唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(D章B節a項.自己疎外的精神としての教養)

2016-09-20 07:59:05 | ヘーゲル精神現象学

 D章A節で精神が個別の法則の直接統一から法的人格へと自己展開する様を示したヘーゲルは、自己疎外的精神が純粋意識を現す弁証法記述に進む。ここでは、倫理判断および国家権力と富の成立、さらに此岸の対極に立つ純粋意識の登場を語る精神現象学のD章B節a項を概観する。

[D章B節a項Ⅰの概要]

 自己意識は自己自身を世界として外化し、その世界に対峙することにより一般者として実在する。自己意識にとってこの外化は、目的であるとともに結果であり、あるいは手段であり、もしくは意志の現実化、ないし個人の一般化である。ここでの自己意識の一般性と実在性が威力を持つのは、それが教養に即したときである。教養とは本来の自己意識であり、人格的個性と区別される普遍的意志である。自己意識はこの普遍的意志を自らの個別により現そうとする。つまり自らその一般性になることにより実体を現実化する。一方でこの疎外を通じて自己は、意識と対象、または一般性と個別性を相互対立において存立させる。そしてその対立する全体が、対立の転倒において概念となる。そこでの自己意識は、対象的実在と自己の一致を通じて善を外化する。しかし逆に理性は、不一致を通じて悪を外化する。そしてこの善の自己相当は国家権力として現実化し、その同じ自己疎外の悪は富として現実化する。ただし個人にとっての実在は善と悪に留まるので、個人は善悪を国家権力および富に結合する推理を立て、「国家権力は善である」という倫理判断を行う。この倫理判断における善と国家権力の結合は、国家権力と自己の間に一致を見い出す高貴な意識、そして逆に不一致を見い出す下劣な意識を現実化する。この高貴は自己否定において一般者を外化する徳として現れ、国家権力の威力を現実化する。この現実化は、さらに一方に純粋自己としての掟、他方に一般的自己としての臣民たちを現実化し、精神は両者を統一する運動として現れる。しかしその国家権力の最初の姿は、純粋自己の恣意と一般的自己によるその助長から生まれた独裁者である。ところが独裁者の対自は、国家権力と自己の一致、すなわち高貴へと移行し、国家権力を他者のための富に変える。国家権力と富の区別の消失は、高貴と下劣の区別を消失させ、権力者を恩人に変える。しかしそこでの感謝を通じてむしろ権力者は自らの虚実を自覚する。結果的に権力者の自己意識は、国家権力および富と一体化して個別者を偶有に扱う主人の意識、および国家権力から疎外され自己の偶有を自覚する奴隷の意識に分裂する。ここでの主人は、自己否定することの無い自己の直接態であり、支配への過信において傲慢に振る舞う。またへつらう奴隷は、自己疎外において自らを物化する。したがって精神を語ることができるのは、自己疎外しながら自己であり続け、自己否定において自己自身を概念把握する奴隷の教養だけである。そして教養を通じて奴隷としての自己自身は、主人としての自己となる。この内なる革命は、概念において無限判断として現れる。しかしこの革命は教養の廃棄を許さない。したがって精神は、此岸に否定的な先験論、または此岸から遊離した信仰へと収束して行く。ここでも自己否定した空虚な自己は、国家権力と富の樹立を通じて実在を取り戻そうとするが、得られるのは自らの虚実の自覚である。ただしその空虚の自覚は、自らの自由の自覚である。すなわちそれは、自らの純粋自己としての自覚である。当然ながらこの純粋自己は、既に個人意識の自己ではない。


[D章B節a項Ⅱの概要]

 純粋自己が此岸としての教養世界を疎外したことにより、教養世界の彼岸が純粋意識として露呈する。それは純粋な非現実なので、せいぜい考えられただけの思惟、すなわち思想の直接態である。それは既に不幸な意識として現れた実体の無い意識運動と同じものであり、端的に言えば教養世界における信仰としての宗教である。ただし信仰は宗教と違い、単なる現実逃避であり、純粋意識の一側面に過ぎない。純粋意識のもう一つの側面は、純粋意識における対自存在としての純粋透見である。その思想は、経験論における表象の形式に対立して、純粋自己を対象にした先験論として現れる。したがって純粋透見は、自らの内容を持ち得ない。これに対して信仰は、自らの内容を非現実な直観として持ち、それを超感覚的世界の表象へと転じる。このことから信仰の対象は、純粋意識が一般化され実在化した精神として現れる。信仰の最初に現れる精神は非現実な単純態であり、それに対する信仰も非現実である。しかし精神が現実的な単純態へと外化するなら、信仰もまた現実世界のものとなる。しかし信仰にとって現実は、精神無き定在に過ぎない。現実化した信仰は自らと彼岸の統一を一般的自己意識としての教団に頼る。しかしそれは直観された現実的統一ではない。一方で純粋透見はこの精神の自己意識である。すなわちそれは個人の自己意識ではない。したがって純粋透見にとって全ての実在は自己の表象にすぎない。純粋透見が目指すのは、全ての実在を概念として現実化することとなる。教養はこの無制約性と結びつき、純粋透見を全ての自己意識に行き渡らせるのを目指した。ただしそれは、現実世界を動物的世界と教養世界に質的分離したことにおいて最初から頓挫している。しかし全ての自己の目的が純粋自己なら、純粋透見は全ての個人の仕事として全ての自己意識に所有されているはずである。つまりもともと純粋透見は、全ての個人に対して理性的であることを命じる精神として存在している。


0)純粋意識における信仰と透見

 自己意識は自己疎外的実在となることによって自己と実体の統一、すなわち法的秩序を実現する。ただしこの法的秩序の実体性は否定性であり、自己意識と対立する。実体とは、外化において自らを支える力として現れる精神だからである。この法的秩序との比較で言うなら、人倫的共同体は直接的で自己疎外の無い実体である。それは自己と実体が直接的に統一した単なる恣意であり、現実的な実体ではない。一方で自己意識が外化によって現実における此岸へと移行するのに対し、自己と実体の統一は純粋意識における信仰の彼岸に移行して此岸と対立する。この純粋意識は、透見において対象を概念把握する一般的自己であり、全ての対象を透見において対自存在に変える。その自己は此岸と彼岸の両方を概念把握する教養であり、その純粋意識の独我論は先験論として現れる。そして信仰の彼岸を此岸から概念把握する透見は、透見自身を啓蒙として現す。啓蒙における此岸からの彼岸の把握、または透見における純粋意識からの現実的対象の把握は、把握対象の実体性を消失させる。それだからこそ疎外された精神は救いを求めて信仰の中に落ち込み、不可知な物自体概念と目的論を生み出す。そしてこのような実体の消失が絶対自由の思想を生み出し、教養の国家を転覆する。それゆえに次の道徳的国家では、自己意識は再び自己に帰り、良心としての自己自身を確信することになる。。 ここではまず初めに精神は、自己疎外において現実の此岸と信仰の彼岸に分裂する。ただしここでの信仰は現実逃避であり、その意味で宗教ではない。しかしこの彼岸において精神は自由な純粋意識となる。


1)普遍的意志としての教養

 自己意識は、対自を通じて自己自身を世界として外化し、自ら一般者として妥当する。ただし自己意識は、自ら生み出した自己世界を対自存在として扱わない。なぜなら自己意識にとってこの自己世界は、外来の現実世界だからである。また自己意識の実在性も、自らに対立するこの現実世界の実在性において現れる。したがってここでの自己意識は、自ら現実化する。それゆえに自己意識の持つ一般性と実在性は、法的人格の場合と違い、対象からの承認を必要としない。一方で外化は自己意識の目的であるとともに結果であり、あるいは手段であり、もしくは意志の現実化、ないし個人の一般化である。したがって自己意識の一般性と現実性は、本来の自己意識に即した外化においてこそ威力を得る。そしてそのような自己意識の本来が、教養である。ただしそれは一般として現れる普遍的な意志であり、個人の自然的特徴ではない。もちろんそれは、無個性な一般者とも違う。自己意識はこの普遍的意志を自らの個別により現そうとする。つまり自らその一般性になることにより実体を現実化する。したがって教養は普遍的意志の個別性であり、人格的個性ではない。むしろ人格的個性は、普遍的意志の一般性から疎外されることで現実化する。


2)善悪と倫理判断

 教養を通じた疎外において自己は、意識と対象を統一するのではなく、相互対立において両者を存立させる。このことは、自己が一般性と個別性の両者に対するときも同じである。それだからこそ意識と対象の全体は、自己疎外における対立の転倒において概念となる。その概念は無機的自然に始まり、精神集団では自己意識・理性・精神を代表する三集団として現れる。このうちの自己意識の集団は、自己と実体が統一した不変性において、思想としての善を外化する。逆に理性の集団は、博愛的自己犠牲の虚実性において、悪を外化する。すなわち自己意識における対象的実在と自己意識の一致は善であり、その理性における不一致は悪となる。そしてこの善の自己相当は自らのための国家権力として現実化し、その同じ自己疎外の悪は他者のための富として現実化する。一方で個人は、国家権力と富の両方から自由な純粋意識である。それゆえに個人にとっての実在は、内在的理念としての善と悪であり、外在的現実としての国家権力と富ではない。そもそも善悪と国家権力および富は、まだ無関係のままにある。それだからこそ個人は、これらの内在的理念を外在的現実に結合する推理を立て、「国家権力は善である」という倫理判断に至る。


3)判断対象の自体流動

 倫理判断の対象は、もともと感覚的確信に現れた対象である。それゆえに対象に現れた善悪も、対象自体に内在していた善悪が外化したものでなければならない。ところが後で見るように、国家権力は現実化においてその始まりにあった利己性を消失する。むしろその現実は、他者のための富でしかない。それゆえに国家権力に対する倫理判断も不明瞭になり、あるいは転倒する。つまり国家権力に対する倫理判断は、それを善と悪の両方に扱う対立した二重判断となる。ところがもともと善は自己同一性である。そこで国家権力の善悪の決定も、自己意識と国家権力の利害関係に従う。すなわち自己意識に利する対象は善であり、自己意識と対立する対象は悪である。しかしこのことは国家権力の善悪を、判断の始まりにおける即自的な善ではなく、対自的な善もしくは対自的な悪に変える。このことは富についても該当しており、富もまた即自的な悪から対自的な善へと転倒する。ただしそれは自己意識と国家権力の関係の変化であり、感覚的確信の対象の変化ではない。しかし感覚的確信の対象は、今では精神の対象である。したがってその善悪の変化は、やはり対象自体の変化である。結果的にそのことが示すのは、感覚的確信における静止的な対象の自体が、今では倫理判断における流動的な対象の自体になっていることである。なお対象についての即自的な倫理判断は対自的な倫理判断へと転倒されたが、もし個人が一般性として現れるなら、この転倒された対自的判断は再び元の即自的判断に転倒する。すなわち国家権力は個人にとっての自己同一的善となるし、富は個人にとっての虚実的悪となる。ただしそれは、単なる即自的な倫理判断への回帰ではない。なぜならそれは、この倫理判断の即自かつ対自的な完成として現れるからである。


4)高貴と徳

 善と国家権力、または悪と富の関係は、倫理判断において結合された。この判断はそれ自身が内在的理念であり、それは高貴な意識および下劣な意識として現実化する。高貴とは国家権力と自己の間に一致を見い出し、富と自己の間に対立を見い出す意識である。逆に下劣とは国家権力と自己の間に対立を見い出し、富と自己の間に一致を見い出す意識である。このように倫理判断に高められた善悪とその対象の関係は、次に思惟と現実の実践的関係へと外化する。しかし判断の始まりにおいて国家権力は目的として存立するだけであり、まだ定在を持たない。それゆえに高貴な意識は、自己否定において一般者の定在を目論む個別者の徳として現れる。そしてこの徳の自己疎外は、それ自身が倫理判断の外化であり、すなわち意識の現実化である。しかもそれは、国家権力の威力の現実化であり、一般者の外化でもある。またそれだからこそ徳において奉公する自己意識は、君主を含む個別者の臣下ではなく一般者の臣下として共同体の中で承認される。なおここでの自己否定の真は、自己意識の死にある。逆に言えば、生き長らえる自己否定は利己的な偽である。しかし自己意識の死は、自己否定の真を実現すべき当の自己意識を失う。それゆえに自己意識の自己否定は、自ら自己否定して自己否定を現実化する。すなわち生き長らえつつ自己否定するのが、自己否定の真である。


5)国家権力の成立とその一般的権力への移行

 国家権力の威力の現実化は、国家権力の純粋自己を掟などの言葉として対他存在させる。一方で言葉ではない国家権力の自我は、高貴な意識などの一群の一般的自己として自らを外化し、消失して行く。この純粋自己と一般的自己の両者は精神の両極であり、精神はこの両極の統一として定在する。すなわち精神は、両極の双方を相互媒介において定在させ、その分裂した定在の消失において両極を統一する運動である。そしてこの国家権力の純粋自己が目指すものは、公共的福祉である。しかしその自己は、まだ福祉を決裁する自律した意志ではない。一方の一般的自己も、純粋自己に奉公する自らの高貴をへつらいに転じる。この両者の運動が、国家権力の個別態として独裁者を生む。しかしこのような権力の現実化は、独裁者の対自において国家権力と自己の一致をもたらす。それは、権力者における独裁の高貴な意識への移行である。この移行は国家権力の自己意識への昇格でもある。そしてそれはさらに権力自身の自己否定的奉公へと進む。このとき国家権力は、他者のための富として現れる。個別な享楽のためにあった富は、これにより自らの個別性を廃棄し、一般者となる。国家権力と富の間の区別も無くなり、高貴と下劣の間にあった区別も失われる。このような富と自己の一致は、下劣な意識の目的であったものである。一方で権力者にとって自らは他者のための富であり、高貴な意識もそのことを承認している。それだからこそ高貴な意識は、権力者を恩人として扱い感謝する。ところが権力者の富は、権力者の意識ではない。すなわち高貴な意識が感謝するのは、富であり、権力である。このことから権力者および高貴な意識の両方は、自らの虚実を自覚する。それゆえにその対自存在、すなわち意識の自己は、自己自身と無縁な現実として疎外される。


6)自己疎外者による概念把握としての教養

 権力者の自己意識は、国家権力および富と一体化している自己自身、および国家権力から疎外された自己に分裂する。前者は、個別者を偶有として扱う主人の意識である。後者は、自己の偶有を自覚する奴隷の意識である。奴隷の意識は、自己疎外しながら、なおかつ自己であり続ける。それに対して主人の意識は、自己否定することの無い自己の直接態である。この直接態は、奴隷の疎外結果である富を奴隷に分与する富自身として現れ、その富により奴隷を支配する。それゆえに奴隷における疎外の矛盾への反発は、主人に対する反発となる。また主人の意識も、富による奴隷の支配を過信し、奴隷に対して傲慢に振る舞う。しかし実際には富と個別者の両方の偶有性が、富による個別者支配の現実を無効にしている。支配の現実は、さらにへつらう意識においても非現実な姿で現れる。もともと精神を外化したのはへつらう意識なのだが、へつらう意識は自己疎外において自らを物化するからである。それゆえに精神を語ることができるのは、奴隷の分裂した意識だけである。その分裂した意識は、自己自身を他者とすることで自己自身を概念把握する。すなわちそれは、教養である。


7)革命における無限判断

 教養を通じて奴隷としての自己自身は、主人としての自己となる。そこでこの位置関係の転倒は、教養が対峙する全世界に革命をもたらす。なぜなら自由の必然は不自由の内にあり、意識の必然は物体の内にあり、普遍の必然は個別の内にあり、善の必然は悪の内にあるからである。そしてこれらの対立の統一は、概念において無限判断として現れる。精神とはそのような統一であるゆえ、対象を静止的に把握するだけの糞真面目な意識は、精神が貧しいとみなされる。逆に軽蔑と拒否の意識は、率直ゆえの精神の豊かさを持ち得る。もし革命が糞真面目な意識において国家と教養を廃棄するなら、それは国家と教養を再興させる悪無限に至る。なぜなら革命をもたらしたのは国家と教養だったからである。したがって革命における国家と教養の廃棄は、最初からそれらを再興させるものでなければならない。つまり精神は、革命における混乱の自然収束を予見している。精神はその自然収束を三種の思想形態として展開する。第一は此岸を再興させる目的論であり、第二は此岸に否定的な先験論であり、第三は此岸から遊離した信仰である。


8)純粋自己の成立

 自己疎外した自己は、自己自身が空虚である。このために革命を通じて主人となった自己は、現実否定が得意なだけで現実把握を出来ない。そこでこの自己は、自らの空虚を世界の側に移し、自らの実在を取り戻そうとする。そのためにこの自己が立てる目的は、国家権力と富の樹立であり、それによる共同体からの承認である。ところが国家権力と富は、自己にとって自らの存在ではない。それゆえに自己は、再び自らの虚実を自覚する。しかし逆にこの空虚の自覚において自己は、全ての規定から自由で普遍的な純粋自己となる。純粋自己は国家権力と富を要せずに自らの実在を取り戻し、自己を除く全ての対象を空虚で否定的なものにする。それゆえに今では自己疎外した自己だけが、純粋自己にとっての自己である。当然ながらこの自己は、既に個人意識の自己ではない。


9)信仰と透見としての純粋意識

 純粋自己による教養世界全体の疎外は、この此岸の教養世界ならぬ彼岸の純粋意識の世界を露呈させる。それは純粋な非現実なので、せいぜい考えられただけの思惟、すなわち思想の直接態である。ただしこの思惟は、ストア式純粋思惟が意識の自由に執着したのと違い、意識の自由に執着していない。また徳の意識が現実に対立する非現実であったのと違い、この意識は現実の彼岸としての現実を持つ。さらに内容の無い形式性であった立法的理性や司法的理性が現実経験を受容し得るのに対し、この意識の経験は現実たり得ない。この思想の直接態は、教養世界における信仰としての宗教である。この信仰は、既に不幸な意識として現れた実体の無い意識運動と同じものである。ただしここでの信仰が実在を得ているのは彼岸である。したがってそれは、家族における地下世界への信仰が此岸に実在を得ていたのと異なる。ただし信仰は宗教と違い、単なる現実逃避であり、純粋意識の一側面に過ぎない。この純粋意識は、非現実として現実的対象の実在を滅ぼす純粋な否定性である。それは純粋な対自存在であり、それゆえに自らの個別性を廃し、一般性を得た自己として現れる。そして自らの非現実の自覚において否定を肯定し安定する。他方でこの純粋意識のもう一つの側面は、純粋意識における対自存在としての純粋透見である。その思想は、経験論における表象の形式に対立して、純粋自己を対象にした先験論として現れる。この純粋透見において真理たり得るは、自己が持つ対象の形式だけである。つまり純粋透見は、自らの内容を持ち得ない。これに対して信仰は、自らの内容を非現実な直観として持ち、それを超感覚的世界の表象へと転じる。このことから信仰の対象は、純粋意識の直観が一般化され実在化した精神として現れる。


10)教養の挫折と現実

 信仰が自らの対象とするのは、単純態としての父、およびその対他存在する自己としての子、およびその単純態に復帰した姿としての聖書の三つの実在の統一である。最初にあった精神は非現実な単純態であり、それに対する信仰も非現実であった。しかし精神が現実的な単純態へと外化するなら、信仰もまた現実世界のものとなる。しかし信仰にとって現実は、精神無き定在に過ぎない。現実化した信仰は自らと彼岸の統一を自分で成し得ないので、一般的自己意識(教団)に頼る。しかしそれは直観された現実的統一ではない。信仰が概念として現在するのは、彼岸が外化された事実だけである。信仰にとって彼岸は内在的理念に留まる。一方で純粋透見はこの精神の自己意識である。それは個人の自己意識ではない。したがって純粋透見にとって全ての実在は自己の表象にすぎない。また純粋透見は自らを目的とする限り純粋であり、無制約である。それゆえに純粋透見が目指すのは、全ての実在を概念として現実化することとなる。そこで教養はこの無制約性と結びつき、純粋透見を全ての自己意識の行き渡らせるのを目指した。ただし現実世界を動物的世界から教養世界に変える試みは、両者の質的分離において頓挫している。しかし全ての自己が純粋自己を目的にするなら、純粋透見も実際には全ての個人の仕事として、既に全ての自己意識に所有されていなければならない。つまりもともと純粋透見は、全ての個人に対して理性的であることを命じる精神として存在している。

(2016/05/07)続く⇒(精神現象学B)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項    ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
  D章 B節 a項    ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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