注3)に書きましたが、古代史を塗り替えるようなとんでもないことがわかりました。とりあえず、最後までどうぞ!

藤原鎌足は百済王子の豊璋? 関裕二説

藤原鎌足が百済王子余豊璋だという説は当時の状況を考えると、謎が説明できていいかなと考えてます( ^)o(^ )

でも、もしも百済王の出自が自称、高句麗と同じ北方アジア系とするならば、現代日本人男性のY染色体を調べると、C2はわずか3%です。

*東アジアの民族の父系のルーツを整理して図にしましたのでご覧ください。

クリックで精細な図になります( ^)o(^ )

 (詳しい解説は、日本民族とその周辺民族の父系のルーツ! を参照してください)

この3%は平安時代に貴族としてかなりの荘園を所有し、あれ程勢力を張った藤原氏にしては少なすぎると思いますね(^_-)-☆

そうすると百済は馬韓の伯済国から出たとする説もあり、馬韓人ならば現代コリアン男性の1/3の殷(商)人系の可能性があります(実は、倭人と近い。でも現代コリアン男性の4割はシナ人系O2です)。しかし、これも現代日本人の中に8.4%ですから、やはりこれもちょっと少なすぎるような気も少しします(注1)。

そうすると現代日本人に1/4も居る倭人系であると考えるといいかも知れません。つまり藤原氏は倭人系の渡来人か?( ^)o(^ )

前から考えてますが、半島からの渡来人と言っても、663年に白村江で敗れて完全撤退するまで半島南部は倭人の勢力が結構強かったので、渡来人=倭人の可能性があります。(注2)。

つまり、百済人とか新羅人などは、必ずしも異民族とは限らずそこに住んでいた倭人を指すかも知れません。加羅の人々も(ほとんど倭人か)、562年に大加羅が新羅に滅ぼされ新羅人と呼ばれた可能性があります(注3)。

また日本の越(コシ)も、紀元前4世紀に越(エツ)が楚に滅ぼされて越人が日本に着たのであれば0.8%しか現代日本人男性に居ないのも少なすぎかも知れません(多分越の王族かも( ^)o(^ )と書きましたが、言い伝えでは越の王族は呉と同じ夏人でしたので間違い)。

日本に来た越人の大半は、越に居た江南の呉人(=倭人)という中田力説が良いようです(「日本古代史を科学する」PHP新書、pp.129-138)。彼らは紀元前463年に越に滅ぼされた呉の人ですが、同じ水田稲作・漁労民族ですから江南に残留した呉の人たちです。ちなみに越を滅ぼした楚の人は文化の異なる異民族です(注4)。

渡来人に対する見方を考えていただく話でした(^_-)-☆

(注1)その程度なのかもしれません。
でも、ルーツが倭人系でないとしても、千年以上日本の風土の中で日本人として暮らせば、日本人であることは変わりないと思います。たとえ、特別な文化をずっと継承していたとしても日本国民として長い間暮らせば日本人の考え方になっていますから、今更異民族として扱う理由もないでしょう。そんなこと言ったら倭人だって縄文人とは違う異民族ってことになってしまいますから。

弥生人が渡来人だというのは間違いですよ(;一_一)

主に、水田稲作文化や金属文化などを日本列島に持ってきた倭人(江南の呉の人々)と、もとから居た縄文人、そしてこれらの人々の混血が、弥生時代に居た日本人であって、それが弥生人ですよ(^_-)-☆

日本の中にアイヌ民族とか琉球民族が存在するなどありえません。関西人や関東人や九州人などと同じように、アイヌ人も沖縄人も同じ縄文系をベースとする日本民族で日本国民ですよ。反日国家の謀略に引っかかると、悲劇しかないでしょう。

一方で、現代の日本に文化の違う異民族を移民として入れると、そこにコロニーが出来上がって、日本の中に別の社会ができ、最後は独立を主張することも考えられますので、これも悲劇を生む可能性が出てきます。やはり、民族はそれぞれ独自の文化を持っているわけですから、生まれ育った場所で国家を作り、一緒に暮らすのが安心できると思いますね。(^_-)-☆

(注2)新羅については、仏教の伝来を調べていて分かりましたが、新羅ではもともと龍神(ナーガ)を祀っていたとありましたから、間違いなく倭人(江南の呉人)でした(崔琮錫「弥勒信仰の新羅的受容と変容」東アジア仏教学術論集2017-01、p.201)。倭人は弁韓・辰韓にも居ましたので、渡来系の新羅人は、列島に戻って来た倭人ということです。筑前・豊前から豊後にかけて奴国大王スサノヲ(龍王、第四代脱解王のモデル)の子孫たちや縄文系ムナカタ海人族卑弥呼と関わりのある倭人の子孫が住み着いたようです。宇佐地方で辛嶋氏が祀っていた原八幡神は宗像女神卑弥呼です。

(注3)これも驚きの事実ですが、百済には二つあり、最初の百済は遼西(現在の河北省の一部と遼寧省の一部)に居り、伝説どおり、高句麗と同じツングース系扶余族でかなり強国で楽浪郡まで支配しました。しかし、六世紀初頭に滅び、馬韓の伯済国が百済を名乗ります。「日本書紀」で百済としたようですよ(坂田隆「古代の韓と日本」新泉社1996)。好太王碑(こうたいおうひ)では四世紀末ですから高句麗が討った楽浪郡の百済の残党という意味で百残と書かれています。その後の百済からの渡来人は倭人です。また後で詳しく説明したいと思っていますが、やっぱり、不比等は藤原氏の出自(伯済国の王族)を隠すのも大きな目的のひとつでした(詳細は「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」・天智天皇とは何者だ?( その4 )参照)-☆

(注4)楚の成立(Wiki「楚(春秋)」より)
楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説がある。楚の成立に関してはさまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない。
北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の中国では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。



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「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?(;^ω^)

2024-11-26 00:01:55 | 古代史

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【ゆっくり解説】創建以来天皇が出雲大社本殿に入ることができない衝撃の理由がヤバい…【総集編 歴史 古代史 ミステリー】
古代史研究室【ゆっくり解説 歴史 ミステリー】@YouTube

@katumoku10
古代史が謎だらけなのを多くの皆さんはロマンと思っているようですが、身近な話を考えてみればすぐに気づきます。あいつが言っていることは物証がないということならば、アイツは嘘ついていると直ぐに気づきます。ところが古代史は、現存する最古の歴史書「古事記」も正史「日本書紀」も「天皇の歴史書」という刷り込みがあるので、事実、つまり考古学や民俗学などの成果と文献が異なっていても、何らかの事実が書かれているはずだと、何となく思っているようです!(*´Д`)

そうなんですよ。日本書紀は天武天皇が編纂を命じたのですが、何と崩御34年後に完成しているのです。当時の権力者は藤原不比等だったのです。藤原氏にとって都合の悪い三世紀までの建国時代の史実を神話にして誤魔化して、人代もかなり改ざんしていることが事実から分かっているのですよ(詳細は「ほとんどの日本人が知らない?記紀神話と天皇」参照)

先に完成したとされる古事記ですが、実は九世紀の学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたものなのです。正史に記録はありませんし、日本書紀が参照した形跡もないのですよ。日本書紀が隠した史実を暴露する暗号書だったのです。この暗号を解けば空白の150年に隠された二人の天皇が判明し、富雄丸山古墳の被葬者も分かりました。また、倭の五王の系譜も分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)。

古事記は平安時代中期の摂関政治になる前まで7回ほど行われた日本書紀の勉強会「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」でサブテキストとして使われたようですが、その後はほとんど読まれず、祭祀関係の氏族が細々と伝えていたのです。それを江戸時代の国学者本居宣長が発掘して絶賛したのです。その影響を受けた神道家平田篤胤が記紀神話に基づく復古神道を唱え、それが幕末の勤王の志士らに人気になりました。明治になって、それまで日本書紀の神話が神仏習合、修験道などの影響を受けたナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀という神話に変貌していたのですが(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(角川選書)参照)、神仏分離令がでて、全国で廃仏毀釈運動が起こったのです。神様を祀っている仏教寺院が打ちこわしに遭い、僧侶は無理やり還俗させられる暴力的なもので、日本版文化大革命だったのです。後に、フェノロサなどの活躍で寺院が復活されるようになったので今のような形になっているのです。そして、記紀神話に基づく国家神道が創設されて、学校で国史が教育されたので戦後の日本人も記紀神話が日本古来からの伝承だと洗脳されているのですよ(;^ω^)

それに気づけば話は簡単で、事実に基づかない神話や歴史が何のために作られたのか不比等の意図を推理すると、古代史の真相が解明できますよ。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史を推理する」をご参照ください。

例えば、日向から出発して大和で即位した神武東征神話は史実を誤魔化すためなのです。ヤマト王権が成立した三世紀の奈良盆地には戦乱の痕跡はありません。逆に、ヤマトから九州や日本各地に遠征した崇神天皇の四道将軍のルートから戦跡を見つけました。同時に景行天皇の九州遠征についてもそのルート上で戦闘があったことが、同様に、鉄鏃・銅鏃の出土状況から分かりました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。日本書紀が三世紀の日本建国の戦いを崇神天皇から景行天皇の約150年の話に引き延ばして誤魔化したのです。


(詳細は「国譲り神話の史実は?」参照)

 

そして三世紀末から全国的に前方後円墳が作られるようになりますので、崇神天皇が日本を統一してヤマト王権を成立させたと分かります。崇神天皇紀には大国主の祟りで半数の国民が死ぬことになったので、大国主の子オオタタネコを探して祀らせたら国は収まったという話になっています。これが初代ヤマトの祭祀王応神天皇の史実だったのです。応神天皇の本当の父は大国主だったのですよ。そして纏向遺跡をヤマト(邪馬台国)と呼んだのです(詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」参照)。

だから崇神天皇の末裔の天皇は祟りが怖ろしいので、出雲大社には行幸して参拝できないのです。

これらを解明する過程で卑弥呼の正体が宗像女神市杵島姫で、卑弥呼の径百余歩の冢が宇佐市安心院町「三柱山古墳」と分かりました。

よろしければ「刮目天の古代史」をご参照ください。どうも、お邪魔しました(;^ω^)

 

【関連記事】

言挙げしてはいけない古代史の秘密(;^ω^)

奈良時代から平安時代にかけて、朝廷は以下の四柱の神様だけ皇族に与える特別な位階の神階「品位(ほんい)」一品を差し上げているのです。

伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神・八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)

宇佐神宮の八幡神(大国主命)・比売大神(市杵島姫命・卑弥呼)、そして吉備都彦命とされて隠されたニギハヤヒとその父イザナギのこれら四柱にだけ最終的にすべて一品(いっぽん)をお贈りしていますので分かりました。大国主の子孫のヤマトの大王から皇位を奪ってしまったので、最も祟りを怖れる大国主大神を祀る出雲大社にはどなたも行幸して参拝できないのでしょう。代わりに本当は大国主である天照皇大神を伊勢神宮で丁重にお祀りしているのですよ。

日本の古代史の学術的な探求で分かったので、これらの秘密は決して、神社・仏閣に行って尋ねないでくださいネ!葦原あしはら瑞穂みづほの国はかむながら言挙げせぬ国ですから(;^ω^)

隠された倭王と創作された継体天皇?

隋書 倭国伝」に登場する俀王姓阿毎字多利思北孤(倭王アメノタリシヒコ)が日本の現存する最古の歴史書「古事記」と正史「日本書紀」では推古天皇(第33代、在位593年ー628年)の時代とされています。記紀が「天皇の歴史書」だと思わされているいろいろな方が様々な天才的な発想でつじつま合わせの仮説を立てるだけで、ほとんど検証されていません。事実による検証をしっかりと行わないので、日本の古代史は仮説のジャングルの中で迷子になっていたのです。

藤原不比等が日本書紀の中で不都合な史実を隠ぺいし、そのために歴史を改ざんしたことに気付けば、仮説を考古学や民俗学などの成果で検証する科学的な方法「アブダクション」によって、真相に近づくことができるのです(;^ω^)

 

奴国は龍蛇神(ナーガ)国のことですよ~(#^.^#)

「日本書紀」について、最近の歴史学会では津田左右吉の成果からかなり研究が進んだようですが、やはり根底には「天皇の歴史書」だという思い込みがあるので、真相にまでは到達できなかったのだと思います。吉田一彦「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書 2016年)は不比等の呪縛から目覚めさせてくれるもので、これまでの研究者の考え方の問題がよくわかる、とても参考になる本です。





【後記】

古代史界隈に「古代妄想」というちょっと過激に聞こえるギャグを入れたましたが、妄想を逆手に取って開き直る方も居たり、ご不快に感じる方が居るかと思いますので、ここでちょっと言い訳です(;^ω^)

事実に基づく想像は、科学的な探求において推論とか推理という正しい方法です。しかし人間は空想する生き物なんです。空想は事実に基づかない想像のことです。普通は、本人も空想かも知れないと自覚していますが、空想に凝り固まって反証を受け付けない信念になると妄想という精神医学上の症状ということですネ(*´Д`)

古代史探求に嵌っている多くの方は、事実に基づかない「空想」を仮説にしたままで、数多くの事実で仮説を検証しようとしないようです。都合の悪い反証も無視するようですので「古代妄想」ということなのです。以前に、ある著名な古代史研究家のブログで、その点を指摘しても、「検証は後世に行われるハズだ」と自信満々だったので驚きました(#^.^#)

歴史あるいは歴史学という学問は人文科学の範疇ですので、科学の手法に従う必要があります。なぜならば、科学の手法による結果は偏見のない多くの方が納得行くものですので、定説として認められやすいからなのです。その仮説は「科学的な信念」になり(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」参照)、教科書にも載るような定説になります。これが科学的な探求の目標です。

しかし、定説となっても、それを導く過程で何らかの見落としやミスを犯していたかもしれないのです。ですから、定説となったその仮説も、常に新たな事実によって検証を受け続ける宿命なのです。定説が覆されることがあるのは、科学の世界では常識ですから。人間は神様ではないという証です。大国主のように死んでから神様になる人間は居ますが(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

もしも何か疑問点が生じましたら遠慮なくコメントしてくださいネ(^_-)-☆        


最後まで読んでいただき、感謝します。
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」にアブダクショを説明していますので、是非ご参照ください!
よろしければ、 を何度でもいいですから、思いっきり押してください。


「邪馬台国はどこか?」へコメント(その2)

2024-11-25 00:00:03 | 古代史

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#つづいて以下のコメントも刮目天説への反論となる重要な意見ですので、それに対して下のようなコメントをしました。2019-07-30 00:09:14に公開しましたが(その1)の改定に伴い、こちらも改訂しました。よろしければ、またお付き合いください(#^.^#)


日向人 | 2019年6月2日 at 9:34 AM REPLY
ニギハヤヒとは大物主ノ神のことです。出雲出身の神様です。



刮目天 | 2019年7月29日 at 12:46 AM REPLY ↓ Your comment is awaiting moderation.
「日本書紀」によれば神武東征の前にすでに大和と河内の境の生駒山に降臨していた天孫族ニギハヤヒですが、三輪山の大物主大神(出雲の大国主命)とは全く別人ですよ。親戚ですが( ^)o(^ )

謡曲「三輪」にある
「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや! 」

本当の伊勢の神「天照皇太神」はニギハヤヒではなく、初代ヤマトの祭祀王応神天皇の本当の父大国主命なのです。下の図「日本建国に関わる人々の系譜」に示した日本建国の主役なのです(「
能楽が建国の真相を伝える?」参照)(2024.11.25 赤字改訂)

ニギハヤヒは「王年代紀」(『宋史』に記載)の第19代(奴国)王天照大神尊で、107年に後漢に朝貢した帥升(正しくは師升)らのクーデターで殺害された先代の素戔嗚尊の弟と推理しました。

ニギハヤヒは吉備を平定して旧奴国(狗奴国)を再興した始祖王として楯築王墓に葬られていることを発見しました。実は楯築神社の御神体の亀石はニギハヤヒの顔でした。亀石は人面蛇体となっており、これは中国の神話の天皇「伏義」と同一だということから分かります。つまりヤマトの大王が天皇と呼称される理由が発見されたわけです(詳細は「【刮目天の古代史】天皇の称号の起源?」参照)

「魏略」にある「倭人は太伯の後」という記述を裏付けるものです。つまり太伯は周の先王の長男で、周は殷(商)によって滅ぼされた中国最初の夏王朝の流れの姫氏です。夏王朝の始祖王「禹」は伝説の天皇「伏義」の末裔です。脳科学者中田力さんによれば原始夏人のY染色体ハプロタイプO1aだそうです(「日本古代史を科学する」PHP新書)。もしもこの伝承が正しければ天皇陛下も同じハプロタイプということになります。しかし、四千年という気の遠くなるような長い年月の間に不遇の時代も何度かあったはずですので、例えば別の有力者の家系から養子に迎えるなどで別のハプロタイプ(例えば倭人系O-47zあるいは縄文人系D-M55など)に変わった可能性があります。しかし、重要なことは日本国民の統合の象徴となる天皇の伝統・文化を継承していることなのです。(2024.11.23 赤字改訂)

紀元前473年春秋の呉が滅んで、江南から逃亡した呉王族である初代奴国王の天御中主が半島南部を経由して福岡の早良平野にたどり着きましたが、もしも別のハプロタイプに変わっていても今の天皇陛下は第17代王伊弉諾尊の王子ニギハヤヒ(第19代天照大神尊)の末裔であると考えられます。大物主大神(大国主高野御子)は同じく伊弉諾尊の子スサノヲの直系の子孫で「魏志倭人伝」に登場する狗古智卑狗(久々遅彦)のことですよ。(2024.11.23 赤字改訂)

アマテラス女神は「日本書紀」が創作した偽の皇祖神であって、持統天皇が天武天皇の優秀な皇子たちを排除して皇位を奪って孫の文武天皇を即位させたことの正統性を主張するために、天照大神尊ニギハヤヒを女神にすり替えたのです。「日本書紀」編纂時の権力者藤原不比等は物部氏による日本建国の真相を隠ぺいするためにニギハヤヒを祖とする物部氏が吉備から河内・大和に遷ってきたことも隠しました。

「日本書紀」に沿った内容の神社伝承などは藤原氏におもねったもので、同一神の名前をいくつも変えて粉飾していますので、ほとんど信ぴょう性はないと思います。しかし平安時代くらいまで多くの人は真相を知っていた模様です。最初の謡曲「三輪」がいつ頃成立したか不明ですが、もしも基になるものが平安時代にあったのであれば、藤原氏におもねったふりして真相を暴露しようとする内容とも取れますよ(^_-)-☆

最近の研究で万葉集の真の目的も「日本書紀」のウソを暴露するためであったことを、研究家の渡辺康則さんが精密に論証しています(「
万葉集があばく 捏造された天皇・天智〈上〉・〈下〉」・「聖徳太子は天皇だった」大空出版)。古代史人気作家の関裕二さんが最初に「日本書紀」のトリックを暴いていますので、彼の多数の著書からヒントを沢山いただきました(たとえば「万葉集に隠された古代史の真実」 PHP文庫、「古代史の正体」新潮新書など)。

ですからむしろ記紀に矛盾する内容の伝承などに真実が隠されている可能性があります。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。

【関連記事】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




隠された倭王と創作された継体天皇?


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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「邪馬台国はどこか?」へコメント(その1)

2024-11-24 00:42:16 | 古代史

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#2019-07-29 01:23:03に記事にしましたが、少し見直して改訂しました。よろしければお付き合いください。

 続倭人伝 邪馬台国はどこか?
この記事の目次

魏志倭人伝の里数と日程
近畿説「大宮殿が発見された纒向遺跡」
九州説で主張される主な7つの根拠
女王がいた「伊都国」最大の銅鏡が出土
九州王朝説「倭の五王は九州にあり」
熊本は狗奴国か?それとも、、、
出雲説「オオクニヌシの国こそが邪馬台国」
吉備王国こそが邪馬台国
邪馬台国発見のカギは?
邪馬台国関連記事
読者からのコメント

刮目天 一(はじめ) | 2019年2月6日 at 7:12 PM REPLY ↓
多くの有用な情報をありがとうございます。
邪馬台国の位置問題を「魏志倭人伝」だけで解決するのは無理だという証明が皆さんによってなされたと思います。何故なら、「魏志倭人伝」はこてこての政治文書ですから、邪馬台国への行程記事は置きたい場所に置くためのつじつま合わせです。倭国の政治の実権を握っていた伊都国男王の策略だったのですが、魏の実力者司馬懿や部下の帯方郡太守らの事情や陳寿の作成目的を考えずに、いくら自説に都合の良い解釈しても真実から離れるばかりでしょう(^_-)-☆
実は、女王国に対する政治的思惑のない范曄が「後漢書 東夷列伝倭人の条」に残した「自女王国東度海千餘里至狗奴國」(女王国から東に海を渡ると千里余り=約450kmで狗奴国に至る)という記述を信じると、後は考古学などによって狗奴国を特定すれば、全ての謎が氷解しますよ(*^▽^*)
「正史」は「かくあるべし」の理念で書かれた編纂当時の権力者にとって都合の良い歴史でしかなく、不都合な事実は隠ぺいされて真相は抹殺されているという真理に気付けば、何が事実でどこがウソかを科学的に推理して全て解決ですよ(*^▽^*)
詳しくは刮目天の古代史にどうぞ!

匿名 | 2019年3月6日 at 9:56 AM REPLY ↓
次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…

漢書で「百余国」とあり、それを受けて三国志東夷伝で「旧百余国。今使訳通ずる処三十国」とあるわけで
混乱期の短命王朝であった魏が、同じく「大いに乱れ」た倭の全ての国と通商関係を結べていなかったというのが自然な読み方だと思われます。
では残り70国はどこにあるのか、が問題になるかと思うのですが、これは「使訳通ずる処」の更に向こうであるのがわかります。
つまり魏から見た場合一大国から近場の辺り、女王国に服属しているらしい範囲が外交圏で、そこから外についてはせいぜい、当時の女王国の主敵である「狗奴国」が出てくるくらいで全く不明。
これは変な気もしますが、陳寿さんの立場とすれば前王朝の残した数十年前の外交資料をひっくり返して、そこに書いてあることを要約しているわけですから、仕方がないのかもしれません。
なお、例えば女王国の首府が畿内にあり、一大国=壱岐から畿内までを丸々版図としていたとすれば、前漢の時代に確認されていた70余ヵ国はその更に外側、関東や北陸、九州南部ということになります。
女王国は九州にあり、版図自体も九州の一部から大部分だったとした方が、単純な数量的には妥当な気がしますが、断定はできないですね。


刮目天 | 2019年7月28日 at 11:00 PM REPLY ↓ Your comment is awaiting moderation.
>次第に謀略史観じみた説が開陳されてカオスな感じに…

カオスになっているのは本当ですが、その理由は簡単ですよ(^_-)-☆
魏の実力者司馬懿は自分の功績を曹魏第一等のものにして実権を握るために、卑弥呼を東夷の大国の倭国女王ということにして、女王の都とする邪馬台国が呉を圧迫する会稽郡東冶県の東の海上に在ったことにしたかったのです。倭大夫難升米、実は本当の倭国王と司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏が談合して、邪馬台国へのデタラメな行程記事が作られ、その後倭に送った魏使梯儁の報告書に記録させたのです。その報告書をそのまま陳寿が魏志倭人伝に撰述したからです。多くの研究者が、それに気づかずに、自説の都合の良いように行程記事を解釈し、ほとんど自説に不都合な記述は説明抜きで無視したからなのです(;一_一)(2024.11.23 赤字修正)




匿名の方に反論するのもどうかと考えましたが、陰謀史観という一言で取るに足らない荒唐無稽な説のように誹謗したので一応反論しておきますね( ^)o(^ )

ご自分で陰謀史観と言っておきながら「陳寿さんの立場とすれば」と書き、それでいて陳寿の立場がどういうものか、編纂の真の目的も理解していないようなので簡単に説明しておきます(^◇^)

陳寿は当時の西晋の実力者である張華に引き立ててもらった人物で、張華の顔を立てるために「三国志」を編纂したのですが、一番書きたかったのが西晋の宣帝(魏の司馬懿)の功績を持ち上げるための「魏志倭人伝」だったのです。倭国は239年(景初三年が正しい)に大夫難升米らを使者として帯方郡に送りましたが、魏からの返礼が親魏倭王の金印紫綬などであり、当時皇帝の補佐役だった司馬懿が書かせた詔勅の全文が「魏志倭人伝」に書かれているから熱の入れ方が分かります。「三国志」を正史にしたのは張華の力だったと、このあたりの事情は東洋史家の岡田英弘さんの「日本史の誕生」(弓立舎)に詳しいですので、是非お読みください。(2024.11.24 赤字修正)

陳寿は倭国のことを二人の魏使の報告書に基づき書いているのですが、倭人の風俗は海南島あたりの越人のものと変わらないとしているのは、邪馬台国のあるべき位置を強調するためだと推理できます。さらに、実際の邪馬台国の位置と違う位置に置いた発案者は、魏を後ろ盾にして敵対勢力を抑えたい伊都国の男王だと推理しました。互いに敵対するどういう勢力が女王を共立して和解したのかも説得力のある説はいまだに出ていませんが、卑弥呼は権力を持った女王ではなく、巫女(シャーマン)であって、太陽神のお告げによって実権を持つ男王(=男弟)が政治を行う形態で、シナの目を引くために卑弥呼を女王だと記載したものと推理しています。その他、通説には誤解が幾つかありますが、「日本は古の倭の奴国」という「新唐書」・「宋史」の記述を仮説として、科学的に推論を重ねて日本建国の真相を明らかにしました。もちろん邪馬台国の真の場所も卑弥呼の墓も発見しました。詳しくは拙ブログでどうぞ。

繰り返しますが、科学文献ではない古代の正史に隠された真の編纂目的を考えずに、いくら文章を解釈しても正解にはたどり着けないですよ。これは「日本書紀」なども同様ですが、普通の権力者はその権力の正統性を主張し、将来に渡って子孫が権力を維持するために正史を編纂する訳ですから、不都合な真実は隠ぺいし、歴史を改ざんし、真実に基づいた内容も歪曲されるものと考えない方がどうかしてますね(-_-)/~~~ピシー!ピシー!

編纂の真の目的を推理し、考古学や民俗学や正史に矛盾する伝承などを頼りに記述の真偽を判定する検証と推論によって、ようやく真相が解明されるのですよ(^_-)-☆

(その2)につづく(翌日に改訂したものを公開予定)

【関連記事】以下の記事にもう少し詳しく説明してありますので、よろしければどうぞ(#^.^#)

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ

卑弥呼は縄文海人の祝女(はふりめ)か?


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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