唯物論者

唯物論の再構築

不可知論4(悪の認識)

2015-02-01 21:30:34 | 思想断片

 不可知論は、現象から実体への認識の遡及を不可能とみなす理屈である。当然ながら不可知論では、認識が結果から原因へ遡及することも実質的に不可能である。認識が存在に遡及する道は、既に遮蔽されているからである。したがって経験論では、認識による結果から原因への遡及は、常に経験的蓋然性に留まる不確かな単なる類推にすぎない。とは言え経験論は、この不確かな経験を擁護し、不確かな類推に知の礎を見出そうとした。これに対してカント超越論は、不確かな類推を迷信と断罪し、不確かな経験から類推をもたらす意識の働きだけに確実性を見出そうとした。すなわち経験論が類推も因果律も蓋然に扱う蓋然だらけの理屈だったのに対し、超越論は類推を全面的に拒否して因果の確実性だけを擁護し、そのことによる厳密な知の体系を目指した。ただしそこでの因果の確実性は、原因があることだけを説明するだけで、原因がいかなるものかを知り得ないものであった。しかし知の一般的要請は、結果に対する原因追究を目指すものである。それに対して経験論と超越論の両者の不可知論は、形を違えども、このような知の一般的要請を不可能と扱う。ただし両者の不可知論の差異に注目するなら、超越論は経験論以上にこの知の一般的要請に反した理屈となっている。蓋然だらけとは言え、経験論は結果に対する経験的な原因追究を容認したのに対し、超越論は結果に対する経験的な原因追及を迷信として拒否するからである。かくして結果に対する原因追究を目指す知の一般的要請は、蓋然な実体追及を行う経験論に満足すべきか、実体追及そのものを放棄した超越論を目指すべきかの方法的選択に常に苦しむこととなった。もともと経験論における不可知論は、自らの理屈を擁護するための一つの口実に過ぎなかった。ところがカントによる経験論に対するこの哲学的断罪は、超越論ともども経験論を単なる不可知論へと追い込まざるを得ない。それどころか一般にカント超越論は、経験論を哲学的に葬り去ったとみなされている。カントは因果律の救済において原因の存在だけを可知にした。それに対して経験論は蓋然な因果律において原因の存在も不可知なままである。このために一見すると、同じ不可知論でありながら、超越論ではなく経験論の方が生粋の不可知論のごとく現れざるを得ない。このような可哀想な事情が、経験論を不可知論の代名詞にし、不可知論とは経験論だとみなされるようにした哲学史的背景になっている。
 基本的に不可知論とは、経験論および超越論のいずれにせよ、結果に対する原因追究を不可能とみなす理屈である。この理屈の一般的な問題は、事象の原因追及を棚上げにして理屈の整備から自らを超越させようとしない観念性にある。そしてその問題が生む最悪の結末は、自らの理屈が事象解決の単なる阻害に終わる姿である。問題事象が現象している場合、その原因究明を最初に諦めてしまうようなら、実際には問題事象の解決などできるわけが無い。不可知論とは、そのような諦念を是認し、あたかも知的優位に立つかの錯覚をもたらす悪しき理屈である。とは言えさしあたり学者がどうでも良い事象を机上で究明する限り、不可知論は最強の思想的武器として機能するかもしれない。その場合に学者は、自らに都合の良い事実を語るときにだけ不可知論を撤回し、自らに都合の悪い事実を語るときに不可知論を唱えれば、自らに対する世間的なおおよその反論を封じ込めることができるからである。イデオローグは、他者の語る事実を単なる主観と決め込んで無効に扱い、自ら語る虚偽をさりげなく客観に扱って自論の有効性を粉飾する。イデオローグの持論は、事実は存在せず、唯物論は虚偽だと言うものである。しかしそのような行為は、事実に敵対するだけの単なる悪事であり、自らの虚偽観念を自論の起源に持つだけの誤った理屈である。このような理屈は、問題事象の物理的解決を阻み、世界に虚偽と苦痛を生む危険な理屈へと容易に転化する。カントはこのやり方で、先験的カテゴリーだけを救済する超越論を構築した。もちろん不可知論それ自体は、危険思想ではない。問題は不可知論者がこの理屈を、自らへの懐疑に向けるのではなく、他者に強要する場合に発生する。不可知論は肝心の論点を不可視に扱い、論者同士の議論全般を死滅させる効果を持つからである。このようなイデオローグを撃退する唯一の武器は物理的事実だけである。当然ながら正当な論理は、前提として物理的事実の存在を是認し、それを理屈の出発点に立てなければならない。もともとカント超越論の正当性も、因果律の救済において、現象の原因としての物自体の存在を是認することにあった。ただしカントはその正当性を、物自体の不可知宣言において自ら反故にしている。カントは、このような是認が唯物論への屈服だと理解していたからである。ちなみに先験的カテゴリーに対する不可知論が本当に不可能かと言えば、そんなことも実際には無い。因果は経験論の段階で既にその先験性を疑問視されており、カント以後でも、持続する瞬間の断絶において往々にしてその先験性は拒否されてきた。そもそも因果や関係を含む質や量のごとき先験的カテゴリーは、相対する存在者の諸関係の中でのみ成立することであり、経験なしに成立し得ない。また直観形式としての時空にしても、今では関係概念の特殊な派生態と見られており、つまりは質や量の仲間にすぎない。また現代科学においても、時空の先験性は失われている。このような論理の泥沼の中で結果的に残るのは、印象の経験的確実と言う経験論の基礎事項だけである。ところがよくよく見なおしてみると、現象の中に不可知論が打ち捨てたはずの実体が顔を出しているのに気付いたのが、ヘーゲル以後の哲学の歩みだったわけである。かくして不可知論は拒否されるべきとなり、哲学も経験論の土台に戻った再出発を自らに課すことに至っている。
 さて上記において筆者は、不可知論における最悪展開として、不可知論の理屈が事象解決の単なる阻害に終わる姿を示した。このような最悪展開は、事実を起源にしない理屈、言い換えるなら虚偽観念だけを起源にする理屈、端的に言い直すなら観念論が持つ一般的な最悪展開である。この最悪な展開の最たる事例は、悪の解決への阻害である。基本的に問題事象は、その事象が問題とされる段階で既に悪である。例えば自然災害や事故や病気のような問題事象も悪である。ただし以下では悪を、人間が人間に与える危害や苦痛について限定して考える。すなわちここで焦点にすべき悪とは、悪人による犯罪行為のことである。この問題事象としての悪は、いかなる背景においてそれが生まれるかを究明しなければ、この世界にいつまでもそれは悪として現象せざるを得ない。知の方法は、原因を解消することで、事象を解決するのが正しい姿である。もちろんこの考え方の基底には、結果には原因が必ずあると考える唯物論の基本的な主張がある。もしそのように悪の廃絶を目指すなら、悪の起源の解明を避けることはできない。そしてもし悪を憎み、その廃絶を目指す気持ちがあるなら、悪の起源に対して不可知論を唱えるのは観念論の極みであり、問題事象を放置する妄論として見えてくる。つまりむしろそのような主張は、その主張自体が既に悪なのである。したがって不可知論は、その存在自体が悪であり、当然ながら不可知論の容認も等しく悪として現れざるを得ない。実を言うとこの不可知論に類した理屈は、世間的に頻繁に出回っており、形を変えながら悪の起源を隠蔽する役割を果たしている。悪人を単独に悪として扱い、その悪事の原因を見出そうとしない場合、そこでの悪の実体遡及への断念は、悪人の身心的存在だけを悪の実体に留めてしまう。この観点での悪の廃絶は、悪人の身心的死滅に留まらざるを得ない。せいぜいこの観点での悪の対処法は、悪人を死刑にするか、収容施設への無期限拘留を対処法として認めるだけに終わる。結果的に悪が生誕した背景は謎のままに終わり、悪の実体も放置されることとなる。この観点だと悪の起源への探求は、彼と類似した悪人が現れた場合でも、不可知論において遮蔽される。結果的にこの悪人と類似した悪人は、この世界から該当する悪の起源が自然消滅しない限り、その身体的姿形と名前を変えて何度でも世界に出現することとなる。
 しかしこのような場あたりで平板な悪の理解では、悪人およびその関係者だけでなく、被害者を納得させるのが難しい。悪人は悪人の言い分を持っており、また被害者も自らの苦悩を自らに説明し、事後の被害に備えられないからである。そこで悪人を単独に悪として扱わずに、悪人の心に潜む悪魔に原因を見出そうとする宗教的な見解が生まれる。もちろんこの見解は、悪人の心にある無知や無教養、または無信仰に悪の原因を見出そうとする見解として現れるかもしれない。この場合、悪の実体遡及への断念は、悪しき心を悪の実体に扱うか、無知や無教養、または無信仰を悪の実体に押し留める。もちろん現象の実体を意識に求める限りで、この観点はあからさまな観念論である。この観点での悪の廃絶は、悪人および悪人候補者に対する刑罰や教育の充実、または信仰の強要を通じて行われる。この方法は、悪人を身心的に死滅させるのと違い、予防効果がある分だけ、先の見解より社会的な悪の封じ込めに効果を見込められる。また先の見解における実体遡及への断念も、悪の実体を悪人の心の中にだけ認める限りで、少しだけ改善されている。逆にいえば、悪の実体を悪人の心の中にだけ認める限りで、この観点は先の見解と大差を持っていない。悪人の心は悪人の身体、およびその社会的存在と一体のものだからである。当然ながら実際にはこの観点でも、実体への遡及は実質的に断念されたままであり、先の見解とそれほど変わっていない。結果的にここでも悪人は、この世界から該当する悪の起源が自然消滅しない限り、その身体的姿形と名前を変えて何度でも世界に出現せざるを得ない。なるほどこれにより悪の現象を防ぐ防波堤が一つ構築されたのは確かであろう。しかしおそらく悪にとってそれは、問題事象の解決には程遠い代物である。それでは、解熱剤により熱を下げたことをもって病気の原因を放置するのと同じである。
 そもそも無知や無教養は、すなわち悪なのかと言えば、そんなわけがない。知らずに他者に不快な思いをさせる場合もあるのだが、知らないだけで悪人扱いされるのも理不尽な話である。それと同じ理由で、イスラム原理主義に代表されるような偏狭な宗教人が無信仰や他教信者であることを理由に他者を悪として扱うのを見聞きするたびに、むしろこのような宗教者や観念論者こそが悪人だと筆者に見える。さらにそれと同様に、宗教者や観念論者が唯物論者であることを理由に他者を悪として扱うのを見聞きするたびに、むしろこのような宗教者や観念論者こそが悪人なのだろうと思っている。なるほど人を物品として扱い、人間の尊厳を踏みにじる理屈を唯物論と呼ぶのなら、唯物論者は悪であろう。ところがそんなことを言う唯物論者はどこにも居ない。随意に唯物論の名を悪徳行為に対して命名し、それをもって唯物論を糾弾する腐った理屈は、いまだにそこいら中を徘徊している。
 悪人だけでなく被害者をも納得させる最良の方法は、悪の物理的起源を明らかにし、その完全廃絶を通じた悪の自然消滅の道を示し、実現することである。共産主義は、このための一つの理屈として提示された。ただしそれは、とりあえず政治的に失敗したのが現在世界の歴史的実状である。しかしその思考方法は、唯物論からすれば間違いではない。なぜなら唯物論は、結果には原因があり、原因の廃絶において問題事象の廃絶が可能だと考える思想だからである。すなわち唯物論は、悪の原因を不可知とみなす理屈、および悪の廃絶そのものを不可能に扱う理屈を拒否する。たとえ物品の生産工程における不良品のごとく悪を思いみなし、それが永久に取り除くことができない偶発的不祥事だと宣言されたとしても、唯物論は不祥事の原因解明を通じて生産工程の改善を要求し、悪の生誕を許すことは無い。そもそも悪を偶発的不祥事として宣言することは、悪の原因を不可知とみなすことであり、ひいてはその廃絶を不可能に扱うことと同じである。したがってここでの不可知の排除は、偶発的不祥事が生産工程の改善を通じて廃絶できる前提と同義として現れる。また仮に悪をそのような偶発的不祥事に扱うのだとすれば、悪を個体の偶有的事情に扱うのと差異をもたない。ところがこの生産工程は、基本的に個体の偶有的事情に悪の起源を見出すわけにいかない。なぜならこの生産工程の目的は、これらの個体の存立に依存しており、個体に即応して生産工程が構成されなければならないからである。つまり個体の偶有的事情は、素直に単なる特殊性として評価されるべきである。個体の偶有的事情に悪を見出す見解は、その見解そのものが既に悪である。個体の偶有的事情を処理できない生産工程は、それ自体が欠陥システムであり、改善の余地を持っている。もちろん可能性を言えばこれらの個体の中に、単なる特殊性として評価し得ないような生来の悪、または既に悪に固着した改修不能体が現れるかもしれない。しかしそのような考慮は、ひとまずここでの検討事項に含める必要の無い技術論的話題である。

 なお上記の説明は、事象の原因究明に興味の無い人たち、悪の廃絶に興味の無い人たち、ヤクザものによる恫喝やギャングによる暴力的支配を許容できる人たちには無意味な話題である。すなわち上記の説明は、不可知を許容できる人たちにはどうでも良い話題である。不可知論とは、実体遡及を断念し、実体の支配に甘んじるだけの諦念思想だからである。

 
(2015.02.02)


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