・独断と調停
異なる独断が乱立する場合、個々の独断の真を問わなくても、それらの独断の調停は可能である。単純に調停を独断の力に決めさせるのであれば、強力な独断が無力な独断を一掃して調停が成立する。しかしこの場合でも強力な独断が複数現れると、力に応じて独断は調停されない。このときに対立する独断は事の是非について二陣営に分かれ、互いにせめぎ合う。ただしこの場合に無力な独断が、二陣営の力のせめぎ合いに参加可能となる。そしてもし無力な独断に真が含まれているなら、その無力な独断の参加する陣営の側が有利となる。このときに陣営の一方に現れた真理は、その陣営に独断の力と異なる天の力を与える。しかも長期的にみると、この真理の力はどのような強力な独断よりも強力である。そもそも力だけを背景にする独断は、その在り方自体が偽である。それゆえに真理の力は、力だけの独断に対して常に対立する独断を擁立する。これらの事情は、調停を独断の力に決めさせるのを理不尽にする。このときに調停の在り方は、力から平等へと移行する。ちなみにこのときに調停の在り方が平等に転じると、逆に独断の力は自由へと転じる。独断の力はもともと自由なのだが、力の均衡と対立がそれを自由として現す。またそれは相互の独断を他者として現す。この平等な自由の実現欲求は、形式的民主主義の実現欲求である。ただしその前提にあるのは、真理の不可知である。そしてその不可知の前提は、独断の真を問わないことに始まっている。ただしそれが問うのは目的の真ではなく、手段の真である。ロックらの経験論が手段の真を形式的民主主義に見出し、その実現の背景に現れたのは偶然ではない。その真理への接近方法に帰納法が現れたのも、経験論の原則に従う。しかしそれが見出す真は、不可知論を前提にする限り蓋然に留まる。それゆえに経験論は、真理への超越を自ら閉ざす。ヘーゲルとその門弟の共産主義は、不可知論に対して真理への臆病を見出す。ただしその臆病は偶然ではない。それはデカルトに始まる近代哲学が背景にした王朝と宗教の絶対支配に対する恐怖に根差している。この事情はカントにも該当し、結局カント超越論も経験的不可知論の改修に留まっている。
・不可知論と独断
カント不可知論は、主体による客体への超越不能を宣言する。主体は媒介を通じてのみ客体に超越し、媒介を客体と区別する。そして媒介と客体を区別する限り、主体は媒介に到達しても、客体にまで到達しない。これに対しヘーゲルは、カント不可知論に推論一般の拒否を見出す。推論も媒介を通じてのみ客体に超越し、媒介を客体と区別する。そして媒介と客体を区別する限り、推論は媒介に到達しても、客体にまで到達しない。しかし推論は、もともとそのような独断として前提されている。推論は媒介と客体の区別を廃棄し、媒介への到達をもって客体への超越に扱う。したがって推論が含む独断は、媒介の廃棄に集約される。一方でもともと不可知論も、媒介と客体を区別する独断を含む。主体は不可知な客体を知らずしてその区別を擁立する。しかしそのような媒介と客体の区別は、無根拠である。したがって不可知論が含む独断は、媒介の擁立に集約される。さらに不可知論一般には、不可知を可知にする矛盾がつきまとう。不可知の結論は、主体と区別される一つの客体である。主体がそれに到達するのは、不可知の結論を否定する。この矛盾は、そのまま不可知論の偽を示す。もし不可知論が不可知の結論を含めてすべての可知を否定するなら、いかなる判断も真偽不定になる。そしてそのように不可知論を捉えると、不可知論はさらに独断不可能論へと純化する。その完全な真を求める結論は、独断を拒否する独断に転じる。当然ながら推論一般の拒否も、それ自体が推論を拒否する推論になる。ところが主体の恣意的独断は可能であり、また主体はその独断を常に擁立している。そのように独断が可能であるなら、推論もまた可能である。それと同様に不可知論を肯定する主体も、全くの思考の完全静止をしない限り、独断を行う。その独断は、独断をしないとの独断も含む。そして全ての独断の前提は、独断可能である。この独断可能の前提は、判断の真偽確定の可能である。しかし判断の真偽確定が可能であれば、可知もまた可能である。可知が可能であるためには、それが不可能であってはならない。そのことは可知の実存を含む。その実存は不可知論の反証である。デカルトの場合、この可知の実存がコギトであった。
・経験論と先験論
ヘーゲルは不可知論を拒否する。しかし実際にはそのヘーゲルの論理も、前提に不可知論がある。それと言うのも、全ての直観判断が既に推論だからである。ただしヘーゲルにおける不可知は、可知に転じる不可知である。このことはヘーゲルが論理の前提に、存在に転じる無を擁立することに準じる。しかしそのような不可知は、最初から可知である。同様に独断に転じる推論も、最初から独断である。そして独断として現れることで、推論は不可知論の前提を既に廃棄している。どのみち不可知が可知である矛盾は、不可知論の出鼻で不可知論を否定する。それゆえにヘーゲルも不可知論へと後戻りしないし、不可知論を擁護しない。しかし不可知論を前提として否定することは、逆にその否定自体が不可知論を有意にする。さしあたり不可知論は、否定されるまで真となる。超越の実現は、その否定である。したがって不可知論は、超越の実現について言及しない限りで、自らの真を確信する。それゆえにヒューム経験論の場合、その真は経験論の真である。客体は不可知であるゆえに、経験論がその真を擁立する。ところがカント超越論の場合、その真は経験論の偽である。客体を不可知に扱えば、経験を真にする根拠も同時に消失する。このときに経験的独断の全ては無根拠になる。それゆえに客体の不可知は、経験的独断の全てを否定する。この不可知論が経験論に与える正反対の真偽判定は、質料と形式のどちらに先験的優位があるとするかに従う。そしてカントは観念論の伝統に従って形式に優位を認め、自らを先験論とした。ただしそれは形式優位の独断であり、独断であるのに変わらない。それゆえに先に経験論が自らを先験論と称していれば、経験論が先験論となる。しかしその扱いは、経験論の名称と矛盾する。そしてカントの独断と違い、経験論の独断は素朴に独断であった。
・不可知論の効用
真理は唯一の正しい独断である。それゆえに真理は、自らに対する他者の独断から自由である。それは他者の彼岸である。まず他者の独断は、真理に到達するために経験が必要である。しかし経験で得られる独断は、常に媒介された真理である。それは真理自体ではない。このことから不可知論は、全ての独断を否定する。しかしその独断の否定は独断なので、不可知論は自らの理屈と矛盾する。ところがそれらの媒介を要する独断は、経験的独断にすぎない。これに対して真理の独断は、経験に先んじた先験的独断である。それゆえに不可知論も、その先験的独断を否定できない。逆に不可知論をそのように限定するなら、不可知論は自らの独断を維持しながら、自らの独断否定の矛盾を回避できそうである。そしてそのように現れた不可知論がカント超越論である。ここでの媒介の彼岸に存在する真理は、主観的現象の実体を成す物自体DingSichである。唯物論から見ると実体としての物自体は、物体である。物体を実体と扱うなら、意識に実体を見出す観念論は否定される。その理屈は、あたかも物理的事実に根拠を措く唯物論である。そうであるならこの不可知論は、迷信を根絶する科学の到来を告げる。また実際にこのカント超越論による経験的独断の否定は、無根拠な推論や伝聞、および因習と迷信を否定する強力な威力を放った。それらの経験的独断は、物理から外れた思い込みの意識に根拠を措く観念論である。それゆえにカントをそのように理解したエンゲルスは、カントを唯物論者に扱った。しかしカントは別に唯物論者ではない。その経験的独断の否定は、ヒュームの場合と同様に、五感の直観と物理的事実にも及んでいる。結局その不可知論は、相変わらず科学的独断を含めた全ての独断を経験論として否定する。それゆえにカント超越論は、物自体を先験的に捉えながら、物自体の現れの全てを不可知にした。この場合に物自体の実在も疑われるのだが、物自体は独断の彼岸にその実在を要請されている。実はこのカント式物自体は、質料の実在ではない。それは存在と無の二値を表現する実在の形式にすぎない。しかしそのような形式の実在を物自体として捉えても、それは物の実在と異なる。物の実在は形式ではなく、質料である。形式の実在を実在に扱うのは、例えばケンタウロスが観念として実在する、と言うのを超えない。カント式物自体は、実在性と実在の混同の産物である。したがって物の実在の真偽は、カント式物自体と別に、相変わらず独断の彼岸に不可知のまま取り残された。
・先験的カテゴリー
カントの意図では、真理は経験に先行して、経験を限定する。それは経験を質料とするなら、その容器としての場であり、形式である。カントはこの経験が現れる場を、直観においてまず空間と時間として捉える。空間は大きさを持つ物体が現れる場であり、時間は大きさを持たない意識が現れる場である。カントに従えば、このような場が先験的に無いと、物体も意識も現れることができない。すなわち時空間は、直観の先験的形式である。もちろんこの時空間は、カント式物自体の異名である。しかしこの時空間は、実体の相関にすぎない。なんらかの実体が二者現れる場合、二者の区別と関係は、すでに間隔である。感覚主体は二物体の間隔を空間、二意識の間隔を時間として区別する。ただし空間と時間の差異は、経験的である。二感覚の区別は、時間的意識が無ければ空間となる。逆に空間的意識が無ければ時間になる。両者の差異は経験に従う。なおここでの間隔の原初性は、より単純で記憶を必要しない空間の側にある。ただしその原初的空間は、時間と区別されないし、区別できない。ただ時空間のどちらが原初的かを別にしても、時空間は実体関係から派生する。したがって時空間は、直観の先験的形式ではない。一方でカントは実体関係が現れる場をカテゴリーとし、例えば仮言や因果や自由を先験的カテゴリーとした。しかしカントはそのカテゴリーの全体を、アリストテレス以後の形而上学が擁立したカテゴリーの一覧に依拠する。カントはそれを完成していると評価し、それ以上に追及していない。ヘーゲル弁証法は、その理解の空隙に食い込む理性の論理として現れる。それは自らの独断を独断だと自覚し、独断の根拠を追及する理性の推論の体系である。それは自らをカントの後継に位置するが、むしろ自らを先験と宣言した経験論である。それはロックが目論んだ質料に始まる形式擁立を実現する。ただしそれは経験論が前提にした不可知の独断を、可知の独断に取り換える。すなわち真理が不可知なので民主主義を必要するのではなく、存在しない真理を擁立する手段に民主主義が現れる。それゆえにその弁証法の起点は、真偽値不定の成となった。そしてその真偽不定は、むしろ不定のゆえに必ず真に到達する。しかしその真は擁立された真であり、完成した独断にすぎない。悪く言えばその弁証法は、カント以上に巧妙に自らを隠した不可知論である。
・先験的質料への超越問題
民主主義が自らの独断を回避しようとするなら、独断の根拠に他者を必要とする。それは意識の他者としての物体である。それは経験以前に経験の外側に広がる超感覚的世界に実存する。それは形式にすぎないカント式物自体ではなく、物体としての先験的質料である。その先験的質料への超越について、経験論は経験的帰納が実現すると捉え、カント超越論は先験的方法の限定的完成に執着し、ヘーゲル弁証法は媒介を通じた推論が実現すると捉える。それらに現れる帰納法や先験論、および推論は、いずれも遠回しに表現された民主主義である。そしてその表現された民主主義が果たす役割と限界の扱いも、それらの思想が方法に対して限定した役割と限界に従う。一方で哲学における超越問題は、カントによる先験的質料への超越放棄に歩調を合わせて、先験的形式への超越に純化した思想が台頭する。それはシェリングやショーペンハウアー式の天才や単独者による直観や信仰による超越であり、あるいはそもそも超越を要しない現象学やプラグマティズムを通じた個人の在り方を問う思想であり、あるいはカントに倣って単純に先験的形式への超越規則の擁立に特化した思想であり、それらの癒合思想である。それらの思想にとって民主主義は単純に手段であり、目的から切り離れている。それゆえにその興味関心も民主主義から離れている。悪くすればその直観主義は、媒介としての民主主義を放棄して直接に目的実現に向かう。そもそもそれらの思想にとって先験的質料への超越問題は、哲学ならぬ形而下学が扱う問題でしかない。この点はそれらの思想が民主主義を扱う場合でも変わらない。民主主義は政治学や法学、あるいは歴史学が取り扱う事象であり、哲学において無視されるか、軽視された。
・共産主義における民主主義忘却
これらの事情により先験的質料への超越問題は、共産主義を除くとヘーゲル以後の哲学で全く無視されることになる。それと言うのも、先験的質料への超越を問うこと自体がそもそも唯物論であり、そして哲学に無自覚な経験的諸科学を除くと、現代における唯物論は基本的に共産主義だからである。そしてこの無視は、民主主義の無視と連繋する。ハイデガーの言う存在忘却に倣って、哲学の民主主義忘却の起源を探るなら、その開始点はカント不可知論による先験的質料への超越放棄が該当する。ところが困ったことに、観念論諸派における民主主義の無視と軽視は、共産主義においても観念論諸派以上の規模で起きている。その起源は、明らかにレーニンにある。レーニンは民主主義の実現を完全に革命の実現に劣後させ、適当な理屈をつけて民主主義は実現したと虚報を発した。そこでの民主主義革命は、革命における外堀の敵の政治的追放だけを意味し、支配的な王朝と宗教の権力構造からの追放だけを指している。それどころかそのようなレーニンにとって、民主主義は共産主義革命を阻害する内堀の敵でしかない。その虚偽的な二段階革命は、実際には一段階目の民主主義の実現をすっ飛ばした一段階革命であった。この超越問題を革命に同化させ、果ては革命論に劣後させるレーニンの弁証法は、ヘーゲルにおける媒介の廃棄を、民主主義の暴力的廃棄へと自己都合に解釈したものである。そしてその理解を根拠づけているのは、経験論から始まりドイツ観念論を経てマルクスに至るまでの、民主主義の実現に対する全ての思想的努力の無視である。革命後の民主主義の実現を放棄したロシア革命のつけは大きく、70年の時を経てロシア共産主義の挑戦は、跡形もなく灰塵に帰した。
(2022/09/30) 前の記事⇒独断と対話
ヘーゲル大論理学 概念論 解題
1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
(1)第一章 即自的質
(2)第二章 対自的量
(3)第三章 復帰した質
2.民主主義の哲学的規定
(1)独断と対話
(2)カント不可知論と弁証法
3.独断と媒介
(1)媒介的真の弁証法
(2)目的論的価値
(3)ヘーゲル的真の瓦解
(4)唯物論の反撃
(5)自由の生成
ヘーゲル大論理学 概念論 要約 ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
冒頭部位 前半 ・・・ 本質論第三篇の概括
後半 ・・・ 概念論の必然性
1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
2章A ・・・ 限定存在の判断
B ・・・ 反省の判断
C ・・・ 無条件判断
D ・・・ 概念の判断
3章A ・・・ 限定存在の推論
B ・・・ 反省の推論
C ・・・ 必然の推論
2編 客観性 1章 ・・・ 機械観
2章 ・・・ 化合観
3章 ・・・ 目的観
3編 理念 1章 ・・・ 生命
2章Aa ・・・ 分析
2章Ab ・・・ 綜合
2章B ・・・ 善
3章 ・・・ 絶対理念
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