夢色

集めてるもの 見たもの 書きたいものを 思いついた時に。
基本ネタバレ注意。
火月 神の気まぐれ よろずメモ。

<黒田官兵衛シンポジウムin姫路 その2>

2014-03-01 | Art

席に着いて、めっちゃ近い事にテンパって もう笑うしかなかった2人。笑。


最初はパネルディスカッション。
官兵衛の生まれた時代背景や地域特性など 色んな方向から官兵衛の生き様や時代について、映像を交えながら、4人のパネリストの方のお話を伺います。
コーディネーターは、「その時歴史が動いた」のMCもされていた、元NHKアナウンサーの松平定知さん。
パネリストは、中元孝迪さん、鈴木由紀子さん、火坂雅志さん、二木謙一さん です。
(以下、順不同かつ手元のメモ参照なので 本意でなかったらすみません。)


*姫路市 石見市長の挨拶。
「官兵衛のファンは、品が良いです。」←何度も強調(笑)
「今日、会場の周りを見ておりましても、あぁ~やっぱり官兵衛のファンは違うなぁ~と納得いたしました。」
と、最初の掴みで会場が一気にあったまったのは 素晴らしかったです


*マイクテストを兼ねて、自己紹介を、と司会の方から。
一人目の中元さんが まだお話しているにも関わらず、司会の方が マイクテストOKの合図を受けて、話をぶった切るw
いきなりのハプニングに唖然となり、ビックリした。笑。


*パネルディスカッションが開始。官兵衛の魅力について。
二木さん「生き様自体。そして彼が残した言葉。」
火坂さん「生き方が、とても現代的であること。」
鈴木さん「同じく。奥さん1人を愛し続けたり、現代的である生き方。戦国時代においては、ある意味変人だったと言えると思う。また、奥さん、家臣、人に対して 『誠実』であるところ。」
中元さん「多面的、マルチな才能。大胆な提言をして秀吉と共同で天下を取ろうという、単なる軍師ではなく、一人の戦国大名としてもあった。また、茶道や和歌など文化的にも一流であったところ。」

松平さん「まず、素晴らしいNo.2であったということ。2つ目に、No.2だけで終わらず、No.1を狙ったという 男の生き方であったこと。最後に、快刀乱麻を断つという出来(備中大返しなど)ではあるが、常にスーパースターではない、負けを知っているというところが 親しみやすい。」


*当時の播磨という地理について:中元さん
東西の狭間である、という地理的意味。
昔から大きく見て、畿内は政の中心⇔畿外は反政府勢力 という情勢が多かった。
西からの反政府勢力を食い止める、最前線という位置づけ。
また、政治的だけでなく経済的にも重要な”お金持ち”という位置づけ。
だから、「天下を狙う」という事を考え付く人が出てくる。

「播磨人堅気」=反骨心、そして叡智と先進性、かつ少々荒っぽさ。


*奥さんは生涯一人であったが、実際に光を愛していたのか:鈴木さん
私はそう考えている。そしてもちろん、光自身も 官兵衛に愛されるだけの器量を持った女性であったと思う。
武将の奥さんというものは、夫の武将が留守の間、家を守る大事なポジションにある人。
生半可なことでは務まらない。
有岡城幽閉の時に家臣が出した誓文にある御本丸は、父職隆という説と、光という説があるが、これは光だったのではないかなと思う。


*官兵衛の交渉術の素晴らしさは、播磨に生まれ育ったからか? 火坂さん
播磨は小大名がひしめき合う地域で、その間での小競り合いが多かったため鍛えられたとも考えられる。
兵法に長けていたといわれている官兵衛だが、14歳に実母を亡くしてから 和歌や源氏物語といった文学の世界へのめり込んでいった。
これに喝を入れて、これからの時代を生き延びるために兵法を学ぶように言ったのが円満和尚であった。


*官兵衛は「運が強い」とは言えなかったのではないか  松平さん
官兵衛が生まれたのが 小寺の元であったという点。
だからこそ、背負わなければいけない苦労があったのではないか。

運は決して強いとは言えないかもしれないが、官兵衛は 世の中の流れを読むのが上手かったのでは。


*毛利寄りのあの地域にあって、官兵衛が信長を選んだのは何故か。  火坂さん
毛利を選ぶのは、low riskではあるが、まぁ ありきたりというか極端にいうとlow returnであった。
信長を選ぶのは、high riskではあるが、high returnであるということ。
あの時代、戦というのはある意味大名が大博打を打つということ。
その博打を打つことが官兵衛はできたという事。

荒木村重が裏切ったのは、ある種 官兵衛の根回し不足?
というか、彼とは懇意にしていた分、自分が話せば 説得すれば なんとか分かってもらえるんじゃないかという思いが官兵衛にもあったんじゃないですかね。

看守の加藤重徳との関わりについて。
重徳は、官兵衛の事を武将としての人柄を 尊敬していた、というのがあったのでは。

有岡城の戦いは、官兵衛にとって 2つの絆ということ。
一つは、家臣たちや光との絆。
もう一つは半兵衛との絆。


*官兵衛のもつ『戦勘』
裏切りが常であったあの時代に、幽閉された官兵衛がいない間、職隆や光のもとで一致団結した部下の思いのなかには、「官兵衛なら 何とかしてくれるのではないか」「官兵衛についていけば、何かをやってくれるのではないか」という信頼があったのでは。
それは、官兵衛の「一瞬の判断」における『戦勘』が 長けていたと考えられる。
それをバックアップしていたのが、兵法だったのだろう。

備中高松の水攻めなど、「どこかで見たからやってみよう」といってすぐに出来るわけではない。
実母が亡くなるもっと前の子供時代の官兵衛は、腕白小僧だった。
そういうところで、ただ兵法を良く知っているだけでなく、実行に移すことのできる「勘」みたいなものがもともと培われていたのでは。


*半兵衛と官兵衛の違い
官兵衛は、「やってみよう」といって 実際にやってみることが出来る人。
半兵衛は、自分の案が成功するかどうか、ある種 芸術的視点から 戦を見ていた。
半兵衛は官兵衛にとって兄貴分であり、官兵衛に色々なことを教えていた。
「戦は勝つだけではなく、戦が終わった後にその町が復興できるような戦をしなくてはいけない」という半兵衛の考えは、三木合戦においても見られる。
敵方の民が 城主たちだけの切腹で戦を終わらせてくれた半兵衛に感謝をしていた。
今でも三木にある半兵衛のお墓にはいつも新しい菊の花が供えられている。


*官兵衛は死ぬまで播磨を気にしていた
播磨を愛していたということかもしれないが、やはり播磨の太守になりたかったのでは。
公家になるには播磨太守を経なければなれない、というほど、播磨の太守というのは あの地域で大きな権力を持っていた。
やはりその播磨の一番になりたかったというのがあるのではないか。
黒田24騎のうち21人が播磨出身であったのも、播磨に愛着があったからか。

*九州中津での官兵衛 12万石は少なすぎるのでは? 二木さん
秀吉が官兵衛を警戒して、少ない所領としたという説が一般的だが、違った見方もできる。
従五位下という官兵衛の官位は、秀吉時代において上から4つ目という低いランク。
その官位としたら、12万石は妥当である。
なぜそんなに低い官位だったかというと、秀吉の時代は石田三成など政治家が上のランクで、実戦部隊のような肝の座った武将は それほど上にはランキングされない。
だからこそ、黒田家を上に上げていくために 官兵衛は長政に家督を譲った。
早々に長政に家督を譲り、もう次の世代であるというアピールをしたから、大阪冬の陣のときなども改易されない済み、孫の時代になって、官位が上がった。 (←時代考証 あやふやです)
長い目で「黒田家」という家を見据えていたということ。


*官兵衛は本当に天下を取ろうとしていたのだろうか 
本当に天下を取るという気はなかったのではないか。
関が原でも、家康はどんな汚い手を使っても天下を取ってやるという気があった。
しかし、官兵衛は九州で挙兵し、今まで貯めていたお金を全部使ってしまうほどだったが、関が原が決着がついた後、家康に言われたらすぐに兵を収めた。
天下を取ろうとした、というよりは、天が己をまだ必要としているかどうか、それを確かめたかったのではないだろうか。


*キリシタンについて
官兵衛はおそらく、最後の最後までキリスト教徒であったと思われる。


*合子形兜について
盃を前立てにするのは変わっていると思うが、盃というのは「固めの盃」とかにあるように、人と人とを介するもの。
人との絆というのがあったのでは。


*辞世の句「思いゆく言の葉なくてついにゆく  道は迷わじ なるに任せて」  中元さん
辞世の句は普通 建前と本音がどちらもないまぜになっているものだが、この句はスッキリしすぎているというか、もしかしたら官兵衛は悔しさもあったのではないか。


*中元さん
官兵衛は歌も得意で、連歌の会で「虎はしる野辺はけものの声もなし」という一句を詠んだ。
里村紹巴(さとむらじょうは)という有名な連歌師が大絶賛した句。
「鸞(らん)や鳳(ほう)が空を優雅に舞う時は、小鳥まで喜んで歌うが、虎や狼が野原を走り回る時は、すべての獣が恐れる」という中国の古典から取ってきたもので、天下を治める心得を言ったもの。

*鈴木さん
「神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし」という言葉が一番好き。
国を治めるには民百姓も大切にしなければいけない、と、いろんな人に言いたくなる言葉ですが(笑)いつも自分の心に留め置いています。

*火坂さん  
言葉シリーズになっているので。。。笑。
「夏の火鉢、旱の傘」
夏に火鉢は要らないし、日照りに傘も要らない。
でも、冬には火鉢は必要になるし、雨が降れば傘も必要となる。
人間も同じで、ある時は役立たずだとしても、別の状況では重要な役割を果たすことがある。
適材適所というか、そういう使い方が大切であるということ。

*二木さん
官兵衛が長政に、「私が死んだら、家臣は どうしようかと騒ぎになると思う。しかし、お前が死んでも、まだ官兵衛がいるからなんとかなるだろう、と思うだろう。それはお前の努力がまだ足りないからだ」という話を想う。
もう一人前として、しっかり自信をもって向かっていかないといけないという、経済や教育の面でも、官兵衛はためになる言葉をたくさん残している。



などなど、いろんなお話を聴くことが出来て、本当に楽しかったです。
他にもいろんなお話してたんだけど、忘れてしまった
時間がもっとあったら、もっと話がどんどん脱線しても楽しく聴いているのですが(笑)
いろんな視点から多面的にみるという事は、とても面白いです。
そして、こうだったかもしれない、と想像をできるところがまた 歴史の面白さだなと思いました。

官兵衛が必ずしも運が強かった訳じゃないというのは、同感でした。
関が原が1日で決着がついてしまったのを知った時、きっと官兵衛自身もそう思ったんじゃないかなぁ。
でもその悔しさを誰にも見せない、というのも官兵衛の意地というか、ある意味男らしさかな、なんて。


このパネルディスカッションの模様は3/30にEテレ(関西のみ)で放送予定とのこと。
もう一回おさらいしたいです
というか、岡田君人気にだけあやかろうとしないで、全国放送して色んな人から見た官兵衛の面白さをアピールすればいいのにね



最新の画像もっと見る

コメントを投稿