唯物論から見た仮象には、物体に基礎づかない虚偽事実、または物理にそぐわない虚偽意識が含まれる。判り易そうな例示を言えば、ケンタウロスのような実在しない怪物の見聞録、または空中浮遊の念力のように実現不能な超常現象がこれらの仮象にあたる。これらの仮象の特殊性は、理念的実体としての概念が存在するのに対し、肝心の物理的実体が存在しない点にある。つまりそれらの虚偽事実や虚偽意識では、概念だけが実体を代行する真理マーカーとして存在し、物理的な本体が無い。したがってそれらの虚偽事実や虚偽意識は、物理的実体を持たない純粋な観念、すなわち虚偽観念である。このような虚偽観念は、各種の物理的概念の各部分を寄せ集めれば、意識が好きな形に捏造できるものである。このような虚偽観念は、根源的な比較元を持たないので、真理になり得ず、本来なら完全な虚偽のはずである。ところが虚偽観念を含めて概念一般は、物理的実体が無くても、自らを存立できるものである。例えば、河童が世界に存在しないにも関わらず、河童の概念だけは存在可能なようにである。結果的に次のような奇妙な事態が発生する。それは、河童自体が虚偽であるにも関わらず、頭に皿をのせている河童が真理として現れ、頭に皿をのせていない河童が虚偽として現れる事態である。それがなぜ奇妙な事態なのかと言えば、物理的に実在しない河童を考えるなら、頭に皿を載せていない河童も虚偽なら、頭に皿を載せている河童もやはり虚偽だからである。
存在者の実在についての真偽判定は、最初に概念と存在者の間の内容比較により行われる。このタイミングでの概念は真理マーカーとして機能しており、概念と整合している存在者だけが、その概念整合の事実において真理だとみなされる。そのことは、存在者が河童のような虚偽観念であったとしても変わらない。もちろんここで虚偽観念に与えられる真性は、一種の仮象である。この特殊な仮象は、虚偽観念に限って発生するものである。虚偽観念ではない一般的存在者では、このような特殊な仮象は基本的に発生しない。発生するとしたら、それは肝心の概念自体が物理的実体と整合していない場合だけである。しかも虚偽観念に限って発生するこの特殊な仮象は、そのまま虚偽として現れることも無い。すなわち頭に皿を載せている河童は、そのままでは虚偽ではない。頭に皿を載せている河童は、実際に河童の概念に一致するからである。虚偽観念一般がようやく虚偽に扱われるのは、その次に現れる物理的実体との内容整合を待つ必要がある。上記の特殊な仮象がやはり仮象だったと露呈するのも、この物理的実体との内容整合のタイミングである。例えば古代インドでの世界は、象に乗った平らな円盤であった。しかしこのような世界概念は、天体の測量において球形の大地とみなされ、最終的に宇宙からの観察において虚偽だと露呈する。ところが河童のような虚偽観念では、内容整合を確認するための物理的実体が存在しない。このために河童の実在と言う仮象は、虚偽として露呈することが永久にできない。
このことから概念基準での存在者の実在についての真偽判定では、次のような逆転した懐疑論が生まれる。すなわちそれは、存在者の非実在性が疑わしいのでその非実在を信じないという懐疑論である。そして具体的にそれは、河童の非実在性が疑わしいのでその実在を信じるという反転した懐疑論として発現する。もちろん物理的実体基準の真偽判定では、存在者の実在性が疑わしいのでその実在を信じないという懐疑論が本筋である。すなわちそれは、河童の実在性が疑わしいのでその実在を信じないという懐疑論である。このデカルト的懐疑は、もともと結論の妥当性を得るために、判断の先延ばしをするだけのフッサール流の判断停止であった。ところが物理基準の真偽判定では、対象の非実在が判定の前提として現れるのに対し、概念基準の真偽判定では、対象の実在が判定の前提として現れてしまう。このために概念基準の懐疑論では、結論の妥当性を得るための判断の先延ばしまでが概念対象の実在前提を引きずっている。ただしもともと容疑者の有罪が疑わしい場合、必ず容疑者の無罪も疑わしいものである。つまりデカルト的懐疑には、最初から妥当性など存在しない。それは何もしないことの犯罪性に目をつぶることへと常に直結している。なるほど「疑わしきは罰せず」と言う表現もある。しかし疑わしい有罪に求刑しないことは、人間社会全体が自ら決めた判決の慣習である。言わばそれは、人間社会における一種の実存主義的決意である。河童の実在に対する懐疑論と河童の非実在に対する懐疑論の両者の差異もまた、両主張者の一種の実存主義的決意の差異にすぎないと言い得るかもしれない。しかしどの決意においても、その決意が単なる理念的実体に基礎を持つだけなのだとしたら、結局その主張は単なる観念論である。その場合だと意見対立の全ては、どの芸能人が魅力的に見えるかの意見対立とあまり変わらないことになる。したがってこれらの低水準の観念対立を超え出ようとするなら、河童の実在を優先する論者であろうと非実在を優先する論者であろうと、少なくとも河童の実在に対応するなんらかの実体が存在することを承認しなければならない。もちろん河童のような虚偽観念に物理的実体があるかどうかは、ひとまず不明かもしれない。ここで言うところのなんらかの実体とは、概念の実在に対する答えのことである。つまり真偽どちらかは不明でも、真偽の問いへの答えは必ずあることを、いずれの論者であろうとも承認しなければならない。もちろんその答え自体が単なる理念的実体であるとすれば、相変わらずそこには、低水準の観念対立が控えているだけである。したがってここで言うところの概念の実在に対する答えは、物理的実体として存在しなければならない。このことの承認こそが、低水準の観念対立を超え出るための条件である。すなわち唯物論的な物理的実体基準だけが、観念対立の超出の条件となっている。
虚偽観念の虚偽性を成立させる唯物論的条件は、現象における物理的実体の欠如である。ところがこの規定は、唯物論の素朴実在論に激しく対立するものに見える。素朴実在論は認識を、認識に対応するなんらかの物理的実体の反映に扱うからである。したがって素朴実在論からすれば、物理的に存在しない存在者が現象として意識に登場するためには、やはりなんらかの物理的実体が存在しなければならない。ひとまずそこに単なる流言と言う物理的実体を想定したとしても、素朴実在論はその先の流言元に相変わらず物理的実体の存在を要請するものである。同様に虚偽観念が意識の捏造物であり、その実体が意識の中にだけ存在するとしても、そこには意識の捏造を規定するためのなんらかの物理的実体が、捏造の動機の形をとって、やはり存在しなければならない。このようなことで唯物論がもてはやされた第二次世界大戦後の一時期には、想像上の怪物に対しても共産主義への恐怖が生み出した資本主義的錯覚に決めつける理屈が跋扈するようになった。例えばゴジラの登場も世界原爆戦勃発の現実的な危機を反映しているとか、または自衛隊の存立を合理化する支配者の利害を具現しているとか言われたりした。この考え方に従えば、河童の存在も子供たちの危険な川遊びに対する親の恐怖が物象化したものかもしれない。そのように考えると筆者にもこのような分析論に妥当性があるように見えてくる。また実際にいくらかの真理がそこにあるのであろう。しかし単なる恣意が常になんらかの物理的実体に規定されていると考えるのは、明らかにおかしな話である。それはスピノザやラプラス流の機械的唯物論であり、人間の自由までも機械的必然に従わせる考え方だからである。とは言え、逆に人間の生み出す虚偽観念が、いかなる物理的実体にも規定されていないのかと言えば、それこそまたあり得ない話である。どのみちいかなる虚偽観念も、現実的物理の物体的各部および動作的各部を組み合わせただけの存在に過ぎず、それ以上のものを意識が単独で生み出すことは無いからである。そのことは時空間や因果律でさえ該当しており、唯物論はそもそもそれらの原型が物理世界に実在すると考えている。意識に対象の恣意的な結合が可能であるなら、有限な現実空間が無限な意識空間に転化するのも既に可能なのである。そして同じようなことは、虚偽観念を含め、意識に現れる全ての存在者について当てはまっている。結局これらのことを可能にする条件は、やはり意識の自律の現実性にかかっている。すなわち意識の自由だけが、虚偽観念を可能にするわけである。結論を言えば、虚偽観念になんらかの物理的実体が存在するとしても、それは意識の自由である。意識の解析をすれば、そのなんらかの物理的実体の正体を暴き出すこともできるかもしれない。しかしそれは、自由に因果を見出すことであり、言葉の上で見ても論理矛盾でしかない。したがってこのことについて素朴実在論が言い得ることは、虚偽観念を規定する物理的実体は自由だと言うことだけである。もちろんこのことは素朴実在論に対して、今度は自由の物理的起源について自らの答えを示す義務を与えるものである。(2014/09/07)
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