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古代史ランキング
2022-03-23 23:59:59 にアップしましたが、余り読まれていないようなので念のため再掲いたします。お付き合いください(*^▽^*)
とてもいい動画を発信されている方に質問させていただき応答がありました。ちょっと長くなったので、分割します。どうぞよろしくお願い致します。

刮目天
大変興味深く拝見させていただきました。いくつか教えていただきたいのでコメント致します。お手数ですが、どうぞよろしくお願い致します。
(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?
卑弥呼が小迫辻原遺跡で発見された古墳時代最古の居館跡に居たという推理ですが、弥生終末期に環濠集落があったようですので、候補として挙げるのはいいのですが、居館跡はそれより後の三世紀末のもののようですので卑弥呼の宗女台与の時代かその後ではないかと思います。卑弥呼が三世紀中頃247年以後に急造され、葬られた径百余歩(直径約150m)の円墳と奴婢百余人の殉葬址は見つかっているのでしょうか?
また日田盆地が卑弥呼の居所に相応しいとされ、当時の最高傑作の鉄鏡などが出土していることから納得されておられますが、これらについても以下のとおり問題があります。
まず、日田盆地は東西南北の道が集まる場所ですから、防御が困難な地形だと思いますので戦乱期の女王の宮室を置くことは考えにくいと思います。
また、豪華な鏡などが卑弥呼のものであったとしても、持ち運べるものですので出土地が卑弥呼の居所だったとは限りません。またこれらのものは後漢時代のものですので卑弥呼が貰ったものかどうかもはっきりしませんが、その点はどうお考えでしょうか?
さらに女王国から東に渡海千余里に倭種が居るということで、四国をあげておられますが、日田盆地から海に出るまでに山々を越えて周防灘に面した海岸に出なければならないので、女王が日田盆地に居たとするとこの記事は違和感がありますけど、どう思われますでしょうか?
(2)邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?
魏志倭人伝の行程記事で奴国までは考古学の成果とだいたい一致しますので、まあいいとして、不弥国から先が記事と考古学の成果とが一致しませんので邪馬台国問題が解決していないのだと思います。不弥国を飯塚市辺りとする方は多いですが、その先の投馬国と邪馬台国が当時の列島最大の都市があった奴国の2万戸よりもはるかに多い、それぞれ5万戸、7万戸とされています。1戸あたり4人として奴国が8万人に対して、投馬国20万人、邪馬台国28万人ですから、推理された筑紫平野・佐賀平野にそれほど人口があったのでしょうか?
また、邪馬台国が投馬国の北側に隣接しているというのも魏志倭人伝の記述と合いません。上で違和感を述べたように、なぜ行程記事がそのように矛盾するような内容になっているのでしょうか?
(3)狗奴国の鉄はどこから?
投馬国の南側の熊本県に狗奴国があったとされていますが、狗奴国の豊富な鉄鏃はどのように入手していたのか、説明されていなかったと思います。倭国大乱は卑弥呼が擁立されて収まったとされているので、半島へのルートは卑弥呼側が握っていたはずですので、狗奴国は入手できないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
(4)卑弥呼の正体は?
倭国大乱は福岡平野から筑紫平野・佐賀平野で起っていたと考えるのはいいですが、南から熊本にあった狗奴国が攻めてきたので卑弥呼を女王にして、女王国としてまとまったということのようですが、そう推理された根拠は何でしょうか?卑弥呼の素性はどう考えられているのでしょうか?
(5)ヤマト王権との関係は?
当時の畿内の土器(庄内式)が奴国に大量に出土しているとのことですが、三世紀に纏向遺跡が出現し、箸墓よりも前に石塚古墳などいくつか前方後円墳が造営されています。そこに北部九州の土器がほとんど出土していないので、纏向の勢力と祭祀を共にしていないので北部九州はむしろ対立していて、畿内勢力が北部九州に侵入してきたと考える方が自然ではありませんか?熊本の狗奴国と纏向の関係はどうなっているのでしょうか?ヤマト王権の成立をどのように説明されるのでしょうか?
これはどうでしょうさん
沢山のコメントありがとうございます。
数えると10項目あるようですので、勝手ながら番号をふらせて頂きました。(①~⑩)
(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?
①「居館跡はそれより後の三世紀末のもの」について
庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。
三世紀末とされる根拠は何ですか?
Wiki「小迫辻原遺跡」概要に「3基の環壕居館の遺構は、出土した土器から3世紀末-4世紀初頭のものであると推定されており、日本最古の豪族居館跡であると考えられている。」とありました。「庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。」とありますが、調査報告書にあったのでしょうか?この様式であればわたしは「230~250」と考えています。そうすると一番新しい様式の250年頃に畿内の勢力が来たことを示すと考えるのがよいと思います。何故ならば、畿内との交流が一方向と考えられるからです。九州から畿内には3世紀の前半は交流がありませんから。つまり247年後死亡した卑弥呼の死に関わる畿内の勢力がやって来たことを示すものだと考えています。
そして居館の様子は、その頃の宇佐市小部遺跡に見られるものと同じような形式のようで、270年頃に畿内勢力が九州遠征し、占領した時のものと考えています。
それから金印が出土したとしても、宮室址と明確に分かる遺跡かその付近で見つからない限り、持ち運べる貴重品ですのでそこが卑弥呼の場所だとは言えないと思います。
②卑弥呼の墓が発見されたか
候補の墓はいくつかあると思いますが、決め手は無いですね。
金印が出れば決まりですが。
候補が幾つかあるというのは初耳です。直径150mクラスは宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三柱山にあるくらいしか知りません。100mクラスも同じ遺跡に一つあります。また、佐賀県鳥栖市の愛宕神社古墳くらいだと思います。いずれにしてもこの時代の100mを越える円墳は列島内にもあまりないと思いますので、あるのならば是非お教えください。
③日田盆地の防御性
盆地の防御性は基本的に高いと言えます。入口さえ見張ればいい訳ですし、実際、福岡県の西ノ谷遺跡や大分県白岩遺跡などは、当時の日田盆地の監視用とも考えられる立地です(片岡宏二氏)
日田盆地は先に述べたように東西南北どこからでも襲うことができ、事前に軍勢を見張るのも結構困難かと思いますので、防御性は良くないと考えていました。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱期には日田盆地を狗奴国側に抑えられると筑紫平野の倭国勢力は熊本側と連動して襲われて劣勢になる、軍事的に重要な場所だったと考えています。しかし、その時期の戦闘の址ははっきりわかりません。日田市天瀬町五馬市の五馬大坪遺跡の墓から鉄鏃がひとつ見つかっている程度で、付近には見当たりません。わたしの知る限り、その時期の日田盆地には鉄鏃は出土していません。卑弥呼を警護した兵士の鉄鏃が住居跡などから出土しているのでしょうか?
④金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡か
2年前に中国の研究者から、魏の曹操の鏡と同型鏡と鑑定されているので、金印まで下賜されている卑弥呼に対しては、相応の鏡と言えます。鏡は動く物ですから幾通りもストーリーは考えられますが、今回示したものはその一つです。
おっしゃるとおりですが、wiki「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」に「ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。また、古墳からではなく、横穴墓から出土したとも言われる[7]。」とあり、持ち運べる貴重品ですからダンワラ古墳が卑弥呼の墓でない限り、その鏡も卑弥呼が貰ったものと決めることはできないと思います。
⑤「女王国から東に渡海千余里に倭種」について
女王国は広い連合国と捉えておりますので、日田盆地からではなく宇佐あたりから東に出れば渡海千余里で四国につくハズです。
「日田盆地からではなく宇佐あたりから」ということは分かりますが、宇佐は女王の居所付近ではないと思ったので、表現に違和感があると思いました。
ここまでお付き合い、ありがとうございます。つづきがありますので、どうぞよろしくお願い致します。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?
卑弥呼が小迫辻原遺跡で発見された古墳時代最古の居館跡に居たという推理ですが、弥生終末期に環濠集落があったようですので、候補として挙げるのはいいのですが、居館跡はそれより後の三世紀末のもののようですので卑弥呼の宗女台与の時代かその後ではないかと思います。卑弥呼が三世紀中頃247年以後に急造され、葬られた径百余歩(直径約150m)の円墳と奴婢百余人の殉葬址は見つかっているのでしょうか?
また日田盆地が卑弥呼の居所に相応しいとされ、当時の最高傑作の鉄鏡などが出土していることから納得されておられますが、これらについても以下のとおり問題があります。
まず、日田盆地は東西南北の道が集まる場所ですから、防御が困難な地形だと思いますので戦乱期の女王の宮室を置くことは考えにくいと思います。
また、豪華な鏡などが卑弥呼のものであったとしても、持ち運べるものですので出土地が卑弥呼の居所だったとは限りません。またこれらのものは後漢時代のものですので卑弥呼が貰ったものかどうかもはっきりしませんが、その点はどうお考えでしょうか?
さらに女王国から東に渡海千余里に倭種が居るということで、四国をあげておられますが、日田盆地から海に出るまでに山々を越えて周防灘に面した海岸に出なければならないので、女王が日田盆地に居たとするとこの記事は違和感がありますけど、どう思われますでしょうか?
(2)邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?
魏志倭人伝の行程記事で奴国までは考古学の成果とだいたい一致しますので、まあいいとして、不弥国から先が記事と考古学の成果とが一致しませんので邪馬台国問題が解決していないのだと思います。不弥国を飯塚市辺りとする方は多いですが、その先の投馬国と邪馬台国が当時の列島最大の都市があった奴国の2万戸よりもはるかに多い、それぞれ5万戸、7万戸とされています。1戸あたり4人として奴国が8万人に対して、投馬国20万人、邪馬台国28万人ですから、推理された筑紫平野・佐賀平野にそれほど人口があったのでしょうか?
また、邪馬台国が投馬国の北側に隣接しているというのも魏志倭人伝の記述と合いません。上で違和感を述べたように、なぜ行程記事がそのように矛盾するような内容になっているのでしょうか?
(3)狗奴国の鉄はどこから?
投馬国の南側の熊本県に狗奴国があったとされていますが、狗奴国の豊富な鉄鏃はどのように入手していたのか、説明されていなかったと思います。倭国大乱は卑弥呼が擁立されて収まったとされているので、半島へのルートは卑弥呼側が握っていたはずですので、狗奴国は入手できないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
(4)卑弥呼の正体は?
倭国大乱は福岡平野から筑紫平野・佐賀平野で起っていたと考えるのはいいですが、南から熊本にあった狗奴国が攻めてきたので卑弥呼を女王にして、女王国としてまとまったということのようですが、そう推理された根拠は何でしょうか?卑弥呼の素性はどう考えられているのでしょうか?
(5)ヤマト王権との関係は?
当時の畿内の土器(庄内式)が奴国に大量に出土しているとのことですが、三世紀に纏向遺跡が出現し、箸墓よりも前に石塚古墳などいくつか前方後円墳が造営されています。そこに北部九州の土器がほとんど出土していないので、纏向の勢力と祭祀を共にしていないので北部九州はむしろ対立していて、畿内勢力が北部九州に侵入してきたと考える方が自然ではありませんか?熊本の狗奴国と纏向の関係はどうなっているのでしょうか?ヤマト王権の成立をどのように説明されるのでしょうか?
これはどうでしょうさん
沢山のコメントありがとうございます。
数えると10項目あるようですので、勝手ながら番号をふらせて頂きました。(①~⑩)
(1)卑弥呼の宮室が日田盆地だったのか?
①「居館跡はそれより後の三世紀末のもの」について
庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。
三世紀末とされる根拠は何ですか?
Wiki「小迫辻原遺跡」概要に「3基の環壕居館の遺構は、出土した土器から3世紀末-4世紀初頭のものであると推定されており、日本最古の豪族居館跡であると考えられている。」とありました。「庄内式Ⅱ~Ⅲ式の土器が居館跡から出ているので、AD200~250年としました。」とありますが、調査報告書にあったのでしょうか?この様式であればわたしは「230~250」と考えています。そうすると一番新しい様式の250年頃に畿内の勢力が来たことを示すと考えるのがよいと思います。何故ならば、畿内との交流が一方向と考えられるからです。九州から畿内には3世紀の前半は交流がありませんから。つまり247年後死亡した卑弥呼の死に関わる畿内の勢力がやって来たことを示すものだと考えています。
そして居館の様子は、その頃の宇佐市小部遺跡に見られるものと同じような形式のようで、270年頃に畿内勢力が九州遠征し、占領した時のものと考えています。
それから金印が出土したとしても、宮室址と明確に分かる遺跡かその付近で見つからない限り、持ち運べる貴重品ですのでそこが卑弥呼の場所だとは言えないと思います。
②卑弥呼の墓が発見されたか
候補の墓はいくつかあると思いますが、決め手は無いですね。
金印が出れば決まりですが。
候補が幾つかあるというのは初耳です。直径150mクラスは宇佐市安心院町宮ノ原遺跡の三柱山にあるくらいしか知りません。100mクラスも同じ遺跡に一つあります。また、佐賀県鳥栖市の愛宕神社古墳くらいだと思います。いずれにしてもこの時代の100mを越える円墳は列島内にもあまりないと思いますので、あるのならば是非お教えください。
③日田盆地の防御性
盆地の防御性は基本的に高いと言えます。入口さえ見張ればいい訳ですし、実際、福岡県の西ノ谷遺跡や大分県白岩遺跡などは、当時の日田盆地の監視用とも考えられる立地です(片岡宏二氏)
日田盆地は先に述べたように東西南北どこからでも襲うことができ、事前に軍勢を見張るのも結構困難かと思いますので、防御性は良くないと考えていました。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱期には日田盆地を狗奴国側に抑えられると筑紫平野の倭国勢力は熊本側と連動して襲われて劣勢になる、軍事的に重要な場所だったと考えています。しかし、その時期の戦闘の址ははっきりわかりません。日田市天瀬町五馬市の五馬大坪遺跡の墓から鉄鏃がひとつ見つかっている程度で、付近には見当たりません。わたしの知る限り、その時期の日田盆地には鉄鏃は出土していません。卑弥呼を警護した兵士の鉄鏃が住居跡などから出土しているのでしょうか?
④金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は卑弥呼の鏡か
2年前に中国の研究者から、魏の曹操の鏡と同型鏡と鑑定されているので、金印まで下賜されている卑弥呼に対しては、相応の鏡と言えます。鏡は動く物ですから幾通りもストーリーは考えられますが、今回示したものはその一つです。
おっしゃるとおりですが、wiki「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」に「ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。また、古墳からではなく、横穴墓から出土したとも言われる[7]。」とあり、持ち運べる貴重品ですからダンワラ古墳が卑弥呼の墓でない限り、その鏡も卑弥呼が貰ったものと決めることはできないと思います。
⑤「女王国から東に渡海千余里に倭種」について
女王国は広い連合国と捉えておりますので、日田盆地からではなく宇佐あたりから東に出れば渡海千余里で四国につくハズです。
「日田盆地からではなく宇佐あたりから」ということは分かりますが、宇佐は女王の居所付近ではないと思ったので、表現に違和感があると思いました。
ここまでお付き合い、ありがとうございます。つづきがありますので、どうぞよろしくお願い致します。
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