唯物論者

唯物論の再構築

唯物論4b(物理的幸福と道徳的満足)

2014-05-05 09:47:09 | 唯物論

 カントにおいて現象を規定する物自体は、目的因としてのイデア、すなわち理念である。一方で一見すると彼は、作用因として現れる物体を、物理現象を規定する独立の実体に扱っている。それではカントは、デカルトのような二元論なのかと言えば、そうではない。実際にはカントにおいて物体は、物自体ではなくイデアの派生的実体であり、単なる現象にすぎない。同様にカントは、認識において物質に対する観念の規定的優位を与える構図を、判断力における合目的な行動規定の場面でも再生産する。認識における真偽判断を除けば、合目的行動は目的因に従う。しかし行動判断においても、物体は物理的幸福の目的として現れ、道徳律の目的として現れるイデアと対立する。もちろんここでもカントは、物理的幸福より道徳律の側に規定的優位を与えている。そもそも彼の考えでは、物理的幸福が道徳律に連繋することは無い。カントにおける自然界は、万物の万物に対する戦いの場である。つまりそれは、存在者が相互に助け合う共生関係、例えば人間的友愛と無縁である。そのような自然界から道徳律が醸成することをカントは不可能とみなし、そのことをもって道徳の必然が神的存在の主観的証明になると考えた。そして彼は、自らの対極にスピノザの存在を認め、スピノザ哲学を道徳に外れた思想とみなして拒否する。つまり彼にとってスピノザは、理念と無縁な自然世界そのものである。理念の欠けた自然世界から道徳が生まれ出ることなど、カントは想像することさえできない。したがってカントにおいてスピノザは、道徳に反した悪と言うよりも、道徳が欠落した正体不明の思想なのである。
 スピノザは、後世の評価と同様に、同時代の思想家においても唯物論とみなされていた。ただしスピノザ自身は自らの思想について、自然を神とみなす有神論に扱っている。したがってもしかするとスピノザは、自らの思想に対するカントの憤慨を見たなら、それを心外に感じる可能性も一応ある。と言うのも、おそらくスピノザはカントの憤慨を、人間に対する神の冷淡さへの憤慨として理解するはずだからである。また実際にカントがスピノザに対して得た憤慨は、人間に対して冷酷な神に用は無いと言うだけの、単なる駄々である。それは、マルクスやキェルケゴールがヘーゲルに対して得た憤慨にも似ている。もしスピノザがカントの憤慨を理解し、自らの説明の欠落を意識したなら、おそらく彼が次に目指すのは、自然世界から道徳が生まれ出ることの説明である。もしその説明に哲学的風格が伴なわなければ、ベンサムのような功利主義やホッブズのような社会契約論、あるいはロックの経験論に落ち着くかもしれない。その説明が、第三人間論を改造した理念の弁証法になるのであれば、ヘーゲルこそがスピノザの代弁者だと言って良いであろう。

 売春は人間社会において犯罪である。人間社会において売春が罪であるのは、その行為の存在自体が、社会構成単位としての家族を破壊するためである。しかしこのように道徳および法の起源に関して唯物論からの単純明瞭な答えを用意できなければ、なぜ売春が人間社会において罪とみなされるかは突如として難解なものとなる。社会において商品取引行為は不道徳でも犯罪でもない。ところが売春において性行為は、サービス行為を取引対象とする一つの商品である。そこでの商品取引は、双方の合意において商品売買が締結され履行されるだけである。なのになぜ売春は、他の商品取引と区別され、不道徳ないし犯罪とみなされるのか? この場合に取引商品が害毒を含むことが、該当商品取引の禁止事由として当然予想される。例えば麻薬や覚醒剤、あるいは発ガン性が認められるPCBのようなものがそのような商品として存在可能である。ただし売春における性サービスは、このような商品分類に該当しない。管理しない売春が、社会への性病蔓延の危険を孕むのを問題視するだけだとしたら、性病が無ければ売春の不道徳性や犯罪性も消失することとなる。もちろん現代社会で、安心な売春が適法になることは無い。一方で、当然ながら商品となるサービス提供者に対して行為の暴力的強制があれば、売春以前にその行為は恐喝行為として犯罪である。このことを拡大解釈すれば、サービス提供者の貧困に起因する売春も、社会がサービス提供者に対して暗示的に行為の暴力的強制をしただけの犯罪行為かもしれない。とは言えこのような拡大解釈は、貧困が一掃された人類社会でのみ成立可能な理屈である。そもそも貧困が売春を強要することの犯罪性よりも、無反省で計画性という点で言うなら、よほど貧困を理由にしない売春の方が不道徳および犯罪に適合すべきである。また似たような形の拡大解釈では、売春において基本的に女性の性が商品として現れることをもって、女性の人権蹂躙を許さない観点から売春を犯罪に扱うものがある。この解釈は明らかに亜流共産主義を起源にするが、ほぼ同系統の解釈は宗教的因習を起源にして、有産階級の女性を権力者以外の全ての男性から隔離する目的で古代から存在している。ただしこの解釈は、風俗産業において生計を立てざるを得ない女性への配慮に欠けがちである。悪く言うならそれは、売春婦を罵ることができる自らの立場に疑問を持たずに済む上流階級の住人たちの見解である。
 上述のように、売春が持つ不道徳性および犯罪性は、その観念性を突付けば突付くほどに不明瞭になる。そこでカント流の観念論は、神の法としての道徳律が存在し、先験的に売春は悪であると断罪することで道徳の定言化を目指す。それにより道徳は、神の理法としてその必然を保証され、なぜ必然なのかを問われることも無い。ところがそもそもカントにおいて道徳は物自体であり、人知がその正体を知る術も無い。結果的にそこには、知り得ないはずなのに、どのようにして道徳が人間社会に君臨できたのかの謎が残ることとなる。もちろんこの謎の事態は、従来からカント不可知論に与えられた批判が、形を変えて物理的に再現した姿にすぎない。唯物論において、売春否定に限らず、一夫一婦制などの性道徳の必然は、人間社会の構成単位としての家族の必然性に支えられている。ここで家族に求められる最小限の要求は、次代の人間社会を成立させる上で子供の養育する男女の最小の組合わせとしての一夫一婦である。さらにその一夫一婦の必然は、大脳の発達した特異な未熟児を産み育てなければならない人間の先験的な肉体形状に支えられている。このような特殊条件は、一度の出産で可能な子供の数を少なくし、子供の成育の面倒を見る親の存在を必須にし、夫婦の運命的共存を宿命付けている。つまりここでの道徳は、物理から醸成している。生物としての物理的幸福は、一夫一婦の壁を越えることができない以上、人間としての道徳的満足に姿を変えざるを得ない。さもなければ人間は、とっくの昔に地上から絶滅していたのである。だからこそ売春は、悪なのである。もともと人類は、自然界において体格的弱者である。人類が持つ先験的宿命、すなわち一人立ちできない未熟な状態で10年以上を親の加護のもとに成長せざるを得ないと言う肉体構造は、人間自らに弱者救済の使命を与える。人間とは知において優れ、情において助け合うのを定められた地上の先験的弱者なのである。かつてナチズムは、進化論の自己都合的解釈を背景にして優生保護を謳い、相互扶助を廃して弱者に呪詛の言葉を投げつけ、社会主義および共産主義に対立した。しかし進化論を単なる弱肉強食の理屈として理解する限り、人類の優位がどのように生まれてきたのかは見えてこない。ナチズムの進化論についての勘違いは、カントの場合と同様に、物理的幸福が道徳律へと連繋する道を自ら塞いでいることに由来している。人類の類的必然は、ナチズムのごとき強者の論理を拒否し、福祉社会を目指している。
 なお売春はともかくとして、所有の分離が進んだ社会、すなわち階級分離が進んだ社会では、一夫一婦は必ずしも家族の最小構成単位になっていない。むしろヒンズーやイスラムのような社会では、富者において一夫多妻が基本である。しかしそれは、上述の理屈を否定するものではない。例えばイスラムは、戦災などによる寡婦の救済が、多妻を正当化する当初の理由であった。多妻の不道徳化は、そのような当初の理由が廃れたことにおいて最初に発生し、階級社会の正当性が崩壊することにおいて決定づけられる。したがってそれ以前の封建社会では、ハーレムも大奥も不道徳として現れ得ない。それは封建社会が崩壊した後から見ると悪行であるだけである。おそらく封建制度が必要とされた時代では、権力者の妾の一人に選ばれることは、選ばれた女性の側から見ても光栄であり、周囲の女性から見ても羨むような出来事であったはずである。同様に未来世界においても、一夫一婦が道徳的権威を保持し続けるかは不明である。貧困が世界から撲滅されるなら、一夫一婦を家族の最小構成単位に扱う最大の理由も消滅するからである。そのときにまだ売春が悪であり続けるかどうかも、その限りで現代人において不明である。現時点では、不明な他者との性行為を忌避すると言う生物学的理由において、それがおそらく悪であり続けると思われる程度の確実性があるだけである。もちろん未来において共産主義が実現するなら、商取引の価値法則自体が消失し、同時に売春の概念自体が死滅することとなる。
(2014/05/05)


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