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古代史ランキング
前回の記事でご紹介した仁徳天皇陵に関するいい動画のコメントの続きです。またお付き合いください(*^▽^*)
本質家
@刮目天
俺のイメージだと弥生時代から日向と四国が大和王権の基になって、奇怪カルデラの爆発で北九州と朝鮮半島南部の文明圏が出来たと思います。
四国の対岸の出雲地方や広島には元から文明圏があって、
神武東征は14代仲哀天皇の時代の神功皇后の三韓討伐のが250年位だとすれば、
継体天皇が古事記で527年没なので、
紀元0年辺りの事だと思われて、
3世紀の纏向遺跡で出土する土器は、
既に移動した後なので出雲や四国のものになっているはずです。
朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、
三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。
刮目天
@本質家 さん わしのアタマが破局噴火しそうですよ!
鬼界カルデラの最近の爆発は7300年前となっていますが、ヤマト王権の成立は3世紀後半の話ですよ!
時代が相当離れていますが、あなたのイメージではそんな時間差は関係ないのですかね(;´Д`)
7300年前に文明が北九州と半島南部に生まれたというあなたの奇怪な説は、すべての考古学者のアタマを噴火させると思いますよ。文献と考古学の成果から紀元前12世紀から始まる箕子朝鮮の青銅器文化からの半島の様子は分かっています。それ以降の古代史で鬼界カルデラ噴火の影響はないと思いますよ(拙ブログ「半島の古代史(漢四郡まで)」参照)。
出雲地方は四国の対岸ではないですが、神武東征はいつ頃の話ですか?記紀神話が正しいとすると前660年に即位したことになっていますが、その頃は弥生前期ですから、どこにも王墓が見られませんよ。
列島最初の前4世紀、弥生中期初頭の王墓が吉武・高木遺跡です。宋史 王年代紀の初代王天御中主、二代目天叢雲尊、三代目天八重雲尊の三人の王墓です。天叢雲尊の墓から三種の神器が出ています。他の墓の副葬品から、王と王妃と王子たちの集団墓地になっていることが分かります。従来は弥生最初の早良王国としていましたが、天は海、中はナーガ=龍蛇神ですから、ナーガを信奉する部族の長(海神)で初代奴国王です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/bf/d61a6cff8b7ff5675da0dae77f3c4d27.png)
4代目が天弥聞尊で、天孫降臨の元ネタになった王です。祖父から三種の神器を渡されて、須玖岡本遺跡に王宮を作り、子孫らが博多に列島内の交易センター比恵・那珂遺跡群を作り取引税を取って隆盛にしたと推理しています(拙ブログ「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。
このころ畿内には王墓など見つかっていないと思います。畿内では唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡などの拠点集落にも王墓は見つかっていません。弥生中期初頭に四国や広島や出雲に王墓があったとは聞いてませんよ。列島内では北部九州が先進地帯です。
「3世紀の纏向遺跡で出土する土器は、既に移動した後なので出雲や四国のものになっているはずです。」とありますが、どういうことですか?纏向遺跡では外来土器の約半分が東海のもので、山陰・北陸で17%、讃岐・阿波で3%ですよ。拙ブログに図で示していますので、参照してください。
「朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。」ですが、纏向の外来勢力が東海です。纏向遺跡は狗奴国の拠点で、卑弥弓呼王は吉備で奴国を再興した第19代天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ですが、東海の中心勢力もニギハヤヒ大王の子孫の尾張王だと推理しています。この尾張王が大将となって山陰・北陸・近江のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命で棟上式の祭神です。木の霊イタケルの直系の子孫が代々王となったと推理しています)が副将として倭国を討伐するために九州に遠征したと推理しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/7f/f822f0c3e13dbe94628659d62626b17d.png)
少し時代を巻き戻しますが、倭国は第18代奴国王スサノヲを殺して奴国を乗っ取り、王宮を伊都国に定めた奴国の宮廷楽師帥升(正しくは師升)の子孫の難升米が王となっていました。二世紀末に半島が混乱し、楽浪郡との交易ができずに衰退していました。
一方、狗古智卑狗は半島南部の鉄素材をスサノヲ大王のコネで入手し、スサノヲノ弟ニギハヤヒに鉄製の武器を供給します。ニギハヤヒはムナカタ族の支援で吉備を平定して、奴国を再興して、隆盛になり、ヤマト政権の基礎を築きました。楯築王墓の被葬者です。
このころから鉄素材や製品を入手するために狗古智卑狗との関係を築き、各地の首長の系列化が起こり、首長の権力が強まり、首長霊信仰が始まります。出雲に最初に四隅突出型墳丘墓がで、東に広がり、古墳時代の幕開けになります。
倭国大乱は先に説明したとおりですが、倭国王難升米が玄界灘を支配する赤坂比古率いるムナカタ海人族を懐柔して、その条件として太陽神のお告げを姫巫女(卑弥呼)より聞いて政治判断することで赤坂比古と合意したと推理しました。原因は狗古智卑狗の戦死だと推理しました。墓は方保田東原遺跡とうてな遺跡を見下ろす丘にある風車公園の茶臼塚古墳だと分かりました(拙ブログ「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」参照)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/22/1e122fafd18d3aa0b10759dad15f9849.png)
赤坂比古の裏切りで狗奴国に鉄素材が供給されなくなって衰退することになるので、吉備から卑弥弓呼王が西に対して堅牢なヤマトの纏向遺跡に王宮を作り、各地の王族を集めたということです。
ですから、あなたの説「朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。」はわたしの推理とは異なります。三韓は4世紀に成立しますので、神功皇后の三韓征伐は日本書紀の虚構です。神功皇后は13歳で女王にさせられた台与をモデルとして史実を誤魔化すために登場させていると分かりました。
本質家
@刮目天
一つの可能性を言わせてもらうならば、藤原氏は確かに大化の改新で蘇我氏を打ち滅ぼしましたが、その後平安時代を作って安定した日本にしています。
神武東征については大阪の過去の地形によって、記紀の記述が裏付けられているので事実としてみた方がよく、遺跡などの状況から見てもわかるのです。
蘇我氏と言うのは秦氏と共に大秦寺と言う景教勢力で、大和王権が東に勢力を広げる中で日本を騙して、朝鮮半島を唐に献上した可能性が高いのです。
635年に唐で景教の布教が許可されて645年に大化の改新で、日本勢力だった百済が滅ぼされた660年の後、663年に白村江の戦いで明らかにおかしいのです。
刮目天
@本質家 さん 事実に基づいて言わないと相手にされませんよ(*´Д`)
最近の研究から大化の改新はフェイクだと分かって来ています。すでに中央集権化がすすめられていた証拠が見つかったからです。乙巳の変も皇極(斉明)天皇も架空の話だと万葉集研究家の渡辺康則氏が「聖徳太子は天皇だった」で解明しています。
関裕二氏は聖徳太子が蘇我入鹿だとしましたが、実は入鹿も架空の人物です。聖徳太子は蝦夷とされた人物だと渡辺氏が推理しています。渡辺氏は中大兄は皇子ではなく天皇に即位していないと突き止めています。刮目天はニギハヤヒ直系の子孫だと推理しています。蘇我氏はフェイクで記紀で武内宿禰とされた狗古智卑狗の子孫でヤマトの大王(天皇)です。その一族は石川氏というのが正しいかと思います。
景教が日本に輸入されたとしていますが、それによって大化の改新とどうつながるのか全く分かりませんよ(;´Д`)
本質家
@刮目天
ちょっと根本的におかしいのが、歴史書に嘘があると言うのは確かですが、魏志和人伝などについての検証をせずに、藤原氏だけを貶めていませんか?
663年の白村江の戦いで負けて、壬申の乱があった後に天武天皇が、大陸に日本の正当性を示す為に作って、遣唐使は何事もなかったかのように続いています。
古事記の内容を見れば本来は書かなくても良いことまで書いてあって、藤原氏が正当化する為と言うよりは大和王権を正当に示したのです。
ちょっとこれだけは確認しておかないといけないのですが、任那日本府の表記通りに朝鮮半島南部に前方後円墳がありますが、それを何だと思いますか?
刮目天
@本質家 さん 魏志倭人伝の内容についても検証して全体のストーリーができているのですよ。
事実で検証し、矛盾する内容があれば修正する科学的な手法を使っているのです。
天武天皇は蘇我の大王家だと推理しています。
即位してもいない天智天皇が派遣したことになっていますが、天武天皇の事績だと推理しています。
斉明天皇の遣唐使は蘇我蝦夷とされた天皇だと推理しています。
遡って、遣隋使は蘇我馬子とされた用明天皇と次の天皇だと考えています。
推古女帝もフェイクです。持統天皇もフェイクですがその前例を創作するために推古・皇極(斉明)を登場させています。
古事記は9世紀の学者で日本書紀を講義していた多人長が作った偽書です。
しかし、当時の人の考え方が分かるので、貴重な資料です(詳細は岡田英弘「倭国の時代」ちくま文庫参照)。
ヤマト王権が三世紀末に成立し、国内の混乱を収めて朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために倭人の将軍たちを派遣し、任那日本府を作ったのです。前方後円墳の被葬者たちは全て倭人だと見ています。
高句麗に追われて半島で再興した百済は馬韓の伯済国から出たとされており、元々奴国王の配下だった倭人だと推理していますので、日本人男性のY染色体DNA分析結果から考えて関裕二氏の鎌足百済王子説は正しいと思います(拙ブログ「渡来人は異民族とは限らない?」参照)。
関裕二「古代史の正体」(新潮新書 2021.4)は日本書紀の虚構の内容がよくまとめられていますので、刮目天の日本建国史と合わせてご参照頂くと目が覚めると思いますよ。よろしくお願いしますね(^_-)-☆。
本質家
@刮目天
ちょっと失礼なのですが事実と言うのは当時の国際情勢なはずで、238年に魏の司馬懿が漢の楽浪郡の残党の遼東公孫氏を倒してます。
ところが軍を進めたのに、朝鮮半島南部と新羅は放置をして朝鮮半島統一をしていないので、どう見ても北九州・朝鮮半島南部とワイの新羅は柵封されていたのです。
だから280年から290年に書かれた魏志倭人伝で陳寿は、北九州の地形までは実際に同定出来たが、三韓討伐で朝鮮半島南部を取った大和王権には行けなかったのです。
刮目さんの論点では北九州が日本を支配していた勢力となりますが、出雲や日向・四国を説明できなくなって、明らかに3世紀に大和王権が急にできたわけではないのです。
刮目天
@本質家 さん 先に、どっかで書かなかったかな?わたしのコメントをよく読んでくださいよ。
ちょっと細かく言うと司馬懿が公孫氏を景初二年(238年)8月に遼東郡で破って、公孫氏の首を刎ねて、明帝に報告しています。それを受けて明帝は密かに準備していた船団を出動させて楽浪郡と帯方郡の残党を掃討しています。
12月に明帝の病気が重くなり、司馬懿は明帝に面会して、曹叡(明帝)は子の曹芳(少帝)の大傳(後見人)になるように遺言し崩御します。司馬懿は半島に明帝が派遣した太守らを自分の息のかかった人物(帯方郡は劉夏)に交代させ、公孫氏の支配下だった倭国を懐柔させるよう命じたと推理しています。
翌年6月に倭国王難升米が帯方郡に出かけて劉夏と面談しました。12月には司馬懿は尚書省を掌握して、倭女王への詔書を作ったので、難升米を洛陽に呼び寄せて歓待したと思います。東夷を平定した功績を第一等のものと朝廷の人々に理解させる演出を整えたということです。
これによって、司馬氏が政権を掌握して、司馬懿の死後265年に魏の帝位を孫司馬炎が禅譲されて西晋が建国されたという経緯があります。魏志倭人伝は司馬懿の功績を西晋の朝廷の人々に理解させるために編纂されたのですよ(^_-)-☆
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/cf/c28784893e104aeb175d09c6b95bd68c.png)
だからそういう一連の仮説で事実を調べると矛盾なく説明できるのです。
仮説に合致しない場合は修正しなくてはいけませんが、三国志の内容からみて記述の誤写を正しくしたくらいで特になかったと思います。行程記事はそのまま読めば事実と違う内容ですから、虚偽だと簡単に見抜けますよ。
でも多くの方は三国志や魏志倭人伝が何のために編纂されたかの政治的な理由をあまり考えないので、細かい字句の解釈の話に終始して、大筋を読めなかったのですよ。いわゆる、「木を見て森を見ず」ということです(^_-)-☆
本質家
@刮目天
刮目さんは答えてくれていませんが、朝鮮半島南部にある大和王権方式の前方後円墳は、いったい何だと思いますか?
帥升と倭の五王は朝貢しているのでどう見てもつながって、大和王権が隋に対等外交を求めた事とは、一切繋がっていないのはなぜなのか?
特に400年代の倭の5王については、しきりに朝鮮半島南部の王としての承認を求めているが、後の任那などを見れば大和王権の支配地域だったのになぜか?
答えは北九州の勢力と大和王権は別で、日向・四国勢力と出雲勢力が統合して東に勢力を広げて、北九州勢力は大陸と新羅と内通するしかなかったと言う事です。
刮目天
@本質家 さん 前方後円墳の被葬者はヤマト政権から派遣された人物だとどこかで書きましたよ。墳形から多分、物部氏かその支族だと考えていますが、まだ人物は特定できていません。
それで、107年の師升王と4,5世紀の倭の五王の話や7世紀初頭の遣隋使の話をいっぺんに出されるとは、また、わしのアタマは奇怪カルデラの破局噴火ですよ。
キミは噴火で地上に降り立ったマグマ大使か?時間を超越しているようだね!
じゃあ、さきにわしが説明したことも理解できないのはある意味、納得だ!(;´Д`)
早く地上の人間の論理に慣れてくれないと、これ以上議論できないですよ!
いつぞやはわしのこと親身になって心配してくれたので、ありがたかった。
だから身内のような感覚です。
君は古代史をやるよりももっと宇宙の解明とかそういうことの方が向いて言うと思いますよ。
素粒子論で新しい時間概念の理論ができそうだから、人類に貢献できる思うよ。頑張ってみない?(^_-)-☆
本質家
@刮目天
ちなみに成甲書房の朴甲東と言う人物を知っていますよね?
刮目天
@本質家 くん ボク知らない!( ^)o(^ )
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/7c/3e36282c6b9db438df3d1e6b27112b3c.png)
冗長な話を最後までお付き合い、ありがとうございます。
マグマ大使が相手ですから、まだまだ、続いてますが一旦ここまでにしましょう(*´Д`)
面白いと思われる方は動画のコメント欄を覗いてみてください。よろしくお願いします(/・ω・)/
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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前回の記事でご紹介した仁徳天皇陵に関するいい動画のコメントの続きです。またお付き合いください(*^▽^*)
本質家
@刮目天
俺のイメージだと弥生時代から日向と四国が大和王権の基になって、奇怪カルデラの爆発で北九州と朝鮮半島南部の文明圏が出来たと思います。
四国の対岸の出雲地方や広島には元から文明圏があって、
神武東征は14代仲哀天皇の時代の神功皇后の三韓討伐のが250年位だとすれば、
継体天皇が古事記で527年没なので、
紀元0年辺りの事だと思われて、
3世紀の纏向遺跡で出土する土器は、
既に移動した後なので出雲や四国のものになっているはずです。
朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、
三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。
刮目天
@本質家 さん わしのアタマが破局噴火しそうですよ!
鬼界カルデラの最近の爆発は7300年前となっていますが、ヤマト王権の成立は3世紀後半の話ですよ!
時代が相当離れていますが、あなたのイメージではそんな時間差は関係ないのですかね(;´Д`)
7300年前に文明が北九州と半島南部に生まれたというあなたの奇怪な説は、すべての考古学者のアタマを噴火させると思いますよ。文献と考古学の成果から紀元前12世紀から始まる箕子朝鮮の青銅器文化からの半島の様子は分かっています。それ以降の古代史で鬼界カルデラ噴火の影響はないと思いますよ(拙ブログ「半島の古代史(漢四郡まで)」参照)。
出雲地方は四国の対岸ではないですが、神武東征はいつ頃の話ですか?記紀神話が正しいとすると前660年に即位したことになっていますが、その頃は弥生前期ですから、どこにも王墓が見られませんよ。
列島最初の前4世紀、弥生中期初頭の王墓が吉武・高木遺跡です。宋史 王年代紀の初代王天御中主、二代目天叢雲尊、三代目天八重雲尊の三人の王墓です。天叢雲尊の墓から三種の神器が出ています。他の墓の副葬品から、王と王妃と王子たちの集団墓地になっていることが分かります。従来は弥生最初の早良王国としていましたが、天は海、中はナーガ=龍蛇神ですから、ナーガを信奉する部族の長(海神)で初代奴国王です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/bf/d61a6cff8b7ff5675da0dae77f3c4d27.png)
(図のK117初代王天御中主 M3二代目天叢雲尊 M2三代目天八重雲尊 の墓と推定)
4代目が天弥聞尊で、天孫降臨の元ネタになった王です。祖父から三種の神器を渡されて、須玖岡本遺跡に王宮を作り、子孫らが博多に列島内の交易センター比恵・那珂遺跡群を作り取引税を取って隆盛にしたと推理しています(拙ブログ「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。
このころ畿内には王墓など見つかっていないと思います。畿内では唐古・鍵遺跡や池上曽根遺跡などの拠点集落にも王墓は見つかっていません。弥生中期初頭に四国や広島や出雲に王墓があったとは聞いてませんよ。列島内では北部九州が先進地帯です。
「3世紀の纏向遺跡で出土する土器は、既に移動した後なので出雲や四国のものになっているはずです。」とありますが、どういうことですか?纏向遺跡では外来土器の約半分が東海のもので、山陰・北陸で17%、讃岐・阿波で3%ですよ。拙ブログに図で示していますので、参照してください。
「朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。」ですが、纏向の外来勢力が東海です。纏向遺跡は狗奴国の拠点で、卑弥弓呼王は吉備で奴国を再興した第19代天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ですが、東海の中心勢力もニギハヤヒ大王の子孫の尾張王だと推理しています。この尾張王が大将となって山陰・北陸・近江のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命で棟上式の祭神です。木の霊イタケルの直系の子孫が代々王となったと推理しています)が副将として倭国を討伐するために九州に遠征したと推理しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/7f/f822f0c3e13dbe94628659d62626b17d.png)
少し時代を巻き戻しますが、倭国は第18代奴国王スサノヲを殺して奴国を乗っ取り、王宮を伊都国に定めた奴国の宮廷楽師帥升(正しくは師升)の子孫の難升米が王となっていました。二世紀末に半島が混乱し、楽浪郡との交易ができずに衰退していました。
一方、狗古智卑狗は半島南部の鉄素材をスサノヲ大王のコネで入手し、スサノヲノ弟ニギハヤヒに鉄製の武器を供給します。ニギハヤヒはムナカタ族の支援で吉備を平定して、奴国を再興して、隆盛になり、ヤマト政権の基礎を築きました。楯築王墓の被葬者です。
このころから鉄素材や製品を入手するために狗古智卑狗との関係を築き、各地の首長の系列化が起こり、首長の権力が強まり、首長霊信仰が始まります。出雲に最初に四隅突出型墳丘墓がで、東に広がり、古墳時代の幕開けになります。
倭国大乱は先に説明したとおりですが、倭国王難升米が玄界灘を支配する赤坂比古率いるムナカタ海人族を懐柔して、その条件として太陽神のお告げを姫巫女(卑弥呼)より聞いて政治判断することで赤坂比古と合意したと推理しました。原因は狗古智卑狗の戦死だと推理しました。墓は方保田東原遺跡とうてな遺跡を見下ろす丘にある風車公園の茶臼塚古墳だと分かりました(拙ブログ「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」参照)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/22/1e122fafd18d3aa0b10759dad15f9849.png)
赤坂比古の裏切りで狗奴国に鉄素材が供給されなくなって衰退することになるので、吉備から卑弥弓呼王が西に対して堅牢なヤマトの纏向遺跡に王宮を作り、各地の王族を集めたということです。
ですから、あなたの説「朝鮮半島南部を大和王権の勢力下にした後に畿内や東海へ勢力を更に伸ばしたと考えられるので、三韓討伐の目的が武器の為の鉄の獲得だったとわかるはずです。」はわたしの推理とは異なります。三韓は4世紀に成立しますので、神功皇后の三韓征伐は日本書紀の虚構です。神功皇后は13歳で女王にさせられた台与をモデルとして史実を誤魔化すために登場させていると分かりました。
本質家
@刮目天
一つの可能性を言わせてもらうならば、藤原氏は確かに大化の改新で蘇我氏を打ち滅ぼしましたが、その後平安時代を作って安定した日本にしています。
神武東征については大阪の過去の地形によって、記紀の記述が裏付けられているので事実としてみた方がよく、遺跡などの状況から見てもわかるのです。
蘇我氏と言うのは秦氏と共に大秦寺と言う景教勢力で、大和王権が東に勢力を広げる中で日本を騙して、朝鮮半島を唐に献上した可能性が高いのです。
635年に唐で景教の布教が許可されて645年に大化の改新で、日本勢力だった百済が滅ぼされた660年の後、663年に白村江の戦いで明らかにおかしいのです。
刮目天
@本質家 さん 事実に基づいて言わないと相手にされませんよ(*´Д`)
最近の研究から大化の改新はフェイクだと分かって来ています。すでに中央集権化がすすめられていた証拠が見つかったからです。乙巳の変も皇極(斉明)天皇も架空の話だと万葉集研究家の渡辺康則氏が「聖徳太子は天皇だった」で解明しています。
関裕二氏は聖徳太子が蘇我入鹿だとしましたが、実は入鹿も架空の人物です。聖徳太子は蝦夷とされた人物だと渡辺氏が推理しています。渡辺氏は中大兄は皇子ではなく天皇に即位していないと突き止めています。刮目天はニギハヤヒ直系の子孫だと推理しています。蘇我氏はフェイクで記紀で武内宿禰とされた狗古智卑狗の子孫でヤマトの大王(天皇)です。その一族は石川氏というのが正しいかと思います。
景教が日本に輸入されたとしていますが、それによって大化の改新とどうつながるのか全く分かりませんよ(;´Д`)
本質家
@刮目天
ちょっと根本的におかしいのが、歴史書に嘘があると言うのは確かですが、魏志和人伝などについての検証をせずに、藤原氏だけを貶めていませんか?
663年の白村江の戦いで負けて、壬申の乱があった後に天武天皇が、大陸に日本の正当性を示す為に作って、遣唐使は何事もなかったかのように続いています。
古事記の内容を見れば本来は書かなくても良いことまで書いてあって、藤原氏が正当化する為と言うよりは大和王権を正当に示したのです。
ちょっとこれだけは確認しておかないといけないのですが、任那日本府の表記通りに朝鮮半島南部に前方後円墳がありますが、それを何だと思いますか?
刮目天
@本質家 さん 魏志倭人伝の内容についても検証して全体のストーリーができているのですよ。
事実で検証し、矛盾する内容があれば修正する科学的な手法を使っているのです。
天武天皇は蘇我の大王家だと推理しています。
即位してもいない天智天皇が派遣したことになっていますが、天武天皇の事績だと推理しています。
斉明天皇の遣唐使は蘇我蝦夷とされた天皇だと推理しています。
遡って、遣隋使は蘇我馬子とされた用明天皇と次の天皇だと考えています。
推古女帝もフェイクです。持統天皇もフェイクですがその前例を創作するために推古・皇極(斉明)を登場させています。
古事記は9世紀の学者で日本書紀を講義していた多人長が作った偽書です。
しかし、当時の人の考え方が分かるので、貴重な資料です(詳細は岡田英弘「倭国の時代」ちくま文庫参照)。
ヤマト王権が三世紀末に成立し、国内の混乱を収めて朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために倭人の将軍たちを派遣し、任那日本府を作ったのです。前方後円墳の被葬者たちは全て倭人だと見ています。
高句麗に追われて半島で再興した百済は馬韓の伯済国から出たとされており、元々奴国王の配下だった倭人だと推理していますので、日本人男性のY染色体DNA分析結果から考えて関裕二氏の鎌足百済王子説は正しいと思います(拙ブログ「渡来人は異民族とは限らない?」参照)。
関裕二「古代史の正体」(新潮新書 2021.4)は日本書紀の虚構の内容がよくまとめられていますので、刮目天の日本建国史と合わせてご参照頂くと目が覚めると思いますよ。よろしくお願いしますね(^_-)-☆。
本質家
@刮目天
ちょっと失礼なのですが事実と言うのは当時の国際情勢なはずで、238年に魏の司馬懿が漢の楽浪郡の残党の遼東公孫氏を倒してます。
ところが軍を進めたのに、朝鮮半島南部と新羅は放置をして朝鮮半島統一をしていないので、どう見ても北九州・朝鮮半島南部とワイの新羅は柵封されていたのです。
だから280年から290年に書かれた魏志倭人伝で陳寿は、北九州の地形までは実際に同定出来たが、三韓討伐で朝鮮半島南部を取った大和王権には行けなかったのです。
刮目さんの論点では北九州が日本を支配していた勢力となりますが、出雲や日向・四国を説明できなくなって、明らかに3世紀に大和王権が急にできたわけではないのです。
刮目天
@本質家 さん 先に、どっかで書かなかったかな?わたしのコメントをよく読んでくださいよ。
ちょっと細かく言うと司馬懿が公孫氏を景初二年(238年)8月に遼東郡で破って、公孫氏の首を刎ねて、明帝に報告しています。それを受けて明帝は密かに準備していた船団を出動させて楽浪郡と帯方郡の残党を掃討しています。
12月に明帝の病気が重くなり、司馬懿は明帝に面会して、曹叡(明帝)は子の曹芳(少帝)の大傳(後見人)になるように遺言し崩御します。司馬懿は半島に明帝が派遣した太守らを自分の息のかかった人物(帯方郡は劉夏)に交代させ、公孫氏の支配下だった倭国を懐柔させるよう命じたと推理しています。
翌年6月に倭国王難升米が帯方郡に出かけて劉夏と面談しました。12月には司馬懿は尚書省を掌握して、倭女王への詔書を作ったので、難升米を洛陽に呼び寄せて歓待したと思います。東夷を平定した功績を第一等のものと朝廷の人々に理解させる演出を整えたということです。
これによって、司馬氏が政権を掌握して、司馬懿の死後265年に魏の帝位を孫司馬炎が禅譲されて西晋が建国されたという経緯があります。魏志倭人伝は司馬懿の功績を西晋の朝廷の人々に理解させるために編纂されたのですよ(^_-)-☆
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だからそういう一連の仮説で事実を調べると矛盾なく説明できるのです。
仮説に合致しない場合は修正しなくてはいけませんが、三国志の内容からみて記述の誤写を正しくしたくらいで特になかったと思います。行程記事はそのまま読めば事実と違う内容ですから、虚偽だと簡単に見抜けますよ。
でも多くの方は三国志や魏志倭人伝が何のために編纂されたかの政治的な理由をあまり考えないので、細かい字句の解釈の話に終始して、大筋を読めなかったのですよ。いわゆる、「木を見て森を見ず」ということです(^_-)-☆
本質家
@刮目天
刮目さんは答えてくれていませんが、朝鮮半島南部にある大和王権方式の前方後円墳は、いったい何だと思いますか?
帥升と倭の五王は朝貢しているのでどう見てもつながって、大和王権が隋に対等外交を求めた事とは、一切繋がっていないのはなぜなのか?
特に400年代の倭の5王については、しきりに朝鮮半島南部の王としての承認を求めているが、後の任那などを見れば大和王権の支配地域だったのになぜか?
答えは北九州の勢力と大和王権は別で、日向・四国勢力と出雲勢力が統合して東に勢力を広げて、北九州勢力は大陸と新羅と内通するしかなかったと言う事です。
刮目天
@本質家 さん 前方後円墳の被葬者はヤマト政権から派遣された人物だとどこかで書きましたよ。墳形から多分、物部氏かその支族だと考えていますが、まだ人物は特定できていません。
それで、107年の師升王と4,5世紀の倭の五王の話や7世紀初頭の遣隋使の話をいっぺんに出されるとは、また、わしのアタマは奇怪カルデラの破局噴火ですよ。
キミは噴火で地上に降り立ったマグマ大使か?時間を超越しているようだね!
じゃあ、さきにわしが説明したことも理解できないのはある意味、納得だ!(;´Д`)
早く地上の人間の論理に慣れてくれないと、これ以上議論できないですよ!
いつぞやはわしのこと親身になって心配してくれたので、ありがたかった。
だから身内のような感覚です。
君は古代史をやるよりももっと宇宙の解明とかそういうことの方が向いて言うと思いますよ。
素粒子論で新しい時間概念の理論ができそうだから、人類に貢献できる思うよ。頑張ってみない?(^_-)-☆
本質家
@刮目天
ちなみに成甲書房の朴甲東と言う人物を知っていますよね?
刮目天
@本質家 くん ボク知らない!( ^)o(^ )
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冗長な話を最後までお付き合い、ありがとうございます。
マグマ大使が相手ですから、まだまだ、続いてますが一旦ここまでにしましょう(*´Д`)
面白いと思われる方は動画のコメント欄を覗いてみてください。よろしくお願いします(/・ω・)/
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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