唯物論者

唯物論の再構築

唯物論6c(直観主義と概念主義)

2016-03-25 08:14:17 | 唯物論

  新ヘーゲル主義や共産主義が考えるドイツ観念論の系譜は、カントからフィヒテとシェリングを経由してヘーゲルにおいて集大成される。しかしこの見解は、あくまでヘーゲルを最終形として、カントやフィヒテ、シェリングをその哲学的不完全態に扱うヘーゲル自身の哲学史把握を踏襲したものにすぎない。とくにシェリングはヘーゲルより年下のヘーゲルの同時代人であり、ヘーゲルより長生きして、ヘーゲル死後も教授職を続けている。このようなドイツ観念論の系譜が出回ることは、シェリングを存命中に化石扱いするものだったはずである。シェリングより情け無いのは、ヘーゲルを終生敵視したショーペンハウアーである。ショーペンハウアーもまたヘーゲルより年下のヘーゲル同時代人であるが、ヘーゲル存命中はヘーゲルの影に隠れてしまい、ドイツ観念論の系譜でもほぼ無視されている。シェリングもショーペンハウアーも、ともにヘーゲル弁証法との対立軸で見るなら、ヘーゲルから哲学的直観主義と言われるべき哲学である。ヘーゲルは生成された概念において認識の真理を見い出すのだが、概念形成以前の素材である直観において認識の真理を見い出すのがシェリングらの哲学だったからである。当然ながらこの直観主義との対比で見るなら、ヘーゲルの体系は概念主義とでも言われ得るし、同様に直接的感覚に依存するシェリング式の実存主義との対比で見るなら、ヘーゲルの体系は抽象的本質に依存する点で本質主義とも言われ得る。ちなみにシェリングらの直観主義の系譜は、主観的観念論の系譜として、後にフッサールの現象学へと連繋するものとなっている。一方で彼らと別にヘーゲル以後の哲学史を見たとき、ヘーゲル弁証法の後継者でありながらヘーゲルの本質主義と対立する形で、キェルケゴールとマルクスが登場している。両人とも抽象的本質が現実存在を疎外するヘーゲルの理屈に反発し、現実存在の側に立つ絶対者を希求する形で、それぞれ実存主義と共産主義の始祖になった。ただしこの両人はヘーゲルに反発していても、認識の真理を生成された概念において見出す点でやはりヘーゲル派であり、直観主義の系譜に組み込まれることは無い。もちろん両人ともに、実存が本質に先立つことをヘーゲルに対して要求する点で、概念形成以前の素材の規定的優位を承認する者である。しかしその素材は、概念の正当性を保証する上で規定的優位にあるだけである。現実存在から正しく導出された概念に対して両人とも帰依する点で、彼らは直観主義ではない。ただしキェルケゴールに始まる実存主義は、後にマルクス主義に対抗する形で現象学に癒合し、主観的観念論の系譜を確立することになる。一方の共産主義は、ヘーゲルの客観的観念論を唯物論へと純化し、ヘーゲルの後継者となったまでは良いのだが、唯物論がもともと抱えていた自由論の困難を中心にして哲学的低迷を続けている。このような哲学史の現況もあって、20世紀初頭と違いヘーゲルの概念主義は、特に現象学の興隆においてシェリングの直観主義にむしろ遅れをとったかの如き観にある。ただし実際には現在の直観主義による概念主義批判は、シェリング水準の概念主義批判を若干の毛色を変えて繰り返すだけのものである。フッサールに至っては、現象のありのままを維持するだけだと意識が対象を区別をできないことを理解し、ヘーゲルに追従する形で媒介的認識を承認するに至っている。したがってヘーゲルの概念主義がシェリングの直観主義より優位にある構図は、現在でもそれほど変わっていない。と言うのも、シェリングに対するヘーゲルの優位図式は、現在の概念主義と直観主義の関係においても基本的に有効だからである。以下では、概念主義と直観主義の相互の論理的応酬とその遍歴を整理する。

 「赤」と言う色を、感覚的に意識に発生する一つの主観的な心理状態だと考える場合、直観に現れた状態の赤い色こそが「赤」の真理である。逆に直観主義から見た「赤」の概念とは、この真なる赤と異なる虚偽的な赤である。それは、様々な色や様々な赤を統合して分析し、光源から放たれた特定の波長の赤い光とそれに呼応する感覚器の諸関係を統合して得られただけの抽象物である。このような概念は赤に関わる単なる知に過ぎず、本来の「赤」の実体と異なる一種の代替品でしかない。もちろんそれが代替品だとみなされるのは、直観的赤が無媒介に意識に現れるのに対し、概念的赤は媒介的に意識が構築した別物だからである。百聞は一見に如かずと言うように、赤い色に対する様々な説明は実際に赤い色を見せることにはかなうものではない。一方でこの説明は、実際に赤い色を見せられない限り、他者に対して「赤」の意味を伝えることを拒むものである。しかもこの自他の間の情報伝達の困難は、認識対象の直接的な引き渡しで解消可能なものではない。赤を主観的な心理状態だと説明する限り、他者に対して自らに見えた赤を見せたところで、そのことは自らに見えた赤を他者に見せたことにならないからである。つまりもともと自らの主観的な心理状態を他者に伝えることは、いかに手を尽くしても不可能なのである。もちろんここでの不可知は、全ての情報伝達を不可能にする意味で、言葉の役割を全面否定する。それどころかこのことは、自他の間の情報伝達の間に限られた不可能でさえない。そもそも対象としての赤い色が正しく感覚器に伝達されて意識に到達したのか、あるいは赤い色が意識の中で自立した存在であるかどうかも怪しい話だからである。結局そこで確実なのは、感覚的に意識に発生した時点での自らにとって存在した特定の赤の印象だけである。このような懐疑を突き詰めるとそこには、自他の間の情報伝達および対象の認識妥当性は、経験的蓋然性を超えられないと言う結論が待ち構えている。しかしこのようなヒュームの不可知論は、論理全般が不可能になる点をカントにより一旦補修された後、ヘーゲルにおいてその補修を完遂されることで完全に哲学世界から追放される。そのヘーゲルにおける直観主義への回答は、「赤」の真理を言葉の世界においてのみ認めると言う単純なものである。そもそもヘーゲルも直観的な赤が、その感覚された各地点各時間および各個人において千差万別であるのを認めている。しかしヘーゲルは「赤」と言う言葉を、それらの差異の統合および差異の捨象の上に成立するものと考えている。ヘーゲルにおいて「赤」の真理は、直観の内に現れるものではなく、あくまで概念として構築されるものだからである。逆に言えばヘーゲルは、言葉にならない赤を語ることについて興味を持っていないし、そのことに執着することに対して軽蔑さえしている。もちろんここでその軽蔑の真の意味を考えると見えてくるのは、ヘーゲルにおいても実は不可知論が論理の前提となっていることである。すなわちヘーゲルは、言うまでも無いような前提を得意気に語る不可知論者らを馬鹿にしている。ヘーゲルからすれば、言葉の必然は個別主観の間での対象の相互交流の不可能性に基づいている。言葉とは個別主観の相互で判り切っている情報を伝達するために必要なのではなく、互いに交流不能な情報を伝達するためにこそ要請される。逆に言えば、相互交流不能な個別主観の間で言葉が成立した事実は、既に不可知の暫時消滅を表現している。したがって始まりに不可知であるのは、ヘーゲルにおいて驚くような話ではない。むしろ驚くべきなのは、始まりの不可知をそのまま解消不能と宣言することにある。

 ヘーゲルの考えでは、一般的概念を成立させる知の運動が、直観主義の確信を排除する。ただしヘーゲルは直観主義の確信に対してその真理を認めていないわけではない。むしろ彼は、その直接的真理を受け入れる必要を説いている。それにも関わらずヘーゲルが直観主義の確信を排除するのは、それが言葉の成立において偶有に留まると考えるからである。すなわちヘーゲルは直観主義の確信を、執着する価値の無い単なる個別主観の偏差の如くに扱っている。しかし直観主義の確信は、このようなヘーゲルによる無頓着な無視に憤慨せざるを得ない。それぞれの個別主観は、自らの内に現れる固有な赤に対してこだわりを持つ。このときそのこだわりを支えているのは、固有な赤に対して見い出す個別主観自らの自己同一性である。とくにその固有な赤が個別主観の存立を左右するとなれば、なおのこと個別主観は自らの直観に執着せざるを得ない。それゆえに、いかに説明を労して赤を分析し解明し尽くしたとしても、また仮に個別主観の感覚器を創造して他者に見える赤を異なる他者に伝達し得たとしても、個別主観は自らの固有な赤を放棄できない。すなわち個別主観に現れる固有な情報が自らの自己同一性の証であるなら、個別主観はその個別な情報にこだわるであろうし、それから逃げることもそれを捨て去ることもできない。このような直観主義のこだわりは、意識と物理の二方向の現実存在で自らの実現を目指す。意識の現実存在における赤の確信は、赤い色の実体が意識に実存する主観的観念論として結実する。そこでの直観主義の確信は、自他の間で交流不能な情報が意識に現実存在することの確信である。一方の物理の現実存在における赤の確信は、赤い色の実体が物理的に実存する唯物論として結実する。そこでの直観主義の確信は、自他の間で交流可能な情報が物理的に現実存在することの確信である。意識と物理のいずれの現実存在においても、直観主義の確信は既存の「赤」と言う言葉が持つ一般的な概念を不服に感じており、自らの固有な赤を新たな言葉として世界の中に超出させようと目論む。このことが示すのは、ヘーゲルの想定と違い、知の運動が直観主義の確信を必ずしも排除しないことである。もちろんそのことが表現しているのは、現実存在が本質形成において無力な存在ではないと言う事実である。ちなみに主観的観念論と唯物論の二形態で現れた直観主義の確信のうち、前者の主観的観念論の形態は、シェリング型直観主義の復古にすぎない。したがってその意識の実存確信はヘーゲルの概念主義から受ける非難に耐えられない。ヘーゲルの概念主義も主観的観念論に対する場合では、批判の有効性をいまだ保持している。

 概念主義に対するこのような直観主義の反逆は、ヘーゲル以後に実存主義や唯物論、あるいは現象学として現れた。ここでの直観主義は、いずれの形態であろうとも赤い色の実体を現実存在に見出している。もともと直観は概念の故郷であり、現実存在は本質の出発点である。このために概念主義は、自らの足元の激震により動揺する。そこで直観主義に今一度対抗しようとする概念主義は、赤い色の実体を個別主観の側に無いと考える形で、直観主義と逆の執着へと進んでゆく。実体を個別主観の側に無いと考える場合、かつて概念主義が最初に向かったのはイデア論であった。しかしその確信は、イデア論の持つ観念性において自壊せざるを得ない。このためにここでの概念主義の執着は、自他の間で交流可能な情報が固有な赤の姿で物理的に現実存在することの確信と癒合する。意識から離れた実体に対する確信は、イデア論を廃して唯物論へと概念主義を連繋させてゆくわけである。これにより直観主義と概念主義の対立図式も、主観的観念論と唯物論の対立図式に入れ替わってゆく。しかしその対立図式は、唯物論に対してヘーゲル弁証法の優位点を与える一方で、逆に様々な不利を与える。それと言うのも、唯物論とヘーゲル弁証法との癒合は、概念主義との対立図式で浮上した直観主義的な唯物論の優位性を喪失させ、今では唯物論を概念主義の体現者として現れさせるからである。そして実際にロシア共産主義は、個別存在を救済する共産主義の本来的役割を見失い、むしろ個別存在の撲滅に奔走した。また現在リニューアルして登場してきた各種の直観主義の側も、シェリングとヘーゲルとの対立軸においてヘーゲルを敵視することをしない。彼らが選ぶ敵視の対象は、常に唯物論である。そこで主観的観念論は、一見すると新奇な切り口で唯物論に切り込みをかけてくる。しかし唯物論を直観主義の敵として扱った場合、主観的観念論と唯物論の二形態で現れた直観主義の確信も、唯物論の形態が捨象され、主観的観念論の形態だけに限定されてしまう。すなわち直観主義の確信は、自他の間で交流不能な情報が固有な赤の姿で意識に現実存在することの確信の姿のままに留まる。言い換えれば、直観は直観の姿のままであり、自らを概念として展開して他者に伝えようと努力しない。主観的観念論がどんなに歯を食いしばって自らの内にある固有な赤を語ろうとしても、それは単なる一般的な赤として他者に伝わるだけである。つまり内実としてそれは、遠い昔にヘーゲルに切って捨てられた不可知論の焼き直しを超えられないわけである。そのような確信は、既に述べたようにヘーゲル概念主義から受ける非難に耐え得ない代物である。このために主観的観念論は、自らの形態で直観主義を語るのをやめて、唯物論の形態で直観主義を語らざるを得なくなる。すなわち主観的観念論は、唯物論に対抗するために唯物論の力を借りるようになる。主観的観念論において自他の間で交流不能な情報は、意識に現実存在していた。しかし今ではそれは、自他の間で交流可能な情報として現実存在することを、自ら他者に対して示さざるを得ないわけである。しかし明らかにその姿勢は、矛盾である。そして主観的観念論は、自他の間で交流不能な情報を、自他の間で交流可能なイデアとして示すことを目指さざるを得なくなる。

 自他の間で交流不能な情報を、いかにして交流可能な情報として示すのか? 情報が持つ自他の意識間での交流可能性は、古くは個別主観から独立した実体概念から説明された。実体とは現象の根拠であり、観念論ではイデアとして、唯物論では物理的実在として想定されたものである。シェリング式直観主義では、意識の知的直観に実体が現れ、抽象的概念はその派生的現象にすぎない。逆にヘーゲル式概念主義では、抽象的概念こそが実体の姿であり、意識の知的直観に現れたのはその現象形態である。しかし同じ実体として比較すると、直観主義における知的直観は、概念主義における抽象的概念と違い、明らかに自他の間での交流可能な情報ではない。またそれだからこそヘーゲルは、知的直観を偶有に扱い、シェリングによるその無媒介な実体化を密儀だと罵った。ところが現代の直観主義は、ヘーゲルの予想を超える形でこの密儀を整備し、弁証法を排除する形で直観の概念化を進めている。まずそれは、偶有的直観を実体概念から切り離した。偶有的直観は現象のままに把握され、その実体への遡及も禁止されている。またそれはヘーゲル式の知覚の弁証法を簡略化する形で共通事象の形式化を進め、出来上がった形式の継承と類推を是認する。さらにそれは、ヘーゲル式に弁証法的なカテゴリー展開をするわけではないが、各種現象が持つ共通事象に即応して柔軟に一覧表型カテゴリーを展開する術を心得ている。結果的に現代の直観主義は直観の偶有性を保持したまま、その自他の間で交流不能な情報を、交流可能な情報として示すことに成功した。もちろんそれは、偶有的直観が既に「偶有的直観」と言う名の一つのカテゴリーになっているからである。とは言え、このような直観主義の整備は、知的直観の密儀性を剥ぎ取り、今では密儀のレッテルをヘーゲル弁証法の側に貼り直すまでに至っている。ただしこの直観主義は、実体への遡及をしないので、各種現象がなぜ共通事象を得られるのかは不明なままにおかれる。せいぜいその実体的根拠は、観念論の伝統に従い、意識の恣意であったり意識の先験的形式なのだと理解される。あるいは個別主観相互の力関係が事象を決定するのだと理解される。このような実体的根拠の不在は、現象を見えたまま把握するだけに終始させ、現象理解を経験的類推の範囲に留めるものである。すなわち現代の直観主義は、旧時代の古い手法の経験主義を、最新式の統計的手法を駆使して再現しただけのものに過ぎない。その外見はスマートで見栄えが良くなったのだが、その中身は相変わらず単なる経験主義なのである。経験論は経験を超えた対象把握を許容せず、したがって経験を超えた実体も存在しない。当然ながらそれは、実体から推測する形で現象の将来を予測することもできない。仮に経験論が将来予測をするとしても、その予測は常に、過去事例に従うだけの経験的な将来予測に留まる。しかも気分が悪くなることに現代の直観主義は、自我に紐づく現象を確実な認識的な基礎と信じ、それを認識の基礎におこうとしない他の哲学に対して厳密さに欠けると罵り、さらには実体追放こそが哲学的厳密さなのだと自画自賛している。もちろんその厳密さに欠ける他の哲学とは、ヘーゲル弁証法であり、さらには唯物論のことを指している。

(2016/03/25)




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