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【ほとんどの日本人が知らない】建国の本当の英雄?( ^)o(^ )

2025-03-05 22:56:39 | 古代史

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#多くの皆さんは表題からヤマトタケル(日本武尊)を思い浮かべると思います。でも、ヤマトタケルの武勇伝は日本書紀で創作された物語です。本当の英雄をモデルにしていますので、その話をしましょう(#^.^#)

下図は卑弥呼の死の直前の状況ですが、それは死の直後の話から始まります。狗奴国の実力者で、狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)と同族のニギハヤヒ大王の子アメノカグヤマの子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、記紀の仲哀天皇)が率いる狗奴国軍が倭国(奴国)に到着すると、倭国の実力者で卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主、和邇氏の祖)が姉の死を知って戦意喪失したので、倭国王難升米(帥升の子孫)は逃亡します。無傷で倭国を手に入れた乎止与命は捕らえた魏使張政の甘言で倭国王に立ったのです。奴国王スサノヲを殺して倭国を奪った帥升の子孫から奪い返したので、狗奴国王を裏切って倭国王に立ったと推理しました。

それに不服だった副将として参加した、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦(王の襲名、豊岡市久久比神社祭神、スサノヲの子孫高野御子)が反発し、従兄弟だった赤坂比古はかつての主筋の久々遅彦に加勢して、乎止与命を討ちました。狗奴国の実力者の尾張王を倒したことで、狗奴国王から処分されるのを怖れて、また、捕らえた張政の進言を受けて、卑弥呼の宗女で13歳の台与(近江・越を根拠地とするムナカタ族息長氏の祖息長宿禰王・神話の少彦名命の姫)を女王に立てて魏を後ろ盾にして狗奴国王を裏切ります。久々遅彦は楽浪郡・帯方郡と交易を開始し、半島南部の鉄資源も独占して隆盛になりました。当時の最先端技術の高温鍛冶技術を傘下に惜しげもなく与えたので吉備から畿内と東海の狗奴国勢以外は久々遅彦に従いました。久々遅彦は記紀神話で大国主と呼ばれました。

 

大国主の裏切りによって狗奴国は劣勢に立たされて、倭国に呑み込まれる寸前でした。大国主への恨みを晴らすために、丹後半島から山陰までの無防備な大国主側の集落を襲いました。鳥取市青谷上寺地遺跡では老人や女性、赤ん坊まで100人くらい無差別殺人をしています(通説では弥生後期としていますが、古墳時代初頭270年頃の事件です。詳細は「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`)」参照)

大国主は高良山に立派な居城を作り倭国を支配していたので、父を殺された尾張王建稲種命は仇討ちを決行しました。その話が日本書紀で景行天皇の九州遠征の話になって詳細に語られていますので、物証となる鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、ほぼ景行天皇のルート上で戦の跡を発見しました(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)」参照)。

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山口県防府市から福岡県東部に入り、当初福岡市を目指したと思われますが、守りが厳しいので、大分県の方に南下し、大野川流域で激戦の末にほぼ半数の兵力を失い、宮崎県に落ち延び新富町川床遺跡で兵士を葬ったと推理しています。

円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。tonomuraのブログ より)

44基の周溝墓は将校のもの、149基の土壙墓は兵卒のもので、合計193基です。周溝墓ですから、様式は恐らく北九州のものではなく畿内のものと考えられますので、尾張勢だけではなく畿内勢(後の物部氏)も併せて恐らく四・五百人の軍勢だったのが半減させられたのではないかと見ています。そして南九州で増援を待って、恐らく1年後に再び熊本県南部から攻め上ったようです。

苦難の末に、油断していた大国主を久留米市高良山で討ち取ったと推理しています。大国主は高良山の西麓の久留米市祇園山古墳に葬られたと考えています(詳細は「大国主の墓はここ!(^_-)-☆」参照)。初期の神籠石は大国主のものでしょう(詳細は「「神籠石は最初に誰が作った?( ^)o(^ ) 」」参照)。また、鳥栖市安永田遺跡を根拠地とした赤坂比古も討たれて、卑弥呼の墓に次ぐ大きさの直径約140mの円墳(鳥栖市愛宕神社古墳)に葬られたと推理しています。

吉野ケ里遺跡の謎の石棺は息長宿禰王(少彦名命)のものですが(詳細は「【吉野ヶ里遺跡】少彦名命の正体?(#^.^#)」参照)、この時に尾張勢に討たれたのかははっきりしません。

女王台与は伊都国で辰砂の取引など対外交易を担当していたようです。この地で物部勢に包囲されて、剣を振り回して抵抗したので、葬られた糸島市平原王墓の棺の上に素環頭大刀が一振り置かれています。この史実から男勝りの女傑の神功皇后のイメージができたようです(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆」参照)。

大国主と台与と赤坂比古を討って、見事に仇討ちを成功させた尾張王建稲種命は、九州の支配を物部勢に任せて、纏向遺跡に凱旋したようです。そこで狗奴国王から大国主の傘下を平定するように命令されました。早速、東海道から遠征する途中の駿河で戦になり流れ矢に当たって戦死したと推理しています。伝承ではヤマトタケルの副将として参戦し、帰る途中で駿河湾で水死したとあります。沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しています。詳しくは「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」をご参照ください。

この後は尾張王尾綱根命が父の遺志を継いで物部勢と一緒に遠征し、大国主の傘下を平定したようです。記紀で崇神天皇の四道将軍の話となっています。そのルート上に鉄鏃・銅鏃が出土していることから判明しています(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。
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記紀では日本統一の戦いを大国主の国譲り神話としています。高天原の命令でタケミカズチとフツヌシが活躍して国つ神の大国主から天照大神に葦原中国(あしはらなかつくに)を譲ったとしています。藤原氏の春日大社では祭神として第一殿に武甕槌命 (タケミカズチ)と第二殿に経津主命(フツヌシ)を祖神として祀っていますが、尾張王建稲種命と物部氏の祖神フツノミタマが正体です。お隠しして大変申し訳ありませんが、藤原氏に祟らないで下さいねという気持ちからでしょう(#^.^#)

尾張王建稲種命は、大和盆地では天理市の全長183mの前方後方墳「西山古墳」で改葬されたと推理しています。後方部の中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をしていますので分かります。渋谷向山古墳(山邊道上陵)が景行天皇陵に治定されていますが、応神天皇陵ではないかと推理しています(詳細は「真の応神天皇陵を推理する!」参照)。

また、地元尾張ですが、名古屋市熱田神宮では、ヤマトタケルの妃宮簀媛命(みやすひめのみこと)とともに祀られていますが、長久手市景行天皇社で景行天皇として祀られていることは余り知られていないと思います。景行天皇社の元の場所は長久手市根の神にあったと考えています。現在、根の神に隣接した蟹原に道了山大雄院が建立されていますが、建稲種命の居館があったと考えています。

父の乎止与命は娘の宮簀媛命が祀られている氷上姉子神社(ひかみあねごじんじゃ)を居城にしていたと考えています。記紀神話ではタケミカズチの父となる火の神カグツチとされ、愛知県で最も数多く見られる秋葉神社で祀られています(詳細は「天香山のひみつ(#^.^#)」参照)。

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