唯物論者

唯物論の再構築

頽落

2011-01-15 10:56:23 | 実存主義

 頽落verfallenとは、人間的堕落のハイデガー的表現である。頽落という訳語は一般に馴染みの無い言葉なので、以下では堕落と表現する。ハイデガーにおいて堕落は、人間が自ら望む形で、人の形をした単なる物体に成り下がることを指す。そして人の形をした単なる物体とは、自由を放棄した人間、もしくは自由を放棄させられた人間を指す。なぜなら人間存在の本質は、自由だからである。

 人間の物体化は、マルクスの表現で言えば、労働疎外である。つまり資本主義的所有関係による人間に対する自由の強制的放棄である。これに対しハイデガーの表現での堕落は、自由への不安に対する人間自らの自由の放棄である。このため人間の物体化を考察する上で、マルクスの論じた労働疎外がカバーできないような人間の物体化に対し、ハイデガーの論じた堕落は有効に見える。
 しかしハイデガーにおける人間の堕落は、二重の問題を抱えている。第一にハイデガーの論じた堕落が、単なる偶発的現象ではなく、一般的現象だという問題である。第二にその堕落現象の一般性を、実存論で示した人間構造の普遍性が担っているという問題である。

[問題の1点目の解説]
 ハイデガーにおいて、人間の堕落は一般的現象である。なるほど人間の自由放棄は巷で発生している。ところがそれらは、一般的現象ではない。人間の自由放棄は、自由放棄を行う人間の個別性に根差しているためである。当然ながら、巷で発生している人間の自由放棄の各原因にも、自由放棄をしている人間の数と同じ数だけの差異がある。もちろんそれらの自由放棄を、その事象原因に従ってグループ分けをし、汎化するのも可能であろう。しかしその汎化の究極に、ハイデガーの論じるような堕落が登場することは、決して無い。そのことについては、問題の2点目の解説で論じる。
 人間の堕落は、単なる偶発的現象であり、その現象的個別性を構成するのは人間自体の個別性である。その個別性は、変形しながら成長した栗の木の根のように、一人一人の人間にへばりついている。それは、偶然に遭遇した過去の事件や、物覚えつく前に刻印された自らの出生や、求め得ぬ愛や、一般性からの強制隔離であったりする。そのような個別性は個別者に一体化しており、個別者は自らの個別性から逃げることができない。もし個別者が自らをその個別性から解放したなら、その個別者はすでに元の個別者ではなく、また個別者ですらない無個性の一般的な「ひと」になるかもしれない。ただし個別者の個別性からの逃避は不可能であり、たとえ思い込みで逃避できたと一時期的に自らを騙しても、その自己欺瞞の永続も不可能である。なぜなら事実は、意識と独立に存在するためである。また個別者は自らの自己同一性を確認するために、否が応でも自らの個別性に舞い戻らざるを得ないためである。
 しかしそれを理解していても自らのうちに潜む個別者を廃棄したい場合、人間は自由の放棄を始める。つまり自ら人間であるのをやめて、物体化し始めるのである。

 ちなみに個別的現象を一般的現象に扱うのは、個別者に対する一種の愚弄である。

[問題の2点目の解説]
 ハイデガーにおいて、人間の堕落の一般性を、実存論で示した人間構造の普遍性が担っている。細部を省略して言えば、自由と言う人間の存在が、人間の自由を放棄する原因になっている。言い換えるとそれは、存在自らが存在放棄を引き起こすという非合理な説明でもある。
 自由は自分自身からの自由を含んでおり、自由放棄の選択に対しても同様に自由である。自由放棄の選択が自由であるなら、自由への不安も自由放棄の原因にならない。つまり自由への不安を自由放棄の原因として扱うためには、人間は自由放棄の選択権をもたないという前提、つまり人間は自由ではないという前提をたてるしかない。しかしこの前提は、自由への不安を自由放棄の原因に扱うのを不可能にする。これは、ハイデガー実存論での人間構造が、排他的な前提を無造作に並存させているのを示している。このような非合理性が示すのは、ハイデガーが論じた堕落
verfallenseinが、フロイトの論じたエディプスコンプレックスに類似した、フィクションに過ぎないだけの架空の意識構造だということである。
(2011/01/15)

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