善は自らを基礎づける真理を要求する。なぜなら真理の基礎を持たない善は、恣意的な善であり、つまりは思いつきの善だからである。そのような思いつきの善は、個人においてはもっぱら弦担ぎとして、社会においては迷信として現われる。例えばイスラムでは豚がネズミの仲間だと信じられており、豚肉を食することは忌避されている。このためにこの食の選択行動は、イスラムにおいて善の一つに数えられている。もちろんこの善は、現実世界のうちに自らの基礎を持たない。その善を基礎づけているのは、物質ではなく、観念である。つまりその善は、思いつきに根拠づけられただけの虚偽である。このことは、善にとって不名誉なことである。したがって善は、自ら善であろうと欲する限り、空虚な善としての自らを廃棄し、充実した真理を目指す。すなわち、善としての未来は、過去の真理を目指す。
真理としての過去を現在が拒否し、そのような現在が善としての未来を構築するなら、そこに現れる善とは、単なる恣意である。それは、恣意的必然に従う結末だけを善とみなす主観的観念論に帰結する。ただし過去が虚偽として現われるなら、その拒否が構築する善は真理となる可能性がある。ただしその思考方法は、明らかに唯物論的である。一方で真理としての過去が現在を支配し、そのような現在が善としての未来をも決定するなら、そこに現れる善とは、単なる物理である。それは、物理的必然に従う結末だけを善とみなす機械的唯物論に帰結する。ただし過去が虚偽として現われるなら、その是認が構築する善も虚偽となる可能性がある。ただしその思考方法は、必ずしも観念論的ではない。
主観的観念論が目的を原因より優位に置くのに対し、逆に機械的唯物論は原因を目的より優位に置く。両者はともに一面の真理を擁しており、そしてともに誤謬を抱えているように見える。観念論の一般的な正当性は、現存在が過去による支配から自由なことにある。そのことは、偽りの過去から現存在を守ってくれる。しかし真理を事実から遊離させる限り、その観念論はどこまでも主観的なままに終わる。逆に唯物論の一般的な正当性は、真理を事実の中に見出すことにある。そのことは、偽りの未来から現存在を守ってくれる。しかし現存在を過去に隷属させる限り、その唯物論はあまりに機械的に過ぎる。したがって求められているのは、現在が過去による支配から自由であり、なおかつ真理を事実の中に見出すような論理である。
このように過去からの自由と過去への隷属を整合させるためには、過去を虚偽と真理の矛盾した姿として理解することが必要である。なぜなら、虚偽として現れる過去は、現存在が過去からの自由を目指す理由となっており、そして真理として現れる過去は、現存在が過去への隷属を目指す理由となっているからである。しかし一般に過去は、単一な過去だけが存在しているはずである。したがって過去はそもそも真理であり、本来なら虚偽として現われない。ところがそれにも関わらず、虚偽として現われる過去は可能である。なぜなら過去は既に消滅しており、同時にその真性も失われているからである。このために過去は、真偽の二元化に留まらずに、極端に言えば人間の数ほど多元化して現われることができる。この場合、或る人間にとって真理として現われた過去は、他の人間にとって虚偽として現われることになる。このような理解の結末は、異なる過去の並存、すなわち異なる真理を並存させる汎神論に落ち着く。
汎神論は、真理の限定に対立する。したがってそれは、真理を相対化し、絶対的真理を拒否する。しかしその拒否は、それ自体が限定された真理である。つまり真理の相対化は、それ自体が絶対的真理として現われている。この論理矛盾を避けるために、スピノザ汎神論を継承するにあたり、ヘーゲルは弁証法を必要とした。その絶対理念の弁証法は、過去の虚偽を全て低次の真理とみなす理屈として現われた。しかしその理屈は、真理レベルに高低を与えただけであり、最終的に過去を真理として是認している。当然ながらヘーゲル弁証法は、このような過去の是認において、唯物論の困難を自ら引き受けることになる。つまりヘーゲル弁証法は、観念論であるにもかかわらず、過去への隷属を目指す。そしてこのようなヘーゲル弁証法に対する憤慨が、哲学世界に共産主義と実存主義を生み出した。
実存主義では、一般的真理は本来の真理ではない。つまり真理とは、私の真理であって、他人の真理ではない。当然ながら実存主義における真理は、人間の数ほどに並存して現われる。しかし実存主義は、ヘーゲルと違い、この汎神論からの脱出に興味を持っていない。実存主義では、真理の相対化として現われた絶対的真理も、それ自体が相対的真理として現われている。このように主観を絶対化した論理では、明らかに普遍的論理が軒並み不可能となる。この論理の自己崩壊は、実存主義をひたすらに一般から引き離し、世俗から逃避させ、自らを主観の中に孤立した理屈に仕上げる。結果的に客観に現われた過去は虚偽とみなされ、主観に現われた過去だけが真理となる。かくして現存在は、一般的な過去による支配から自由となり、自らの過去にだけ隷属する。結果的にヘーゲル弁証法と実存主義の間の差異は、隷属する相手が変わっただけに終わる。ヘーゲル弁証法の隷属相手は、出来上がった過去一般である。それに対し、実存主義の隷属相手は、出来上がった個別の過去である。どちらも出来上がった現在に対し、予定調和の実現を見出すだけで役目を終える。マルクス流に言えば、両者ともに、解釈をしただけであり、せいぜい解釈の中身が違うだけである。つまりヘーゲル弁証法も実存主義も、ともに未来の構築に対して役に立つことの無い観念論に留まっている。
共産主義は、生産手段の所有関係が異なる過去の並存、すなわち異なる真理の並存を生むと考えている。しかし実存主義からすれば、共産主義のように、異なる真理の並存の謎を解明する発想自体がもともと無意味である。なぜならアプリオリに、私は他者ではないからである。言い換えれば、意識の動因は所有の分断に始まるのではなく、意識の有限性それ自体に始まっている。したがって実存主義から見た唯物論は、やはり世俗そのものの理屈にほかならない。ただし実存主義は、その意識の孤立性において、共産主義を罵る資格を持たない。またそのような無資格の自覚が無ければ、世俗からの離脱も不十分である。キェルケゴールにおける宗教的実存は、世俗からの離脱を前提にした信仰の目覚めである。ところが真の信仰に目覚めた後、単独者がその先どのようにが自らの実在性を保持するのかと言えば、キェルケゴールはその答えの方向性を提示していない。彼は、魂の救済を実現したところで燃え尽きている。ただし「死に至る病」において彼は、自らとの関わりとして現われた意識を、他者との関わりを目指すものとして描いている。したがって彼は、世俗から離脱した現存在が、再び世俗との対決を目指すものとして理解している。当然ながらその先には、実存主義においても、所有の分断の問題が待ち構えているわけである。
(2012/09/24)