唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(C章B.実践理性)

2016-08-06 13:49:58 | ヘーゲル精神現象学

 C章A節の観察理性でカテゴリーにおける意識と物の統一の実現を示したヘーゲルは、善の実現を自己犠牲に見出す徳の論理へと弁証法記述を進める。ここでは、精神現象学のC章B節にあたる実践理性の挑戦と敗北を概観する。

[C章B全体の概要]

 観察理性において自己意識は、自己自身を物として観察することで自己を確信する精神に至った。ここでの個人は、自己と物の統一において自己が幸福に至るのを確信している。ただしこのときの自己の対象は自己意識の自覚に過ぎず、快の感情でしかない。そこで自己意識はこの恣意的確信の真理を欲し、人倫的共同体による承認における自己確信を目指す。それは自らの快の感情を自己の客体として自立させるためである。しかしこの欲求は、個人を精神から自立させ、個人を幸福から排斥してしまう。この乖離の克服は、自己と他者のそれぞれの自己意識の統一において実現されるしかない。一方で精神から自立した自己意識は、個性でもある。この個性は、一般者としての対象を自己の支配下に置くことで統一の回復を目指す。このような乖離と統一の現実が、法則を万人の万人に対する戦いの暫時的な均衡点として捉えるような法則の世俗的現象論を生む。しかしそれが実現する一般法則は個人的秩序にすぎず、思い込まれた一般にすぎない。しかもこの対象の統一において自己が得る快感は、むしろ欲望する自己自身の廃棄をもたらす。この経験を通じて自己意識は、純粋自己の一般性を知るだけでなく、無秩序の彼岸として自己自身の内に必然それ自体を見い出す。その心の法則の実存主義的必然は、一般者を実現し、逆に個別者を廃棄するものである。もちろんそれは、心の法則と快の一致が可能であるのを示している。なぜなら一般法則の個人的秩序の廃棄により、内在的理念が外化するからである。そこで自己意識は、自己犠牲的な個人の一般化により幸福に至るようになる。ヘーゲルは、このような自己意識の意識形態を徳として表現する。一方で個人と一般の二極の分裂だけを捉える世俗もまた、個人的秩序の廃棄を目指している。またそれは、徳の揺り籠でもある。しかしそれは、個人の対局に過ぎないだけの転倒した個人であり、徳の一般性のような内在的理念を持たない。それゆえに世俗による世俗自身の破壊は、狂熱的に現成する。一方で徳は世俗自体における個人的信念に留まっている。この個人性を徳が脱する条件は、徳が世俗を克服して善を実現することである。ここでの世俗と徳の戦いは、善に個人の天賦の才としての対他存在を与える。逆に言えばそれまでの善は、徳や世俗における内在的理念に留まっていた。しかし徳が戦う相手の個人性と世俗は、いずれも自己自身を含めて全ての拘束から自由な否定性である。そもそも自ら制約を多く抱える徳は、この縦横無尽な強敵に勝てない。ここでの徳の敗北が明らかにするのは、徳が目的とした善が非現実な美辞麗句であり、むしろ個人性こそがその美辞麗句を現実化することである。このようなことでヘーゲルは、世俗と徳にもともと対立が無いのだと結論する。当然ながら徳の自己犠牲も、善を実現する方法論として瓦解する。また両者の対立の消失に伴い、個人と一般の対立も消失する。結果として個人自身の利己的思惑と裏腹に、その利己的な行為こそが現実的な一般者として現れる。


0)人倫と幸福

 自己意識における自己は、自己と自己自身として二重に現れる。ただし観察における自己自身は物であり、その自己意識は自己と物として二重に現れる。したがって自己自身において自己を確信する自己意識も、観察では物による承認において自己を確信する。そしてこのような確信が、自己意識を精神に変える。もともと自己意識は、自己と自己自身の一致を確信し、同様に自己と物の一致を確信している。しかしまだこの確信は、個人的な恣意に過ぎず、一般的実在ではない。そこでこの個人的自己意識はこの確信の真理を欲し、一般的理性へと自らを高めようとする。ここでの自己意識が目指すのは、自己否定と他者による承認において自己を確信するような精神である。その実在態はギリシャの人倫的共同体であり、その人倫的実体は個人の行為が生み出す掟や習慣である。ここでの個人と共同体の両者は、自己犠牲と人倫的保護において相互依存している。ただしこの個人と直結したこの精神も、精神からの自立を個人が自覚するなら、個人を排斥するものでしかない。したがってここでの個人は、実際にはまだ幸福に達していない。ところがそれにも関わらず個人は、自己と物の統一において自己が幸福に至るのを確信している。なおこの統一は、自己犠牲的な個人の一般化により実現されないのであれば、他者を否定する支配的個人の独裁により実現されるかもしれない。しかしいずれの形態で統一を実現するにしても、その目的は等しく人倫的実体である。そしていずれの形態にあっても、現実と目的に乖離が起きる。もちろんこの乖離の克服は、自己と他者のそれぞれの自己意識の統一において実現される。したがって結局その統一は、自己犠牲的な個人の一般化により実現されるしかない。このように目的実現行為として善を行い、それによって幸福に至るようになった自己意識を、ヘーゲルは徳として表現する。


1)快と必然(B節a項)

 自己意識において実在するものは自己である。したがって自己の対象が実在として現れるなら、それもやはり自己である。ただしこのときの自己の対象は自己意識の自覚に過ぎず、快の感情として現れる。ここで自己意識が目指すのは、このような自己従属者を他者において自立させることである。言い換えればそれは、快感の客体的把握である。そして自己意識にとってこの自立の実現は、自己と他者の統一の直観となる。それと言うのも、自己意識において自己自身は他者だからである。また自己意識が人倫的実体や純粋思惟から自立するなら、それ自体が個性となる。このような自己意識が欲するのは、一般者としての対象の自立を廃棄し、それを個別者としての自己の支配下に置くことである。ところが実際にはこの対象の統一において自己が得る快感は、むしろ欲望する自己自身の廃棄をもたらす。しかもここでの個性の廃棄をもたらしたのは、個性の感情ではなく、純粋自己の一般性である。快の移行におけるこのような矛盾の経験を通して、自己意識は必然を見い出す。ただしここでの個性喪失は、自己意識を死滅させるわけではない。それゆえ個性喪失の必然自体が、自己意識に新しい自己形態の自覚をもたらす。なおここでの必然は、混迷の無秩序の彼岸に統一が現れるのと同様に、恣意の無秩序の彼岸に現れるものである。したがって必然は、統一や関係や区別と並ぶ自己回帰するカテゴリーであり、観察に見られた単純かつ直接な感覚的なカテゴリーと異なる。しかもこの必然の働きは、個別性の単なる否定である。それゆえこの必然に規則性は無い。


2)個人的秩序と一般法則(B節b項)

 必然を意識するようになった自己意識では、自己自身が必然であり、一般者である。したがってその必然の自覚が心の法則となる。それゆえに自己意識では自らの法則を持つこと自体が目的となる。一方で自己意識には個別者に対立する現実として他者が現れる。ただし他者は個別者を抑圧するにしてもやはり個別者であり、他者自身もその秩序に抵抗感を持つ者である。ここでは個性の快が逆に個性を必然的に廃棄したのと同じ図式で、個別者の心の法則が逆に個別者を必然的に抑圧する。すなわち個性の廃棄でも個別者の抑圧でも、一般者が実現され、個別者が廃棄される。これに対して個人は、個性の快を廃棄し、一般の幸福に快を見出し、それにより快と心の法則を一致させようと考える。この場合だと、個人に対する社会的訓練の実施は不要になる。それどころか個人は、心の法則と乖離した秩序があるなら、それは心の法則と取り換えられるべきだとも考える。すなわち個人的秩序が一般的秩序となり、個人の快が合法的現実となるべきである。ところがもともと実現された心の法則は、一般的秩序であり、個人的秩序ではない。しかも個人の行為は、その意図が個人的であるにも関わらず、常に一般的行為である。それゆえに個人は、個人的秩序を一般法則にまで高め、自らを廃棄することにおいて、一般法則を自らの秩序として承認すべきだとも考える。ところがこの思想は、一般法則に対して先に得た自らの無政府主義的思想と対立している。先の個人的秩序と後の一般法則は共に自己意識の現実なので、自己意識は両者の相克で錯乱に至るしかない。そのようなことで自ら錯乱する自己意識は、錯乱の原因を他者に見出そうとし始める。しかしそれが要求する一般法則は、相変わらず個人的秩序のままである。そもそも法則に対する批判は、それ自体が批判する個人の個人的秩序にほかならない。そこで法則を万人の万人に対する戦いの暫時的な均衡点として捉えるような法則の世俗的現象論が生まれる。しかしそのような法則像は、思い込まれた一般である。なぜなら一般法則の内在的理念は、個人的秩序の廃棄において外化するからである。そのように真と善の実現のための自己犠牲を自覚した意識形態こそが徳である。


3)徳と世俗(B節c項)

 実践理性の第一形態は純粋個性であり、このときの一般性はその空虚な対局にすぎなかった。それに対してその第二形態は、個人と一般の二極を統一する心と二極の分裂を繰り返す世俗の二つの一般者に現れた。後者の世俗は、もともと個人に対立し、その廃棄を目指す一般的秩序である。しかし前者を体現する徳もまた、真と善を一般の内に見い出し、個人の人格的廃棄を要求する。しかし世俗の一般性は単なる個人の対局に過ぎないのに対し、徳の一般性は内在的理念である点で差異がある。もともとこの二つの一般性は、個人的秩序から始まっている。しかし個人的秩序は、行為において実現される限り、個人を廃棄する。したがって世俗は、それ自体として見ると徳の一般性を現す場でもある。このために世俗に対する破壊は、徳だけでなく、世俗自体の自己反発によっても進行する。またその破壊は、世俗に属する個人によっても推し進められる。そのような事情で世俗の破壊者は、狂熱的な威力として現成する。しかしこの威力は、所詮転倒した個人の威力にすぎない。したがって世俗の破壊は、徳による個人の廃棄を通じて行われるべきである。ところが肝心の徳は、世俗自体における個人的信念に留まる。そして個人的である限り、徳は世俗との戦いを避けられない。この個人性を徳が脱する条件は、徳が世俗を克服して善を実現することである。しかし次に見るように両者の戦いは、その武器の差異において世俗の勝利に決まっている。とは言え、この戦いにおいて善は対他存在を得る。この戦いの前では、善はまだ徳の目的、あるいは世俗の内在的理念に留まっていた。しかしこの戦いで一般者としての善は、個人の天賦の才として現れる。そして善は世俗と徳の両方において武器となる。しかし善は善を傷つけることをできない。つまり徳の博愛は、世俗に側に有利に働く。しかも徳が戦う相手の個人性と世俗は、いずれも自己自身を含めて全ての拘束から自由な否定性である。そもそも自ら制約を多く抱える徳は、この縦横無尽な強敵に勝てない。ここで明らかになるのは、徳が目的とした善は、単なる美辞麗句であり、非現実な抽象にすぎないことである。それと言うのもむしろ個人性こそが、その非現実を現実に外化するものだからである。ギリシャ的人倫での徳が世俗と分離していなかったのと違い、上述してきた徳は世俗と対立することで自ら空虚になっている。このようなことでヘーゲルは、両者にもともと対立が無いのだと結論する。当然ながら徳の自己犠牲も、善を実現する方法論として瓦解する。また世俗と徳の対立の消失に伴い、個人と一般の対立も消失する。結果として個人自身の利己的思惑と裏腹に、その利己的な行為こそが現実的な一般者として現れる。

(2016/08/05)続く⇒(精神現象学C-C) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学C-Ab/Ac)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項   ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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