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新・私の本棚 番外 川村 明「九州王朝説批判」改 7/7 七世紀の倭都は筑紫ではなかった
2016/03/20 2019/03/01 2020/06/24 古代史の散歩道 など
いつも勉強させていただいている躓き石先生のブログですが、
今回特に興味ある話題でしたので、以下のようなコメントしました。
今回の川村先生の九州王朝説批判に賛同しており、その立場から敢えて先生のご説への異論を差し挟ませてください。
>ついでながら、六世紀末当時、「瀬戸内海航路」は影も形もなく、小型船舶による連絡経路が辛うじて繋がっていただけで、「大和」は、交信・交流に厖大な時間を要する遠隔地であるため、隋倭交流から隔離されていたでしょう。
>いずれにしろ、自前の船舶、船員、操船技術で航路開拓していなければ、隋船は航行できないのです。いや、開拓していても、難業なのです。
これについては古代海洋技術の専門家長野正孝氏の『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)によれば、すでに6世紀には雄略天皇が瀬戸内海航路の啓開を完成しており、7世紀の隋使の帆船を難波津までえい航する水主(かこ)のシステムによって無事に航海できたようです。
隋使が倭国攻略策を考えるのはいいご指摘ですが、難波津到着からまさか生駒山越えをするなど隋使は思いつかないでしょう。何故なら、そこで小舟に乗り換えて河内湖から大和川を遡り、古奈良湖を経由して飛鳥京に入るルートでしょうから(注)。その行程を詳述する気も起らないようなシナ人にとって厳しい航路だったからでしょう。だから、隋使の行程記事は川村先生のように読むのが正しいと考えています。(2020.6.26 赤字追加訂正)
九州王朝説では、対外交渉のシナの記録が北部九州の倭国とのものだと信じられているようですが、それも大きな間違いだと考えています。魏志倭人伝の邪馬台国を邪馬壱国と版本では誤写したものか、原本からそう記載されていたのか正確には分かりませんが、このことと大いに関係があると思います。以前にも指摘させていただいたとおり、当時の倭人語では母音を重ねることを避けていたので、ヤマイチもヤマイという言葉も存在しないことが分かっています(安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版))。
邪馬台国の意味もヤマト王権の成立過程を解明すると判明します。ヤマコクを居城にする女王(台)の国という意味です。ヤマコクは宇佐市安心院町の宮ノ原台地のことです(和妙抄の宇佐郡野麻郷、刮目天「古代史の謎を推理する」をご参照ください)。
ぶしつけな表現で恐縮ですが、魏志倭人伝の行程記事と同じで、文献に在ることをそのままバカ正直に信じるとド壺から脱け出せないいい例だと思います。旧唐書の倭国と日本国の並列記事は新唐書で完全に訂正されているのを無視するから古代史を解明できないということもあるのだと思います。大変失礼しました。(*^▽^*)
(注)【訂正】古代の難波津から飛鳥へのルート
卑弥呼の時代が先に頭に在ったので、うっかり下図左の古奈良湖と書いてしまいました。しかし、7世紀では下図右のとおり河内湖同様に古奈良湖もほとんど埋め立てられていたかもしれません。ですから、大和川を遡りそのまま飛鳥川に出るルートだと思います。いずれにしても隋使は難波津から飛鳥まで小舟に乗り換えて移動したと思われます。
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