唯物論者

唯物論の再構築

美的実存

2012-09-08 18:04:22 | 思想断片

 カントにおいて、未来存在は義務として、また必然として、そして善として存在する。だからこそ未来存在についての命題は、定言として現れる。カントの論調は、当然ながら次の論調を導く。それは、過去存在が権利として、また偶然として、そして真理として存在するということである。そしてこの論調は、当然ながらさらに次の論調を期待させる。それは、現存在が、自由として、そして美として現実存在するということである。

 カントは定言命題の独断性を、未来の非実在性から説明した。未来の非実在は、存在者を現実のしがらみから解放し、経験に依存することの無い理念として定立する。つまり存在者の未来存在は、存在者のあるべき姿として、最初から理想的な姿をもって現われる。この「あるべき」は存在者自らにおいて義務として現われ、存在者自らに対し必然として現われる。同様に未来の非実在性は、人間の未来存在を「あるべき」として示す。この「あるべき」は、人間のあるべき姿の実現を要求し、人間自らにおいて義務として現われ、人間自らに対し必然として現われる。人間の理念は、倫理として、道義として、すなわち善として自らを定立する。結果として善は、真性を持たずとも、その善性を保持する。つまり確定した未来も、不可能な未来も、それは理想としての善性を持つ。ただし実際には未来存在としての善は、自らの善性を基礎づける真理としての事実を必要としている。
 一方の過去の実在性は、存在者を現実のしがらみの中に拘束し、経験的事実として定立する。つまり存在者の過去存在は、存在者のかつてあった姿として、最初から具体的な姿をもって現われる。この「かつてあった」は存在者自らにおいて権利として現われ、存在者自らに対し偶然として現われる。同様に過去の実在性は、人間の過去存在を「かつてあった」として示す。この「かつてあった」は、人間のかつてあった姿の持続を要求し、人間自らにおいて権利として現われ、人間自らに対し偶然として現われる。人間の事実は、歴史として、知として、さらには真理として自らを定立する。結果として真理は、善性を持たずとも、その真性を保持する。つまり誇るべき過去も、忌まわしき過去も、それは事実としての真性を持つ。ただし実際には過去存在としての個別の真理は、少なくとも各自の真性を許容する理想を善として構築する。

 現在は直近の過去であるとともに、到来した未来でもある。現在における過去の継続は、現在を過去化する。しかし現在に過去の支配下から逃れる条件が揃うなら、現在は過去の支配下から離脱し自由となる。ただしフッサール現象学は、現在に対して過去の支配下から逃れる条件を問うことをしない。つまり現在は常に既に、過去の支配下から離脱しており、自由だとみなされている。したがって過去の無化は、事実の効力を無効にし、権利は時効を待たずに反故にされている。ただし過去の無化は、過去における理想の効力をも無効にする。なぜなら過去の理想もまた、過去にすぎないからである。同様に過去の無化は、権利と一緒に義務も反故にする。義務もまた過去において要請されたものにすぎないからである。このことは、現在が事実と理想の両方から自由であること、または現在が権利と義務の両方から自由であることを示す。もちろんそのことは、現在が真理と善の両方から自由であることと同義である。この発想で言えば、人間は常に約束も契約も破る権利を擁しており、家賃の支払も借金の返済も不要となる。
 このようなフッサールにおける現存在の現実離れに対してハイデガーは、現在の過去化を現存在の生来的傾向として解釈した。ハイデガーはそれを頽落と呼んだ。現在の過去化は、現在による過去の無化に相反する。なるほど過去化した現在は、現在と呼ばれるに値しない。それでも過去化した現在は、権利と義務の両方を反故にすることなく継続させる。それは現在における事実からの自由を、単なる可能に留める。ハイデガーは、現存在が過去の支配に対抗し、自らの自由を現実化する条件を、先駆的決意だと考えた。ここでハイデガーの決意概念を支えているのは、未来存在としての理想だけが、過去存在としての事実に対抗し得るという確信である。もちろんそれは、ハイデガー流のカント倫理学の継承である。ただしそれは、カント倫理学が抱えた観念性も一緒に継承している。事実に対抗するために理想に頼るという実存主義の傾向は、意識による実在の無化、さらには歴史の捏造にまで通じている。ハイデガーは、それをもって自らの民族主義への傾倒を合理化した。ちなみにこの発想で言えば、フッサールの場合と違って、人間は常に約束も契約も破る権利を持たないし、家賃の支払も借金の返済も必要である。しかし妙なことに、それらの権利や義務は、意識の単なる思い込みとしてのみ現われている。
 ハイデガーにおける過去に対する未来の優位、言い換えれば事実に対する理想の優位とは、物質に対する意識の規定的優位にほかならない。この文字通りの観念論は、もっぱら最終的に善をその土台から遊離させる。善の土台とは、人間そのものである。旧時代の観念論は、善を人間から引き離し、それを神に引き渡そうとしてきた。この点でハイデガーの観念論も、旧時代の観念論と同じ系譜に属している。もちろんその本音は、善を人間から引き離し、それを支配階級に引き渡すことにある。このために旧時代の観念論は、都合の良い過去存在だけを寄せ集め、善の自己弁護に利用した。この恣意的操作がもたらすのは、真理に対する善の優位という観念論的逆転である。当然ながらこの権力者に偏った善は、人間から遊離するし、真理からも遊離した。このような観念論の目論みは、因果律を倫理に従属させようとする企てである。本来ならこのような善は、善の名に値しない。因果律に素直に従う場合、希求されるべき善は、真理に基礎づけられている必要がある。この必要は、未来に対する過去の規定的優位の承認に等しい。そしてこの承認は、意識に対する物質の規定的優位を認めた唯物論を要請する。ただしこの要請は、過去に対する現存在自らの規定的優位を全く配慮していない。そのためにここで登場する唯物論は機械的であり、そこに登場する人間までが機械的にならざるを得ない。つまりそれは、現在に対して過去の支配下から逃れる条件を不問にした機械的唯物論でしかない。
 旧時代の観念論は、善を人間から引き離し、それを神に引き渡そうとした。それに対してサルトルは、善を神から引き離し、それを人間に引き渡す思想として実存主義を解釈する。サルトルが行ったこの唯物論への譲歩は、本質に対する存在の規定的優位を、唯物論における意識に対する物質の規定的優位に思いみなす形で行われている。結果として、ハイデガーにおける現存在に対する未来の規定的優位は、サルトルにおいて逆転する。これにより実存主義は、自らの未来に対して現存在自らが規定的優位に立つのをようやく可能にした。ところがそれにもかかわらずサルトルは、ハイデガーと同様に、過去に対する未来の無雑作な規定的優位を残している。このような場当たり的な過去と未来の恣意的な優位が示すのは、サルトルの実存主義が観念論と唯物論の折衷だということである。この恣意性は、実存主義がもともと抱えていた主観性の助長にほかならない。結果としてサルトルの実存主義は、内実としてハイデガー以上に単なる主観的観念論に成り下がっている。ただしこのようなサルトルにおける観念論と唯物論の折衷は、後退でもあり前進でもある。現存在は、未来に通じた現在であるとともに、過去を継続した現在でもある。この二つの現在の同時擁立は、理想と事実が一致しない場合、現在を二通りに表現する。その場合の現在は、相反する善と真理の折衷として現われる。サルトルの前進は、この現状の容認にあり、逆にその程度の前進に留まっている。

 美は、相反する真理と善の現在における決着である。この決着は、真理の内部的確執の克服を目指す真理の露呈、もしくは新たな善の到来として現われる。この瞬間だけが未来に通じた現在であり、そうではない現在は単なる過去の継続である。露呈した真理は、場合により古い真理を新たな虚偽に転じる。同様に新たな善が世界に到来したなら、場合により古い善を新たな悪に転じる。虚偽に転じた古い真理は、その虚偽としての評価が確定したなら、二度と真理に戻ることは無い。同様に悪に転じた古い善は、その悪としての評価が確定したなら、二度と善に戻ることは無い。したがって美とは、真理および善の自己超出である。ただし現在において露呈した真理、もしくは善の到来は、いずれも過去における虚偽、もしくは悪の支配を自らの背景として必要とする。このために美は、直接に真理の露呈として現れることは無く、常に善の露呈として現われる。もちろんこの善はなんらかの真理を基礎にして構築される。しかしその基礎にある真理は、普遍的な真理であるとは限らない。美が必要とする背景は、過去における虚偽もしくは悪であり、未来における真理もしくは善ではないからである。当然ながら美が体現する善もまた、恒久普遍な善や真理であるとは限らない。むしろ美が目指すのは、瞬間的で刹那的な善や真理である。つまり美はその本性において、善からも、また真理からも遊離している。しかしその瞬間のきらめきこそが、存在を充実させる。
(2012/09/08)


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