唯物論者

唯物論の再構築

唯物論6a(情念の復権)

2014-03-21 16:29:46 | 唯物論

 「判断力批判」においてカントは、真偽判断を判断力から除外し、趣味判断と道徳判断の二つだけを判断力の対象として抽出した。カントにおけるこのような形の判断力の限定は、対象認識の不可能性を一つの理由にしている。すなわちカントにおける物自体の不可知性が、真偽判断を不可能にしている。加えてカントは、この不可知な対象認識を前提にして判断力が成立するとみなしている。規定的判断にすぎない真偽判断が、常に対象認識として趣味判断や道徳判断に先行するのであれば、真偽判断と趣味判断・道徳判断の区別も、単なる判断種類の枠内に収まるべきではないのであろう。一方でカントは、対象の不可知の例外として、先験的カテゴリーを可知に扱う。しかしその先験的カテゴリーもまた、真偽判断を不可能にするものである。先験的カテゴリーは、先験的な真とみなされており、偽になり得ないからである。例えば偽になり得る同一律を想定すると、同一律の先験性までが損壊してしまう。先験的カテゴリーの可知性も、カントに対して真偽判断を判断力に含めさせる効力をもたない。ところがこのようなカント的見解だと、真偽判断はそもそも言葉として無意味なものとなる。名前は真偽判断であっても、その判断が規定する真は、物自体の真によって査定されることが無いからである。そのように真理の後ろ盾を持たない真偽判断は、せいぜい趣味判断や道徳判断のように、個人意識や共同体意思決定機関による恣意的な判定にならざるを得ない。
 実際には言葉としてだけではなく、趣味判断や道徳判断と区別される真偽判断は存在しており、日常的に誰しもがその判断を間断無く実践している。しかも一見するとそれらの真偽判断は、物自体の真によって査定されているようにさえ見える。もちろんカント的見解で言うならそれらの真偽判断は、仮説の試行検証において経験的妥当性を持つだけであり、単なる経験的な真によって査定されたものにすぎない。このような真偽判断に対する非難に対し、ここでは二つの方向で真偽判断の正当性を考えることができる。一つはアリストテレスやヘーゲル流の第三人間論であり、もう一つは実存主義流の情念の復権である。前者の第三人間論では、競合して現れた基準となる真理の一つが、勝ち抜き戦のように生き残ったあげくに、自らを深化した真理として世界に君臨させる。この場合では、その都度ごとに新しい真理が古い真理を廃棄するとしても、何らかの形で真理は常に世界に存在している。当然ながら真偽判断も常に可能だったことになる。一方、後者の情念の復権は、真偽判断を趣味判断の仲間にみなしている。当然ながら、趣味判断が常に可能だったように、真偽判断も常に可能だったこととなる。カント自らも、趣味判断を未規定の概念に従う判断にみなすことにおいて、趣味判断が真偽判断化する可能性を認めている。このほかにも現象学や分析哲学のように、独我論的観点で真偽判断を可能にする見方もあるが、明らかにそれは実存主義流の情念の復権に帰結せざるを得ない。真偽判断が常に独我によって規定されるなら、真偽とは独我の無意識的構造にほかならないからである。
 真偽判断の正当性を確保する上述の二通りの方法は、一見すると客体論と主観論、または唯物論と観念論のごとく、対立した関係にあるように見える。しかし両者の対立を整合させ、二つの方法を一つにまとめることは可能である。ヘーゲルも、存在の真が最初は単なる思い込みとして現われると考えている。当然ながらいかなる客観的真理も、その出発点は主観の内から発する情念として始まらなければならない。すなわち真偽判断と趣味判断の対立は、両者の出発点においてもともと癒合している。一方で、往々にして実存から離れた真理は、空虚な抽象として、すなわち単なる本質としてその本来的な生命を失いがちである。実存主義はその生命感の喪失を、本質が既に真理ではなく虚偽になっていることの露呈にみなす。もともと真理の生命感は、主観の内から発する情念そのものであった。当然ながら失われた生命の回復も、虚偽化した本質から実存的真理への復帰において要請されなければならない。このときに実存主義における情念の復権は、ヘーゲル弁証法における本質主義を正す契機になっており、さらにはその回復の道筋を指し示すことにも連繋している。言うなれば情念の復権とは、ヘーゲル弁証法における超出なのである。もちろん実存主義は、主観的観念論として多くの問題点を抱えている。しかし真偽判断に正当性を確保する目的からすれば、ヘーゲル弁証法よりも実存主義の側に優位がある。前出表現を繰り返せば、単なる本質はその本来得ていた生命を失いがちである。現代世界の筆者を含めた軽薄短小な感性にとって、真理が持つ生命感の喪失は、真偽判断の正当性を査定する一つの重要な目印になっているからである。

 カントは美的判断を、感覚的な趣味判断と概念的な道徳判断の2系統に分け、さらに趣味判断を合目的な技術判断と合目的的な芸術判断へと分ける。ただしカントは、内実的に美的判断を芸術判断に限定している。すなわち芸術判断だけが美を対象にしており、技術判断および道徳判断の実際の対象は善である。したがってカントにおける判断力の系統分類は、美を判断する芸術判断、善を判断する技術判断と道徳判断で構成されており、真を判断する真偽判断は欠落している。カントは、対象との相関が説明可能な感覚的快を、合目的な技術判断として示す。例えば椅子の座り心地良さのようなものは、合目的な技術判断である。カントは芸術判断を、対象との相関が説明不可能な快と考えており、その点で芸術判断を技術判断と区別する。一方で技術判断と同様に道徳判断も、対象との相関を説明可能な快である。技術判断と道徳判断の差異は、前者が感覚に対して直接現象するのに対し、後者が反省を媒介にした意識現象だと言う点である。もちろん反省を媒介にした技術判断も、感覚に対して直接現象する道徳判断も可能である。このことから必然的に明らかになる両者の実際の差異は、技術判断が物の理念の現れであるのに対し、道徳判断が人の理念の現れであることだけになる。しかしこのような区別立てをする段階で、カントは既に自らの不可知論との対立を自覚せざるを得ない。技術判断としての快、または道徳判断としての善は、カントも認めるように物自体の現われだからである。結果的にカントが意図的に判断力から除外した真偽判断は、技術判断または道徳判断として、その本来の姿を意識のうちに現わすこととなる。
 真偽判断と道徳判断の差異は、前者が真偽を判定し、後者が善悪を判定することにある。この点に限定して両者の差異を見直すなら、真偽判断と道徳判断の差異は、技術判断と道徳判断の差異に近い。技術判断は物の人に対する合目的性を判定し、道徳判断は人の人に対する合目的性を判定するからである。しかし技術判断と真偽判断は、その類似性に関わらず、快の有無において明らかな差異を持つ。椅子の座り心地が快や不快として意識に現れるのに対し、椅子自体の有無は快や不快と無関係に意識に現れるからである。このことに対して意識の系統的発生を考える場合、次のような難問が待ち構えている。それは、技術判断と真偽判断のどちらが認識において規定的優位にあったのかである。もちろん真偽判断ではなく、技術判断の側に規定的優位を立てるなら、すなわち快や不快を存在の有無に対して規定的優位に立てるなら、それは意識に規定的優位を見い出す観念論となるであろう。言うなればそれは、ハイデガー流に真偽判断を技術判断の派生態に扱う立場であり、存在の本来の姿を快に見い出す思想となる。逆に技術判断ではなく、真偽判断の側に規定的優位を立てるなら、すなわち存在の有無を快や不快に対して規定的優位に立てるなら、それは物質に規定的優位を見い出す唯物論となるであろう。言うなればそれは、技術判断を真偽判断の発展形態に扱う立場であり、快の過去の姿を存在に見い出す思想となる。

 ちなみにカントは芸術判断を、対象との相関が説明不可能な快に扱い、合目的な快としての技術判断との比較で、合目的的な快にみなす。しかし合目的性が持つ対象との相関の明瞭であるのに比べると、合目的的性の持つ合目的性との相関は全く明瞭ではない。カントの説明では、芸術判断が技術判断に対して持つ位置付けは、先験的カテゴリーが経験的カテゴリーに対して持つ位置付けと同じになる。しかし先験的カテゴリーが経験的カテゴリーを規定するように、芸術判断が技術判断を規定するわけではない。なるほど天才的椅子職人の作った椅子が凡人的椅子職人を感動させるなら、その椅子は芸術的であり得る。しかし世間に出回る芸術作品は、技術者を驚嘆させるから芸術であるわけではない。芸術判断は、技術判断や真偽判断よりも道徳判断に近い。しかし芸術判断は、道徳判断とも平気で対立することができる。明らかに美醜は、真偽や善悪と異なる次元において対象の存在を表現している。カントはその説明に困ったあげくに、先験理論を芸術判断に対して無理やり充当している。カントの説明の正当性は、せいぜい芸術判断と対象との相関が不明瞭だと言うことに留まっている。そもそもカントは、明らかに技術判断と同様の規則性を芸術判断に対して感じ取っている。すなわち実際には芸術判断と対象の間に、直接的な相関があるべきである。ただしその相関は、真偽判断や道徳判断と違い、一般的なものではない。その相関は認識主体の個別に根差しており、個別の真偽判断、または個別の道徳判断として特化している。したがって仮に同じ運命を背負い、同じ宿命の元に現在を生きる二つの異なる認識主体が存在するなら、両者は同じ対象に対して美を見い出すはずである。そのことは一見すると、美が美的対象の属性ではなく、認識主体の属性であるかのように見える。しかし異なる認識主体が同時に対象のうちに美を見い出すなら、美は美的対象の属性でなければならない。美的対象とは、認識主体の魂の客体なのである。
(2014/03/21)


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