1)使用価値の恣意
商品の使用価値は、商品の生産者にとっての効用ではない。それは商品を購入して使用する人にとっての効用である。ハンマーはもっぱら釘などを叩いて打ち込むのに使われるので、ハンマーの使用価値はもっぱら釘打ちと言えそうに見える。しかしそのような使用価値は使用者の嗜好によって決まる。それゆえにもしかしたらハンマーマニアは、ハンマーを釘打ちに使わずに美術品として床の間に飾るかもしれない。あるいは特異なハンマー性愛者がいるなら、彼にとってのハンマーは性欲を満たす道具なのかもしれない。このような恣意的な価値判定は、商品価値をなにか得体のしれない不定なものに変える。そこでさしあたりそれは不特定ながら社会的に多数を占める通念に従い、その商品価値は釘打ちの使用価値だと決め込んで得心する人が出てくる。しかしこのような商品と価値の結合は経験的である。そこでこの経験論に対し、例えばハンマーの形状が釘打ちに適応しているから、先験的にハンマーと釘打ちは結合可能だとする考えがその対極に生まれる。しかしヘーゲルにとってそれは、存在と本質の外的結合と言う点で大同小異の主張である。要するにそれは、先の恣意的結合の装いを変えただけの同じ主張である。とは言えその恣意的な使用価値を商品生産者が共有する場合、例えば商品生産者が美術品としてハンマーを生産して自ら美術品として消費する場合、その恣意的な使用価値は外的結合された対他存在ではなく、ハンマーの即自存在を成す。ただし自己消費される生産物は、そもそも商品ではない。
2)本来の使用価値
単純な労働生産物と商品では、その使用価値が自己に対するものか、それとも他者に対するものかで差異を持つ。単純な労働生産物の使用価値は、たとえ使用者が他者であっても、自己向けの効用と区別されていない。その使用価値の対他存在と即自存在は、未分化である。一方で商品の使用価値は、市場における消費者の欲望に応えなければいけない。それは他者の何らかの満足に応じる商品の対他存在である。しかしその必要を根拠づけるのは、やはり労働の生活満足である。その商品がもたらす生活満足は、労働の他者にとっての使用価値ではなく、労働の自己にとっての使用価値である。その意味で労働する自己にとって、ハンマーが釘打ちに効用を持とうが、美術品の効用を持とうが、それが他者にとっての使用価値である限り、どれもこれも自己にとっての使用価値ではない。このことが表現するのは、商品における使用価値の自己向けと他者向けの分裂である。もちろん他者向けの使用価値を満たさない商品は、そもそも商品として商品市場で生き残れない。しかし労働にとっての本来の使用価値は、単純な労働生産物の使用価値である。その使用価値は、労働の生活維持を効用とする。他者向けの使用価値は、自己向けの使用価値から分離派生した副次的な使用価値に過ぎない。しかし商品を単純な労働生産物と区別し特徴づけるのは、この分離派生した副次的な使用価値である。それゆえにこの労働の他者向けの使用価値は、商品から労働の自己向けの使用価値を過去的契機として廃棄する。これにより商品において使用価値は、他者向けの使用価値へと純化する。
3)価値の恣意性の排除
本来の使用価値である労働の生活満足は、自立した商品にとって自らの根拠であるにせよ外的である。しかし商品それ自身は、消費者に対する対他存在である。そして消費者にとって商品は、自己の生活の根拠である。商品は消費者の生活において消費され、廃棄される。したがって消費される商品は、消費者において本来の使用価値に復帰している。そして消費者はもともと労働者である。したがって労働は廃棄されて商品になった後に、再び商品が廃棄されることで労働に復帰する。この労働→商品→労働の循環が成立する条件は、最後の労働が最初の労働と同一以上なことである。さしあたりこの同一以上と言うのは、質的な事柄なのか、量的な事柄なのかは不定である。それでもここでの労働の同一は、労働者の生活の同一を表現する。もし最後の労働者の生活が最初の労働者の生活より小さい場合、労働→商品→労働の循環の連続は、無限小へと収束する。それが意味するのは、労働者の生活の困窮と破滅である。それゆえに循環の維持を主眼にして循環を見直すなら、循環が成立する条件は、むしろ最後の商品量が最初の商品量と同一以上なこととして捉える方が良い。この捉え方では、無限定量の労働が限定量として現れる。もちろんそれは商品として外化した労働を物体の量的外形で規定したものである。労働は復帰した自己の同一以上を商品の量的外形を媒介にして知ることができる。この自己同一はそれ自身が労働にとって価値である。その価値が表現するのは、労働の現実的生活である。したがってその使用価値も、他者の恣意から自由である。すなわちこの自己にとっての使用価値では、恣意が排除されている。ただしこの捉え方は、労働→商品→労働の循環を、商品→労働→商品の循環に反転させる。
4)交換価値
もともと労働→商品→労働の循環は、最初の労働と最後の労働の同一を前提する。それは循環の各所における価値同一の前提でもある。またそうであるからこそこの循環は、無根拠な悪循環を脱する。しかしそのような価値同一が成立するなら、最初の労働と最後の労働が同じである必要は無い。すなわち最初の労働に現れる生活と最後の労働に現れる生活は、他人同士の労働者の生活でかまわない。この他人同士の関係は、商品→労働→商品の循環でさらに明瞭になる。実際に労働者は、野菜を消費して労働に励み、机を生産する。別に最初の商品と最後の商品は同一価値であれば、別の物資でかまわない。むしろ労働の生活の中で最初の商品と最後の商品は、もっぱら別の生活物資である。ただ総量として見るなら、最初の商品塊と最後の商品塊は、同じ人間生活物資の塊になるだけである。この総量としての人間生活物資塊の使用価値は、人間生活である。しかしその人間生活物資塊は、衣食住の異なる使用価値の商品を含む。この全体として同一の使用価値は、部分において様々な大きさの価値で現れなければいけない。そしてその様々な価値は、再び全体に統合されるなら、元の決まった大きさの価値に集約されなければいけない。それゆえにこの軋轢の中でそれぞれの使用価値は、元の決まった大きさの価値の決まった価値部分を占める。したがって価値の度量を成すのは、一人の人間生活全体である。それが前提するのは、異なる労働同士の人間生活全体の等しい大きさである。またそうでなければ、労働→商品→労働の循環の根拠も失われる。また実際に人間を含めて類としての動物において、個々の個体の必要生活物資の量に差異は無い。それゆえに標準的な一人の人間生活全体が、商品塊同士の交換における価値を成す。それは人間生活と言う一つの使用価値でありながら、商品交換を根拠づける。それゆえにその使用価値は、使用価値と区別され、交換価値として表現される。なぜならそれは単なる使用価値ではなく、使用価値の度量だからである。そして度量を通じることで一人の労働者が一日かけて生産した商品は、別の労働者が一日かけて生産した別の商品と等価となる。そして一労働日が内包する商品ごとの交換価値は、商品一単位の生産に費やした時間量によって決まる。これにより異なる商品の一定比の数量交換が、等価交換となる。この等価交換の根拠は、一人の人間生活全体の等価であり、すなわち総量としての交換価値の等価である。
5)不等価交換
商品交換は、等価交換を前提する。ところが本当に商品交換が等価交換で行われるかは定かではない。少なくとも偶然な不等価交換は可能である。しかも等価交換の前提が、不等価交換をも等価交換にしてしまう。それは勝てば官軍であるのと同じように、不等価交換に真の等価交換の装いを与える。そもそも商品交換の場面において双方の商品交換者は、互いに相手の商品に投下された労働量を知らない。等価交換がされるとしても、それは双方の商品交換者の思い込みでしかない。あるいは相手の商品に投下された労働量を知っているとしても、商品購入者はより少量の自己労働力でより多量の相手の労働力を得ようと努力する。これらの事情は、不等価交換を商品交換の一般的姿のように現す。それは自然の一般的姿が偶然を装って現れるのと同じである。しかし二日をかけて一日分の生活を得る暮らしを長期に続けられる動物は世の中にいない。二労働日をかけて生産される商品を、一労働日をかけて生産された商品と交換するなら、その不合理は二労働日をかけて商品を生産する生産者を遠からず餓死させてしまう。それゆえに偶然が持ち込む価値的偏差は、基本的に商品交換の無限循環の中で平均化されて淘汰される。とは言えこの平均化に抗う形で不等価交換は、二様の特別剰余の形で生き残る。一つは風土的または属人的な特別剰余であり、もう一つは暴力的独占である。いずれの特別剰余の発生も、労働と商品の質に由来する。それは量に対抗して現れる質であり、交換価値に対抗して現れる使用価値である。
6)風土的または属人的な特別剰余
風土や生産者の質は、商品に先験的な価値的優劣を与える。それは一方で地理的条件と身体機能が商品に与える天の恵みであり、他方でその逆の不幸である。さらに生産者の天性の才覚は、それらの価値的優位を再現することもできる。いずれにおいてもその価値的優位は、環境的優位および技術的優位として現れる。そのような技術には商品広告のようなマーケティング技術も含まれる。マーケティングもまた生産技術の一画を成すからである。優位な環境や技術によって少量の労働日で生産された商品は、最初は商品の少数派として、比較的に多量の労働日で生産された他の一般的商品に混ざって市場に出る。そして一般的商品と同等の商品交換を通じて、その優位に応じて例えば一日の生活で二日分の生活を得る差額略取を実現する。これらの優位は、市場における商品の占有率を高めるほどに、劣位商品とその生産者を駆逐する。しかしその優位技術が比較劣位の他商品を駆逐してしまえば、優位商品の比較優位も消滅してしまう。一方で比較劣位の生産者も、優位技術を習得すれば、自らの劣位商品に引きずられる形の自らの壊滅を免れる。それゆえに優位技術は、劣位技術を駆逐する形で生産現場に普及する。これがもたらす優位技術の普遍化は、劣位商品を自然死させる。そしてこの場合においても、優位商品の比較優位は消滅する。いずれにおいても比較優位の消滅は、それに根拠づけられた特別剰余を消失させる。ここでの特殊が普遍に転じ、普遍が特殊に転じる運動は、生産流通機構の単なる新陳代謝である。それは生産現場における若者と老人の入れ替わりを、技術の入れ替わりで代替しただけの運動である。ただし比較優位には風土や個人の天性に固着したものがある。そのような固有の比較優位は、劣位生産者に容易に伝播しない。したがってその固有の比較優位に基づく特別剰余は、優位技術の普遍化を退ける形で残存する。優位生産者にとってこの伝播の障壁は、天が与えた特別剰余を守る防波堤である。一方で優位技術の習得を望む劣位生産者にとってその同じ障壁は、天が与える一種の暴力である。
7)暴力的独占
生産流通機構の新陳代謝は劣位生産者を駆逐する。それは劣位生産者にとって優位技術の登場を契機に現れた恐慌である。その恐慌は古くなった生産流通機構の構成部位を切り捨てて、新たな構成部位と入れ替える。そこで放逐された劣位生産者の破局は、一つの社会問題を成す。しかしその問題点は優位技術の中にあるわけではない。問題とされるべきなのは、劣位生産者に対して優位技術が伝播されないことであり、劣位生産者の救済が為されないことにある。この背景には優位生産者における既得権益確保の策動があり、劣位生産者における新技術導入に対する負担忌避がある。両者における優位技術の普遍化への抵抗は、そのまま生産流通機構の新陳代謝を阻害する。そこでの劣位生産者の自己防衛は、一方でラッダイト運動のような反科学・反合理化運動、他方で外国人や被差別階層に対する排斥運動の形で現れる。いずれも劣位生産者における優位生産者に対する対立感情の噴出であるが、前者の優位生産者が社会的強者であるのに対し、後者の優位生産者は本来なら社会的弱者の無産者である。ここで社会的弱者のはずの無産者が優位生産者として現れるのは、いくばくかの資産を有する劣位生産者に対し、無産者の無所有が一種の優位技術になるからである。ただしその優位は、自らの生活の一部を切り捨てた捨て身の優位にすぎない。それが無産者にもたらすのは、生活財が欠如した人間生活である。それは、例えば無産者の一日の生活を平均的な劣位生産者の半分の生活財で実現させる。しかしそこでの生活財の欠如は、無産者の人間性を同時に破壊する。それは無産者の生活財の全てを他人の借財にして、無産者を私財を持たない利子提供者に変える。その強制された極貧は、無産者を婚姻などの社会生活の不適格者にする。場合によればその人間性の破壊は、無産者の人格をも破壊し、無産者を悪鬼に変える。またそのような現実が、さらに社会的弱者に対する排斥運動を動機づける。ここで平均的な劣位生産者がより劣位の無産者に対して抱く恐れは、優位生産者が劣位生産者に対して抱く怖れと同じものである。それが怖れるのは、比較劣位者による自らの既得権益の侵害である。ここでの優位生産者と劣位生産者、そして劣位生産者内における比較有産者と無産者は、いずれも環境または技術における比較優位の所有と無所有において対立する。それゆえにそれら比較優位者は、自らの既得権益を維持するために、その優位な環境と技術の暴力的維持を目指す。それが環境と技術の暴力的独占である。この暴力的独占は、上述のようにあたかも恐慌の結果のように現れる。しかし実際は暴力的独占と恐慌は、同じ事象の裏表にすぎない。むしろ暴力的独占の結果が恐慌である。
8)身分制
風土的または属人的な特別剰余は、優位な環境と技術がもたらす一時的な天の恵みである。それらは自らの環境と技術の優位において他の技術全般を屈服させる。したがってそれらがもたらす独占では、優位技術の普遍化が起きない限り、暴力の助けを必要としない。一方で暴力は、それ自体が一つの風土や生産者の天性の質である。すなわち暴力もまた、特定の優位に基づく一つの天の恵みである。暴力的優位者は、その暴力と言う固有の技術と生活財の交換により自らの生活を実現する。ただし暴力的優位者がその固有の技術を生活財の交換相手に対して行使するなら、その商品交換は単なる強奪である。しかし暴力的優位者がその固有の技術を、自由に消費可能なサービスとして交換相手に提供するなら、暴力は商品としてのサービス労働の一つになる。このサービス労働がやはり暴力として現れるのは、交換相手を通じてその固有の技術が、交換相手の生活財のさらなる交換相手に対して行使される場合である。要するにそれは、サービスとしての暴力を使用した生産流通機構の支配である。そのような暴力は、風土や生産者の質と違い、その優位とも言えない技術に対して技術全般を屈服させる。その暴力的優位者は、市場において自らが支配する商品を強制流通させ、そうではない商品流通を暴力的に停止させる。結果的に暴力的独占は劣位技術においても、優位な環境と技術が得た天の恵みを実現する。この暴力の内実は、直接に他者の生活財を奪うだけの才覚である。そのもともとの姿は、体力が強力な時期の一過的な質である。しかし一過的な質と言う点では、技術の普遍化にさらされる優位な環境と技術も同じである。それゆえに暴力と優位な環境と技術は、一体となることで暴力の弱体化と優位技術の普遍化を阻止し、自分たちの天の恵みの恒久化を目指す。それは旧技術の新技術への入れ替えを妨害し、生産流通機構の正当な新陳代謝を阻害する。本来ならこの社会進歩の停止は、暴力的独占を実現した優位生産者にとっても損失である。しかし彼らにとって必要なのは、優位技術を抑圧する暴力の技術であり、そうではない技術的優位を必要としない。それゆえに暴力的独占は、社会進歩の代わりに優位生産者と劣位生産者の細かく裁断された身分固定を目指す。この身分制は人間に対する質的限定である。それは商品に対する質的限定と同質のものである。あるいは商品に対する質的限定が人間に対して派生したものである。それゆえに全ての使用価値から排除され、就労を制限された階層が身分社会の最底辺として現れる。もちろんその身分制は、優位者にとっての人間と商品の使用価値表示にすぎない。その質的限定は優位者にとって根拠を有するとしても、劣位者にとってもっぱら無根拠である。要するにその使用価値は恣意的である。また無根拠であるゆえに、身分制の維持に暴力は不可欠である。
9)所有権
身分制は優位生産者と劣位生産者の区別を、生産流通機構から切り離れた単なる優位者と劣位者の区別に純化する。したがって身分制は土地私有を筆頭にした優位生産者の所有権一般を身分により保証する。そして優位者に対する身分の保証は、同時に平均的劣位者の身分を保証でもある。それが保証するのは、平均的劣位者の平均的人間生活である。またそれが無ければ、優位者自らの身分の保証も無い。それゆえに優位者はもちろん、平均的劣位者も優位者の暴力を受容する。一方で身分は平均以下の劣位者である無産者にとって、逃げ道の無い極貧の暴力的強制でもある。しかし平均以下の劣位者は、劣位者全体の中で基本的に少数者である。それゆえにその暴力的独占に対する転覆欲求が果たされることも無い。その転覆欲求は、優位者による弾圧を受けるだけではなく、平均的劣位者からも忌避される。一方で身分制は優位者と劣位者の区別を生産流通機構における優位と劣位から切り離す。しかしその区別の純化は、身分制の根拠の消失でもある。その身分制の無根拠が露呈する局面は、使用価値が交換価値と整合しない局面である。すなわちそれは、優位不労者が劣位勤労者の価値以上に現れる局面、あるいは逆に劣位勤労者が優位不労者の価値以下に現れる局面である。この局面で露呈するのは、使用価値の恣意である。それゆえに優位不労者は自らの暴力的独占を根拠づけるために、暴力の価値を欲する。往々にして追い詰められた優位不労者が行うのは、慈善と対外的危機の演出である。とくに対外的危機に対する暴力の行使は、優位者の身分を合理的に粉飾する。もちろん対外的危機が実際に存在する必要は無い。優位者自らが対外的危機を演出すれば、優位者は自らの身分を合理的に粉飾できる。この虚偽的演出を可能にする条件は、言論報道の自由の制限である。ここでも暴力が体制維持の重要な役割を果たす。一方の慈善の内実は、取得した特別剰余の劣位者への一部返還である。しかしそれは優位者と劣位者の両者にとって矛盾である。わざわざ徴税還付するくらいなら、最初から徴税しなければ良い。
10)革命
新陳代謝の正当性から言えば、暴力的独占による劣位生産者の駆逐は、単純労働量の交換価値に胡坐を組む不良生産者の駆逐である。端的に言えばそれは質による量の駆逐であり、使用価値による交換価値の駆逐である。それは交換価値として量化した価値の使用価値への回帰であり、本質の擁立である。ところが一方で本来の使用価値は、平均的人間生活である。それゆえに身分制が擁立する使用価値は、その身分的格差において本来の使用価値と乖離する。ただしもっぱらその乖離は、少数の優位者においてのみ必要以上の人間生活として現れる。そして多数の劣位者において生活必要物資と消費財の量的乖離は現れない。あるいは少数の無産者の人間生活においてのみ必要物資の不足が起きる。しかしもし多数の劣位者の人間生活において生活必要物資と消費財の不足が起きれば、露骨に少数の優位者における必要以上の人間生活は不合理なものとして現れる。このときに飢餓の境界にいる劣位者は、暴力的優位者と対決せざるを得ない。この対立における劣位者による暴力的優位者の駆逐は、身分制を廃棄する革命として現れる。それは空虚な使用価値に胡坐を組む不良優位者の駆逐であり、暴力的独占と同様の暴力的な生産流通機構の新陳代謝である。しかし革命の実現には暴力的優位者に対抗するだけの暴力機構が劣位者の側に必要である。そしてもっぱら劣位者は、そのような暴力機構を持たない。それゆえにほとんどの革命は成就しない。そして成就したと思われる革命の全ては、暴力的優位者の内部対立における優位者の一方が、劣位者と連繋したものである。分裂した暴力的優位者にとってその劣位者との連携は、身分制における不忠の汚名と下剋上を正当化するための重要な題目である。ただしそれ以上のものではない。それゆえに革命の成就は、そのまま劣位者の生活を保証しない。敵対する優位者を駆逐した優位者にとって、劣位者は相変わらず自らの暴力的支配の対象にすぎないからである。劣位者の生活保証を実現しない革命は、暴力的優位者内部の顔ぶれを変えて終わる単なるクーデターに終わる。その暴力的優位者がいかなるイデオロギー的看板を掲げるかは、その新たな身分制にとってどうでも良い事柄である。フランス革命がもたらした大混乱とギロチン・テルミドールは、民主主義の美名を地の底に失墜させ、多くの知識人に民主主義に対する失望と嫌悪をもたらした。それは後続する民主主義革命の実現をはるか遠方に追いやる人類史的な失敗であった。
11)共和制
さしあたり貧民革命がもたらすのは、量による質の駆逐であり、交換価値による使用価値の駆逐である。その運動方向は、暴力的独占における質による量の駆逐、使用価値による交換価値の駆逐と正反対に向いている。この暴力的独占と貧民革命の交互運動は、一方が身分制を擁立し、他方がその身分制を廃する悪循環となる。そしてそのように見た人間社会の歴史は、次々に新たな支配者が入れ替わるだけの混沌の連続である。とは言えこの悪無限は、無限定な価値本体を見出そうとする人間社会が行う認識運動を体現する。それはカント式不可知論に従えば、答えに辿り着けない認識運動であり、シェリング式直観に従えば、天啓がもたらす無限定な盲動である。しかしその無限定な価値本体は、さしあたり価値として限定されているし、哲学においてもっぱらそれは真・善・美として限定してきた。それらはヘーゲルにおいて自己展開する精神でもある。そしてヘーゲルはそれを現実の永遠の彼岸として捉えない。それが自己展開する精神である以上、身分制を廃して生ずる身分制はより近く真理を体現し、その身分制の虚偽を再び革命が廃棄する。その運動が究極に擁立するのは、身分の無い身分制となる。端的に言えばそれは、身分制の自然死である。またそうでなければ、再び新たな身分制が生じ、その身分制を倒す革命が起きる。さしあたりヘーゲルは、共和制の実現をそのようなものとして捉えている。一方でその最終的な身分制が現すのは、使用価値を問わない商品交換のはずである。言い換えればそれは、身分を問わない人間生活共同体の実現である。その現実化の条件は、生活の必要を不問にする労働、および必要に応じて分配される商品交換である。この生活の必要から乖離した商品交換では、まず交換価値が人間生活の価値として無意味になる。そのことは使用価値を、商品に対する自由な規定としての原初の使用価値に戻す。そしてその無方向な規定は使用価値を個別化させる。それは普遍的な使用価値の廃棄である。ところが共和制の実現は、このような社会状態を実現させていない。そこにはまた新たな身分制が存在している。ただしそれはあからさまに人間に身分の烙印を与えることで自らの所有を守るものではない。それは環境と技術の独占を自らの権利として宣言し、法支配の正規の暴力を通じて自らの所有を守る。所有の分断は、一方に現実離れした悦楽の天界を生み、他方に現実の責め苦で人格を破壊された鬼を生む。
12)使用価値間の不等価交換
マルクスは身分の対立を所有と非所有の対立として捉え、現代の身分制を資本家と労働者の二極対立で把握する。この対立の根拠には使用価値と交換価値の対立がある。そしてその根拠にはさらに使用価値同士の対立がある。この使用価値同士の対立は、別形式の価値が相互に恣意的に規定し合う相互関係である。それは例えば緑と四角の対立として現れる。もちろん異なる形式である緑と四角は、基本的に対立しない。この緑と四角の対立は、それぞれの同一質料への還元が可能にする。それは緑と四角のそれぞれを、緑を抽出する労働と四角を構成する労働にする還元である。ただし二つの労働は、やはりその生産物で比較されることはできない。そこで生産物の交換を互いに必要とする場合、さしあたりその交換比は恣意的に行われる。ただしこの段階で生産物の交換に両者の力関係が暴力的に反映されると、対立が生じて交換は成立しない。そこで四角を欲する緑の生産者、および緑を欲する四角の生産者は、調停により交換の不成立を回避する。ちなみにこの調停の成立は、需要価格と供給価格が交差する市場価格として現れると思われている。しかし商品交換の本来の相関の姿は、双方が需要者であり、双方が供給者である。そこでの市場価格は、一方の商品量で他方の商品量を表現する単なる交換比でしかない。二種の商品交換に限定して市場価格を捉えるなら、貨幣は単純に交換比を決定するための単なる媒介である。交換比の調停が、双方の生産者の家計を維持する条件は、先に示したように労働の等価交換である。したがってここでの市場価格も、やはり労働の等価において成立する。一方でこの使用価値同士の商品交換には、既に見たように不等価交換が存在する。しかしこの不等価交換も、調停による交換の不成立の回避結果である点で等価交換と差異をもたない。この不等価交換は、商品交換全体のうちの一部で現れる限り、不等価交換がもたらす不幸を劣位の一部生産者に与えるだけに留まる。
13)不等価交換の変転
不等価交換は地理的条件と身体機能の優位において始まり、暴力との結合において普遍的な身分制として社会全体を覆う。この普遍的な不等価交換は、劣位生産者の不幸も普遍化する。そしてこの普遍化が、旧身分の没落と新身分の台頭の原動力となる。当然ながら身分制の優位者がこの反復運動を阻止しようとするなら、劣位生産者の不幸の普遍化を阻止しなければいけない。それは劣位者の生産物を搾取する優位者にとって矛盾である。しかしここに優位者と劣位者の間のヘーゲル的宥和が成立する。それは身分一般を空虚にし、最終的に身分制を自己崩壊させて共和制と入れ替える。この共和制成立の焦眉の廃棄対象は、異なる使用価値間の不等価交換である。なぜなら異なる使用価値間の不等価とは、身分制そのものだからである。一方で身分制の崩壊と市場における商品の等価交換の普遍化は、同義である。それゆえに身分制の崩壊によって市場における商品の等価交換の普遍化も完了する。ところが実際には共和制と言えども、地理的条件と身体機能の優位、およびその暴力との結合を停止させることは無い。それは一方に技術的優位と所有を独占する階級を残し、他方にその対極となる劣位生産者の階級を残す。ただしその階級が行う基本的な不等価交換は、旧時代に一般的に現れた異なる使用価値間の不等価交換ではない。その不等価交換は、一般的商品の使用価値と或る特別な商品の使用価値の不等価交換である。その特別な商品とは労働力商品である。労働者にとっての労働の使用価値は人間生活である。当然ながら労働者は労働と引き換えに人間生活を受け取る。それゆえにその労働者にとっての労働の使用価値は交換価値として現れる。しかし労働の購入者は、購入した労働を通じて複数人分の人間生活を受け取る。そしてその複数人分の人間生活が、労働の購入者にとっての労働の使用価値である。ここでの労働者と労働の購入者との間で二通りに使用価値は現れるが、その大きさには差異がある。その交換の不等価は、交換価値と使用価値の不等価に従う。
14)使用価値と交換価値の不等価交換
等価交換の普遍化の中で、労働の不等価交換は残留する。この不等価交換の役割は、生産物に固着し共和制が洗い流した身分を一手に引き受ける。それは優位の労働と劣位の労働を区別し、それぞれの質を交換可能な生活物資の量として表現する。つまり労働の使用価値は、その労働が生産可能な生活物資の量として現れる。そしてこのことが、労働力商品の特異性を露わにする。すなわちこの商品の特異性は、一人の人間生活と引き換えに、交換相手に複数人の人間生活を引き渡すことにある。要するに労働力商品とは、入力以上に出力する永久機関商品なのである。ただし労働力商品は、資本主義以前の階級社会の登場から現代にいたるまで連綿と裾野を広げる形で存在している。それは旧時代において優位生産者が所有を宣言した土地と家屋に囲われた使用人であり、その身分制の底辺には人身売買で取引される奴隷として現れた。しかしその商品特性は、旧時代において身分がもたらす使用価値の不等価交換の影に隠れており、いかに彼らが優秀な商品生産能力を有していたとしても、その特性は全て劣位生産者を所有する優位生産者の才覚として現れた。この幻影を打ち破るのが、共和制の登場である。すなわち身分制の崩壊が市場における商品の等価交換を普遍化し、それにより不等価交換の背景にいた労働力商品の特異性を表面化させる。劣位者における労働は、それが数人分の人間生活を生産するとしても、交換にあたって当の労働の一人分の人間生活と交換される。そしてその生産した人間生活の余剰分は、優位者の所有として宣言され、労働と賃金の交換において差額略取される。ただしこの不等価交換は、労働力の商品的性格から言えば等価交換であり、不等価交換ではない。これはいわゆる剰余価値搾取の原理であるが、技術を含めた生産手段の使用料が優位者に対して一方的に有利であるなら、いずれの形態でも搾取の理屈に差異は無い。ここでの劣位者の労働における生産物総量は、優位者にとってのその労働の使用価値である。そしてそれと交換に劣位者に渡される生活費は、その労働の交換価値である。この交換価値の総体は、人間の平均的社会生活に必要な生活物資の総量である。そしてそれを超えることはできない。またそれだからこそ交換価値は、価値一般の度量となっている。
15)利潤率低下の幻影
共和制においても独占の進展は所有の不均衡を生み、所有の不均衡は平均的な劣位生産者より下位の階層に貧困のしわ寄せを与える。さらに独占の不等価交換が商品交換全体で現れるなら、それは下位の階層だけでなく劣位生産者全体に不幸をもたらす。社会における独占の進展が必然と捉えたマルクスは、それゆえに資本主義における貧民革命の勃発もまた必然だと捉えた。そこでのマルクスの見通しでは、独占の進展が優位者の側に所有の蓄積を生み、それが生産流通機構の利潤率を低下させて貧民革命へと連繋する。ところがこの見通しには、マルクスも承知しているはずの大きな問題がある。それは一般的な商品と異なる労働力商品が持つ特異性である。それは先にも述べた一労働が複数労働を養う永久機関的性格である。そしてこの特異性が、マルクスの過剰生産恐慌論に対するポール・スウィージーらの反論を現実のものにする。それは剰余生産物量の増大速度が不変資本価値量の増大速度を上回るように生産性が向上するなら、利潤率低下法則は成立しない、とする反論である。この利潤率低下法則の幻影については別記事でも述べているが、端的に言うと利潤率低下法則の内容は、労賃上昇が利潤率や利潤率の上限値を低下させるという凡庸な法則に落ち着く。ただ利潤率低下の可否と無関係に、もともと労働力商品の商品性能それ自身は、優位者にとって自らの暴力的諸力の源泉である。当然ながらそれは、貧民革命の勃発を阻止する力にも転用される。したがって優位者の側における所有の蓄積は、むしろ独占の支配体制を強固にする。このことは極限的飢餓にも関わらず貧民革命が起きない北朝鮮の国情からも見て取れる。しかもこの貧民革命勃発の阻止には、優位者側の支配力増大だけでなく、勃発した貧民革命の失敗が大きく関与している。それらの貧民革命はもっぱら大混乱と大量虐殺を引き起こし、さらにそれらの革命後社会での非民主的独裁において劣位者世界の全体に失望を与えたからである。
16)現代における使用価値と交換価値の乖離
身分とは、商品生産技術の暴力的独占を通じた人間の階層づけである。旧時代において身分は裁量可能な暴力の量と質によって決められ、その身分に応じてその所有が配分された。それに対して現代の身分制は直接に身分を所有の量が決める。すなわち優位者とは、生活物資を多量に所有する個人である。一方で所有の量で決まる身分に対し、物理的な富の大きさには空間的限界がある。それゆえに所有の蓄積は、物資の蓄積ではなく、もっぱら所有権の蓄積として現れる。もちろんこの所有権の証券を代表するのは貨幣である。現代社会の建前では、もともと無所有な個人でも多量に所有権を所有するなら、その個人は優位者となる。したがって所有権の移転が起きれば、優位者も入れ替わる。それゆえに一見すると現代の身分制は、旧時代の身分制と違い、暴力の役割が軽減してあたかも紳士的スポーツに変化したように見える。しかしそれはこの項の冒頭に述べた通りに錯覚である。そもそも独占は言葉の通りに、入れ替わりを前提しない。仮にスポーツや学問のように順位決めの規則に従う独占があるとすれば、それは独占ではない。すなわち独占を規定するのは、優位者の恣意であり、それを支える暴力である。したがって独占は独占である限り、身分の固定を目指す。独占の進展は、この固定した優位者に対して単なる人間生活で使い切れない富を与え、多勢を占める劣位者に平均的人間生活を与え、さらにその平均以下の下位層に地獄の貧困をもたらす。旧時代における使用不能な富の多くは、土地と金を除くと、時間推移において腐食して無価値なものとなった。それに対し現代の富は、観念としての抽象的権利であり、腐食を知らない。しかもそれが及ぼす権利は、時空間を超えて拡張する。それゆえに現代における独占の進展は、優位者において無限に富を集中させる。
17)先進国労働者の現状
科学技術の進歩は、一つの交換価値が生産する交換価値の総量を増大させ、その永久機関的性格をさらに強化する。またその進歩は、優位者による劣位者を支配する能力を高めるものでもある。この点で現代社会における使用価値による交換価値の支配は盤石なもののように見える。この身分制が抱える非倫理性を見つけるのは容易であるが、その一方でいかなる身分制であっても利点は存在する。身分制は物資の生産流通を通用させる暴力機構の一つであり、例えそれが地回りのやくざ集団であっても生産流通の混沌に対処する局面では積極的役割を果たす。彼らが単なる寄生虫に成り下がるのは、生産流通の混沌が解消されたからであり、私的暴力が果たした役割を有効な公的暴力が果たすように入れ替わったからである。また現代の身分制が果たす積極的役割には、生産流通の技術的功績に応じた身分の分配がある。すなわちそれは、労働者個々人の使用価値に応じた交換価値の再配分である。それは旧身分制に見られたような血筋や家柄に拘束された交換価値の再配分と異なる。しかしこの身分の再配分は、前項で述べた身分制の固定と矛盾する動きである。そこでこの身分の再配分は、身分制の大枠を維持しつつ、劣位者の枠内における身分の再配置に留められる。すなわち労働者個々人は、優位者にとっての使用価値の高さに応じて、劣位者の範囲内でその身分の高低が決定される。また優位者は、自らの行動半径に極貧を放置することもしない。それは優位者の身内を危険にさらし、自らの行動半径を狭めることになる。それゆえに優位者は、旧時代の軍事政権と同様に、自ら支配する城下町の治安維持と生活改善に努める。ただし優位者はこの慈善行為を、交換価値の配分比を城内と城外で逆転する操作をするだけで実現できる。優位者は城外から富を収奪し、城内にそれを散布するだけだからである。逆に言えばそれは、城内から城外への極貧の輸出でもある。城内に住む労働者は金の鎖で縛られているので、城外に住む労働者との生活比較を前にして優位者に対する反抗意欲を失わざるを得ない。また多くの城内劣位者は、生活保全されている以上、とりあえず反抗する必要も無い。さしあたり先進国労働者の状態は、身分制の非合理に苦しみながら現状の生活に安住している黒船来航前の日本の平均的庶民のような状態なのであろう。ちなみに労働力商品の永久機関的性格のさらなる強化は、城外から城内への富の収奪と散布を次第に時代遅れにしている。それは旧時代の帝国主義的手法であり、今では城外の城内化において優位者は自らの支配の盤石化に突き進んでいる。
(2021/05/05)
ヘーゲル大論理学 本質論 解題
1.存在論と本質論の対応
(1)質と本質
(2)量と現象
(3)度量と現実性
2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
3.使用価値と交換価値
ヘーゲル大論理学 本質論 要約 ・・・ 本質論の論理展開全体
1編 本質 1章 ・・・ 印象(仮象)
2章 ・・・ 反省された限定
3章 ・・・ 根拠
2編 現象 1章 ・・・ 実存
2章 ・・・ 現象
3章 ・・・ 本質的相関
3編 現実 1章 ・・・ 絶対者
2章 ・・・ 現実
3章 ・・・ 絶対的相関
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