今年9月に日本政府による尖閣諸島の民間人の土地収用に端を発して、中国全土で大規模な反日暴動が吹き荒れた。しかしインターネットの記事を読むと、反日暴動を影で仕組んだのは次代の中国トップとなる習近平だというまことしやかな情報が流れている。それらのサイトを見ると、偶発的デモにも関わらず全く同じ反日スローガンの全く同じ色や形の横断幕が各地で使われたという写真の紹介とともに、各地で反日デモを煽動した人物と中国当局との密接な関係、治安部隊に操られたデモ行動の情報が示されている。この情報によると、今回の反日デモは、従来の反日政策の延長上に起きた偶発デモではなく、官製デモだということになる。ただしこのデモが官製デモだったとしても、その結末は中国当局の目論見から外れたものに見える。デモは大規模な暴動へと展開し、中国当局の治安部隊を蹴散らし、当局の支配下から離脱したからである。各地でデモ隊が掲げた毛沢東の肖像は、単なる中国の象徴ではない。それは、中国当局によるデモ鎮圧に対する護符でもある。この護符は文化大革命の際にも効力を発揮し、中国治安部隊によるデモ隊鎮圧を無力化させてきた。つまり毛沢東の肖像が意味するのは、デモ隊自らの中国当局の支配の拒否であり、自律したデモへの志向である。すなわちそれは、今回のデモの反体制への志向を表現している。ただしその志向する先は、1989年の天安門事件のときの民主化を目指した反体制運動ではない。明らかにそれは、愛国の名のもとに貧富格差の撲滅を過激に呼号する反体制運動を志向している。もちろんその志向の落ち着く先は、第二の文化大革命である。
民主化という第四の近代化を目指した天安門事件は、江沢民により武力鎮圧された。民主化運動の武力鎮圧の後に江沢民が必要としたのは、その恒久的な思想的死滅である。このとき江沢民が対峙し死滅させようとした思想とは、民主化路線の思想的背骨となっていた胡耀邦/趙紫陽路線にほかならない。しかしいくら中国における共産党独裁が中国の内外で明らかでも、中国共産党自らが民主化反対を表立って宣言するわけにいかない。そこで江沢民が胡耀邦路線のイデオロギー的清算のために利用したのが、新中国建国以来掲げられてきた反日の国是である。その目論見は、民主化と独裁の対立構図を、親日の胡耀邦路線と愛国の江沢民路線の対立構図へとすり替えることにある。もちろんその目指すべき最終形は、非愛国と反日の対立構図への純化であった。
江沢民が反日路線に執着した理由は、おそらく1989年の天安門事件の武力制圧に対する自己弁護にある。中国現代史においてこの事件は、中国民衆の民主化要求に対する弾圧として永久に消し去ることのできない負の記憶である。そして江沢民は、自らがその首謀者として永久に名を残すことを直観的に理解している。反日とは、彼が未来永劫にわたる自らの罪名を浄化する最良の護符の名前なのである。なぜ江沢民は、わざわざ来日して天皇の面前で反日を呼号し、愛国のパフォーマンスを演じたのかと言えば、その反日愛国の一挙一動が自らの罪を軽減すると信じたからである。純粋に彼が反日であるなら、来日する必要も無ければ、日本と中国が将来に渡って関わり合う必要も無い。彼は来日せずに、両国間の国交を断絶するだけで良かったはずである。ところが江沢民は、自分のことだけではなく、自らの一族の未来も心配しなければいけない。その意味で少なくとも彼にとって反日は、中国において未来永劫にわたり継続してもらう必要がある。だからこそ彼は、両国の国交断絶を選択することもできない。悪役としての日本の消失は、自らの悪行に焦点を移す絶好の契機になってしまうからである。
この江沢民の反日路線は成功し、今では天安門事件の指導者が非愛国者とみなされており、天安門事件は中国現代史における最大のタブーとなった。しかし江沢民の政策的成功は、中国共産党を愛国者として描くのに成功した一方で、中国共産党自らの反日軌道の修正を困難なものにした。愛国者として自らを描く必要は、必然的に自らを愛国者にする強制力として現われる。ところが愛国という主観的感情に、明示的な基準など存在しない。このために自ら愛国の定義に反日を使った以上、中国共産党は嫌でも自ら反日とならなければいけない。今では中国共産党にとって反日者として自らを描く必要は、自らを反日者にする強制力として中国民衆のうちに実体化している。中国共産党が自ら仕組んだ中国国民に対する反日の強制は、それ以上の強制力となって今度は中国共産党を襲いかかっている。
反日と愛国は同義ではない。同様に親日も愛国と対立するわけではない。そもそも国際友好と愛国は、対立概念ではない。ところが中国における反日は、民主化要求の封殺という江沢民の当初の思惑から遊離し、反日憎悪として独り歩きを始めている。反日が共産党支配の根拠として鎮座した時代は過去のものとなりつつあり、むしろ今では反日が共産党支配を揺るがし始めている。この傾向は、2005年当時の反日デモでも既に現われていた。しかもこの中国における反日は、2年前の漁船衝突事件の段階でさらに純化を進めている。明らかに反日の主導権は国家ではなく、中国国民の方に移っている。結果的に中国共産党の指導者も、今の中国国民に受容可能な反日を体現した指導者にならざるを得ない。なぜなら今の中国にとって親日の指導者とは、既に非愛国者にほかならないからである。それは一歩間違えれば、中国共産党の現指導部を打倒する口実にまで転化する。このことは、良く言えば国民総意の発揚であり、中国における民主主義の一つの実現かもしれない。しかし中国は、自ら作り出した幻影に自ら拘泥しているだけである。その姿は、自信が慢心となって進んだ戦前の軍国日本の凶暴化に良く似ている。ただしそれは民主主義ではない。そこには自由な言論が存在していないからである。
中国共産党が自ら生み出した反日意識に自ら拘泥するための一番簡単な方法は、最初から反日意識にまみれた人物を指導者に迎えることである。かつて江沢民は、自ら反日を演じることで、愛国心の陶酔の中に自らを洗脳した。また江沢民には、自らの出自において必要以上に反日であるべき必然性も抱えていた。それでは次代の中国共産党トップも、やはり反日なのだろうか? もし今回の反日デモが習近平の仕組んだものだとすれば、習近平は中国共産党トップに君臨したその第一声で、中国内外に反日を宣言する予定だったはずである。そのときは中国の反日官製デモも、習近平が中国国民の代表たる反日指導者として自らをアピールするための布石だったこととなる。ところが反日デモは、想定外の結末を迎えた。この想定で言えば、果たして政情不安を加速させる危険を冒してまで、反日指導者としての自らをアピールするかどうか、習近平は決断を迫られているはずである。いずれにせよ習近平は、日本にとって残念なことだが、中国共産党の次代のトップに求められている反日の資質を持っているように見える。とはいえそれは仕方の無い話である。既に今の中国は、親日指導者を許容できない国へと変質しているからである。さしあたり必要なことは、中国の出方を今後も注視するだけのことである。また政局の流動化は、幕末の黒船来航のように、必ずしも日本の将来に対して不利に働くと限らない。それは中国にとっても同様である。
以下は余談である。
今回の反日暴動で日系企業は、店舗や工場を焼き討ちにされるなどの多大な被害を受けた。しかし中国における外資系企業は、中国国内の出資法に従い、その資本の半分に中国現地資本が参入している必要がある。当然ながら今回の反日暴動で日系企業が受けた被害の半分は、中国人自らの被害でもある。とはいえこの出資法に従い、中国現地法人がまともに出資しているとは限らない。資金準備段階で現地権力者と話し合いがついているにも関わらず、実際の資金繰りを外資が全て受け持たざるを得ないケースが多いからである。現地権力者は出資の名称だけを提供し、資金捻出を勝手な都合をつけて拒否するためである。金を出さないが配当だけは頂くというこのやり方は、まさに濡れ手に粟という中国権力者の錬金術となっている。この話は、マルクスの資本論第二巻での資本回転の分析に登場するエピソードを彷彿とさせる。マルクスは、資本がG-W-Gの回転を経るたびに労働者の剰余価値と順次入れ替わり、資本家の所有物として出発した資本が、最終的に労働者から搾取した剰余価値の塊へと完全に置き換わると説明している。マルクスの説明の目的は、資本に対する資本家の所有の虚偽性を暴くことである。そしてその究極の例として、無資本状態で資金の前借と労働者の雇用を行ない、最初に生産した商品の売上から前借を返済し、労賃と利潤を捻出するという資本家の話が出てくる。また時としてこの綱渡りのような金儲けをする資本家は、労賃のピンハネや賃金支払の踏み倒しを行う。この話では所有の賛美者が擁護するような資本家の資産は、資本回転の最初に存在していない。それは綱渡りの報酬として資本回転の最後に、利潤または負債として現われる。それが利潤として現われる場合、その所有は資本家にあると資本家自らが宣告する。逆に負債として現われる場合、その所有は労働者にあるとみなし、資本家自らがそのように実践する。もちろん綱渡りに失敗したなら、無所有の資本家はそのように行動せざるを得ない。このことからマルクスは、資本に対する資本家の所有に道義性を認めない。彼は資本家の所有を、資本家自らの綱渡りの当然の報酬ではなく、資本家が労働者を綱渡りさせたことの不当な報酬だと理解している。マルクスにおいて本源的蓄積とは、常に資本主義の吸血の歴史にほかならないわけである。この話に出てくる資本家の手口と中国権力者の錬金術との間に、何も差異は無い。ただしこの中国権力者の錬金術は、外資相手だけではなく、同じ中国人を相手にして、中国の地方権力者が行っている。
(2012/11/18)