昭和29年(1954年)、朝鮮戦争特需後の景気の悪化により、今は亡き父が勤めた繊維会社は倒産した。
当時31歳の父は、再びサラリーマンになることを選ばず、26歳の妻と2歳の娘、0歳の息子を連れて大阪から故郷に帰った。
不況の嵐に喘ぐ家具屋を営む両親と弟妹たちを助けるための、覚悟の脱サラだった。
父の実家は両親と未婚の弟三人と妹二人の7人が暮らしており、弟二人が家業を手伝っていた。
太平洋戦争中の空襲で失った工場と店舗をそれぞれ再建したばかりで生活は苦しかったにちがいない。
父は帰郷して後、実家の負担とならないよう、町の中心部に位置するダンスホールの一階を借りて支店を開き、本店と競合しないように、店名に自分の名を一字入れた。
当時の商店はどこも経営が難しかったと思うが、子供が希望の糧となり、町は活気に満ちていた。
父の支店は80坪ほどの広さで、奥まったところに50センチほど床を高くした3畳の台所と8畳の板の間があり、そこが一家五人の生活の場だった。
店を閉めた後、家族の団欒の場に闖入する者がいたが、父や母が無碍にしなかったのは金貸しの取立てだったのかもしれない。
父は生活が苦しくても、クリスマスには子供たちの夢を壊さないよう、プレゼントを用意して、商品のタンスの上に忍ばせていた。
それをイブの日に私が見つけたことは父には黙っていた。