資本主義社会で技術進歩により、その資本構成がどのように推移してゆくのかを、以下でシュミレートした。ここでの資本構成モデルは、資本主義的企業としての末端小売業と機械工業と原材料生産業の3部門、および共同体的原材料生産者を合わせた4部門でイメージしている。
最初に資本主義的企業の平均利潤率を16.7%に想定している。ただし共同体的原材料生産者は、剰余価値の取得が発生しないので、利潤率は0%(見方によれば100%)となっている。また基本的に労働者の衣食住の生活材の単位を1に扱い、その数値だけの労働者数が実労働を行なっていると想定している。つまり日当1万円の賃金水準が労働者の1日あたりの衣食住と等価であるなら、生活材の単位が表現する1はストレートに1万円を表現する。また各部門の生産した商品の寿命を生活材の寿命と同じに扱っている。つまり生活材の単位が1日であるなら、生産した商品の寿命も1日に想定している。もちろん実際の商品寿命が1日より長くても、その商品が含む資本構成を日割りに算定し直すだけで良い。
[図1] ※クリック拡大
図1に登場する労働者は合計170人であり、内訳は以下である。
一方で登場した不労所得は合計46単位である。少なくとも不労所得者が労働者並みの生活をするのなら、生み出された利潤よりも不労所得者の数は小さくなければならない。したがってこの46単位は、不労所得者の人数ではなく、その最大人数だけを表現している。この不労所得の内訳は以下である。
図1において消費者に売られた末端小売業の商品は、全体で216単位。その内訳は以下である。
各部門の商品は、末端小売業の商品に内包されて消費者に売られる。原材料生産業から見れば、原材料を消費したのは、機械工業である。機械工業が消費した原材料は、原材料生産業の可変資本と利潤を表現している。そしてその機械を消費したのは、末端小売業である。末端小売業が消費した機械は、機械工業の可変資本と不変資本と利潤を表現している。したがって末端小売業の資本構成に現われる商品の内訳を展開し、各部門を一企業の一体化した生産工程として捉えた場合、消費者に売られた末端小売業の商品216単位の内訳の実態は、実際には不変資本となる原材料部分が消失し、以下のような実態となる。
上記図1の機械工業や原材料生産業において、技術進歩を通じて資本構成の高度化が進むと、例えば次の図2のようになる。
[図2] ※クリック拡大
図2に登場した労働者は、図1での合計170人から合計154人に減り、内訳は以下である。
一方で登場した不労所得は、図1での合計46単位から合計62単位に増える。この62単位は、不労所得者の人数ではなく、その最大人数だけを表現している。この不労所得の内訳は以下のようになっている。
図2において消費者に売られた末端小売業の商品は、全体で216単位であり、その内訳は以下である。
図2の末端小売業の資本構成に現われる商品と機械の内訳を展開し、各部門を一企業の一体化した生産工程として捉えた場合、消費者に売られた末端小売業の商品216単位の内訳は、実際には不変資本となる原材料部分が消失し、以下のように必要労働力16人が余剰人員となった実態を現わす。
資本構成の高度化により利潤は各部門とも増大し、平均利潤率も22.2%に増大している。しかしもともと170単位あった賃金相当分が、154単位に圧縮している。これは機械化の進展により、小売業と機械工業で人員削減が進んだことの結果である。かろうじて原材料生産業が人員増に転じているが、その人員増も1名増に留まり、失業者17名を全て吸収するにまで至っていない。職にあぶれた失業者16名は、不労所得者から慈愛を恵んでもらうか、その所有の暴力的強奪を行う必要がある。実際にはその両方とも困難なので、先の見えない失業者にとって選択可能な簡単な方策は、雇用されている労働者から慈愛を恵んでもらうか、その所有の暴力的強奪となる。しかしその両方とも困難なのは変わらない。これにより善良な失業者の餓死という資本主義のジレンマが起きる。ただしこれらの方策とは別に、失業者自らが生産者となるという方策も存在する。その方策は、単に可能として存在しているわけではない。生死の境にいる失業者にとって、それ以外の選択の余地は無いからである。したがって失業者にとって、自ら生産者として再出発し成功することは、逃げ道の無い自らの義務として現われる。もちろん失業者のほとんどは、その賭けを行う資産も無いし、事業成功の見通しも無い。ただしそもそもそれは、無産者としての失業者自らが背負うべき義務ではない。それは、彼の属する社会が背負うべき義務である。
実際の資本主義の運動は、自ら生み出した失業者を再度自らのうちに吸収しながら成長を続けた歴史である。技術進歩が生み出した失業者とは、資本主義勃興期の本源的蓄積とは違う形の、資本主義発展期における新しい形の本源的蓄積である。資本主義はこの新しい本源的蓄積を原資として、テレビや電話のような新しい需要を通じて、圧縮された資本構成の再拡張を進めてきた。その発展の影には、時代の闇に消えた貧者の断末魔が隠されている。もちろんその影には、惨めに消えてゆくのを良しとせず、闇の中に悪鬼として生き延びた貧者たちの姿もいる。この悪鬼たちは、自己責任を果さない社会の屑として罵られながら、社会に恐怖を振り撒く形で、同族の貧者たちに対する体制的鞭の役割を果している。しかし同族の貧者たちは、それら悪鬼の存在を社会の仕組みが生み出したものだと理解せず、ひたすら彼らを嫌悪することしかできない。社会の屑は次々に現われて社会の闇に沈殿してゆくが、新たな屑が次々に生み出される。しかもこの底辺世界の中には、悪鬼としての役割の世襲までが発生する。刑罰や警察力の強化を進めても、この憎悪に燃え上がる地獄の火を消すことはできない。原因を消し止めなければ、結果も消えることは無いからである。
(2012/11/27)