直島の宮之浦港には、草間弥生氏の赤カボチャがある。 94年に同氏が黄色のカボチャを製作したが、もっと大きなものをと言うことで、この赤カボチャを製作したそうだ。

草間弥生1929年3月22日松本市生まれ。統合失調症の幻覚や幻聴から逃れるため、それらを描きとめる絵を描きはじめる。(水玉をモチーフにする。)
フェリーは宇野港を目指す。

直島の北の端には投錨禁止の看板があり、水道管が海から山に向け敷設されている。この水道水は、玉野市築港の高辺地区から海底を通り、直島住民の飲料水となっている。

いよいよ寄港地宇野港が見えてきた。宇野港は、1909(明治42)年 第8代お岡山県知事檜垣直右氏の尽力により完成。翌10年には宇野線と宇高連絡船が開通した。しかし、1955(昭和30)年紫雲丸事故の影響で、1988(昭和63)年最後の連絡船讃岐丸(3,080t)が蛍の光とともに出航し、78年に及ぶ連絡船の歴史を閉じた。

大煙突
この大きな煙突は、1919(大正8)年東児島電気株式会社が宇野第2発電所として建造。煙突の高さは約66m。 発電機の回転音が対岸の直島まで響いたそうだ。(昭和12年廃止)

草間弥生1929年3月22日松本市生まれ。統合失調症の幻覚や幻聴から逃れるため、それらを描きとめる絵を描きはじめる。(水玉をモチーフにする。)
フェリーは宇野港を目指す。

直島の北の端には投錨禁止の看板があり、水道管が海から山に向け敷設されている。この水道水は、玉野市築港の高辺地区から海底を通り、直島住民の飲料水となっている。

いよいよ寄港地宇野港が見えてきた。宇野港は、1909(明治42)年 第8代お岡山県知事檜垣直右氏の尽力により完成。翌10年には宇野線と宇高連絡船が開通した。しかし、1955(昭和30)年紫雲丸事故の影響で、1988(昭和63)年最後の連絡船讃岐丸(3,080t)が蛍の光とともに出航し、78年に及ぶ連絡船の歴史を閉じた。

大煙突
この大きな煙突は、1919(大正8)年東児島電気株式会社が宇野第2発電所として建造。煙突の高さは約66m。 発電機の回転音が対岸の直島まで響いたそうだ。(昭和12年廃止)

犬戻り鼻を左折し、荒神島の沖を直島方面に向かう。向こう側が犬戻り鼻で、山頂に中国電力の鉄塔が見える。
写真右側が荒神島。同じく山頂に中国電力の鉄塔がある。

前方に直島が見える。直島を文化的な場所にしたいという三宅親連町長と福武書店の創業者・福武哲彦社長(瀬戸内の島に世界中の子どもたちが集えるキャンプ場を作りたい。)の意見が一致したが、86年に急逝した福武哲彦の跡を継いだ福武總一郎社長が87年に一帯の土地を購入。92年に現代アートを通じて企業理念の「Benesse(よく生きる)」を考える場にしたいと、ホテル・美術館の「ベネッセハウス」建設などへと拡大した。

宮之浦港が見える向こう側、三菱マテリアル直島精錬所(直島全体の4分の1を占める)の煙突が見える。主要の電気銅は年間20万トンを精錬。従業員は協力会社を含め約900人。00年6月には不法投棄された豊島の産廃処理もしている。

写真右側が荒神島。同じく山頂に中国電力の鉄塔がある。

前方に直島が見える。直島を文化的な場所にしたいという三宅親連町長と福武書店の創業者・福武哲彦社長(瀬戸内の島に世界中の子どもたちが集えるキャンプ場を作りたい。)の意見が一致したが、86年に急逝した福武哲彦の跡を継いだ福武總一郎社長が87年に一帯の土地を購入。92年に現代アートを通じて企業理念の「Benesse(よく生きる)」を考える場にしたいと、ホテル・美術館の「ベネッセハウス」建設などへと拡大した。

宮之浦港が見える向こう側、三菱マテリアル直島精錬所(直島全体の4分の1を占める)の煙突が見える。主要の電気銅は年間20万トンを精錬。従業員は協力会社を含め約900人。00年6月には不法投棄された豊島の産廃処理もしている。
