概念が果たすべき最大の役割は、存在者の真偽判定を行うための意識上の真理マーカーである。個別の存在者は、この真理マーカーとしての概念と整合する限りでのみ存在者の真理に適合する。逆に言えば、概念と整合しない個別の存在者は、概念との比較において虚偽にみなされる。もちろんヘーゲル弁証法においても存在者の真理は、もともと存在者の現実存在の側に存在している。しかし存在者の真理が概念の側に移り、概念が存在者の真理を体現するようになると、個別の存在者の側から真理は枯渇してしまう。この段階では概念こそが存在者の必然となり、存在者の現実存在は単なる偶然として現れるようになる。端的に言えば、概念こそが真理であり、個別の存在者は虚偽となるわけである。このようなヘーゲル式弁証法が引き起こす真偽の逆転の様は、一般と個別、客観と主観、および意識と物体の対立構図を説明する際に多くの示唆を与え、実念論と唯名論、客観論と主観論、さらに観念論と唯物論の対立構図の理解にも有意義な視点をもたらすものである。このヘーゲル弁証法において概念は、存在者を類的積分した集合体として現れる。その積分の道程には数多くの仮象の登場と消滅が包括されており、概念はそれらの誤謬道程の全ても自らの中に積分する。すなわち概念とは、百科事典における概念対象項目に列記された対象の史的説明の総体にほかならない。そしてヘーゲル弁証法におけるロゴスは、この概念全体を包括した百科事典そのものである。ヘーゲルはロゴスを宇宙の生成と存在の理由とみなし、自らの哲学をロゴス実現の最終章に扱う。つまりヘーゲルの理屈に従えば、宇宙はヘーゲル哲学を生み出すための存在してきたのであり、その最終目的は、完全な百科事典の実現と言うことになる。 この冗談のような歴史理解、および観念至上主義は、上述のヘーゲル式弁証法における観念と物体の真偽位置の逆転を放置したことの一つの必然である。弁証法の円環はこのヘーゲルの観念性に対して、物体から意識に移った真理を再び物体に戻すことを要求する。すなわち概念の成立自体は、ロゴスの最終目標ではない。言い換えれば、哲学者は解釈だけに終わるわけに行かない。ここで弁証法的円環の流れを単純に考えると、概念の物象化こそがロゴスの最終目標として現れる。しかしこの脳無し行動主義では、ヘーゲル弁証法の目的論的転倒は補正されず、むしろそれを是認するだけに終わってしまう。ヘーゲル弁証法に対してシェリングの直観主義は、対象の真理が現象から概念に移ることにそもそも疑問を感じる。対象の真理は現象から概念に移ることなく、現象に留まっているからである。この疑問は、後の現象学へと連繋されるわけだが、同じ疑問は唯物論にも連繋している。いずれにせよ、概念の真理は現象の真理を代替するだけであり、現象の真理は実体の真理に依存しなければならない。当然ながら行動主義も、概念から物象化に進むのではなく、実体自身の運動として実体に即して実現されるべきである。概念は真理実現のための単なるサポーターであり、また自らサポーターを超えることも許されていないわけである。もちろん概念の直接的物象化を避けて、現実存在を経由して概念を物象化することが果たして真理実現を確実にするものなのかどうかに確証は無い。また概念の示す論理が正しいなら、遠回りをせずに概念の直接的物象化をしても、最終結果に差異は無いように見える。レーニンやトロツキーは、百人の馬鹿よりも一人の天才の方が優秀だと考え、民主主義など不要だとみなした。彼らにとって概念の直接的物象化こそが真理への近道だったわけである。言い換えるなら、民衆は指導者の踏み台に過ぎず、手段は目的のおまけであるかのようである。ところが実際には目的が手段を浄化することは無い。上記の間接的物象化の勧めに従えば、目的が真理実現であるなら、その実現の過程もまた真理に即す必要がある。少なくとも概念は現実存在を包括すべきであり、手段はあらかじめ目的の中に含まれなければいけないからである。つまりレーニンたちの思惑と裏腹に、実際には民主主義は真理実現のための必要な段取りなのである。 ヘーゲルにおいて本質と概念は、等しいものとして現れる。存在者の概念は、対象説明の総体として可能な限り存在者の実体を表現する。対象説明に列記される個別事項は、その一つ一つが対象の本質を表現している。それは積分されて描かれた曲線の各座標であり、曲線式を微分すれば座標点での曲線の瞬間的な接線を得られるように、個々の座標点もまた対象のなんらかの傾向を表現している。しかしこのように本質を捉える場合、本質と概念は等しいものではない。存在者の本質は、特定の側面に対する概念の単なる傾向を表現するだけだからである。また本質と言う言葉も、概念の総体を表現するために使われることも無い。本質とは、対象となる存在者を他の存在者と区別する際に、その差異をもって存在者が何であるかを示す標識にすぎない。この意味で本質は、常に概念において列記された一事項だけを抽出したものである。逆に言うなら存在者における本質は、区別されるべき他の存在者との関係でのみ存在しており、区別されるべき他の存在者の数ほど多くの本質があることになる。またこの点においてヘーゲルが扱ったような概念と本質の同質性を認めることができる。したがって日常的に使われる「存在者Aの本質はBである」と言う便利な表現も、文脈の上で妥当性を持つだけであり、文脈から切り離してこの表現を使うなら、無意味かつ衒学的なものとなる。せいぜいそのような表現は、個人の情感に訴えるだけの文学的表現でしかない。つまり本質と言う表現は、論理を語る場合に基本的に避けるべき表現である。それでも本質と言う言葉を使用するなら、例えば「人間的自由の本質」と言うように、対象となる存在者に対して区別されるべき他の存在者を推定できる形で使用すべきである。ちなみにヘーゲルの文章は、「本質」や「本質的」の表現のオンパレードになっている。しかしその多くは、その表現の言うところの本質がいかなる他者との区別を言い表しているのか不明瞭である。すなわちそれらの「本質」表現は、恣意的限定を表現するだけの単なる枕詞でしかない。要するにヘーゲルの文章は悪文である。(2014/09/10)
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