先のB章で思惟の成立を説明したヘーゲルは、生存本能および思惟に従属する自己意識の論理から真理に従属する理性へと弁証法記述を進める。ここでは、精神現象学のC章Aaにあたる観察理性の章を概観する。
[C章Aa全体の概要]
自己否定において自己意識の自己は意識に留まる一方で、その自己自身は世界と一体化した他在として自己に対峙する。このような対自する自己意識が理性である。この理性の最初の姿は、全てを静止的な物として捉える観察である。しかしその静止的対象は意識の自己否定において常に廃棄されるので、静止的観察は余儀なく頓挫する。このことから観察は、実態把握を断念して不可知論を自認し、経験則に甘んじる。しかしここで現象学の蓋然性がもたらす偶発死を免れるのは、全てを動態的過程として捉える観察だけである。この場合に判明するのは、観察の思惑と違い、不可能な実体想定の偽、そして可能な実体把握の真である。動態的把握では、静止的対象は契機に成り下がり、動態的過程の全体が法則として現れる。物質とは、この動態的過程の中で自立して現れる部分を指す。しかし物質の自由は、物における受動的な物理法則に対立しており、物理法則における例外発生を必然にする。このことから観察は、物質の法則に目的性を見い出す。ただし観察におけるその法則は、内実を持たない目的論に留まる。ここに現れる物質の法則は、意識自身が自らの運動を規定する生存本能である。つまりここでの物とは、自らの維持と再生を目的にする有機体である。物の法則が静止的二者の動態的関係把握であるのに対し、有機体の法則は目的と現実の関係的必然として現れる。ただし静止的二者の関係は、もともと対自において現れるものであり、この有機体の法則の方が法則一般の姿である。逆に物の法則は、二者の関係的必然の無い経験則に留まる。ただしその必然は、有機体よりむしろ非有機体において、各種の物理性質とそれらを統合した対象との関係として見出し得る。それと言うのも、各種の物理性質を一つの物に統合するのは、有機体だからである。つまり非有機体の目的と現実を構成するのも、実際には有機体の自己維持とその現実態である。そもそも物理性質に自立が無ければ、性質の相互関係も排除されてしまう。したがってこのとき観察に現れる法則は数量関係の経験則に留まり、その動態的把握にならない。ところがこのような非有機体と違い、有機体では物における静止的二者の法則的表象は消えている。有機体における法則は、二者の数量的関係ではなく、目的と現実の関係的必然であり、二者関係を構築するための思想として現れる。さらに有機体の内在的理念と外在的現実の関係を見ると、有機体の内在的理念は、自由に外化する類である。そしてこの類の外在的現実は、個別を制約する生命の形式として現れる種である。しかし個別と種が互いに抗う場合、類は個別に味方し、個別を種の制約から超出させる。この超出した個別は、意識であり、自然ではない。そこで、類と自然の二つの一般者は、種と個別者において外化すると言う推論の形式が生まれる。とは言えもともと自然に即しただけの体系は、類に即した体系と乖離している。他方で観察が保有しているのも、推論の形式だけである。現実に即応した推論において理性は、意識の体系を世界史として樹立する。しかし観察するだけの理性ではまだ、自己自身の直観を除けば、自然についての数量的経験則を得るだけに留まる。
0)対象と一体化した自己意識
自己意識が到達した理性の無私は、自己自身と世界を一体化させ、フィヒテ式唯我独尊を実現する。この唯我独尊では自己意識は最大のカテゴリーであり、すなわち“存在”である。ただしヘーゲルはフィヒテの独我論を、意識における他在の確信と空虚な自己、そして自己意識における自己否定の契機を忘れた独断的な自己肯定だと批判する。つまりそれを、否定的統一から区別を発生させるのではなく、完全肯定から区別を発生させるような恥ずかしい一覧表的悟性だとみなした。したがってヘーゲルから見れば、以前の意識において現れた他在の確信や空虚な自己も、このフィヒテの独断に対抗し、再び独断として現れる権利を十分に持っている。いずれにせよ対自において理性は、自己自身を他在として扱い、自ら独我論の放棄に進まざるを得ない。対自存在では、独我ではなく他在の確信が唯一の真理だからである。もちろんこのような自己自身の増殖は、類から種へのカテゴリーの個別化と同義である。理性到達以前に既に現れていた知覚や意識は、ここでようやくカテゴリーへと昇格する。なおフィヒテの独我論は、その自己確信において対象に実在を付与し、次に対象を印象に扱うことを通じて対象の実在を奪う運動を繰り返している。これは不可知論が、知を否定して無知を確信し、次にその無知を否定して知を確信する運動を繰り返したのと同じである。また両者は、そのように実在の根拠を他在に見出す一方で、あらかじめその要求の実現を諦める点でも一致している。ただし実在の根拠を見い出そうとする先は、不可知論が他在の確信へと回帰するのに対し、フィヒテの独我論は理念の確信へと向かう。
1)理性による観察
理性の独我論では、他在が意識であるように、意識も自らの他在である。したがって意識は、他在の形で見知らぬ自己自身を見つけ、自己自身に対する無知に気付く。ここで意識が自らを知るためには、意識は理性でなければならない。なぜなら理性に達した意識は、既に自らの他在であり、自己自身を外部から観察できるからである。ところがこの観察の始まりでは、自己自身の無知に気付かない意識は、観察の対象を自己自身ではなく、物だと思い込んでいる。しかし現実の他在の廃棄は、他在が意識に対して自己否定した結果ではなく、意識が自らに対して自己否定した結果にすぎない。それと同様にこの意識は、概念を物から自立させたと思い込んでいる。しかし実際は、概念を自己自身から見い出しただけである。つまり意識の観察は、意識の即自存在が、対自存在として現れる運動である。
2)観察における静止的物体(経験論)
直接知に続いて現れる観察では、所与的個別者についての感覚は既に消滅しており、代わりに一般者についての知覚が現れる。ただしこの一般者は、さしあたり個別態としての記憶であり、まだ概念としての一般態ではない。しかし記述を経由することで、個別態に留まる一部の事例を除くと、知覚の対象は全て一般態へと汎化される。個別態から現れた一般態は、観察と記述の限界内で、自らの特殊化を通じて今度は特殊態を生むようになる。この段階で意識が探究し記述する対象は、所与的個別者でもなければ、個別態でもなく、一般態だけとなる。そこで意識は一般態として物を探究し記述しようとする。しかし実際に意識が探究し記述しているのは、物ではない。なぜなら物は自らの類的徴表に対して無関心であり、すなわち一般態ではない個別者だからである。またそもそも一般態における統一は、個別態相互の対立を前提にしている。つまり一般態は、例外があるのを前提にしている。このおかげで一般態の存立は、常に個別態の逆襲を受ける。このような事情から観察は、物自体についての概念探索を放棄し、不可知論に至る。結果的にこの実体把握からの逃避は、理性を単なる現象記述に留まる妥協へと誘い、経験論に満足させる。
3)法則における動態的過程
観察に留まることのできない理性は、経験論的真理の蓋然性に対して自らの生命の危機を感じ取る。このとき理性は、対象の静止的把握を廃棄し、法則の存立を通じた対象の動態的把握に進む。したがって対象の概念も、法則の概念に転じる。しかし観察から見ると、静止した対象と比べて、法則は自存していない。それと言うのも法則の存在は、もともと静止的対象だったからである。ところが法則の概念は、この観察の理解を抹消する形で静止的対象を単なる契機として扱い、その感覚的現実を廃棄する。それゆえに、静止的な概念から転じた法則の概念は、観察に対しても必然的定在を得る。ここでの法則が真性を体現する仕方は、物が真性を体現した仕方と同じである。真理として現れた知覚だけが物であったように、真理として現れる概念だけが法則である。すなわち自らの存在と乖離した法則は、既に法則ではない。したがって物が実在性を持って現れたのと同じ理屈で、法則も実在性を持って現れる。当然ながら法則の動態的存在もまた、静止的対象以上に物態にあり、感覚的現実を持っている。理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的なわけである。このために、観察の思惑に反して、不可能な義務は偽であり、可能な義務だけが真理として現れる。
4)生存本能における合目的的現実
法則の動態的存在に現れる対立した物理的性質は、動態的存在を主語にし、それに従属する述語である。この述語は、例えば酸素とか熱のような概念として特殊化される。ただし経験がそれらの様式的自立を確認するなら、それらの述語も一般者として主語から自立する。物質とはこのような一般者であり、個別の感覚的真理として現れる物と区別される。物質は端的に言えば一つの概念であり、その法則は物による制限を受けることなく、物の中に現存し自立している。もともと法則は、物の運動を示す受動的結果、すなわち自然法則に過ぎなかった。ところが物質の運動を示す法則は、意識にとって能動的原因と受動的結果が自己完結し、自立した過程になっている。この特殊な法則は、意識自身が意識の運動を規定する生存本能である。有機体とは、このような生存本能を体現した物を言う。先の自然法則は、無制約な自由を持ち、ときに有機体とも対立する。それに対して有機体は、自然の中で生存し、自然法則により制約を受けざるを得ない。しかし制約された自由だとは言え、有機体は自立しており、自然法則による完全な規定から離脱している。したがって自然と有機体の間に見出される法則には、必然的に例外が発生する。そこで観察は、自然の必然と有機体の必然を別々のものとみなし、目的論的な必然を有機体に見出す。ただし観察の見出したその目的論は、目的の内実を持たず、ただ単に合目的的な実存主義の姿をしており、もっぱら神に目的を依存した啓示的宗教を目指す。しかし実際の有機体は、有機体自らを目的にし、有機体自身の維持を働きにしている。したがって有機体の必然は、与えられた目的を目指す機械的な必然ではない。言い換えればそのことは、有機体が自由を持つと言うことである。そして観察の目的論が目的の内実を失う理由も、有機体の目的論が持つこの自立性にある。すなわち観察が有機体の目的を見ることができないのは、有機体が持つ自由のせいである。ただしこの有機体の自由は、必然から遊離している点で、物が行使する自由と同じものでしかない。
5)有機体の目的と現実
有機体における目指すべき理念と生命維持は、有機体にとっての目的と現実である。そして観察ではこの両者は対立して現れた。しかし実際のこの両者の関係は、内在的理念の対他表現こそが外在的現実だと言う関係である。またさらに言うなら、前者の内在的理念は、外在的現実の消失する動態的実体であり、後者の外在的現実は、出現した静止的現象形態にある内在的理念だと言うことである。したがって両者はもともと対立した二者として分離していないし、天上的イデアと地上的存在者として分離もしていない。つまり有機体にとっての目的と現実も、有機体の自己維持に関する目的とその現実態でなければならない。ちなみに内在的理念の外面把握は、内在的理念の外在的現実への外化と別の事柄である。このような観点で現れる有機体の目的は、感受性・反応性・再生が有機的に統一した生命活動と概念の過程的全体であり、その断片的部分や断片的局面ではない。ここでの感受性は意識としての即自存在であり、反応性はその自己意識としての対他存在であり、さらに再生はその理性としての対自存在である。そしてそれらの現実態も、感覚器・運動器官・生殖器が有機的に結合した肉体と生存環境の過程的全体でなければならず、その断片的組織や断片的機能ではない。したがって有機体の部分組織から逆に目的の現実態の全体、さらに目的自体を抽出することはできない。
6)思想としての法則
目的の現実への外化は、物の法則と異なる。物の法則は、自立した静止的二者の動態的な関係把握を目指すものである。しかし目的の外化は、目的と現実の二者の関係を単一な外化関係に解消している。つまり個別から一般、または本質態から外面態への移行は、それ自身が悟性の働きである。もともと知覚は、自己自身を対象にしていない。知覚が個別者としての自己自身と別に、一般者としての自己を知るのは、対自においてである。当然ながら個別と一般、または本質態と外面態の二者の分離と自立も、対自において初めて現れる。したがって目的の現実への外化とは、この自立した静止的二者の動態的な関係把握にほかならない。そしてこの関係把握こそが、自立した静止的二者の動態的な関係把握の最初の単純な姿である。したがってこの関係把握こそが法則の一般的な姿である。この観点で見るなら法則は、自立して現れる静止的二者の関係を、その固定的区別において把握するのではなく、二者の関係的必然性において把握すべきである。ただしそもそも法則一般から法則を見直すのであれば、そこでの法則では対象の生成と消滅が語られるはずであり、固定的な対象が現れたりもしない。このように捉えられた法則は、単なる二者関係ではなく、関係を構築するための思想である。それに反してまだ目的と現実の関係、または感受性・反応性・再生の関係を物の法則として捉えようと試みるなら、対象の有機的な質の廃棄を通じて、感覚的な量による二者関係の探索へと舞い戻る必要がある。しかしもしそこに法則が見出されたとしても、それは二者の関係的必然を何も語らない経験則にしかならない。有機体を物に替えて捉える試みは、有機体が持つ自由の前に頓挫せざるを得ない。
7)非有機体における無思想
有機体の外在的現実は、非有機的な物として外化した自己自身である。その内在的理念も、本来の動態的過程であるよりむしろ、対他存在が分節化により肉付けされる場として現れる。したがって対他存在の始まりの姿を表現するものは、単純かつ一般的で非感覚的な単なる数だけである。ただし対他存在として現れる数は、外化の終端として内在的理念との関係を既に廃棄している。それゆえ外在的現実としての数は、内容を持たない抽象に留まらざるを得ない。ここでヘーゲルは、有機体の外在的現実より、非有機的自然の外在的現実の方が有機体の内在的理念の現れを見やすいと言う。例えばそれは、比重、形、色、硬さ、粘性などの物理性質である。この物理性質は、もともと単なる性質ではなく、自立した内在的理念である。例えば比重は、もともと独立した存在であり、比重の対象とは比重自身が現れた後で統合する。ただしその独立は、比重が形などの他の物理性質と異なることだけに基づいている。これらの各種の物理性質の非有機的な物への統合、およびその自立の廃棄を行うのは、有機体である。なぜなら非有機的な物は、自己保存の目的を持たないからである。したがって非有機体にとっての目的と現実も、有機体の自己維持とその現実態でなければならない。このような観点で現れる非有機体の現実態は、物理性質が有機的に結合した物と自然環境の過程的全体であり、その静止した断片的組織や断片的機能ではない。しかしそうではなく、非有機体自身が物理性質の非有機的な物への統合を行うと見るのであれば、その統合的対象における物理性質は、もともと自立していないことになる。またその物理性質の相互関係も、あらかじめ排除されてしまう。当然ながらその統合的対象は、動態的過程ではなく、外在的現実に観察される静止的物体である。このような静止的物体を表現するのは、内容を持たない抽象としての数だけである。このときに観察に現れる法則は、各種の物理性質の数量関係の経験則に留まり、その動態的把握にならない。それにより例えば数量aと数量bの関係式を得たとしても、その式はaがなぜbに帰結するのかを説明できない。
8)有機体における思想
有機体の存在は一般性である。そして法則は、静止的二者の動態的関係である。しかし有機体を静止的対象として捉えるなら、その一般性は失われ、有機体の存在も消失する。それだからこそ有機体における法則も、静止的二者を契機にした過程的全体へと入れ替わり、そもそも法則としての表象を消失して行く。もともと法則は内在的理念と外在的現実の関係なのだが、有機体では目的と現実の関係的必然として現れた。したがって有機体における法則は、二者の数量的関係ではなく、二者関係を構築する思想である。さらに有機体の内在的理念と外在的現実の関係を見ると、その内在的理念は自己相当的自己関係とその自己否定の有機的統一である。したがって有機体の内在的理念は、類でもある。すなわち非有機体の他者が異なる物理性質であったのと違い、有機体の他者は自らの内にある自己否定する純粋否定性である。このことから有機体は、個別表現において不定な数量を自ら確定する。つまり非有機体の内在的理念と違い、有機体における内在的理念の外化は自由である。もし有機体の外在的現実において静止的対象から乖離した否定が現れるなら、それは意識である。ところが内在的理念と違い、そもそも外在的現実は、類でも思想でもない。しかし蛙の子が蛙であるように、一般的生命の外在的現実は一般者でもある。そこで一般者としての類の外在的現実は、自らと自己展開する個別の二者の間の中間体、すなわち種として現れる。有機体における種とは、類の特殊態であり、生命の形式として個別を制約する。しかし個別と種が互いに抗う場合、自己意識としての類は個別の内在的理念に味方をし、個別を種の制約から超出させる。したがってこの超出する個別は、個体一般としての自然とも異なる。それと言うのも、そもそも自然は類と同様に一般的生命であるが、意識ではないからである。このことから、次のような推論の形式が生まれる。それは、類と自然の二つの一般者は、種と個別者において外化することである。ちなみにこの形式は、非有機体にも対応している。
9)意識の体系
類が外化した現実的個体は、無関係に並存する数量の系列を為す。しかしそこで自然の側から体系の樹立を試みると、類における体系に不整合が生まれる。他方で観察は、生命一般としての理性だけを体系として許容する。しかしこの体系は自らの内に根拠を持たず、類と自然の二つの一般者が種と個別者において外化すると言う推論の形式だけを保有する。理性は、現実に即応してこの推論を進め、自らを一般的精神と感覚的意識の階層として体系化する。そしてこの意識の体系は、世界史として実現する。ちなみにヘーゲルにおいて歴史を持って現れるのは対自存在する精神だけであり、即自存在するだけの有機的自然は歴史を持たない。そして観察が直観する生命一般も、自己自身の直観を除けば、自然についての直観にすぎない。またその内容も、有機体にではなく、自然に従属するだけの偶然な物についての直観に留まっている。この結果として観察は、法則と必然の代わりに蓋然だけを手に入れる。またそこで得られた個体も数量として現れ、得られる法則も質を持たない知に留まっている。
(2016/06/20)続く⇒(精神現象学C-Ab/Ac) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学B)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知
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