唯物論者

唯物論の再構築

唯物論(総論)

2010-11-21 23:03:44 | 唯物論

 唯物論は事実を出発点にする理論であり、観念論は迷信を出発点にする理論である。つまり観念論とは、虚偽の別称である。虚偽に耐えられない人間は唯物論者になるべきである。

 唯物論とは、論理の基礎を物質に置く思想であり、それに対し論理の基礎を意識に置く思想が観念論となる。ここでいう基礎とは、論理の出発点であるだけでなく、論理自体を含む論理の対象の出発点でもある。ここでいう出発点とは、根拠を指すと同時に原因をも指している。
 
 唯物論も観念論も、哲学としての論理学の種類にすぎない。両者ともに目指すのは、論理の成り立ちそれ自体の解明である。両者の目的は同一なので、基礎部分を不問にする限り、双方にできあがる論理体系にも差異が発生しないかのように見える。この点で有効に見えるのが、現象学である。現象学は現象一元論として基礎部分を不問にするためである。ところが実際には現象学は、現実存在に基礎を措くと称しながら、自らを観念論の一潮流として位置付けている。ここで現象学が現象一元論の看板を捨てて観念論を自認するのは、観念論が唯物論を忌避する一般的理由に準じている。すなわちそれは、唯物論的土壌における人間的自由の困難にある。物質の規定的優位は、意識を物質の支配下に置き、人間的自由を物理に貶めるからである。そしてカントが認識と存在の間に断絶を持ち込んだのは、もちろんこの不都合に対抗するためであった。しかしカントの方法は、超越論的真理を手にする一方で、超越的真理を放棄するものである。それどころか存在への架け橋の喪失は、超越論的真理の真性までも損壊する。だからこそフッサールは、現存在を過去と断絶することにより意識の自由を可能にし、認識論と存在論の間におけるカント流の断絶を拒否した。このために現象学における意識は、毎分毎秒ごとに論理や論理対象を基礎づける神のような存在となるに至った。しかしこのような不自由を知らない現存在に対してハイデガー以後の実存主義は、意識を過去の影響下に再配置することになる。ハイデガーにとってフッサールによる存在論の回復は、過去の欠如において決意を要しない世俗的な判断停止に留まっていたからである。またフッサールにおける判断停止は、むしろ積極的に存在論を放棄するものでしかなかった。このハイデガーによる現象学の訂正は、一見すると軽い足場変更なのだが、かなり重大な訂正として現れざるを得ない。それにより現象学は、内実的な二元論へと変化したからである。と言うのも現象学は、過去として現象する物質と、未来もしくは現在として現象する意識の両者により構成されなければならなくなったからである。

 このようにこっそりと唯物論に擦り寄るような観念論のブレ方は、現象学以前でもヒュームとカントの間の論争でも発生している。ヒュームが印象一元論へと突き進んだのに対し、カントは印象を基礎づける物自体を要求した。ここでのカントの要求は、ヒュームがもたらした因果律の死滅を救済することにある。と言うのも、カントにおいて因果律の救済と物自体の存立は、同義だったからである。そしてこの因果律の救済は、カントにおいて論理そのものの救済として現れている。ヒュームの独我論に対抗するためとは言え、「物自体」と言う字面だけを見るなら、ここで経験論の前に立ちはだかっているカントは、明らかに唯物論である。すなわちカントの発想における「物自体」は、唯物論における物質と変わらない。そのためにエンゲルスは、彼を唯物論者の一員にまで扱うこととなった。ただしカントが印象の基礎に置いた物自体は、物質ではなくイデアである。したがってカントは、彼自ら認めるように、厳密には観念論者でなければならない。しかしエンゲルスの勘違いは、カントの述べる「物自体」の二義性に呼応した勘違いにすぎない。その二義性は、カント自らが理論理性と実践理性の双方から物自体を抽出することで発生している。したがって責められるべきなのは、むしろカントの折衷的実体の方である。逆に言えば、カントの「物自体」が果たした役割に正当な評価を与えたエンゲルスに対して、むしろカントの方が感謝しても良いくらいである。ちなみにこの「物自体」の二義性は、現象と物自体の世界分裂と並んで、物質とイデアの折衷型二元論としてのカント哲学の性格を端的に表現している。
 なおヒュームの印象一元論は、経験への盲目的信頼に落ち着くが、一方のカント的二元論は、ショーペンハウアーに継承され、印象世界とイデア世界の二元論、つまり物世界と物自体世界の二元論にまで展開した。ショーペンハウアーの目には、ヒュームとカントの対立がそのまま物質と観念の対立を表現しており、すなわちそれは俗世と理想世界の対立として映っている。この観点でのヒュームは、印象世界に拘泥する俗物であり、スピノザと少々種類が違うだけの唯物論者の仲間にすぎない。しかしヒュームに対するこのようなカント的分類は、経験論者と唯物論者の双方を憤慨させるものである。そして実際にこのカント的分類は、正当な評価に値しない。そのような評価に対して、おそらくヒューム本人が最初に反発するであろう。このカント的分類にあるのは、エンゲルスがカントを唯物論者に扱ったのと同様の、単なる自己都合である。しかし相手を擁護するための自己都合は、まだ救いがある。ところが相手を誹謗するための自己都合には、全く救いが無い。往々にしてそのような自己都合による思想分類は、単なる我田引水である以上に、宗教的烙印にすぎないからである。

 このように観念論がこっそりと唯物論を導入する理由は簡単である。意識にとって所与は、もっぱら意のままにならない自らの他者である。カント流の発想では、意識にあらぬ意識の他者は単なる形式として現れる。しかしここで現象学流の形式乱造を避けるとすれば、意識にあらぬ意識の他者とは、すなわち物質を指すべきである。ところが物質が意識の外部にある一方で、論理思考は意識の上で構築されなければならない。このために究極の観念論では、論理は物質の影響を受け得ず、また意識は物質を認知し得ないとされる。しかしこの理屈は、意識の外部にある物質が意識に現れ出るという事実を謎として残す。つまり論理は物質の影響を受けなければならない。このために観念論の話題は、常に意識と物質の二元論へと回帰する運命にある。そこで今度は、それでは意識を二元論のままに理解することはできないのかという要求も、当然出てくることになる。しかし実体概念は、第一原因であることをアプリオリに要請される概念である。このために意識は自らの基盤を語る上で、常に意識と物質の二実体の取捨選択を迫られることになる。
 意識は物質から生まれ出るべきなのか、それとも物質は意識から生まれ出るべきなのか? もともと唯物論と観念論の区別は、物質世界が人間を生み出したのか、理念としての神が人間を生み出したのか、という二つの対立する主張の区別であり、それが転じて物質出発論と意識出発論の形で、現在の両者がある。もちろんその理屈の代表格は、プラトンのイデア論である。古代の観念論は、神の無限性と意識の自由を類比し、意識の神性において自らを権威づけた。旧時代において観念論の風格を支えたのは、常に宗教的権威だったわけである。とくに神が被支配者の側に立っていた時代では、観念論はそれこそ神の名において人間を救済する論理として現れた。もちろんその神の後光は、時代を経て次第に支配者だけを照らすようになり、観念論の威光も最終的に物理の前に潰えることになる。このようなもともとの区別から見れば現代社会では、科学が神の代わりに全てを権威づけており、唯物論が観念論を凌駕しているように見える。ところがそれにもかかわらず実際には唯物論は、いまだに危険思想であり、神を冒涜する悪魔的立場に置かれている。理由は共産主義が唯物論だからである。このために観念論は、エネルギー保存法則を認知しても、不確定性原理が物質の恒常性を否定しているように見えれば、なぜか唯物論が誤りとみなす。同様に、個別の生物の生態環境の特殊性を認知しても、環境要因が遺伝子配列に作用しないので、環境決定論が誤りとみなす。物質がエネルギーに転換したところで、物質が意識や非物質に転化したわけではないし、遺伝子の有無に関わらず、環境は生物を補正してしまうのだが、反共知識人はあたかも観念論の勝利を確信する。なぜそうなるのかと言えば、観念論は富者が自らを正当化する思想的支柱だからである。富者は生まれついて得ていた自らの富が、神により与えられたものではないのを知っている。しかし富者は、周囲にその事実を知られたくないだけでなく、自分でも知りたくない。それでも富者には、自らの富が神に与えられたものである必要があるし、そのように周囲を欺いてきた。富者が周囲だけでなく自らを欺くための、疑いを許さない信仰こそが、観念論である。

 世間的に唯物論には、共産主義的である唯物論、および共産主義的ではない唯物論があるようにみなされている。とくに自らの唯物論を自覚し、なおかつ自らの共産主義批判を自覚するような自称唯物論者は、そのように自らを理解せざるを得ない。しかし唯物論は、神の存在と無関係に真理の実在を認める思想である。真理の実在は倫理の実在へと連繋せざるを得ず、倫理の実在は一つの理想社会の実在へと帰結する。それらの実在の連繋に疑義を挟むような不可知論は、それ自身が既に唯物論ではない。したがって唯物論者は、唯物論者である限り、理想社会の実在を確信せざるを得ない。結論を言うなら、唯物論者は共産主義者になるべきである。ただし唯物論者は共産主義者になるべきであるが、共産主義者になるために共産党員になる必要は無い。自らを唯物論者とみなし、唯物論者として生きることが、唯物論者の唯一の資格だからである。
(2010/11/21初稿、2014/08/07改訂)

唯物論者:記事一覧

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Unknown (影月セル)
2024-12-29 23:06:20
丁寧な回答ありがとうございます。
とりあえずあなたの主張は理解できましたし、唯物論の認識において私のほうに誤解や思い込みが強かったことを認めます。
今回の返信について個別の主張に対してはとくに反論はありません。

それはさておき、ブログ内の他の記事も読んだのですが、あなたの抱く<人間は必然的な要請に応じて善をなせる生き物であるがゆえに等しく皆がその本性において善を有している>といった感じの倫理観は善の普遍性を確信しているという意味で信仰者の倫理観に近いと思いました。

実のところ唯物論も宗教も(特に一神教)客体の人間主体(意識)に対する優越を主張するという点においては親和性のある考えだと思います。

争点は物質と神の違いですが物質を単に表象的な個物としてのみ定義するのなら唯物論はその物神信仰的性質において現代版多神教と言えます。

一方物質とは何かを深堀した際、りんごとりんごの絵が描かれたキャンバスの差異が喪失するようなミクロスケールになった場合物質というのは個物というより一元的存在ということになります。

さらにそこから飛躍して真空状態における量子揺らぎの世界などを見つめた際、世界はより一層一元的に見なされることでしょう。

私はここまでくると唯物論と一神教はある種紙一重に思えてきます。
(尤もマルクスは物質が精神を規定するといった際こういうスケールで思考していたわけではないと思う)

そこへさらに時間の矢(それ自体を視認できないが私たちを確実に過去から未来へと推し進めていく不可逆的かつ3次元時空間における最も強制力の強い物理法則)を加味していくと古典物理的範疇における個物はすべて一つの一元的物理構造に支配されていると思います。

こういう世界観ってすくなくともネオプラトン主義的一者からの流出論を復権させるには十分すぎる事実だと思いますし、流出論に道徳律まで加えたら行き着く先は結局一神教だと思うのです。

そこまで考えると私はあなたが自分を無神論者と思い込んでいる神の信奉者にも見えます。(多分科学的懐疑主義全盛の時代に生まれていなかったらあなたは割と熱心なキリスト教徒かイスラム教徒だったかもしれない)

とまあ私はこのブログに対してそんな感想を抱きました。

縁があればまたお話ししましょう、では。
返信する
Unknown (慶応次郎)
2024-12-29 17:58:54
>>そもそも唯物論の問題はあなたが唯物論をどう定義するかというよりも世間一般でそれがどう捉えられるかの方が重要です。
>>あなたの道徳的唯物論はおそらくあなたの脳内にしか存在していないであろうという点において、あなたが忌み嫌っている観念論に等しい。

唯物論についての世間一般の定義例は以下です。(出典:goo辞書)

「哲学で、精神的なものに対する物質的なものの根源性を主張し、精神的なものはその現象ないし仮象と見なす認識論的、形而上学的な立場。」

ウィキペディア・サードペディア百科事典・Weblio辞書・デジタル大辞泉・精選版 日本国語大辞典・日本大百科全書(ニッポニカ)・改訂新版 世界大百科事典・
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典・百科事典マイペディア・山川 世界史小辞典 改訂新版・旺文社世界史事典を見ても、細かい使用表現を別にして言えば
基本的に同じような記載内容です。ついでに言えば対義語は観念論・唯心論です。
上記「唯物論」の語意は、2024-12-08でのあなたが示した古典的な唯物論批判「唯物論は人をモノとしてのみ扱うことによって倫理や道徳を否定する危険な考え」
ではありません。上記の「精神的なものはその現象ないし仮象と見なす認識論的、形而上学的な立場」から言えば、道徳的な唯物論も十分可能です。
なので道徳的唯物論は私の脳外にも存在しています。

当然ながらこの条件を満たすなら、無価値世界観を樹立したニヒルな唯物論も可能です。
ただニヒルな唯物論は、不可知論や独我論と類似した別種の問題を抱えます。この別種の問題は、無価値世界観を樹立したニヒルな観念論から標榜できます。
ニヒル観念論の代表格はニーチェですが、その無価値世界観は彼が神を死なせたことから発生します。
無価値世界の行動主体はどの方向に動くのも無価値なので、何をするのも無価値です。
しかしそうであるならニーチェ自身は、なぜ本を書いてそれを人に読ませようとするのか?
当然ながら本を書くニーチェ自身は、本を書いてそれを人に読ませることに価値を見出さなければいけません。
ニーチェはそこに自らの意識による価値創出を見出し、それにより自らのニヒル観念論を超人思想に塗り替えます。
この超人思想は、物質ではなく意識が世界の第一規定者であるのを前提します。
もし意識が全ての第一規定者でなければ、ニーチェは本を人に読ませる理由を失います。
そして意識を全ての第一規定者と扱う理屈は観念論です。逆に言えば観念論を前提にしないと、無価値世界観はそもそも自らを他者に開陳する理由を失います。
なので唯物論を前提した無価値世界観は、そもそも自らを他者に開陳する理由も必要もないです。
そのようなニヒル唯物論が、我こそが唯物論と言論世界を闊歩するとしたら、その登場自体が自己矛盾をはらんだ奇怪な事態です。
ニヒル唯物論がこの自己矛盾を正そうとするなら、素直に自分が自らを他者に開陳したいのだと言うべきであり、意識がそのように規定したと認めるべきです。
簡単に言えばこのようなニヒル唯物論は、唯物論の仮面を被った観念論です。
なお唯物論が自らを他者に開陳する必要があるのは、肉体を持つ人間が自己、家族、同胞、そして最終的に人類の存続、そのための自然世界の存続を目指す
からです。
この価値規定は、肉体を持つ類としての人間の物理構造、または物理機構・システムと一体になっています。
もちろんそれから離れたその他の恣意的価値規定も当然ありますが、それはアイドルの好みのようなものであり、唯物論にとってどうでも好きにして良い価値
規定です。
観念論も人間に敵対しないなら、恣意的価値規定としてお互いに趣味判断を構成しますが、観念論が人間に敵対するなら唯物論とも敵対します。


>>唯物論を語る際、場合によっては人間の命や尊厳を無効化する主張に正当性を持たせるために用いられることが想定されるという現実をまず認識する必要
>>があります。

エセ唯物論が我こそは唯物論なりと言ったからところで、それは唯物論にならないです。
事実認識を遮断し、事実報道を阻害する自称唯物論がある場合、それは物理事実に敵対する時点で唯物論の資格を持たないです。
また自称唯物論が物理事実の代わりに捏造虚偽意識を論拠にあてがうなら、その時点でその自称唯物論は第一規定者に観念を充当する観念論です。
弁証法の語源は、弁論であり、話し合いです。たぶんヘーゲルも民主主義の理論的確立のつもりで弁証法を提示しています。
またそれゆえにヘーゲル自身が危険思想家扱いされた時期もありました。当然ながら話し合いを否定した独裁国家に、弁証法的唯物論の資格は無いです。
なお民主主義を可能にする条件は、やはり事実を伝える報道表現の自由です。
「社会主義」の名称変更は過去に何度かあったようですが、「唯物論」は語義のしっかりした歴史の深い名称なので名称変更は無理でしょう。

>>あなた自身が私はカント主義者かもしれませんと仰ったわけですから、あなたは自身の唯物論における道徳律の根拠にカント的思考を用いていることになる。
>>であれば結局のところあなたは道徳律に観念論を持ち込んでいるわけですから、道徳的唯物論が非道徳的唯物論と対峙した際に実質的にそれは純然たる
>>観念論そのものになると思います。

もともとの話の顛末は『「死後の世界など迷妄であるがそれでも人間は物理的事実に立脚して善を目的化しなければならない」。仮にあなたがこういう考えなのだ
としたらあなたは定言命法を支持するカント主義者でしょう。』と問われたことに対して、
「死後の世界など迷妄であるがそれでも人間は物理的事実に立脚して善を目的化しなければならない」の唯物論に迎合して「私はカント主義者かもしれません」
と答えただけです。
なので仮に『「死後の世界など迷妄であるがそれでも人間は物理的事実に立脚して善を目的化しなければならない」。仮にあなたがこういう考えなのだとしたら
あなたは志村けん二代目でしょう。』と問われたら、「私は志村けん二代目かもしれません」と答えています。
そもそもカントは「死後の世界など迷妄であるがそれでも人間は物理的事実に立脚して善を目的化しなければならない」などと言わないです。
それに私はカントをあまり好きではないので、同じ観念論ならヘーゲルかキェルケゴール、またはヤスパースの方が良いです。

唯物論の定義は上記に示しています。カント論理やヘーゲル論理は、その選ばれた論理が唯物論の定義に反しないのであれば、使用可能です。
新しい星を唯物論者が発見したところで、その星の入った星座表の使用は、観念論者を唯物論者にしないです。
もし観念論者が自らの恣意に疑問を持ち、確認のために事実検証をしても、私はその唯物論的行動を賞賛します。


>>道徳律の規定において結局のところなにかしら観念の必要性は自明なのですから、思考の起点が物理をベースにしてあったところでそれは唯物論ではなく
>>観念論のはずです。

もともと感覚器官が認知できるものは既に全て表象に転じているので、意識は対象自体を認識できないです。
この場合に世界には物質が存在しないことになります。それでは世界に物質が存在しないなら、全ては観念論の世界になるのでしょうか?
一方で意識は対象を自らの他者と捉えます。そして意識の他者は意識ならぬもの、すなわち物質です。
したがって意識は世界に物理的対象が存在すると前提しています。
この前提は、物理的対象と意識に残る表象を無関係にしたら成立しません。両者が無関係になると前提は、前提として成立できなくなります。
それゆえに意識は少なくとも対象の存在を認識できなければいけません。
そして対象の存在を認識できるなら、ヘーゲルやヴィトゲンシュタインが考えたように、対象のその他の属性も存在の集積を通じて確立可能です。
かくして世界に物質が存在するので、とりあえず唯物論は可能になります。しかも前提は認識結果の規定者です。
なので前提は認識結果より規定優位にあります。それゆえに物質が認識の第一規定者に躍り出ます。これが唯物論の認識論です。
上記の物と物自体の相関はおおまかにカントが講じた理屈を解釈したものですが、1点だけ重要な差異があります。
カントの理屈では、意識の表象の側が物であり、物自体は観念です。つまり唯物論が語る物体の反映論に対して、物と物自体の関係が逆転しています。
この逆転が観念論者としてのカントにとって重要なのは、物自体がプラトン式イデアである点です。またそうでなければカントは唯物論者になってしまいます。
実際にエンゲルスはそのようにカントを間違って唯物論者として解釈しています。
なお表象側を意識に扱う唯物論の認識論に慣れ親しむと、逆に表象側を物に扱うカント認識論は一見困難に見えるかもしれません。
ただ意識は目の前の表象を観念と捉えず、物に捉えるので、別におかしくないです。
またそれがヘーゲルを含めた観念論が優位な時代の王道的認識論になっています。
ちなみにフッサールの見地から言うとこの認識における物体反映論は、西洋思想世界における唯物論の浸食であり、西洋文明の危機にほかならないです。
観念論者は唯物論に毒された物体反映論から遊離しなければいけません。

なお私の観念論に対する敵意は、理屈の根拠を問い詰めてゆくと、最終的に物理的根拠の代わりに恣意的思い込み、または恣意的決めつけが根拠に現れる
ことに従います。
返信する
Unknown (影月セル)
2024-12-25 15:24:01
と、ここまで書いたところでとりあえずこの文章を以てして一旦やり取りは終了させてもらいます。
あなたからの応答を見てさらなる反論をしてみるかどうかはあなたの文章を読んでから決めようと思います。

それと一応二年前の書き込みは物の言い方があまりに乱暴でさらに投げやりな態度であったと反省しております。
その点に関して当時あなたがご不快な思いをされていたとしたら申し訳ありませんでした。

二年も経ってからわざわざ返信した理由はそのことに対する贖罪も兼ねて改めて丁寧な物言いで自分の主張をしてみようと思ったからです。

また私においてもあなたのご指摘にあったとおり主義主張において矛盾する言動があったことを認めます。
その点において部分的にはあなたの指摘を真摯に受け止めたいと思います。

冒頭の肉食の是非云々もちょっと例として出した例えが悪かったですね。
確かにこれはご指摘のとおり現状では趣味判断です。


一応この文章から続いて性善説への疑問やあるいはそもそも人間は受動的生き物であるという旨の文章も書いているのですが
それらを投稿すると大分長くなってしまうので一旦やめておきます。

では。
返信する
Unknown (影月セル)
2024-12-25 15:23:24
>別にニヒルな唯物論があっても良いのですが、そのような人の不幸を見て見ぬふりをする非人間的な唯物論を、私は容認も擁護もしないです。

ことの是非はさておいてニヒルな唯物論の成立する余地は認められるわけですから、非道徳的唯物論と道徳的唯物論は思想として並存できますよね。
さてここで道徳的唯物論が非道徳的唯物論に対して相対化された場合、道徳的唯物論は道徳的である以上非道徳的唯物論よりも観念的性質が強いはずです。

あなた自身が私はカント主義者かもしれませんと仰ったわけですから、あなたは自身の唯物論における道徳律の根拠にカント的思考を用いていることになる。
であれば結局のところあなたは道徳律に観念論を持ち込んでいるわけですから、道徳的唯物論が非道徳的唯物論と対峙した際に実質的にそれは純然たる
観念論そのものになると思います。

そうしますともはやあなたは観念論を虚偽であるとして一律に棄却することはできなくなるはずです。
もしそれを貫きますとあなたは唯物論者として最終的に私が唯物論として想定した非道徳的唯物論を擁護せざるを得なくなる。

しかしながら非道徳的唯物論の肯定は共産主義の放棄はもとより基本的人権の尊重さえかなぐり捨てることになりかねませんから、それは容認できない。
となるとモラリストというスタンスは最終的には観念論者でないとなりえない立場になるはずだといえるでしょう。


色々と回りくどい話になってしまいましたが私が一番主張したかったのはこういうことです。
私のこうした主張はそんなに論理として破綻しているでしょうか?

道徳律の規定において結局のところなにかしら観念の必要性は自明なのですから、思考の起点が物理をベースにしてあったところでそれは唯物論ではなく観念論のはずです。

逆に言うとあなたは実質的には観念論者であるからこそニヒリズムや非道徳が含まれる純然たる唯物論は絶対に擁護できないのでしょう。
それはあなたも結局のところ<唯物論は非道徳である>という命題に対して同意してるに等しいことです。
返信する
Unknown (影月セル)
2024-12-25 15:22:09
>ここは、唯物論が理想も目的も持たず、善悪の区別を持たないと前提した文脈です。


一般的に唯物論はそう解釈されることが多い思想だというのは事実だと思います。
文面を見る限りあなたは生粋のモラリストであるとお見受けしますが、唯物論を信奉しつつきっちりとモラルや目的意識を掲げるというのは
世間一般の平均的な人々においてはなかなか難しいと思います。

そもそも唯物論の問題はあなたが唯物論をどう定義するかというよりも世間一般でそれがどう捉えられるかの方が重要です。
あなたの道徳的唯物論はおそらくあなたの脳内にしか存在していないであろうという点において、あなたが忌み嫌っている観念論に等しい。

あなたのモラリズムはおそらくあなた自身の生まれ持った気質や良心によって支えられているのだと思います。
それはそれで大変立派であると思うのですが、皆が皆あなたのようなモラリズムを規定出来るわけでないと考えると
唯物論という言葉の響きは相変わらず非常によくないなと思います。

唯物論を語る際、場合によっては人間の命や尊厳を無効化する主張に正当性を持たせるために用いられることが想定されるという現実をまず認識する必要があります。



>自らを物理起点で世界や生き方を捉える思想と扱い、観念論を恣意(神的直観)起点でそれらを捉える思想

自らを物理起点で世界や生き方捉えた結果、想起された恣意を起点に思想を構築するのですから共産主義は厳密に言えば観念論でしょう。
共産主義が実は観念論であること自体は別にそれは恥ずべき事でもないと思います。

というより観念抜きにしてはいかなる思想も生み出すことはできないのですから共産主義が観念を帯びていることはおかしなことではありません。

問題なのは共産主義者自体において共産主義における観念性を無視してかたくなに唯物論を強調し、共産主義以外のイデオロギーを観念論として
一方的に糾弾するその態度です。

こうした姿勢こそが共産主義や左翼が独善的であると批判される所以の一端に繋がっていると思います。
返信する
文字制限超過部分の後続 (慶応次郎)
2024-12-15 11:31:47
>>人間の宗教性を帯びた性質それ自体が事実として確認できる以上、宗教の否定は人間性の否定にもつながりますし
>>最終的には人類における倫理と道徳の不在を招きかねません。
>>であれば唯物論はたとえ合理的であっても、いやむしろ論理的に整合性が取れていれば取れているほど非倫理的であるということになります。
宗教が存在するのは事実です。そしてその存在事実は、該当存在者のなんらかの生成必然を表現します。しかしこの存在事実は、存在対象を人間の必須要件に昇格できません。すなわち宗教の存在事実は、宗教を人間の必須要件に昇格できません。それは例えば多くのやくざ者が特定の社会背景の中で必然的に生れ出たとしても、やくざ者が人間の必須要件に昇格しないのと同じです。
後続の文面は前段論理の崩壊で無効です。また倫理が正しいほどそれは非倫理だとの倫理説明は、いただけません。
相変わらずここの論理も、唯物論は非人間的論理がであると前提を立ててから、その前提に従って唯物論は非人間的論理だとの結論を出しています。

>>それを力づくでなそうというのであれば共産主義は専制政治から抜け出せないでしょう。
民主主義制度が確立した社会で暴力革命は不要です。
議会制民主主義の確立していたイギリスについて、マルクスも暴力革命の企てを馬鹿げていると回答しています。
また「ゴータ綱領批判」でもマルクスは革命政府における民主主義の貫徹を要求しています。
既存社会でもっぱら共産主義が目指すのは、金持ちによる人間の暴力支配機構の打破ですが、話し合いで解決可能なら暴力は不要です。
また話し合いで解決可能な状況下だと、おそらく暴力は逆効果に終わります。
フランス革命でのギロチン・テルミドールの嵐と皇帝ナポレオンの登場は、永らく共和制支持者を不利にし、王制支持者に有利な口実を与えました。
ロシア革命の失敗は、フランス革命の失敗をはるかに凌駕しますが、基本的に失敗の全ては革命政府における民主主義の瓦解に起因します。
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Unknown (慶応次郎)
2024-12-15 11:28:09
>>国家jの死滅

「国家の死滅」のパンチミスです
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Unknown (慶応次郎)
2024-12-15 11:19:33
>>意識が肉体に付随する形で価値判断を行い、その価値判断に善悪が生じる以上、善悪は恣意に基づく観念ではなく
>>人間の身体とその意識がある限りにおいて、物理的実在である。これが慶応次郎さんの善悪論なんですかね?
物理に従う価値判断(善悪判断)は、それ自身が既に物理であり、恣意ではない、と言う意味で上記の理解は大体合っています。

>>この考えって善悪の境界線が白黒はっきり分かれている場合においてしか適応できませんよね。
事実関係がはっきりしないと、善悪判断も仮言・選言判断となり、境界線もはっきりしなくなります。また戦争や資源の増減、地球温暖化のような状況変化によっても善悪判断は変化します。

>>つまり唯物論において肉食の是非は物理的事実によって決まるのではなく個々人の恣意的な内心によって決まるわけです。
文面の印象からすると、対立する趣味判断の並存を唯物論の矛盾と捉える記述に読めます。もう少し詳しく言うとその指摘は、個々人が行動の是非を恣意的な内心によって決めることは無いとの唯物論断定が一方にあり、その見解が、恣意的な内心によって決めると捉える他方の唯物論見解と矛盾する、と指摘するかのような文面です。
しかし唯物論も、個々人が行動の是非を恣意的な内心によって決めることは無いと断定していないし、個々人において行動の是非を恣意的な内心によって決める場面も当然あります。

>>善悪が一人一人の恣意性に委ねられる以上、ここにどうあがいても相対主義が生じてしまいます。
>>ここでこの相対主義を否定しようとすれば唯物論者ないし共産党は肉食の是非について絶対的正解を<物理的事実>
>>から導きださなければいけないことになります。
判断を目的論的判断と趣味判断に大別すると、倫理判断は目的論的判断であり、趣味判断ではないと私は考えます。
とりあえず肉食の是非は、その恣意的嗜好から言えば趣味判断です。趣味判断は対象性質から遊離した感情であり、目的論的判断は対象性質の理性的把握です。このカント式区別を私が言い直すと、趣味判断は恣意的嗜好であり、目的論的判断は物理的選択です。
肉食の是非は、肉食が人類存続の脅威として現れない限り趣味の次元に留まり、善悪の彼岸に押しやられます。この場合に肉食好きとベジタリアンの並存と対立は、その社会の善悪判断で不問に付されます。
なお実態として理性的なはずの目的論的判断の座に、恣意的な趣味判断が鎮座することもあれば、その逆もあります。専制国家は支配者による奴隷支配を倫理と捉えますが、その実態的内実は支配者の趣味です。言い方を変えるとそれは、支配者の意識による暴力的な物理の捻じ曲げです。もちろんその捻じ曲げ自体が物理的正当性をもつなら、それは恣意的捻じ曲げだと限らないです。ただそのような捻じ曲げも、それ自身の物理的正当性を失えば、いずれ物理の反発をくらいます。
ちなみにスピノザは山や川、石ころにも意識を見出す汎神論者として、キリスト教会から弾圧されました。この感性から言うと、肉食者を生命倫理の不遜者と扱うベジタリアンは、スピノザから見ると偽善者です。このスピノザの世界観は、形を変えてシェリング・ヘーゲル・マルクスに伝播しています。

>>宇宙の法則において物理的存在である人間に対し絶対善と絶対悪が規定されておりその規定に基づいて最終的に共産主義が成就するという考え方は
>>善悪の永久不変性と客体性を信奉するという意味において本来唯物論と相容れないはずのイデア論に匹敵していると思います。
理想の実現を目指すのがイデア論であると言うのなら、唯物論はイデア論です。また全ての思想はイデア論になるでしょう。ただ日本語でイデア論とは、もっぱらプラトンのイデア論を指します。そしてそのイデア実体に対し、アリストテレスを筆頭にした批判がされています。そのアリストテレスによるイデア論批判は、天上のイデアの代わりに現存の事物からエイドスを抽出した点で、実に唯物論的です。(もちろんプラトン・アリストテレスの最大の論敵はデモクリトスであり、アリストテレスは唯物論者ではありません。)
また共産主義において共産主義の成就は最終地点ではなく、人類史の出発地点です。さらに言えば通過点に過ぎません。その成就基準は、単に支配機構としての国家jの死滅を指します。個人的見解で言うとそれは、国家の単なる行政サービス機関への転換だと思っています。

>>客体的な物理世界において人類の存廃などどちらに転んでもいいわけで、そこにあえて人類の存続と繁栄と幸福の成就をこめるのなら
>>それは自然科学に基づいた物理ではなく、やはり観念論でしょう。
なぜ客体的な物理世界から人類がはじき出されているのか判りません。とりあえずこの文意を、人類を除外した自然から見ると人類は無くても良い、としたものだと理解します。ただそのように捉えるとあたかも唯物論者が過激グリーンピース集団や過激エコ集団のようなもののけ姫の如くに現れますが、唯物論者はもののけ姫と違います。
おおざっぱに言えば唯物論は、自らを物理起点で世界や生き方を捉える思想と扱い、観念論を恣意(神的直観)起点でそれらを捉える思想と扱い、両者を区別しています。
なので唯物論にとって人類は無くても良い存在ではありません。

>>そうでなくあくまで唯物論を掲げるのなら、個人が社会への積極参加や共同体の一員として周囲と連帯することを拒絶するニヒリズムや諦念思想も
>>物理的存在としての人間の一つの思考形態として容認、擁護できるはずです。
ここは、唯物論が理想も目的も持たず、善悪の区別を持たないと前提した文脈です。この前提はそのまま唯物論を善悪の彼岸にある無機的な思想に扱います。つまりその結論は、唯物論とはニヒリズムだと先に宣言し、その宣言を根拠にして唯物論をニヒリズムに扱うだけの結論です。またそれは、唯物論とは人間無視思想だと先に宣言し、その宣言を根拠にして唯物論を人間無視思想に扱うだけの結論です。
結果的に投稿冒頭では殺人などの白黒はっきりした悪判定には唯物論も有効だと認めたかのような記載と打って変わって、唯物論に倫理判断は存在しないとの断定に戻っています。
別にニヒルな唯物論があっても良いのですが、そのような人の不幸を見て見ぬふりをする非人間的な唯物論を、私は容認も擁護もしないです。

>>最後に私個人の見解ですが、人類において普遍的善を追い求めるのなら「神」への信仰とその肯定は必須だと思います。
>>客体的かつ超越者たる神によって罪と罰が規定されることによって人は初めて善悪に対して真摯に向き合うようになれる。
偉い人に褒められるから善を施し、叱られるから悪を忌避するものと人間を扱うと、人間は自らの行動を他人に制御されるだけの自動機械にします。このような人間は単なる人形であり、自らの意思を持たない非主体的意識であり、受動的物体です。
ヘーゲル式に言えば、善とは人間における幸福の実現であり、悪とは人間における不幸の実現です。ここに神の出番は不要です。
もちろんここで言う幸福の実現とは、自分だけの幸福実現を目指すエゴイズムではないです。
もし不幸の実現を神が人間に命じるなら、人間は自らその命令に対抗すべきです。そのような神は邪神であり、その邪神の足元にある天国も天国ではありません。もし死後の審判があり、そこで自らの生涯が間違っていたと納得するのであれば、人はそこで自らを悔い改めて地獄に行かなければいけません。しかし自らの生涯が間違っていたとのそこでの説明が逆に間違っているのであれば、人は胸を張って地獄に行けば良いです。この場合、おそらくそこは地獄ではないです。

>>「死後の世界など無いのなら人間はなにをしたっていい」という人がいたとして、あなたならなんと反論するでしょう?
死後の世界が無くても人間はなにをしていいわけではないと反論します。
目先の幸福につられて悪を為しても、その一時的な幸福の中で人間は自らの不幸を自覚することになります。その不幸は、目先の幸福の対価に合わない心の苦しみ(人を不幸にしたことへの苦しみ)としてその悪人に現れます。この悪人はその自覚を避けるために、悪の結末を見ないようにする必要を持ちます。このときに悪人は、常に自分が賢くならないように努め、まわりの世界を見渡す心の余裕ができないように自らを堕落させる必要を持ちます。しかし実態としてこの悪人が目先の幸福として得た内容は、より巨大な自らの不幸に転じます。
それと言うのも、長く生きれば生きるほどにどうやっても人間は賢くなり、まわりの世界を見渡し、自ら撒いた不幸の現実を見ることになるからです。人の不幸を見ないふりをすることで一時的に幸福になっても、その幸福は長続きしません。
究極的に人間は、自らのために善を為すのであり、自らのために悪を否定します。

>>「死後の世界など迷妄であるがそれでも人間は物理的事実に立脚して善を目的化しなければならない」
>>仮にあなたがこういう考えなのだとしたらあなたは定言命法を支持するカント主義者でしょう。
そのような考え方なので、私はカント主義者かもしれません。ただ定言命法は、もともと「純粋理性批判」で擁立した物自体の不可知論により、倫理の基礎を消失したことへの反省でカント自身が提言した論理です。そしてその不可知論を独我論の神的直観で克服したのがフィヒテです。このフィヒテによる物自体の認識可能化を受けて、シェリングとヘーゲルによる物自体の認識が企てられ、ヘーゲル弁証法が登場します。そしてさらにヘーゲル弁証法を流用して、キェルケゴールが個人意識の弁証法的深化を提示するに至ります。
これらの一連の思想運動は、神的直観による定言命法を物自体の不可知論から救済し、物自体を認識するための方法論確立に至る系譜になっています。言い換えればこれらの思想系譜は、定言命法の進化の系譜でもあります。私の人間性善説は、直接にはキェルケゴール弁証法に準拠しています。ただし私は弁証法における信仰の開眼部分を、人間の類的自覚に置き換えています。ちなみにキェルケゴール弁証法の素描を既にヘーゲルが書いているのを私が見つけたのは、キェルケゴールを読んだずっと後です。

>>悪とはある特定の行為に対してその行為を行ったものに対する懲罰がなされるかなされないかで決まります。
>>人が行いうる物理的な行為自体においてはそれがいかなる行為であれ善悪は生じませんが、行為に対して罰則が規定されたとき初めてそこに悪がうまれます。
>>逆に言うとこの罰則規定が無い行為に対しては悪も罪も生じません。
悪とは特定の行為を誰かが悪と扱うことにより決まります、との論理展開はカントやトやライブニッツを彷彿とさせます。これは生命起源の謎を他の宇宙に託す宇宙生命飛来説を、倫理起源の謎に充当するような神頼み観念論の典型です。褒賞や懲罰の有無に関わらず行為の善悪は、そのもたらす影響において決定されます。

>>つまり人類の半分近くの人々が死後世界の存在を信じているということになります。
>>人々がこうした信仰を有しているということ自体はその是非を問わずしてまず物理的な次元において<事実>となります。
太古の人類の多くは地球を平らな円盤と思っていましたが、それで地球の物理的実体が平らな円盤にならなかったです。

>>人間の宗教性を帯びた性質それ自体が事実として確認できる以上、宗教の否定は人間性の否定にもつながりますし
>>最終的には人類における倫理と道徳の不在を招きかねません。
>>であれば唯物論はたとえ合理的であっても、いやむしろ論理的に整合性が取れていれば取れているほど非倫理的であるということになります。
宗教が存在するのは事実です。そしてその存在事実は、該当存在者のなんらかの生成必然を表現します。しかしこの存在事実は、存在対象を人間の必須要件に昇格...
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Unknown (影月セル)
2024-12-08 16:01:01
さてここで問題になってくるのは人間が恐れる罰則規定はかならずしも物理的なものとは限らないということです。
宗教的人間においては現世的な刑事罰はさほど恐れるに足らず、彼らが真に恐れるのは地獄の業火であったりするわけです。
天国と地獄や最後の審判といった概念を真剣に信仰する人間において科学的懐疑主義に基づいた死後世界の否定といった合理的見解は通用しません。
そして世界にはそういった死後世界を支持する人間がキリスト教徒20億ともイスラム教徒16億とも言われているわけです。

つまり人類の半分近くの人々が死後世界の存在を信じているということになります。
人々がこうした信仰を有しているということ自体はその是非を問わずしてまず物理的な次元において<事実>となります。

こうした現実を踏まえたうえであくまで科学的合理性に基づいた無神論及び死後世界の否定を貫き通すのであれば
唯物論は死後の裁きといった死後世界から逆算することによってのみ倫理的行為を実践する人々を直ちに非倫理化することになります。

人間の宗教性を帯びた性質それ自体が事実として確認できる以上、宗教の否定は人間性の否定にもつながりますし
最終的には人類における倫理と道徳の不在を招きかねません。

であれば唯物論はたとえ合理的であっても、いやむしろ論理的に整合性が取れていれば取れているほど非倫理的であるということになります。

月並みな言い方をすれば「唯物論は人をモノとしてのみ扱うことによって倫理や道徳を否定する危険な考え」という古典的な唯物論批判がやはり成立するということです。


こうした人間心理から目をそらした単に理念的なだけの唯物的倫理の追求は結局のところ、当局による恣意的な善悪の規定とそれに伴う
パターナリズム的善の強制によるファシズム的社会を生むことになるでしょう。

それは貴方自身も否定しているソ連や中国の二の轍を踏むだけのことです。


である以上、共産主義はその根底に唯物論を置く限り依然として警戒されるべき危険思想の一種ということになります。
特に科学的懐疑主義に基づいた宗教否定の徹底は信仰の自由や内心の自由を著しく侵害する恐れを秘めているだけに、
論理的であるからこそ非論理的世界観を支持することを思想信条の自由や内心の自由の保障によって認めている資本主義や自由主義より危険であるといえるでしょう。

以上2年越しの返信です。
あなたの理詰めで論理を徹底していく
姿勢自体は個人的には好きですが、ただそこで導き出された結論には賛同しかねますし
唯物論は非倫理的思想であり、唯物論のみで倫理構築はできないと思います。

それを力づくでなそうというのであれば共産主義は専制政治から抜け出せないでしょう。
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Unknown (影月セル)
2024-12-08 15:56:30
最後に私個人の見解ですが、人類において普遍的善を追い求めるのなら「神」への信仰とその肯定は必須だと思います。
客体的かつ超越者たる神によって罪と罰が規定されることによって人は初めて善悪に対して真摯に向き合うようになれる。

極論、神によって地獄の業火の懲罰が下されると思ってこそようやく罪や悪から遠ざかれる人だっているわけです。
唯物論では地獄を恐れる心理によってのみ悪事を避け、善をなす人間を悪から遠ざけることはできない。

貴方の唯物論は貴方自身に自覚がある通り性善説に立脚しているので、「死後の世界など無いのなら人間はなにをしたっていいはずだ」という
素朴な感情論に基づいた悪徳と欲望の肯定に対して弱い。


「死後の世界など無いのなら人間はなにをしたっていい」という人がいたとして、あなたならなんと反論するでしょう?


「死後の世界など迷妄であるがそれでも人間は物理的事実に立脚して善を目的化しなければならない」
仮にあなたがこういう考えなのだとしたらあなたは定言命法を支持するカント主義者でしょう。


しかしながら信賞必罰なくして善それ自体を目的化できる人などほとんどいません。

というよりかは善とは悪との相対性においてのみ顕現する観念と言っていいでしょう。
では悪とはなにか?

悪とはある特定の行為に対してその行為を行ったものに対する懲罰がなされるかなされないかで決まります。

人が行いうる物理的な行為自体においてはそれがいかなる行為であれ善悪は生じませんが、行為に対して罰則が規定されたとき初めてそこに悪がうまれます。
逆に言うとこの罰則規定が無い行為に対しては悪も罪も生じません。
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Unknown (影月セル)
2024-12-08 15:55:42
>人間生活と社会の改善を否定する諦念思想

事実、唯物論においては諦念も容認されうるのでは?
諦念は悪であると言うからには相応の根拠が必要だと思いますが、物理学的には人間社会の改善を志すもそれを拒否するもどちらの立場も擁護できますよね。

極端な話で言えば科学的には明日人類が滅びても何の問題もないわけです。
客体的な物理世界において人類の存廃など
どちらに転んでもいいわけで、そこにあえて人類の存続と繁栄と幸福の成就をこめるのならそれは自然科学に基づいた物理ではなく、やはり観念論でしょう。

共産主義者があくまで理想追求型の思想に固執するのであれば唯物論者ではなく観念論者の一派となる。

そうでなくあくまで唯物論を掲げるのなら、個人が社会への積極参加や共同体の一員として周囲と連帯することを拒絶するニヒリズムや諦念思想も物理的存在としての人間の一つの思考形態として容認、擁護できるはずです。
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Unknown (影月セル)
2024-12-08 15:54:18
善悪が一人一人の恣意性に委ねられる以上、ここにどうあがいても相対主義が生じてしまいます。

ここでこの相対主義を否定しようとすれば唯物論者ないし共産党は肉食の是非について絶対的正解を<物理的事実>から導きださなければいけないことになります。

この時唯物論者ないし共産党において何を基準にその正解を導き出すのでしょう?

肉食は食物連鎖において肯定されるから善?
肉食を痛ましいと思う人の心が肉体に付随して実在するから悪?

ここで肉食をするか否かは個々人に委ねると結論付けるのが現代世俗社会の作法ですが、これは直ちに善悪における価値相対主義の肯定となり倫理はかならずしも物理的事実のみによって規定することはできないということになります。

肉を喰おうが喰うまいが科学的事実のみを重んじる姿勢という意味での唯物論がうち崩れることはありませんが、唯物論のみで常に善悪を導出できるという理論はうち崩れます。

善悪が個々人の内心に依存せずあくまで客体的かつ絶対的に存在していると考えるのは伝統宗教の考えです。

宗教においては人以前に神がいて神がいればこそ神自身の観念によって善悪が区別されると考える訳ですが、唯物論の場合当然のこと人間の意識の外側に意識や観念があるとは考えないわけですから善悪はその都度一人一人の生まれた境遇や価値観の違いに依存した相対的なものにならざるを得ません。


共産主義はヘーゲル弁証法と唯物史観に基づいて最終的に文明社会にとってのジンテーゼである共産主義社会の完成を自明視する思想だと思いますが、宇宙の法則において物理的存在である人間に対し絶対善と絶対悪が規定されておりその規定に基づいて最終的に共産主義が成就するという考え方は善悪の永久不変性と客体性を信奉するという意味において本来唯物論と相容れないはずのイデア論に匹敵していると思います。
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Unknown (影月セル)
2024-12-08 15:53:22
意識が肉体に付随する形で価値判断を行い、その価値判断に善悪が生じる以上、善悪は恣意に基づく観念ではなく人間の身体とその意識がある限りにおいて、物理的実在である。
これが慶応次郎さんの善悪論なんですかね?

だからこそ人間において生ある限り、善を追求しようとするのが観念論によってではなく唯物論によっても正当化できると。

ただこの考えって善悪の境界線が白黒はっきり分かれている場合においてしか適応できませんよね。

例えば<人の命を奪う殺人は悪である>という倫理の根幹に関わるような命題においては普遍的合意も得られるかもしれませんが、一方で<食料を得るために家畜を殺すことは悪であるか?>という命題においては肉食を肯定する価値観とそれを否定するヴィ―ガンの価値観とは唯物論において並存するはずです。

生物が生存のため他の生物を奪う行為自体は食物連鎖において普遍的に見受けられる事実としての<現象>であってそこに善悪は生じません。

他方、生命倫理における殺生を忌避する観念を対人のみならず他の動植物にまで拡大すれば食料を得るための殺生は悪となります。

事実、21世紀における左派、リベラルにおいては生命倫理を適応する範囲を拡大する意識が強く非宗教的な世俗主義者においてもヴィーガニズムを支持する声も高まってますよね。

もちろんそれに対して生物としての人間が他の生物を殺して食うのは食物連鎖の仕組みにおいて正当化できるという肯定論も展開できるでしょう。

ここで唯物論者はヴィ―ガンの立場とそれを否定する立場のどちらに肩入れしてもいいでしょう。

肉食に後ろめたさを感じるのなら己の良心に従ってヴィ―ガンになればいいし、そうでないなら肉を食べ続けていい。

つまり唯物論において肉食の是非は物理的事実によって決まるのではなく個々人の恣意的な内心によって決まるわけです。
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Unknown (慶応次郎)
2023-04-20 08:07:19
上記論調では「事実があるだけでありそこに善や悪などといった属性は存在しない。」「唯物論的な物質ありきの世界観においてはそこに追い求めるべき理想など皆無。」「物質とは本質的に無機質なものでありそこに理想を追い求める情緒の介在する余地などない」と言う事で一方で物理的事実の実在を認め、他方で善悪の価値判断を物理的事実から分断しています。ただし善悪の価値判断を不可能とまで述べていないです。また可能であるからこそ、上記は「唯物論者を自負するならあらゆる価値観…は、…好みに過ぎない」との価値判断として現れます。それは唯物論的価値観の偽、さらに言えば唯物論的価値観の悪を断定する善悪判断です。したがってこの論調が示すのは、“価値判断は実在するが、それは物理的事実から導出されない”または“物理的事実を根拠にした価値判断が不可能だ”となります。

さしあたり物理的事実の実在を認める点で、この論調は唯物論の如くです。ただし唯物論は、善悪の判断を物理的事実から導出します。したがって上記論調の結論は、やはり非唯物論です。それゆえに上記価値判断は、その善悪の判断を物理的事実から導出してはいけないはずです。また価値判断が物理的事実から遊離するなら、その価値判断は自らの根拠を物理的事実から導出できません。このときに判断主体は、その価値判断を自らの恣意から導出します。言い換えるとその根拠は物理的事実ではない以上、意識であり観念となります。上記でその論拠を探すと、価値判断と物理的事実の間の分断に舞い戻ります。ただし上記論調は、その価値判断と物理的事実の分断の扱いを、自らの恣意ではなく、あたかも物理的事実の如く表現しています。しかしそれでは、物理的事実を根拠にして、“物理的事実を根拠にした価値判断が不可能だ”と主張したことになります。これは矛盾です。したがってその価値判断と物理的事実の分断の扱いも、物理的事実を根拠にしたのではなく、判断主体自らの恣意に従います。またこの自覚表現が「一切の善悪は観念的産物である。」との一文なのでしょう。

価値判断と物理的事実の間の分断は、簡単に言えば意識の物体への超越(認識)を不可能とみなす不可知論に極言できます。しかし不可知論一般は不可知の結論をどのように知り得たのかに答えず、知の動力を先験の闇で覆い隠す観念論議に帰結します。またそれは、日々の意識の物体への超越(認識)を可能とみなす人間行動の現実に反します。そしてこの不可知論への退行を是としないなら、その彼岸は可知論になります。もし意識の物体への超越を可能とするなら、物理的事実を根拠にした価値判断も可能となります。実際に坐り心地の良い椅子は存在し、生活し難い生活環境は存在し、許し難い極悪人は存在します。ただ文面から察するなら、その価値判断は物理的事実を根拠にした価値判断ではなく、恣意的判断だと断定するのでしょう。一方でそれらの価値判断に物理的事実が対応するなら、人間の物理体型に相応した坐り心地の良い椅子は存在し、人間の物理生活に相応した生活困難な環境が存在し、人間社会の存続に反する悪徳行為が物理として登場します。このときにそれらを物理として捉えずに恣意として捉えると、その恣意は椅子の物理的形状、人間生活の物理的制約、社会存続の物理的規範から遊離します。このときに恣意は何を基準にして価値判断をすべきか、自ら混乱するはずです。例えば肉体の物理形状を無視した構成の椅子を、意識は自ら把握できません。簡単に言えばその恣意は、自らの肉体を持たない意識であり、肉体の希望や悲鳴に耳を傾けない意識です。

なお人間社会における差別と貧困を無機質な物理と同一視し、差別と貧困を恒常的に解決不能な世界の必然として是認するのは、人間生活と社会の改善を否定する諦念思想です。また上記文面は、そのような差別と貧困を是認している文面に読めます。しかし人間生活と社会の改善は、世界の物理的事実の把握とその対処を通じて行う必要があります。
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Unknown (影月セル)
2022-11-04 16:17:18
食料にしろエネルギーにしろあるいは土地一つとってもそれらは物質である以上無限ではなく有限の代物。
人の生活を支える資源が有限である一方、地球人口それ自体は増え続けているのだから万民に滞りなく
等しい生活水準を提供するなど不可能。

そもそも生態系は無数の弱い個体が大きくて強い個体の食料になることによって保たれている。
つまり食物連鎖とは強者が弱者をくらうという不平等と不均衡によって成立しているといえる。
あらゆる生物が生存のための食料を必要としている。
その食料となるのは当然自分たち以外の別の生物だ。
生物aが繁栄するには生物aが種族として生き残れるだけの餌となる生物bの犠牲が必要不可欠である。
あるいは生物aと生物bが共存するにはaとb双方の餌となる生物cの存在が必要となるだろう。
いずれにせよある種族が生き残るには別の種族の犠牲はどうしても必須となってしまう。

人間社会において不平等があるのも結局は人間も生物の一種である以上食物連鎖の枠内において規定される存在に過ぎないからだ。
現代的な高度文明社会において最大公約数の生活を守るためにはどうしても一定数割を食う層が必須となってしまう、下層の労働者なくしてはインフラ設備の維持すらままならないのが文明社会の現実である。

これら生態系における食物連鎖の残酷な摂理というのは当然のこと人間の意識のあり様とは無関係に存在する物理的な現実である。
不平等、不均衡それ自体においては単に生態系はそのような仕組みになっているという事実があるだけでありそこに善や悪などといった属性は存在しない。

不平等、不均衡が悪であるというのは単にそれが自分たちにとって苦痛であったり不都合であると感じた人間の都合による観念的思考でしかない。
人間の意識と無関係に存在する世界においてはただそれがそこに在るということのみが事実でありそれ以外の善や悪などという属性は存在しない。

一切の善悪は観念的産物である。
それゆえに生態系の実態を無視して単に自分たちにとって都合のいい平等主義を掲げ、人間を資本家と労働者階級とに隔てたうえで二元論的善悪感に基づいて前者を断罪する共産主義においても建前としての唯物論とは裏腹にその実態は観念論的空想の産物であるといえる。

そもそも唯物論的な物質ありきの世界観においてはそこに追い求めるべき理想など皆無。
なぜなら物質とは本質的に無機質なものでありそこに理想を追い求める情緒の介在する余地などないからだ。

唯物論者を自負するならあらゆる価値観や思想、あるいは趣味嗜好に至るまでそれらは単に自分ないし一個人にとって都合のいい代物、好みに過ぎないものであるということを自覚するべきだろう。

まして再三にわたり観念論を批判した挙句、あたかも共産主義を全人類にとって追い求めるべき理想であるなどと誘導するのはそれこそまさしく我田引水である。
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 古代ギリシャの段階ですでに観念論者は、原子論... (慶応次郎)
2011-07-30 21:36:41
 古代ギリシャの段階ですでに観念論者は、原子論者を軽蔑し敵視し、焚書を実施していました。宗教支配の全盛期とも言える中世ヨーロッパの観念論が、刹那的享楽主義と語感が融合した物質主義Materialismという名前の刻印を、無神論としての唯物論に対して行ったのは当然の展開です。またそうであるからこそ、唯物論者と目される人々の投獄・拷問・処刑を正当化できました。物質主義が、日本語翻訳で唯物論になったのも、全く同じ経緯です。無神論と刹那的享楽主義を語感に融合させただけでなく、物質至上主義や精神軽視思想の誤解を与えるための命名にもなっています。しかしその後のこの名称の固定化は、むしろその名を刻印された唯物論者によって進みます。唯物論者は自己アピールを兼ねて、観念論に対する反発と軽蔑を示すために、進んで唯物論者・物質主義者Materialistを自認するようになります。同様のかつての卑俗な語感を享受し自認するようになった経緯を、実存主義Existentialismも持っています。しかしそれは唯物論ほどに、内包する血まみれの弾圧の伝統を誇る名称ではありません。先人に敬意を払いその後継者を自認する意味でも、唯物論者に今さらこの名称を捨てることはできません。また名前が持つ言葉の印象は、変わるものです。

 質料と形相の関係は、その登場段階ですでに物質と観念の関係へと純化しています。しかし質料と形相の関係は、物質と観念ほどに対立した関係ではありません。ここではひとまずそのことを忘れて、質料と形相の関係を、素材と形式の関係とします。それぞれに対する規定的優位を元に思想を分けると、それは唯物論と観念論に対応します。この場合の観念論とは、形式優位主義を指します。プラトンでは、形式とはイデアです。このイデアを模して存在者がいるとしました。例えば、先に花や虫のイデアがあって、初めて花や虫の実存が生まれるとしました。つまり実存は本質に後立ちます。言うなれば設計図が先にあってこそ、機械は作られます。現代的表現で言えば、花や虫の遺伝子があってこそ、初めて花や虫が現実に存在します。もしかすると現代的表現で考えた方が、観念論の方に説得力があるように見えます。しかしこの表現は、両者の関係を見えにくくさせただけです。よくよく見直すと、この関係の中で花や虫や機械は素材ではありません。それらは素材ではなく、言うなれば製品です。実はこの素材と製品の逆転は、質料と形相の関係を、存在者とイデアの関係になぞらえた段階で起きています。質料を素材として宣言したはずの当人が、素材としての質料を、どさくさまぎれに製品としての質料に置き換えています。これは悪質なデマゴギーです。この哲学的手品のネタこそが、プラトン・アリストテレスの観念論師弟があみだした質料Hyleという不明瞭な表現です。したがって唯物論の名称を、質料主義に換える意見には、同調できません。

 学生の頃に、心理学の大学院生と意識と肉体の関係の論じたことがありました。脳内神経細胞のシナプス間の情報伝達物質の動きと意識の間に、対となる相関があると考えるかと、筆者は彼に質問しました。彼は即座に両者は相関をもたないと答えました。つまり意識は、肉体と別に存在するという答えです。筆者は愕然としましたが、相手がにらみつけてくるので、それ以上追求しませんでした。またそれ以上の追及も無駄だと思いました。脳神経医学の進歩は、そのような人たちを説得させるほどの効力をもつのか、わかりません。一方で、意識の論理構造を解明するのに、生理学的研究が必要なのかというのも疑問です。
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ところで (法政太郎@ムーミン谷)
2011-07-29 17:43:17
ところで
何故、Materialismが唯物論と翻訳されるのだろう。
ヘーゲルもフォイエルバハも詳しくないのでわからないのですが。

私には、Materialism=実体的素材主義、質料主義としたほうがスッキリする。質料Mとは素粒子と呼ばれる(他者に)作用する量子(エネルギー[力の時間積分]の塊、因果という時間発展の素)のことだ。

G・ドゥールーズ、F・ガタリの「アンチ・オィデップス」(タイトルからわかるように意訳すると「反精神分析」)の中で分裂病者たちは精神分析(家族物語という暴力装置)に代えて「質料的精神医学」を要求する。
つまり、精神分析という家族妄想を土台にした精神医学(←この用語が既に政治的だ)ではなく唯物論的精神医学を要求する。
質料的精神医学とは今で言えば神経心理学や認知神経科学を基礎理論にした脳神経医学のことであろう。その意味で分裂病者は解放されつつあるのかもしれない。
進化論も信じない精神分析王国アメリカでもバイオメディカルの発展した80年代より精神分析教室は廃れて、認知神経科学教室に学生が集まっているようだ。
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 ご存知のように現象学としての実存主義では、過... (慶応次郎)
2011-07-25 23:58:54
 ご存知のように現象学としての実存主義では、過去・現在・未来の時間性を意識の構造として説明しています。それは過去・現在・未来を、自らを含めた存在一般に対する意識の構造として扱ったものと筆者は見ています。そしてこの意識構造の実際のターゲットは、存在一般ではなく、他在つまり物質だと見ています。言い換えると実存主義の時間理論は、過去・現在・未来の時間性を他在に対する意識の構造として扱い、この時間性構造の産物として事実・可能・価値を扱った観念論と見ています。もちろんハイデガー以後の現象学では、事実を即自存在として対自から切り離し、フッサールの独我論と距離を置いています。しかし時間性を意識の構造としたために、実質的にフッサールへと回帰しているように見えます。
 時間性は他在に対する意識の構造ではありません。時間性は意識に対する他在の構造だと言うべきです。

 哲学談義で頻繁に出る話題として、色彩は意識の属性なのか、それとも対象の属性なのかというものがあります。筆者の見解は後者です。もちろん色彩は、認識主体単独でも認識対象単独でも現象し得ないので、志向の両端にいる両者の関係の中でしか説明できません。このためにその答えは常に、色彩の規定者として優位に立つのは、意識なのか対象なのかという程度の選択にしかなりません。色彩は両者の関係である、というあいまいで便利な答えもあるのですが、それは意識の属性として色彩を扱うのと同じです。似た話として、カントは時間を認識のアプリオリな形式に扱っていますが、筆者の見解では時間は他在の形式です。つまり人間意識による認識の有無に関わらず、自然界が自らの存在形式として時間を得ています。この意味で筆者において、カントの時間理論と、実存主義での時間性理論は、その観念論的逆転性という点で同じものです。ただしフッサールの志向理論が哲学に多大な貢献をしたのと同様に、ハイデガーの時間性理論もまた大きな功績であったと、筆者も考えています。そもそも私自身が、実存主義の多大な影響を受けています。
 実存主義の始祖キェルケゴールは、人間的意識を自らとの関係から転じた他者との関係だと示しました。人間的意識の構造を論じる場合、このキェルケゴールが示した到達点から離れるべきではないと、筆者は考えています。ハイデガーの時間性理論は、この意識の基本定義に無理な接ぎ木をしただけの、言わば逸脱に見えます。
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意識とは違和感の束です。感覚器が受信する物質変... (法政太郎@経済統計学)
2011-07-24 04:26:58
意識とは違和感の束です。感覚器が受信する物質変化の構造が意識を生み出す。神経統計力学的には、「過去(記憶)と現在(体感)と未来(期待)が”異和”としての「意識」を生み出す。「絶対矛盾的自己同一」。「意識」の生成は物質代謝を前提とする。

ハイゼンベルグは「あなた達(量子力学者)は唯物論者と似ていますね。あなたは唯物論者ですか?」と問われて「NO」と答えた。

社会構造の根源を物質に求めるとき「唯物論者」と言うのだろうか?
すると、「唯物論者」=「協働生活主義者(コミューン主義者)」という等式もわかるような気がする。
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①唯物論とは論理の基礎を物質に置く思想であり、唯... (慶応次郎)
2011-07-20 22:07:57
①唯物論とは論理の基礎を物質に置く思想であり、唯物論者とは唯物論を信奉する人間です。
 外的刺激の知覚だけで成立する意識があるとすれば、それは単なる鏡です。簡単に言えば、
 意識ではありません。意識とは、自らとの関わりが他者と関わるものを指します。

②基本的に唯物論の発想は、物体に責任の所在を求め、意識に責任の所在を求めません。つ
 まり罪を憎んで、人を憎まずです。したがって犯罪者を憎む場合でも、犯罪者を生んだ社会背
 景への憎悪に進みます。そしてその背景が変わらない限り、別の同じような犯罪者が次々に
 生まれると考えています。
 この考え方を進めると人間的な社会の実現は、差別や貧困を生み出す社会構造の廃棄を通じ
 てのみ可能となります。共産主義は、資本主義的所有関係がそのような差別や貧困を産み出
 すものと考えています。このような発想を是認する形で、筆者は唯物論者が共産主義者になる
 べきとしています。ただしマルクスは、資本主義が単に貧困を産み出すだけでなく、増産する
 と勘違いしました。しかし現実は逆で、生産性向上に伴ない貧困は減少しています。ただしそ
 れは、貧富格差を激しく拡大させながら進んでいる貧困の減少です。いずれにせよ旧来の共産
 主義には、理論的欠陥があったわけです。しかしそのことは、前述の唯物論の基本的発想を変
 えません。筆者を含め現代の共産主義者は、共産主義の理論的欠陥がどこにあり、どのように
 補正するのかを追い求めている状態にいます。ちなみに現代の唯物論者の大半は共産主義者
 ではありません。共産主義者ではない唯物論者のほとんどは、別の解決策で目指しているか、
 検討もせずに共産主義は間違いと思い込んでいるか、または共産主義の必要を感じずに済む
 自分だけの幸福な状態にいるかのどれかにいると思います。もともと共産主義は、差別や貧困
 に対する憤激から産まれ出たものです。その意味で差別や貧困、それらにまつわる犯罪や悲
 劇の増加が社会問題の焦点になる時代が来なければ、共産主義は無用です。ただし世界が
 戦争や圧制などの前時代的困難を解決してゆくほどに、そのような社会問題が次に焦点になっ
 てくるはずです。そもそも戦争や圧制の背景にも所有の不均等を見ることができます。
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唯物論者(≒物理主義者=外界の刺激の感覚経験のみ... (ニョロニョロ@ムーミン谷)
2011-07-20 07:52:29
唯物論者(≒物理主義者=外界の刺激の感覚経験のみで成り立つ意識)が何故共産主義者であるべきか?が納得できませんでした。
労働力価値説を科学的に正しいと思えば(正しいのだが..)、余剰生産の搾取は悪で恐慌を生産します。
なので、「共産主義」(=「コミューン主義」≒「地域生活協働組合」のような社会契約に基づく保険組合)があるべき姿で資本主義国家という搾取のための暴力装置は解体されねばなりません。と感じる。
でも、「唯物論者=共産主義者」と直結するところが理解できません。
※「共産主義」の「産」はどこから来たのか?
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