唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 概念論 解題(2.民主主義の哲学的規定(1)独断と対話)

2022-09-24 13:21:21 | ヘーゲル大論理学概念論

・民主主義の世間的説明

 現代社会で民主主義を説明する場合、多数決や首長選挙や議員選挙、あるいは三権分立だとか報道表現の自由と言った民主実現の具体的な方法をもって説明する政治学者的な言辞が横行している。さしあたりこの傾向は、学校教育の社会科授業で詰め込み式に民主主義を児童に教え込むことで世間的に普遍化し助長されている。結果的に民主主義とは何かと問われると、とりあえずそれは民意を政治に反映できる政治機構だと応える。ただしそれは当然でいながら実は曖昧な答えである。その答えは、電気とは何かと問われたときにそれは稲妻だと答え、稲妻とは何かと問われたときにそれは電気だと答えるのと同じ同語反復である。すなわちそれは、民主主義とは何かと問われたときにそれは選挙だと答え、選挙とは何かと問われたときにそれは民主主義だと答える同語反復である。この場合にむしろ民主主義とか選挙とかの複合的要素の多い表現は、民主主義の説明に向いていない。さしあたり民主主義は、話し合いによる事柄の決定であり、独断の排除を指す。またそれゆえに民主主義の対義語は、独裁となる。ただしこの説明も、“選挙”をより身近な“対話”に言葉を変えただけで、まだ同語反復の域にある。とは言えこの余計な要素を省いた表現は、民主主義を独断の他者として露わにする。すなわち民主主義は、独断を承認するにせよ、独断を否定するにせよ、独断の主体から自由な客体である。もしその客体が独断の主体に制御されるなら、それは独断の主体の支配下にあり、独断の主体の構成部分にすぎない。要するにそのような不自由な客体は、客体ではないし、民主主義でもない。したがって民主主義の説明も“選挙”より“対話”であり、“対話”より“他者”となる。


・根拠としての他者

 独断の主体は、単純に言えば主観であり、意識である。当然ながらその独断の他者は、主観ならぬ客観であり、非意識である。そして端的な非意識とは、意識ならぬ物体である。この客体としての物体は、さしあたり意識の支配に対して無頓着であり、意識の支配から自由である。そしてその正直のゆえに意識は、事物を手に取ることにより自らの独断の真を確認する。ここでのその触感は事物の実在を根拠づける。一方で独断主体において事物から受け取る五感も、直接的な独断である。すなわちその角ばった形状は「四角い」の非言語の独断であり、その持っている熱は「熱い」の非言語の独断である。唯物論の場合、その独断はそのまま物体の素朴な対他存在である。それゆえに唯物論の独断主体は、現象学式に独断の真をそれ以上に問わない。これに対して観念論の場合、事物の真を限定するのは意識である。この事物の真を限定する意識は、その独断は物体の対他存在ではなく、独断主体の意識の独断である。ただしその独断は、独断主体が自ら発した独断である。それゆえに観念論の独断主体も、実存主義式に独断の真をそれ以上に問わない。ところが実際にはいずれの独断であっても、独断の真の遡及は可能である。事物の真を限定するのは別の事物であり、意識の真を限定するのも別の意識である。その独断限定を遡及しようとすれば、その限定は無限に進行する。この無限進行は独断主体に対し、独断の真への到達を断念させる。それゆえにこの独断の真に対する諦念が、不可知論を醸成する。ただしこの不可知の結論も、独断であるのに変わりは無い。とは言え不可知論は、それ自体が独断の真に対する期待を露呈する。それは自らの独断を根拠づける独断の真に対する期待である。なお根拠を自らの外に求める独断は、既に独断ではない。それは推論である。


・他者と自由

 主体に対立して現れる自由な他者は、さしあたり主観に対して客観である。しかし他者は客観であるとしても、必ずしも真ではない。他者の客観も他者における主観なので、それは虚偽であり得る。この場合に自らの真を信ずる独断主体にとって、自由な他者あるいは客観は単なる邪魔者である。当然ながら自らの真を信ずる独断主体は、自らに対立する他者を無視し、最悪の場合だとその自由を奪って必要なら抹殺する。ところが主体は他者がいなければ自らの思い込みから抜け出せないし、自らの真を確認できない。それゆえに独断主体は、虚偽客観ならぬ真の客観を、独断の根拠として必要とする。もちろんその必要は、独断主体が自らの真を確認するためである。そしてその確認の必要は、虚偽の独断に準じて発生する自らの危機を回避するためである。ここでの客観の真偽は、主体の独断に準じて発生する危機の有無に等しい。とは言え独断の他者を独断主体が選ぶのであれば、その他者は独断主体に支配される。しかしそのような独断の他者は、独断主体の構成部分であり、まるで他者ではない。それゆえにそのような他者による独断主体の承認は、ただの独断主体による自画自賛に留まる。逆に他者が独断主体の支配から自由であるなら、他者のいかなる独断も主体の独断ではない。したがって自由は他者の形式を成す。自由ではない他者は他者ではない。この限りで言えば、「自由な他者」における「自由」の表現も、形式的に余計な二重表現になっている。


・自由の平等

 独断の真偽は、独断に準じて発生する危機の有無に等しい。ただしそのような危機がすぐに到来すると限らない。そして独断の主体に危機が訪れなければ、独断主体が選んだ自画自賛の他者は、少なくともその到来までの間、独断主体にとって真の客観である。逆に独断主体に危機が訪れれば、独断主体が選んだ自画自賛の他者は、全くの虚偽客観となる。この場合に危機が到来するまでの間、独断の虚偽も真の如く現れる。しかし独断が虚偽であるなら、独断主体に必ず危機が訪れる。自らの独断に固執し、その虚偽の露見を怖れる独断主体にできることは、危機の到来の先延ばしだけである。しかし危機が訪れれば、独断主体が選んだ自画自賛の他者が虚偽客観であることが露見する。そして危機が訪れてからだと、独断主体が自らの虚偽を確認するのが遅すぎる。それゆえに独断主体が自らの真を確認するために、やはり独断の主体から自由な他者を必要とする。そしてこの他者において必要なのは、その形式としての自由である。一方でその提供する客観の真偽確認に対しても、別の自由な他者が必要となる。この別の自由な他者には、独断主体も含まれる。したがって他者の形式としての自由は、他者の他者である独断主体においても必要である。したがって独断主体は、自らのためにも自由な他者と自由な自己を必要とする。この形式としての自由は、独断の真偽に優先する。それどころか独断主体の自由は、真偽からの遊離に現れる。すなわちむしろ偽の独断が、独断主体の自由を表現する。それゆえに自由の有無に比して言えば、他者が提供する客観の真偽は問題ではない。ここで客観の真偽が自由に劣位するのは、独断主体が自らの独断の真偽を確定できないことに従う。独断の真偽を確定できない独断主体に対し、その偽を責めるのは辻褄が合わない。嘘を責める場合、嘘つきを責める必要もあるが、優先すべきなのは真理の提示であり、提示が可能な世界である。嘘つきに対して必要なのは、責めではなく自戒である。


・法の独断と不平等

 物体は意識の支配に対して無頓着である。しかしその自由は、意識の制御を困難にする物体自身の空間的大きさや重さ、または非可動性などを必要とする。そうではない物体の自由は脆弱である。そのような物体や自然は、簡単に意識に支配される。しかし独断主体が支配できるのは、目前の物体運動だけである。それは物体を支配する慣性法則などの物理法則を支配できない。そしてこの物理法則は、物体全般を支配する法である。個々の物体はこの物理の法を遵守し、行動する。この物理法則と同様に人間社会の法は、社会を構成する人間全般を支配する。個々の人間はこの人間社会の法を遵守して行動する。唯物論の場合、意識の先験的カテゴリーは物理法則の反映であり、物理法則に従う。他方で観念論の場合、物理法則は意識の先験的カテゴリーの反映であり、物理法則が意識の先験的カテゴリーに従う。しかし物理法則にしても、人間社会の法にしても、その法への遵守を構成員に強制するのは力である。したがって力が法であり、独断主体に対立する自由な他者である。そしてそれは一つの独断である。法の独断が絶対的自由を行使するのに対し、法の下にいる物体や人間の構成員は圧倒的に無力である。それゆえに法の前ではそれら構成員が平等である。ところが構成員の一部が法を体現すると、逆にその一部の構成員と他の構成員との間に圧倒的な不平等が生じる。この不平等は集団において他者であるべき法が、集団の一部を構成することに従う。したがってこの不平等は、法自身にとって矛盾である。ただしこの矛盾は、不平等が根拠を持つ限り維持される。なぜならその根拠が法だからである。それゆえに旧時代において根拠を持つ不平等が、法に昇格した。そもそも法の矛盾において法の全面的破棄も起きない。それはただの不可知論である。法の全面的破棄は、再度の法の擁立と再度の全面的破棄の悪無限をもたらす。不平等の破棄に必要なのは、その根拠の限定的破壊である。このときに不平等は無根拠に転じ、それ自体が不法となる。


・法の法

 自然世界の法の多くは、法の擁立と全面破棄の悪無限の如き状態にある。それは一方で法を擁立し、他方でその法を全面破棄する。言い換えればそれは、偶然の必然化とその必然の廃棄の反復である。しかしこの悪無限はそれ自体が一つの法である。それゆえにこの擁立された悪無限も、同様に全面破棄される。このときに悪無限の否定に真無限が現れる。それは悪無限に対立して現れる別の法である。真無限も悪無限と同様に、法の擁立と破棄を反復する。そしていずれの無限であっても法の破棄は、法の不備に従う。しかし真無限が擁立する法は、法の不備に対する法の全面破棄を免れる。あるいは破棄されても、結局また擁立される。またそうでなければ、真無限と悪無限に差異は無く、真無限も悪無限の否定にならない。それゆえに真無限は、悪無限に後戻りしない。もし後戻りするなら、真無限と悪無限の間の差異も消失する。この後戻りしない法は、そのまま逆行しない時間変化を体現する。すなわち真無限はそのまま不可逆な時間進行に等しく、あるいは逆に不可逆な時間進行がそのまま真無限に等しい。この前提から悪無限を見直すと、そこでの時間変化は前にも後ろにも動く。その限りで一見すると悪無限にも変化がある。ところが変化は、変化の開始と終了の間で時間の逆行を許さない。そしてこの時間の不可逆は、悪無限における変化を不可能にする。つまり悪無限に可能なのは、無時間的な完全静止だけである。したがって悪無限の中に現れる変化は、真無限を前提にする。悪無限は、真無限の中から見た同語反復の錯覚である。それゆえに真無限において始まった時間進行は、二度と後戻りできない。あるいは巻き戻した時間の痕跡を消失しながら時間が進行する。その時間進行の不可逆は、論理自体の必然に従う。この真無限は、無限定な存在の質における常時可能な限定、すなわち本質である。それは変化の中の不変である。この不変は、無限定な即自における対自を根拠づける。したがってその不変の法は、法の自己を成す。この法の自己に対し法の自己自身は、変化する不変な全体に転じる。ただしその不変な全体は、法の条件付き一覧表に留まる。これに対して法の自己は、条件付き一覧における条件に自らの居場所を決める。ここでの法の自己は、法を限定する法である。それは理念である。


・民主主義の形式的概念

 独断は自らの根拠を他者として擁立する。ここで擁立された他者は、独断主体と異なる。その他者としての本質は、独断主体による他者の支配を否定する。したがって他者は、自由を自らの根拠にする。ただしその自由は、自他共の自由である。それゆえに自由は、自他の平等を自らの根拠にする。独断の否定は、他者の存在を局面的本質にし、自由と平等を自らの概念にする。この独断の否定の全体が、民主主義の概念である。それは他者の存在の容認であり、その他者を含めた自他の自由と平等の全体である。しかし自由と平等は、相互に対立する。自由は自らを維持するために平等を制限し、平等も自らを維持するために自由を制限する。ところが平等を否定する自由は、自由自らを破壊する。同様に自由を否定する平等は、平等自らを破壊する。両者にとって相手は、自らの単なる対極または彼岸を超えない。それゆえに両者は、一方で相手をお花畑の空論と罵り、他方で相手を自らの理想とする。ただし自由の根拠に平等がある以上、平等は自由に優位する。平等が自由に対立するのであれば、それは擁立された平等自体の問題である。もっぱら自由に対立する平等は、差別を内蔵した虚偽の平等である。そこに内蔵された差別は、身内以外を差別する特殊な平等にすぎない。それは一族の平等のために自由を廃絶し、自らを平等の王だと偽る。似たような事情は自由の側でも可能である。もっぱら平等に対立する自由は、暴力を内蔵した虚偽の自由である。そこに内蔵された暴力は、身内以外を支配する特殊な自由である。それは一族の自由のために平等を廃絶し、自らを自由の王だと偽る。ただしこの名義変更しただけの同じ事象は、自由と平等が実は一つの事の単なる裏表であり、その実体が同じであるのを露見させる。すなわち自由とは平等であり、平等とは自由である。さしあたり自由と平等は、民主主義を形式限定する。その民主主義の真は、自由と平等の同一に従う。


・手段としての民主主義

 独断の自己否定は他者と自由と平等を必要とし、すなわち民主主義を必要とする。ところが形式的民主主義が実現するのは、力の分散と平均化である。それは他者の実現を極度に進めることで、社会全体を他者の集合体に変える。なるほどそれは独断の自己否定の一つの完成した姿である。しかし独断の否定において民主主義は手段であり、目的ではない。独断の否定が目的にするのは、独断の真の擁立である。言い換えればそれは独断主体の真理への超越である。したがって形式的民主主義が擁立する他者の集合体は、その見え方の通りに形式的で無内容である。ところが手段は目的到達の余計な媒介でもない。手段は単に目的到達の補助を成すのではなく、自らを手段として滅ぼすことにより目的に到達する。すなわち手段無しに目的は実現しない。それゆえに目的への直接的超越を目指す直観主義は、非合理である。それと同様に民主主義無しに実現した真理への超越も失敗する。このことは共産主義の初期において共産主義自身も自覚していた。しかしロシア革命においてその自覚は実質的に無視された。レーニンは人民評議会(=ソヴィエト)を民主主義の実現とみなした。しかしそれは実態に合わない自己都合的解釈である。それはレーニンの気質と成功体験に根差す大衆蔑視と議会軽視の思想が生み出した幻影である。これに追い打ちをかけたのが、ロシア共産党によるソヴィエトの形骸化である。その民主主義の死滅は、そのままスターリン体制を準備した。ロシアにおける冷血の全体主義の出現は、レーニン主義革命論の一つの必然的結末にすぎない。もちろんそのロシア共産主義の実態は、共産主義を僭称し、科学と唯物論に敵対する体制である。この共産主義の失敗は現代においても、共産主義の再構築か、共産主義の放棄かの択一を迫っている。しかし共産主義の放棄は、法の擁立と全面破棄の悪無限に等しい。真無限の必然は、共産主義の復活を示唆する。


・空虚な民主主義への反発

 共産主義の失敗はロシア革命以前に既に露呈しており、それは共産主義者をカルト信仰の自動人形の如く動かす形で現れた。ただしこの時代の共産主義者の自動人形化は、その政治的弾圧に晒された不遇な境遇の代償である。また共産主義に対する自己否定的信仰が、カルト宗教信者と同様の行動様式を共産主義者にもたらしていた。ところがロシア共産主義が実現した社会も、同じく赤色官僚が支配する自動人形の全体主義世界であった。それゆえに現代における共産主義の再構築か、共産主義の放棄かの択一は、既にロシア革命が勃発する20世紀初頭の思想世界で普遍化していた。なお第二次大戦後の共産党員の自動人形化は、単純にレーニン式の非民主的な民主集中制の賜物である。この共産主義に対する反発は、その民主主義の欠落に対する批判において妥当性を持つ。ところがこの反発を、なぜか科学の非人格と唯物論に向ける勘違いが、同じ20世紀初頭の思想世界に登場する。既に示したように形式的民主主義は、社会全体に空虚な他者の集合体を擁立する。この他者の集合体は、どの断面においても他者である。それゆえにその他者の集合体は、全ての独断主体と対立し、それを否定する。つまり他者の集合体は、独断主体そのものの破壊者である。そしてそのようにフッサールとハイデガーは近代社会を理解し、時代の危機到来だと騒いだ。ところが民主主義への敵対は、自己表現を生活の糧にする彼らにとって矛盾である。このためにその危機感の矛先は、非人格の科学と唯物論に向けられた。そしてその最大の敵は、やはり共産主義である。さらにこの勘違いと混乱に拍車をかけたのが、スターリンが擁立した冷血な全体主義国家の登場である。ところが科学とは、真理の探求である。したがって科学への敵対は、探求を生活の糧にする彼らにとって相変わらず矛盾である。現象学の批判の矛先は、実際には形式的民主主義に向いている。またその限りでのみ、彼らの危機意識は妥当性を持つ。なぜなら現象学および実存主義が捉えた危機とは、近代における目的の忘却だからである。


・民主主義の理念

 民主主義の形式的概念は、他者と自由と平等の擁立である。近代民主主義では、そのそれぞれを行政と議会と司法が体現する。逆に言えば独裁体制では行政だけが存在し、議会と司法は有名無実になっている。そして民主主義の実現は、自由と平等を奪われた独裁体制社会において、抑圧された大衆全体の真摯な要求である。しかしその内実は、力の分散と平均化であり、空虚な他者の集合体の擁立である。それゆえに民主主義を樹立した社会における民主主義のスローガンもまた空虚なものに転じる。単純に言えばその空虚は、手段に過ぎない民主主義の自己目的化にある。そもそも議会が存在する場合、政権党が非政権党に弾圧を加えない限り、民主主義は既に実現している。この場合に嘆かれる民主主義の不在は、単純に政権党に選挙で敗れた非政権党のぼやきに留まる。そしてそのぼやきが想定する民主主義とは、非政権党自らが政権党になることに等しい。しかしそのトランプ式ぼやきは、制憲議会選挙に敗れたレーニンのぼやきと変わらない点でむしろ危険である。なお民主主義を樹立した社会における民主主義のスローガンの空虚化は、同じく自由を樹立した社会における自由のスローガンの空虚化にも通じる。ただしその空虚な自由のスローガンは、平等を樹立していない社会における平等のスローガンの禁止が有意にする。自由とは平等であり、平等とは自由である。平等のスローガンが抑圧される場合、自由のスローガンは、平等のスローガンを代替する。一方で民主主義の対自が民主主義自らに与える使命は、民主主義の原点復帰であり、独断の真の擁立にある。それは事の真偽の正確で迅速な決定であり、目的となる危機回避の早期の実現、そしてそのための社会基盤の確立である。それは行政の範囲で独断の真を確立させ、議会と司法の役割を縮小させる。この独断の真の擁立は、事実に根拠を求める限り、あからさまに唯物論である。そしてその活動は、むしろ形式的民主主義の死滅を目指す。ただしそれが目指すのは、ロシア共産主義式の民主主義の暴力的破壊ではなく、民主主義の自然死である。それは初期共産主義が考えた国家の自然死に等しい。しかし近接する国家間の軍事的緊張が残る限り、国家は死滅できないし、民主主義の自然死も無い。そして貧困と差別が存在する限り、民主主義の役割は持続する。それゆえに民主主義は、世界平和の実現、および貧困と差別の撲滅を自らの理念とする。それが目指すのは、理念の実現を通じた自己の自然死である。この理念は、空虚な形式的民主主義に活力を呼び込み、その独断の真を根拠づける。

(2022/11/06) 続く⇒(2)カント不可知論と弁証法


ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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