刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

魏志倭人伝をシナ人が読んで邪馬台国が分かるの?(@_@)

2022-05-09 00:28:37 | 古代史
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前々回から二度にわたってゆっくり歴史考察・調査チャンネル@YouTubeさんのいい動画で中々面白い議論ができましたのでご紹介します。お付き合いください。

taro yamada
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分(宇佐神宮)になりますが?

理由は下記です。
道案内の基本は、距離と方角を言い、そこまでの行程でかかる時間(車で何分とか)を言います。
よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。
また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。
末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!宇佐神宮周辺は大規模の遺跡が発見されたり、円墳が発見されたりと九州ならとても可能性が高い気がしますね。

刮目天
taro yamadaさん、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、大分(宇佐神宮)になるというのは凄いですね(^_-)-☆
大分だということを詳しく教えていただけないでしょうか?

taro yamada
@刮目天 様
コメントありがとうございます。

詳細なホームページ作ってありますが、youtubeのコメントにアドレスを表記できなくなりました。
このため、5ちゃんねるの「大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番目に記載してます。

末盧國は門司、伊都國は宇佐市糸口、奴國は宇佐市中心部となります。
他の九州説のとの違いは末盧國を松浦ではなく門司にしているところです。
こうすると魏志倭人伝はいっさい誤記はありません。



taro yamadaさんのページより引用


刮目天
@taro yamada さん 「大分に邪馬台国があったらしいけど」を見つけてざっと拝見しました。感想を述べさせていただきますが、学術的な意見として異論があったらおっしゃってください。結論はわたしと近いものですが、残念ながらほとんど納得できる内容ではありません。
(1)従来考古学の観点から比定されている奴国までの場所と違うというのが大きいです。例えば奴国の中心都市の比恵・那珂遺跡群は吉野ヶ里遺跡の約4倍の大都市です。そこで約二万戸なのです。あなたのおっしゃられている奴国=宇佐、にそれほど大規模な遺跡は発掘されていません。投馬国=薩摩が5万余戸もあり得ません。
文献は人間が書くものですから、ウソもあります。現在までの考古学の成果によってウソを見分けるのが実証主義です。つまり考古学の成果を無視する議論は成り立たないというのがわたしの意見です。

(2)最近の話題にもなっていますが、弥生時代に文字が使われていた証拠が幾つも出てきました(硯石、木製組机など)。伊都国にはシナ人が出入りしている証拠として楽浪土器が集中して出土しています。つまり、漢字を読み書きできる倭人が居たと考えられます。伊都国に居た男王や高官らはシナ人と交流していたと考えられます。ですから、残念ながら魏志倭人伝に書かれた倭国の地名をシナ人の発音で推理するのは誤りだということです。詳細は拙ブログ「邪馬台国の謎を解く糸口は?(^_-)-☆」などを参照してください。

taro yamada
@刮目天 様
私の意見を記載します。
(1)については、私の意見は魏志からのもので。考古学的資料は考えていません。
ただ、いえることは、大分県中を掘り返していません。考古学的資料が無いからダメはかなり難しいです。
考古学は、文献でここだと言うのを掘り返して証明するのはいいですが?宇佐神宮すら掘り返してないと思います。
人口についても、一般的に日本は昔から人口が徐々に増えたと考えていますが、飢饉があれば減少します。
アイルランドなどは、ジャガイモ飢饉前の人口に今だに戻っていません。
また、邪馬台国の主食は米です。つまり石高から人口が推定できます。1600年前後の豊の国の
石高は50万石程度(1石/人)。当時、しかも倭国連合の中心(現在の東京一極集中といっしょです)
ですから2万戸程度はあったとしてもおかしくないと思います(西暦1世紀では福岡当たりが人口の中心で、
西暦3世紀では宇佐に移動してもおかしくありません)。
(2)私も文字は邪馬台国でも使用されていたと思います。ただ、日本特有の読みはまだ発生してないはずです。
当然、明治時代の日本人がアメリカを米国と呼んだように似た漢字の発音をあてる行為を中国人もするはずです。
邪馬台国の謎を解く糸口は?について
まず、魏志倭人伝が妄想であれば、邪馬台国自体無いと言われても言い訳できません。だから正確に解釈するようにしています。
特に、行程は魏の軍事面から見ておかしな記述をすれば魏の国が滅びますから、正確に記述するはずです。
さらに、男女の人口比ですが、戦前でも田舎では小学校レベル2:1で女子が多かったです。
男児は一般的に虚弱です(一姫二太郎の理由)。ただ、成人してからは、女性は出産があるため、死亡率が高まります。


刮目天
@taro yamada さん せっかくですが、わたしの見解に対する学術的な意見としての異論になっていません。
(1)掘ったら分かるかも知れないのならば、すくなくとも掘る前に、多くの人を説得できる科学的な根拠がないと掘れません。残念ながら、比恵・那珂遺跡に匹敵する規模の遺跡が宇佐市にあるという可能性は現在までの成果から見て、ほとんどないと思います。ということは、あるかも知れないという根拠で仮説を組み立ててもいいですが、検証しないと単なる想像でしかないということです。
ついでに言うと、わたしは安心院町三柱山宮ノ原遺跡周辺が卑弥呼が居た邪馬台国であることを見つけていますので、宇佐市はその一部であったとされたものと考えてはいます(拙ブログ参照)。もしも拙論に反論があれば教えてください。でも、七万戸もあるはずはありませんから、政治的な理由で大げさに書かれたと主張しています。拙ブログ「魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆」をご参照ください。

(2)「日本特有の読みはまだ発生してないはずです。」は全く理解できません。倭人には倭人のことばがあります。縄文人にも旧石器人にもあったはずです。人間には脳みそと口と耳があります。安本美典「倭人語の解読」勉誠出版をご覧ください。
倭国にある地名や人名はもともと倭人が付けたものです。当たり前ですが、漢字が伝来する時期に初めて名前が付けられたわけではありません。漢字を読み書きできる倭人が倭国の地名や人名などを書いて魏側に教えたものだということです。ですから、シナ人の発音は全く関係ありません。倭人から聞いたことばを魏の役人が漢字にしたものでもないということですよ。

たとえば、山田太郎さんという日本人が米国人に自分の名前を教えるのに、アイ アム マウンテン・ライス・フィールド!とは言いません。アイ アム タロー ヤマダと言うはずです。常識的にこの米国人はヤマダさんをマウンテン・ライス・フィールドだと翻訳して記録しないと思いますよ(^_-)-☆

それから魏志倭人伝が妄想と言っている先生が盛んに著書をYouTubeで宣伝していますね。でも間違いですよ。邪馬台国は存在していることを突き止めましたから( ^)o(^ )

邪馬台国への行程は倭人が魏に教えたものですが、政治的な理由で、あるべき位置に置くためのつじつま合わせのデタラメになっているのです。後世の日本人に見つけてもらうために行程記事は書かれたのではなく、倭国が帯方郡の東南方向の海上にあり、ライバルの呉を挟み撃ちにできる戦略上重要な位置にある大国だと魏の朝廷の人々が理解できるように水行1月・陸行1月とデタラメを書いたのです。
ですから魏志倭人伝に倭国のことが正確に書いてあるはずというのはあなたの思い込みなのですよ( ^)o(^ )

taro yamada
@刮目天 様
(1)もちろん、考古学根拠は薄いです。しかし、掘り返すトリガーは何かあるからではないでしょうか?
三内丸山遺跡、吉野ケ里遺跡のようになにかあるから掘ってみたらとんでもないものが出たケースです。
初めから、そう思わなければ掘ったりしません。
私の説は基本仮設です。しかし、可能性の高いものを取るのが自然です。
魏志倭人伝と言う文書しかないのですから、これに基づき、邪馬台国を場所を推定するのが一番自然なやり方ではありませんか?
考古学的資料は金印とか碑文でも出れば別ですが、あくまで補助資料です。考古学的補助資料は宇佐神宮、安心院町三柱山宮ノ原遺跡がありますね。
安心院町三柱山宮ノ原遺跡で卑弥呼の墓がらしきものが見つかったとのこと。可能性は高く、私も支持しますが、他の論者に言わせれば決定的証拠にはなりません。

人口が大げさに書かれた可能性はあります。人口調査してる訳はありませんから、この部分はどうしても伝聞だし大げさにもなります。
しかし、これを一概に否定する根拠も考古学からというかもしれませんが薄いです。

(2)和人の言葉はありました。しかし、それを漢字に置き換える必要があります。つまり、日本語発音の地名を漢字で中国発音通りの表記する必要があります。
たとえ日本人が漢字にしたとしても、同じです。
「倭人語の解読」でも当時の中国音に基づきとAmazonの内容説明に記載されてます。ちなみに万葉かなは500年もたってからの話です。
まさか、漢字を知ってる日本人が日本の地名の意味をくみ取り、その意味の漢字に直したということですか?
となると、邪馬台国の周辺に出てくる国々の国名に差別的意味が多いので、日本人が中国人に我々はこんな野蛮な国だと言ってるようなものですが?

魏志倭人伝、あるいは、それを元にした写本以外で、邪馬台国の存在を確認できる証拠はなんですか
(卑弥呼は新羅本紀には登場しますが、その国は北九州あたりにいたと言う以外の記載ありません)?
考古学的なものであれば、邪馬台国はどこにあったという論争は決着しています。

魏志倭人伝に倭国のことが正確に書いてあるはずというのはなぜ思い込みですか?魏志以外の中国の正史でデタラメの記載がありますか(特に地名、方位、距離)?
さらに、魏志の作者の陳寿は、魏の後の晋の人間であり、魏志の執筆時、すでに呉の国は滅ぼされているので、邪馬台国をオーバーに書く必要はありません。
魏志の元資料を作成した役人の文書のコピーだとしても、現在のウクライナ戦争でも、部下が大本営発表して、プーチンに粛清されていますよね。
役人が和人の言うことをうのみにして自分の首(本当に殺される)をかけてここまでしますか?
また、面積が小さいから小国と意識はないはずです。かつてのスペインやイギリスを見ればわかります。


刮目天
@taro yamada さん
>初めから、そう思わなければ掘ったりしません。
まではいいですが、
>私の説は基本仮設です。しかし、可能性の高いものを取るのが自然です。
申し訳ないですが、その可能性は現段階でゼロだと思います。

それはあなたの仮説「倭国の地名は北京語の読みで場所を特定できる」について否定する意見を上で述べていますからご理解ください。つまり、倭人が倭国の地名などの倭人の読みを漢字で書いて教えたと分かるからです。

伊都国という字は漢字を読み書きして、孟子も読む教養人が書いて教えた国名なのですよ。これが大発見なのですよ!ウィクショナリ「伊」によると『「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。』(2022.5.19 赤字追加)

その他の国名や人名なども、漢字を読み書きし、漢字の意味を知っている倭人が、感情を交えて特定の漢字、いわゆる卑字を選んで書いて教えたのですよ。行程記事は政治的な理由で、事実と異なるものにしているのです。これが魏志倭人伝の真相なのです。この動画の鈴木信行様にその内容をコメントしていますのでどうぞ(^_-)-☆(注1)。

そこまで分かると、後はヤマト王権の成立過程を考古学や民俗学の成果を使って推理して、邪馬台国の位置も卑弥呼の正体も判明したということです。

少しだけ述べます。
弥生時代中期初頭(紀元前4世紀)に奴国の初代王天御中主が吉武・高木遺跡に居を構えたことから日本の歴史が始まります。龍蛇神(ナーガ)を信奉する江南系倭人の王です。地名も福岡市に那珂川がありますし、日本全国に那賀、長柄などなどの地名が見られます。顔に入れ墨した江南出身の倭人アズミ族が開発した土地です。

天御中主は記紀神話では高天原に最初に現れた神となっていますが、10世紀の大和朝廷が東大寺の僧奝然(ちょうねん)に持たせて南宋の太宗に献上した日本の「王年代紀」に二十三代の奴国王の名前が書かれ、筑紫の日向宮に居たとし、最後の王の4男が初代神武天皇で大和の橿原宮に都を遷したとあります。

ただし、第18代王素戔嗚尊が奴国宮廷楽師だった師升らのクーデターで殺された奴国王だと記紀神話からも分かります。志賀島で発見された金印はこの時にスサノヲの部下のアズミ族が隠したものだと分かります。

そしてクーデターを逃れた王子イタケルやその直系の子孫狗古智卑狗(豊岡市久々比神社の祭神久々遅命、イタケルと同じ木の霊ですので上棟式の祭神、代々王の襲名)がムナカタ海人族の王となり、スサノヲのコネで半島南部の鉄を旧奴国(狗奴国)勢力に供給し、隆盛になります。狗古智卑狗とのコネによって各地の部族長は鉄製品を入手でき、首長の権力が強くなって首長霊信仰がはじまり、古墳時代の幕開けです。

イタケルと同時に逃亡したスサノヲの弟がイタケルらの支援で吉備を平定し、奴国を再興します。王年代紀第19代王天照大神尊です。記紀では饒速日尊、先代旧事本紀では天照國照彦天火明櫛玉饒速日命です。楯築王墓の被葬者です。楯築神社の御神体亀石と言う弧帯文石が人面蛇体なのですから、中国神話に登場する人類の始祖神の天皇伏羲と同じなのです。ヤマトの大王が8世紀に天皇と呼ばれる理由は奴国大王の男系の子孫だからですよ(^_-)-☆



ちなみに、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で、明治になるまで女性天皇を誰一人祀っていませんでしたから、女性天皇は全て藤原不比等のフェイクだったと分かりました。これは日本国民全員に知ってもらいたい大発見ですよ!詳しくは拙ブログ「日本書紀だけでなく続日本紀までもが?(*´Д`)」をご参照ください。

ということですので、お付き合い有難うございました。勝手ながらこれで打ち切りにしてください。拙論への疑問ならば議論に応じますので、ブログの方へ遠慮なくどうぞ。よろしくお願い致します。


(注1)刮目天のコメント
鈴木信行さん あなたの感想は当たっているかも知れませんね。でも、弥生時代に文字が使われていたことが前から分かっていましたが、最近続々と硯石が見つかった話題が新聞記事などにも出ています。そして伊都国の三雲遺跡番上地区から楽浪土器が集中して出ていますので、そこにシナ人たちが居住していたと考えられています。伊都国に王宮を置く倭国王らがシナ人と交流して漢字を読み書きできるようになっていたと考えられます。

そうすると、従来、魏志倭人伝に紹介される倭国の地名や人名などは、漢字を読み書きできない倭人から魏の役人が聞いて漢字を当てたという通説が成り立たなくなります。ですから、魏に漢字で書いて教えた倭人は、倭人間で通じる地名や人名などの発音に漢字を当てたということです。その際に敵対する、あるいは敵対していたが今は仲間になっている国や人名などを、漢字を読み書きできない人々に対して好い字を使わなかったのだと分かります。

例えば狗奴国は狗コロの奴国という意味です(ただし、奴国はナーガ=龍蛇神を信奉する国という意味で後漢光武帝に与えられた金印のつまみが蛇であることや、地名に那賀などとあることから分かります)。卑弥呼も卑しい巫女、あるいはヒメゴです(玄界灘を支配する、その子孫が和邇氏の縄文海人ムナカタ族の姫巫女と突き止めました)。狗奴国の官狗古智卑狗はこれほど蔑んだ名前にも呆れます(狗古智卑狗は兵庫県豊岡市の久々比神社の祭神久々遅命、スサノヲの王子イタケルと同じ木の霊ですから、棟上式の祭神でイタケルの子孫です。日本海沿岸と玄界灘などを活動域とするムナカタ族の王とされ、代々襲名しています)。

それに対して伊都国は殷(商)王朝初頭の有名な政治家伊尹(いいん)に因む国名です。孟子に登場し、放蕩な主君を追放したことで評価が議論される人物です。伊都国は107年に安帝に160人の生口(戦争捕虜を奴隷とした)を献上した帥升(倭面土国王師升、正しくは回土(ウィト)国王)の事績と一致します。奴国を滅ぼして倭国王に立った人物だという証拠があります。239年6月に帯方郡に出かけた大夫難升米は師升王の子孫で、魏から正規軍の軍旗「黄幢」が授けられていますから、軍事を掌握する人物、ほんとうの倭国王なのです。難升米が帯方郡太守劉夏と会談して伊都国と書いて教えた人物です(邪馬台国へのデタラメな行程記事も政治的な理由で書かれたものです)。難升米は固有名詞ではなく師升の一族の頭目(かしら)という意味でした。

奈良時代に奴国が儺県と書かれたことは知られていますが、儺は鬼やらい、神やらいの意味です。奴国王を追放した史実がこれらによって証明されました。また、当時の人は奴国滅亡の史実を知っていたのです。それを神話にしたのですから、日本書紀はデタラメな歴史書だったのですよ。詳細は拙ブログ「古代史を推理する」を参照ください



最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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まぼろしの邪馬壱国だった?(^_-)-☆

2022-05-08 08:31:30 | 古代史
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前回の記事「邪馬台国九州説の中で?(^_-)-☆」でご紹介したゆっくり歴史考察・調査チャンネル@YouTubeさんのいい動画へのコメントの続きです。お付き合いください( ^)o(^ )

蝉丸山茶花亭
そもそも魏志倭人伝には邪馬台国という国は出てこないので、「魏志倭人伝以外から邪馬台国所在地を徹底考察!!」というタイトルがおかしいかと思いました。
単に「邪馬台国所在地を徹底考察!!」で良いのではないでしょうか。
魏志倭人伝以外の史書には邪馬台国が出てきますし。


ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!他の邪馬台国考察動画ではよく魏志倭人伝を主軸で考察しているので敢えて、差別化も狙いこのタイトルにしました。

刮目天
蝉丸山茶花亭さん なるほど、おっしゃるとおりです。
現在わたしたちが読んでいる12世紀の魏志倭人伝の版本では邪馬壹国とあり、邪馬臺国は出てきません。原本にあった「臺」から、版本の基になった写本の段階で「壹」に変えられているのか、原本から「壹」だったのかも原本が見つからないと正確には分かりません。

しかし、魏志倭人伝に「南至邪馬壹國、女王之所都」と最初に1度だけ登場し、残りはすべて女王国を邪馬壹国の代わりに使っていますから、邪馬臺國はヤマコクに住む臺(女王)、つまり「卑弥呼が都とする国」と言う意味にとれます(注1)。范曄後漢書にも邪馬台国と明記され、魏志倭人伝の原本から「臺」であるようです。意味としても女王国で間違いないと思います。邪馬壹国はその意味が良く分かりませんし、邪馬壹国に比定される場所も見当たりません。

なお、倭人の発音を魏の役人が聞いて漢字を当てたという説は、弥生時代に漢字が使われていた証拠が多数見つかっていますので、成り立たないことが分かっています(注2)。

ですから、写本の段階で、東夷の女王に皇帝に用いる「臺」という字を当てるのは不敬だと判断して(三国志で「魏臺」は明帝曹叡のこと)、似た文字「壹」に置き換えた可能性が高いと思います。

魏志倭人伝に登場する「壹與」も同様の理由で「臺與(台与)」から書き換えられたと考えられます。九州に卑弥呼の宗女台与(トヨ)に因む地名などが数多く存在しますが(例えば、豊国、豊比売などなど)、イヨに因むものは四国の伊予くらいですから、邪馬台国説を支持しています。 

つまり邪馬台国というのが定説ですからタイトルで良いのではないかと思います( ^)o(^ )

蝉丸山茶花亭
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル わかります。まあ、そうですよね。

【関連記事】
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)
考古学や民俗学の成果から卑弥呼の宮室のあった宇佐市安心院町三女神社付近が邪馬台国ですが、人口がもっと多いと考えるのならば、宇佐平野・大分平野から阿蘇山に向かう大野川流域や日田盆地まで含めた広い領域を邪馬台国と考えても良いと思っています。


邪馬台国・投馬国は佐賀平野・筑紫平野にあったか?など( ^)o(^ )

(注1)宇佐市史によれば、安心院町は平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)に紹介された野麻郷(ヤマゴウ)の地名は安心院町に比定されています。ですから、あのあたり一帯がヤマコクと呼ばれていた模様です。邪馬台国というのは倭国王難升米が帯方郡太守と談合して、魏の朝廷の注目を集めるために倭国が女王が統治する東夷のエキゾチックな大国とすることで作られた地名です。その時代の倭の人々に邪馬台国と言ってもポカン!だと思いますよ(^_-)-☆
耶馬渓というのもあります。安心院町では仙の岩がありますよ!

(注2)弥生時代に文字が使われていた証拠が出てきています。漢字を使っていた倭人も一部居たと思われます。漢などの外交使節や楽浪郡などから華僑が伊都国には来ていましたから伊都国に王宮を作っていた倭国王らは読み書きはできたし、シナ語で会話もできた可能性もあります。
変わる弥生時代観!(^_-)-☆
弥生最大の交易都市比恵・那珂遺跡では交易に10進法が使われて取引税を取っていたようです。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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邪馬台国九州説の中で?(^_-)-☆

2022-05-07 10:51:03 | 古代史
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とてもいい動画があったので、コメントをしました。沢山やり取りさせてもらったので、何回かに分けた方がいいかと思います。とりあえず、この部分をご紹介させてください。是非、お付き合いください( ^)o(^ )n



刮目天
いつもいい動画をありがとうございます。九州説を三つに絞ってくださったのは正解です。
まず、山門説ですが、邪馬台と発音が微妙に違います。前者は山地への入り口をあらわす普通名詞ですが、邪馬台はヤマ国に住む台(女王)つまり卑弥呼という意味なのです。ですから、魏志倭人伝でも一度しか使われず、あとはすべて同じ意味の女王国と記されているのです。写本を元にした版本に邪馬壱国とあるので探しておられる方がいますが、意味を考えると写本がある理由で壱に変えられたのだと分かります。それから、魏志倭人伝に「東に千余里海を渡ると又倭種の国がある」という記述が適合しませんので、どういう理由でこの文章を無視したか、合理的な理由を示さずに、山門説を主張するのは説得力がありません。魏志倭人伝が政治文書だということに気づいていないから、いつまでも邪馬台国論争があるのですよ(*´Д`)。

日向説ですが、初代神武天皇が三世紀にヤマトを征服した考古学的証拠がありません。日本書紀は天皇家の歴史書だと思われていますが、編纂を命じた天武天皇が崩御して30年以上後の権力者藤原不比等によって完成させられている事実を皆さん見落としています。不比等は藤原氏が権力を握り続けたいために、日本建国時代で活躍した祖先をもつ豪族らを抑えて、没落させる目的で、不都合な史実を神話に閉じ込め、都合の良い話を創作したことが分かってきました。日本建国は旧奴国(狗奴国)が倭国を滅ぼして統一したという事実が鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」をご参照ください。

ついでですが、畿内説もこの時期に九州の土器が纏向遺跡で出土していないことから、北部九州とは敵対関係にあった狗奴国だと容易にわかりますよ(^_-)-☆

そして宇佐説ですが、これが正解です。本質家さんへのコメントにハートマクいただき感激です(#^.^#)
宇佐市安心院町三女神社に卑弥呼の宮室があったと突き止めました。そして卑弥呼の墓はその北西部にある直径約150mの円墳だと発見しました。その横の地名が百余人の奴婢を殺したことを示唆する「血野」という地名になっていました(地元では別の伝承にしていますが、卑弥呼の墓であることを隠すためだと推理しています)。また、同じ三女神社という社名の遥拝所があり、日食が原因でその場所で卑弥呼が殺されたことを示唆する「ヒカケ」という地名まで残っており、三女神の石塔やおどろおどろしい摂社もありますから間違いないと思っています(「卑弥呼の墓は見つかってるよ」参照)。
本質家さんにコメントしたとおり、卑弥呼は日蝕が原因で殺されたムナカタ族の姫巫女、通称ヒメゴで間違いないですよ(^_-)-☆
詳しいことは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。失礼しました( ^)o(^ )

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!このゴールデンウィークで刮目天さんのブログの記事を殆ど閲覧させて頂きました。とても面白く勉強になりました。地名はとても大事なヒントな気がします。ヒカケという地名があるのは知りませんでした。日食と関係がありそうでとても意味深ですね。

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 早速ありがとうございます。通説と違うので、いろいろと疑問がわくと思います。研究が進みますので、遠慮なくいってください( ^)o(^ )

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん わたしも遺跡ウォーカーでヒカケ横穴群の存在を知って椅子から転げ落ちました。横穴が掘ってあるのです。岩戸隠れを示唆しているのですが、それによって卑弥呼の墓を隠しているのですから驚きました。その摂社や三女神社との間には仁聞上人が作ったといわれる乳不動があって、その辺りに温泉が湧いているのですっぽんを養殖しています。卑弥呼は毎晩この露天風呂に入ってすっぽん料理を味わって濁り酒を飲んでいたのだと思います。ですから、卑弥呼が入浴しているところを襲われて、摂社の場所まで連れていかれて殺されたと推理しています。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」にありますのでどうぞ( ^)o(^ )

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!こちらこそこれからもよろしくお願いします。

本質家
確かに宇佐神宮は比売大神と応神天皇・神功皇后を祀っているので、大和王権の勢力があったと言うのは合理的ですね。
俺も邪馬台国は吉野ケ里遺跡かその周辺にあったと思うので、みやま市周辺はかなり有力な候補で福岡には円墳もありますね。
後は朝鮮半島南部の前方後円墳を調べて、年代や大和王権と邪馬台国のどちらに近いかを、副葬品などで調べれば詳しく解析できそうですね。
俺は纏向遺跡と箸墓古墳が大和王権で、出雲勢力を取り込んで支配地域を拡大した、今の日本に繋がる勢力だと思います。


刮目天
本質家さん いいセンスです!宇佐神宮は八幡大神を第一殿、比売大神第二殿、神功皇后第三殿となってますが、第二殿を一番立派な中央として左右に八幡大神、神功皇后が祀られているので、主祭神は明らかです。比売大神はもともと宇佐地方で祀られていた宗像三女神です。これで分かると思いますが、三女神はひとりなのです。
なぜ、三女神がヤマト政権の崇敬を得ているのか考えると沖ノ島祭祀が4世紀から世紀まで行われていることから、沖ノ島が半島との交通路にあったからとすぐにわかります。半島南部に鉄の産地があります。なぜ魏志倭人伝に描かれた渡りやすい、末蘆国・壱岐のルートを使わないのかに注目すると、このルートしか使えなかったのではないかと分かります。つまり伊都国・奴国の倭国側が抑えていたからです。(2022.5.7 赤字訂正

ですから倭国大乱の時代から三世紀のヤマト政権は北部九州の倭国と対立していた狗奴国で、最終的に半島南部の鉄を入手して倭国を滅ぼして日本を統一したのだと分かります。その経緯は少しややこしいのですが、倭国大乱は半島の韓人・ワイ人が暴れて混乱していた時期ですから倭国は楽浪郡との交易もできなくなっていた、一方狗奴国は沖ノ島・対馬経由で狗邪韓国の鉄を入手して強勢になったということですので、ヤマト政権が誕生したのは沖ノ島ルートを支配していたムナカタ海人族が重要な役割を果たしていたからということになります。ムナカタ族が祀る太陽神信仰の姫巫女が卑弥呼だったと分かります。卑弥呼の一族が後に近江から大和に根拠地を移した和邇氏だということも分かりました。東大寺山古墳のある和邇坐赤坂比古神社の祭神がイチキシマヒメとアタカタスミです。後者がムナカタ族の祖神、イチキシマヒメは三女神の主神で、厳島神社や弁財天として日本全国で祀られていますから、卑弥呼ですよ!近江八幡市の比牟礼八幡神社でも祀られていますが、もとは日蝕社(ひはえのもり)だったと思われる神社名が藤原不比等によって日群杜(ひむれのもり)と強権で変えられています。ですから地元では日触山として似た名前を残したのだと思います。詳しくは拙ブログ「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)」をご参照ください。宇佐八幡でなぜ卑弥呼が祀られているのかもすべてわかりましたよ(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎」参照)。
ということで宇佐説が正解ですよ(#^.^#)

ゆっくり歴史考察・調査チャンネル
コメントありがとうございます!宇佐神宮の比売大神が卑弥呼かもしれないなと妄想したりします。吉野ヶ里遺跡も新たに発掘調査が進んでおり、今後の発見に期待出来そうですね。

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 早速ありがとうございます。これだけ状況証拠がそろうと、これは妄想ではなく事実だと思いますよ(*^。^*)
邪馬台国論争は終了したと考えています。あとはこの事実を使って、藤原不比等によって隠された次の時代の歴史の真相を科学的に探究していきたいと思っています( ^)o(^ )

刮目天
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん 今発掘が始まっていますが、佐賀平野はシナの影響を強く受けていますよ。弥生中期に奴(ナーガ=龍蛇神)国王の要請で徐福が来日して吉野ヶ里遺跡一帯の王にしてもらったと推理していますので、証拠が見つかればいいなと期待しています。

本質家
@刮目天
大和王権と別の北九州勢力があったので、佐賀平野で大陸の影響があるのは当然で、邪馬台国は30余国を統一したと言う話なので、魏志和人伝の記述がおかしいと思います。


刮目天
@本質家 さん それは三世紀ごろの話です。徐福はBC.219に来日していますよ(^_-)-☆奴国はそのころ須玖タカウタ遺跡で官営工場を作っていますし、須玖岡本の王宮に宮廷楽師が登場したと考えています。
吉野ヶ里の墳丘墓の南側にある祭祀遺跡と西南の方向から入る墓道が前漢の武帝が、泰山の麓で行った明堂の祀りと一致していることが分かっていますし、その他にも高島先生が指摘していましたよ(^_-)-☆

【関連記事】
弥生時代に神代文字あったのか?(*^。^*)



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神代文字は縄文時代からあったのか?( ^)o(^ )

2022-05-03 11:28:10 | 古代史
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本日は憲法記念日という国恥記念日ともいうべき日なので、例年記事にしています。しかし、現在行われているロシアのウクライナ侵攻の悲惨な内容の報道によって「自分の国は自分で護る」という当たり前のことに気づかせてくれましたので、今回は記事をやめます。

でも、この憲法はすでに超軍事大国だった米国が弱体化して覇権を奪おうとしている反日国家や危険な独裁国家に日本が囲まれていますので、もう賞味期限切れです。いつまでも置いておくと日本国民にとってとても危険です。儲けのために戦争をたくらむ勢力がゴロゴロいるからです。(偽)平和憲法の正体と、どうすべきかについては、すでに記事にしていますので、ご興味ある方は「腰砕け外交は戦争を誘う!(;´Д`)」をご参照ください。

さて、神代文字について前回「弥生時代に神代文字あったのか?(*^。^*)」(2022-04-29 02:35:38)で記事にしましたが、太古の神代文字に関する追加の話題です。

神代文字のひとつ「ヲシテ文字」で書かれた「ホツマツタエ」によって、卑弥呼が宇佐神宮で比売大神として祀られていることを述べた清輔道生「卑弥呼と宇佐王国」(彩流社 1995)があります。宇佐市安心院町の妻垣神社を宮殿とした宇佐王国の話です。「ホツマツタエ」は景行天皇の御代にオオタタネコが献上した歴史書とされ、アマテラスは男神となっており、ソサノヲ(スサノヲ)をその弟とするなど、記紀と異なる内容になっており、記紀がホツマツタエを種本として改変したという主張です。



しかし、wiki「ヲシテ文献」によれば、「江戸時代に国学が隆盛し、漢字伝来以前の日本が独自の文字を有していたとの説が広がった。その為、「神代文字(しんだいもじ・かみよもじ)とよばれる多くの文字が創作された」とあり、ヲシテ文字も江戸時代より古くからあったものではないとされています。刮目天が解明した古代史の内容とも異なります。

江戸時代に作られた多くの神代文字のもとになったと思われる縄文・弥生時代にみられる記号文字に関するいい記事を見つけましたので【参考記事】をご覧ください!

しかし、すでに発見されている墨書土器は奈良・平安時代のものがほとんどで、弥生時代のものはまだ見つかっていないようです。硯石は見つかっていますから、そのうちに見つかるかもしれませんよ(^_-)-☆

【参考記事】
日本には縄文時代から文字があった!! 日本の歴史と日本人のルーツ
日本文字の起源 日本の歴史と日本人のルーツ


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【刮目天の古代史】事実だけが真相に導く?(^_-)-☆

2022-05-01 17:45:39 | 古代史
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以下の興味深い動画にコメントして「魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆ 」(2022-03-30 21:52:19)に記事にしましたが、わたしの別のコメントに対して、多くの日本人に共通するいいお返事をいただきましたので、またブログ記事にさせていただきます。刮目天の読者には、何度も同じような話でちょっとくどいかなと思いますが、古代史解明の重要なポイントですので、どうぞお付き合いください( ^)o(^ )


【魏志倭人伝】女王 卑弥呼の使者は 魏の国に 着くと我は 呉の 太伯 の 末なり 位は 大夫なり!と 名乗った! 21,793 回視聴2021/10/27 歴史マニア@YouTube

日常と非日常さん
3 か月前
卑弥呼も邪馬台国も陳寿の創作。
それなのに、その幻を追いかける日本人はなんて幸せなんだろう。


歴史マニアさん
3 か月前
そうなんですか?そう言われてみれば可能性ありますね。これだけ皆さんが研究されても確かな根拠が出ないのは、無い国かも?そして居ない人かも?凄い発想ですね❗

K Mさん
2 か月前
1.言葉が全く異なるんですがそれは
2.400年も時代にずれがあるんですがそれは
3.なんで文字残してないの?文字資料無いのになんでそんなこと知ってるの?エスパーなの?w
これ宿題な笑 ちゃんとやれよ笑笑


刮目天一
4 週間前
日常と非日常さん いい目の付け所です。しかし、陳寿はすでにあった史書や魏使の報告書から文章を抜き出して三国志を撰したので、勝手に創作しないと考えていいと思います。ですからその報告書が政治的な理由で書かれたものだったので、万人が納得する場所にたどり着けなかった訳です。詳しくは拙ブログ「魏志倭人伝の真実?」などをご覧ください(*^▽^*)

ジャパン・ファーストさん
8 時間前
陳寿の創作かどうかわかりませんが、
日本書紀を読むと土蜘蛛という九州勢力が度々登場します。そして女性首長のケースも多数あります。
日本書紀はその当時の描写を的確に記されたのかと思いますよ。
そう考えると九州には女性首長の政治文化があった可能性は捨てきれません。
卑弥呼はあくまで魏志倭人伝や新羅本記で確認出来るだけで他国から見た倭の統治者という位置付けですので、日本から見た統治者という位置付けと同義とは限らない可能性もあります。
邪馬台国に振り回されて歴史認識を誤るより、日本書紀に沿って歴史認識を深めた方が近道かと思います。
私は邪馬台国は九州のどこかで女性首長の国だった魏志は正しいと思ってます。
そもそも魏志を否定しても真実解明できませんからね


刮目天一
ジャパン・ファーストさん
いいご意見をありがとうございます。事情が込み入っていて、ちょっと長くなりますので、拙ブログにてお返事いたします。分かりにくい箇所があれば、またコメントをくださいね。よろしくお願いいたします。( ^)o(^ )

西晋の史官だった陳寿は既に存在する史料から文章を撰する作業をする役目ですから、基本的に創作はしないと考えています。でも偏向はありますよ。歴史家以前に宮仕えですからね。そして歴史家のプライドから春秋の筆法を使って、陳寿自身が気づいた真相にそれとなく誘導していることはあると考えています(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018,p.49「微言大義の原理」) 。しかし陳寿の目的は、意外なことにあまり知られていないのですが、西晋の基礎を作った魏の実力者司馬懿の功績を称えるのが目的だったことは、いろいろなことから分かります(「魏志倭人伝の真実?」など参照)。

そうすると、創作ではなかったのであれば、魏志倭人伝の元ネタは宮廷の書庫に眠っていた、二度倭国を訪れた魏使の報告書がメインだったと分かります。政治的な背景について、岡田英弘先生の「日本史の誕生」(筑摩文庫)に詳しくありました。でも、多くの研究者は、この政治的背景を無視していたと分かったので、そこから邪馬台国問題にハマってしまいました。わたしは理系分野で研究開発を長年やってきましたので、事実に基づいて科学的に探求することが染みついていますから、三世紀ころの日本建国時代の考古学の成果を調べることから始めました。特に鉄について調べて、鉄鏃や銅鏃の出土状況を調べて、二世紀末の倭国大乱がどこであったのか?またその後の邪馬台国の滅亡から日本建国時代の戦乱の痕跡を調べました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

まず初期前方後円墳の存在するヤマト王権発祥地である纏向遺跡の外来土器を見て驚きました。その時代の九州の土器がほとんどないのです。畿内説を唱えている多くの歴史家は何を考えているのか?驚きました。北部九州の伊都国は倭国の玄関口です。魏志倭人伝に、一大率を置いて女王への貢物を間違いなく届ける役目だったとあるので、纏向遺跡に女王が居なかったとすぐに気づくはずです。また、纏向遺跡の初期前方後円墳で行われた祭祀に東海・山陰・北陸・吉備・河内・四国・関東などの勢力、しかも纏向遺跡に多数見られる掘建て柱建物に居住するような、各地の王や高官が集まってきているにもかかわらず、九州の勢力は参加していないのです。水田跡もないので、単なる集落ではない宗教・政治都市なのです。この事実から、邪馬台国は纏向遺跡にはなく、九州にあったはずで、中心部が北部九州にあった倭国の勢力とは敵対関係にあったということにも容易に気づきます。



ついでに申し上げると、狗奴国の官の狗古智卑狗に因む地名「菊池」が熊本県にあるので、多くの研究者は狗奴国は熊本だと考えていますが、それでは、どういう経緯でヤマト王権が成立したのか疑問が起こります。古くから、九州にあった邪馬台国が東遷したという説もありましたが、この時期の九州の土器は纏向遺跡にないのですから、邪馬台国東遷説も成り立ちません。神武天皇が初代天皇ですから、日向からヤマトに東征したはずだと多くの方は信じておられるようですが、ヤマト王権が成立した三世紀に九州の勢力が纏向遺跡に来ていないのですから、神武東征も虚構だとすぐに分かるはずです。

そうなると、纏向遺跡の地に狗奴国があって、九州の邪馬台国を滅ぼして日本を統一してヤマト王権が成立したのだと考えることができます(注1)。

しかし、そこで問題となるのが、神武東征が虚構であることからもわかるように、日本の古代史の拠り所といている記紀の記述の信ぴょう性です。

これを考える以前は、そのことにはあまり気に留めておらず、記紀神話は太古の人々の史実を元にした伝承に基づき作られたものだから荒唐無稽は当然だろうと好意的に考えていました。そうすると、卑弥呼に対するイメージも、多くの方と同様に神功皇后紀などで土蜘蛛とされた九州の女性シャーマンで、倭国の騒乱を収める能力のある女性首長のことかなと思っていました。

しかし、人気古代史作家の関裕二さんの著書を手にしてから、記紀に対する見方が百八十度変わってしまいました。現存する最古の正史「日本書紀」も魏志倭人伝と同様で、権力者が権力を維持するために編纂させた歴史書だったということなのです。

多くの日本人は天武天皇が史書の編纂を命じたので、記紀は天皇の歴史書だと思っていますが、大きな間違いだったのです。

日本書紀が完成したのは崩御から三十年以上たった後の720年です。時の権力者は、天武天皇の遺志を継いだとされている皇后鵜野讃良(持統天皇)を後ろ盾にして、天皇家の外戚となり大宝律令を制定して、権力を振るった藤原不比等だったのです。

不比等は権力を維持する上で不都合な日本の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の伝承を奪い取り、藤原氏に都合の良い神話を創作したということが考古学や民俗学の成果から分かりました。義兄の中臣意美麻呂を神祇伯に据えて、宮中祭祀と神社行政を掌握し、徹底的に豪族を中央から排除しました。普通の方は思いもよらないはずですが、豪族たちの祀っている祭神名や社名も強権で変えさせたことも分かりました(拙ブログ「見ようとすれば「正史」のウソを見抜ける!」、「卑弥呼は何故隠された?」などを参照)。

現存する最古の歴史書とされる「古事記」は、九世紀になって当時朝廷で日本書紀を講義していた学者多人長が突然言い出して登場した歴史書ですが、序文は人長が書いたものだということは知られています。内容も基本的には日本書紀に沿ったものですが、日本書紀にない話があるので、歴史の真相を暴露するものなのです(「日本神話の正体は?(その1)」参照)。

記紀神話も、史実とされた日本書紀の内容も、歴史を相当歪曲し、捏造したものだということが考古学や民俗学の成果から分かります。

記紀が登場しても江戸時代まで多くの日本人はその存在すら知らなかったようですが、日本の建国時代の戦乱で不慮の死を遂げた高貴な人々が、天変地異や疫病などの祟りをなすと信じられており、奈良時代から山岳信仰の修験道や仏教でも神仏習合の形で神様の正体が分からないようにして祈祷が行われていました。しかし、平安時代の朝廷は異変があるたびに神々のゆかりの神社に勅使を立てて、神階を上げ、食封などを加増して丁重に祈祷していることから、神様の正体が分かります(「古代史のカギを握る神々の正体?」、「本当は怖い七福神の謎(;一_一)」など参照)。

幕末に西洋列強の脅威に対して尊王攘夷運動が起こり、明治時代を迎えると国民の団結のために記紀神話に基づく国家神道が創設されて、国史を学校教育するようになりました。戦前は記紀の研究も自由に行われませんでしたので、戦後はその反動から記紀を無視して、唯物史観で歴史を捉えるようになりましたが、「考古学は歴史学の代用にならない」と岡田先生が主張されたとおり、とても古代史とは呼べないレベルです。最近ではその反動もあり、記紀の内容が史実に基づくものだとして、記紀を事実に合うように解釈して解決する方向や、記紀の研究もかなり進んできました。しかし、最初に述べたとおり、多くの方の頭に染み付いた天皇の歴史書という間違った刷り込みから脱することができないので、古代史がいまだに十分に解明されていないのです。

記紀は古代から受け継がれた宗教的な概念が満載されているので、それをヒントとして、藤原不比等の政治目的を読むことにより、史実と思われるいくつかの事象を経時的に並べて、考古学や民俗学などの成果からこれらを矛盾なく説明する仮説を構築できます。それをさらに、様々な事象で検証して、仮説を詳細化・修正・拡張して科学的に解明することができました。従来一つ一つの事象に様々な解釈が存在するので、何が正解なのかが皆目わからなかったのですが、ここで提案した科学的問題解決の手法を使うと、古代史の真相を表す可能性の高い仮説が一つ見つかります。よろしければ拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください(^_-)-☆


(注1)だから、邪馬台国は九州にあったはずですし、狗奴国は纏向遺跡にあったと考えるのが自然だと思いますが、九州説の学者はいますが、狗奴国が纏向遺跡にあったと主張する学者は、私が知る限り誰もいませんから不思議ですね(#^.^#)。  

そうであるにもかかわらず、マスメディアはしきりと邪馬台国畿内説を持ち上げ、九州説との対立という形で視聴者を取ろうとしているばかばかしさは、普通の頭の人間にはとても考えられない世界です(*´Д`)。NHKの番組「クローズアップ現代 【卑弥呼の宮殿】」ではほとんど出土していない、あっても1%以下の九州の土器までが来ているような印象操作までやっていましたから、番組を視た方は畿内説で決まりと思ったようです(「卑弥呼の宮殿?」のコメント参照)。

ざっくりな世界史


頭の中に邪馬台国はヤマト王権が始まった畿内だということが先に刷り込まれていて、後は巨大な前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓に違いない!とか、中国で出土しない三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡のはずだ!と決めつけているからとか、夥しい数の桃の種の出土に化かされているのでしょうか?そもそも権威のある学者が言い出したので、それを否定はできないというのは権威主義そのものです。おそらく、ほとんどの学者は気づいているのだと思いますが、今さら畿内説を否定しても自身のメリットにならないということなのでしょうか?でもそれは学問を追求する学者の姿勢ではないと思いますね。纏向遺跡を掘った関川先生が畿内説を否定して少しいい風が吹くのかと思いきや、九州説を徹底して論じる方向にもなっていないのが残念です(;´Д`)

【参考記事】邪馬台国の場所も卑弥呼の正体も判明していますよ(*^。^*)
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)


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