唯物論者

唯物論の再構築

唯物論3a(実在論と唯名論)

2014-01-04 23:26:00 | 唯物論

 「一般」とは、普遍、または観念や抽象やイデア、または形式や形相、または本質や類または種として現れるものを言う。「一般」に対立して現れる「個別」は、物体や具体や現象、または質料、または現実存在や個体であったりする。「一般」は、プラトンではイデアとして現れ、アリストテレスでは形相として現れた。ただしプラトンが「一般」を天上に措かれた存在者の実体に扱ったのに対し、アリストテレスは「一般」を地上に措かれた存在者の内在的形式に扱う。実在論と唯名論の対立は、このようなプラトンとアリストテレスとの間にある差異を踏まえて生まれたものである。この実在論と唯名論の区分立ての説明には、もっぱら犬や昆虫が使われる。実在論では、物理的か観念的かを問わずに、犬一般は実体である。そして個別の犬の物理的実在を犬一般の仮象とみなしている。一方の唯名論では、犬一般は物理的実在を得ない単なる観念にすぎない。そこでの犬一般は、個別の犬の物理的実在からの抽象とみなされている。したがって実在論と唯名論の区分立ては、次の二通りが可能である。

(1)実在論では、一般とは物理的実在を規定するものである。
   唯名論では、一般とは物理的実在に規定されるものである。

(2)実在論では、一般とは物理的実在を持つ物体である。
   唯名論では、一般とは物理的実在を持たない観念である。

 上記の(1)は、物体との規定関係における「一般」の捉え方により、実在論と唯名論を分けている。この区分立てでの実在論における犬一般は、個別の犬を規定するものである。つまりこの犬一般は、実体と同義である。実在論をこのようなものとして扱った場合、実在論に対立して現れる唯名論は、「一般」が物理的実在に規定されるだけの唯物論になってしまう。ただしここでの唯名論に対立して現れる実在論にしても、「一般」に対して物理的実在を与えるのであれば、機械的唯物論にすぎない。
 一方の(2)は、「一般」の物理的実在性により、実在論と唯名論を分けている。この区分立てでの唯名論における犬一般は、物理的実在を持たない抽象に扱われている。つまりその犬一般は、観念と同義である。唯名論をこのようなものとして扱った場合、唯名論に対立して現れる実在論は、「一般」を物理的実在に扱う唯物論である。ただしここでの実在論に対立して現れる唯名論にしても、「一般」を物理的実在から派生したものとみなすのであれば、やはり唯物論である。
 実在論と唯名論は、互いを自己都合に応じた形で区別し合う。このためにプラトンは、実在論において実在論者であり、唯名論において唯名論者とならざるを得ない。実在論と唯名論の両者にとってプラトンは、観念論の王だからである。もともとイデアとは、物理的実在を規定する物理的実在を持たない観念である。実在論からすれば、イデアが物理的実在を規定する実体である限り、プラトンは実在論となる。同じように唯名論からすれば、イデアが物理的実在を持たない単なる観念である限り、プラトンは唯名論となる。
 このようなプラトンの扱い方は、アリストテレスの場合でも起きる。しかもアリストテレスは、実在論と唯名論の双方で自らの論拠になっている。したがってプラトン以上にアリストテレスは、実在論にとって実在論者であり、唯名論にとって唯名論者でなければいけない。形相とは、物理的実在を規定する物理的属性である。形相が物理的実在を規定する実体である限り、アリストテレスは実在論である。ただしその実体性は、非実体性を忌避した結果にすぎない。実在論にすれば、形相を非実体的な観念として扱うのは、すなわち唯物論だからである。一方で、形相が物理的実在を持たない観念である限り、アリストテレスは唯名論である。ただしその観念性は、物理性を忌避した結果にすぎない。唯名論にすれば、形相を物理的実在を得た物体として扱うのは、すなわち唯物論だからである。
 このような実在論と唯名論との両者におけるアリストテレス像の差異は、形相の扱いに極限している。アリストテレスは、形相において一般の偏在を唱えただけであり、プラトンと同様の観念論者である。このことは、実在論と唯名論の両者における共通理解である。したがってプラトンとアリストテレスの観念論的連繋に着目する場合、プラトンとアリストテレスの両者ともが実在論になるか、プラトンとアリストテレスの両者ともが唯名論になるべきである。しかしプラトンとアリストテレスの対立に着目する場合、プラトンとアリストテレスの両者は別々の陣営に属さなければならない。このときのプラトンとアリストテレスの別れ方は、次のようにしかならない。

(a)プラトンが実在論、アリストテレスは唯名論
(b)プラトンが唯名論、アリストテレスは実在論

 (a)(b)いずれであっても、イデアは観念的であり、その対比で形相は物理的である。したがって(a)の理解では、イデアは観念的実体となり、形相は物理的非実体となる。そしてそれと逆に(b)の理解では、イデアは観念的非実体となり、形相は物理的実体となる。実体の位置付けを見るなら、(a)は観念を実体に見立てる点で、規定的優位を観念に与えている。一方の(b)は物体を実体に見立てる点で、物体に規定的優位を与えている。実在論と唯名論の両者が、自らを唯物論と区別するなら、実在論と唯名論の両者にとって残るべきなのは(a)の方だけである。かくして実在論は、アリストテレスを放棄してプラトンを確保する。当然ながら実在論は、プラトンの後継者として、自らの観念論的伝統を維持する。イデアは観念的実体とみなされたからである。一方の唯名論は、プラトンを放棄してアリストテレスを確保する。ただし唯名論は、プラトンの放棄者として、自ら観念論的伝統から抜け出なければならない。形相は物理的非実体とみなされたからである。結果的にプラトンとの比較で唯名論は、あたかも隠れ唯物論とならざるを得ない。このことは唯名論だけに留まらず、アリストテレスについても該当する。プラトンとの比較でアリストテレスも、あたかも隠れ唯物論とみなされることになる。
 実際には実在論と唯名論の対立は、観念論と唯物論の対立ではなく、観念論の本家争いである。もともとプラトンもアリストテレスも、このような実在論と唯名論の対立に関知していない。この実在論と唯名論による観念論の本家争いは、せいぜい実在論が元祖観念論になり、唯名論が本家観念論になっただけの話にすぎない。とは言え、上述の(a)への決着で見ると、分が良いのは唯名論の方である。この決着では、プラトンに対するアリストテレスの唯物論的優位が、実在論に対する唯名論の優位に転化しているからである。当然ながらこの唯名論が得た優位に対して、実在論の側も論理的対抗策を打ち出さざるを得ない。このために観念論として告発されて喜ぶべき実在論が、なぜか自らの唯物論的粉飾を推し進めることになる。実在論は、観念としての「一般」を離脱し、「種」としての物理的実在を目指すようになる。つまり実在論と唯名論の観念論の本家争いは、隠れ唯物論同士の論理的優位の争いに転化する。

 ちなみにもし上記の(1)(2)の実在論規定と唯名論規定が相互に混入しない純正の実在論規定と唯名論規定を用意するなら、それは次のようになる。

(3)実在論では、一般とは物理的実在を規定する物体である。
   唯名論では、一般とは物理的実在に規定される観念である。

上記のように「物理的実在を規定する物体」を「一般」と捉えるなら、実在論とは機械的唯物論を指すこととなる。同様に「物理的実在に規定される観念」を「一般」と捉えるなら、唯名論もまた唯物論を指すこととなる。ただしこの規定は、機械的唯物論を包括しない唯物論の規定である。両者の差異は、せいぜい機械的唯物論とそれを除外した唯物論の差異を表現するだけに留まっている。明らかに上記の純正規定は、実在論と唯名論の双方において拒否される内容となっている。もしくは上記の純正規定は、双方における相手の論調への中傷として自らに該当しない規定だけが有効となっている。
 上記の純正規定では、実在論と唯名論のどちらにも属さない「物理的実在を規定する観念」および「物理的実在に規定される物体」の二者が一般なのか個別なのか、不明である。しかし前者の「物理的実在を規定する観念」とは明らかにイデアや形相であり、後者の「物理的実在に規定される物体」とは明らかに受動的質料としての物体である。このような不明さは、プラトンが実在論と唯名論のどちらに区分けされるのかと言う点で、上述で見た不明さを表現している。つまりその不明さは、(1)と(2)の実在論規定と唯名論規定が相互に混入することで発生している。このような(1)と(2)の実在論規定と唯名論規定が相互に混入する実在論規定と唯名論規定は、次のような正反対の規定として現れる。

(4)実在論では、一般とは物理的実在を規定する観念である。
   唯名論では、一般とは物理的実在に規定される物体である。

(5)唯名論では、一般とは物理的実在を規定する観念である。
   実在論では、一般とは物理的実在に規定される物体である。

実在論と唯名論は、双方とも「一般」を物理的実在を規定する観念として捉えている。したがって(4)でも(5)でも自らが前段に現れる限り、実在論と唯名論はその規定を受容する。一方で「一般」を物理的実在に規定される物体に扱う理屈は、唯物論である。したがって(4)でも(5)でも自らが後段に現れる限り、実在論と唯名論はその規定を忌避する。このために最終的に実在論と唯名論の区分として残るのが(4)なのか(5)なのかは、上記(4)(5)の規定だけを見ても不定である。もちろんこの不定さは、既に見たプラトンが実在論と唯名論のどちらに区分けされるのかの不定さでもある。もしプラトンが実在論として扱われるとすれば、その結末は実在論自体の新プラトン主義としての面子だけに支えられたものである。ただしプラトンは、そのイデアの観念性に着目して言うなら、よほど唯名論の方がふさわしい。
(2014/01/04)


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