唯物論者

唯物論の再構築

唯物論9(意識2)

2012-02-24 23:33:20 | 唯物論

 筆者は前の記事(意識1:関わりへの関わり)で、キェルケゴールが精神を定義するにあたって表現した「関係」とは、対象化された関係を指すのではなく、作用主体による作用対象への働きかけを指すとした。そのように意識を限定したのは、意識をただ単に対象化された関係に扱うと、意識が既になんらかの形で物理的に存在するものになってしまうからである。ここで言う対象化された関係とは、物体の物理的諸関係、動植物の自然界の諸関係、人間社会における社会的慣習、または脳内の記憶などの物象化した関係全てを念頭にしている。一方で作用主体および作用対象にしても、それらは意識の他在としての物質にすぎない。つまりそれらは、意識が宿る肉体であり、意識が日々相手にする世界にすぎない。意識は、この作用主体と作用対象の間隙に存在するものであり、あくまでも物質と区別されるべき存在である。

 しかし意識をこのような存在として扱っても、相変わらず意識は、作用主体と作用対象の間隙のうちに、物質として存在しているのではないか? 唯物論者の脳裏には、このような考えが浮かぶはずである。しかし意識自身は、自らを物質と思わず、自らの肉体、または自らを取り囲む世界も、自己と別物、つまり単なる客体だと思っている。そのことは、意識自身の確信にさえなっている。もちろんこの意識の確信は、スピノザが考えたように、唯一実体に依存する個別存在者の錯覚である可能性をもつ。しかしこの意識の確信は、たとえ錯覚であるとしても、単なる錯覚ではない。なぜなら排他的自己の錯覚それ自体が、錯覚ではない排他的な自己意識を実現するからである。したがって意識と物質は、異なるものとして、素直に理解すべきである。意識は、物質ではないものとしてのみ、意識でなければならない。そうでなければ、意識は世界に存在しないという、さらに不合理な結論を到来させてしまうからである。これが、上述の機械的唯物論による疑念に対する答えである
 なお上述の唯物論的疑念は、次のようにも言い表せる。作用主体による作用対象への働きかけの根拠は、作用主体のうちに存在する。しかし作用主体におけるその根拠が、常に作用対象への働きかけの内容を決定するのであれば、意識は単なる作用主体の派生態にすぎなくなる。したがって意識は、やはり物質にすぎないのではないか? という考えである。この考えは、意識を作用主体や作用対象に規定されるだけものにし、意識の必然性を無自覚な客体的必然性に引き落とすものである。それは、客体による意識規定を絶対視した考えであり、意識の自由が存在しないという考えである。すぐわかるようにこの見方は、先の唯物論的疑念を形を変えて提示したものにすぎない。それは相変わらず、意識の居場所を作用主体の中に吸収させてしまう考えである。実際には意識は自らの現実存在を確信しており、この現実存在のうちに作用主体や作用対象に反逆する自らの力を見出している。

 自らを客体と区別する意識の確信は、もともと次の自覚に由来している。それは、意識による客体支配がほぼ効力を持たないことの自覚、すなわち意識の無力の自覚である。それは、客体による意識支配を必ずしも絶対的と認めないことの自覚、すなわち客体への反発の自覚でもある。この自覚により初めて物質は、意識にとって自らではないもの、すなわち他者として現れる。仮に意識が客体の絶対的支配者であるなら、意識は客体を意のままにできる。しかしそのような意識には、自らと客体を区別するのは不可能である。またそのような意識には、自由も存在しない。サルトルの言うように、制約が存在しない世界では、自由自体が概念として成立し得ないからである。そのような意識は、キェルケゴールが考えたように、意識ですらない。それは自己完結した物体にほかならない。
 なお、ここで意識を物質と扱わないと宣言した以上、意識に残されている居場所は、作用主体と作用対象に挟まれるその間隙だけである。旧時代の思想、つまり世界から意識を消失させた機械的唯物論や、意識を天上界の住人に扱うような観念論に後戻りしたくなければ、意識の居場所をここに定める以外に無い。もしこの間隙までもが失われるなら、意識の安住の地は、世界のどこにも無い。

 なおキェルケゴールによる意識の定義は、上記の唯物論的疑念と異なる別の唯物論的疑念を生みだす。それは、物体といえども自らに対して、あるいは他者に対して作用するという事実から来る。言い換えるなら、物体も自らとの関わりを持ち、他者と関わるという事実から来る。物体の場合、その自己関係および他者関係は、見たところエネルギー保存則のような物理法則がそれらの関係構築を支配している。それはあたかも、物体自身の意識がそのような関係構築を目指しており、その結果として物体が自らに対して、あるいは他者に対して作用を及ぼしている。もしそれが真実であるなら、スピノザが考えたように、物理法則は物体の意識だということになる。同様に人間以外の動物にしても、自らに対して、あるいは他者に対して作用を及ぼしている。つまり動物も自らとの関わりを持ち、他者と関わっている。そして動物における自己関係および他者関係は、見たところ本能がそれらの関係構築を支配している。比較して言えば、単なる物体よりも動物の方がはるかに、動物自身の意識がそのような関係構築を目指し、その結果として動物が自らに対して、あるいは他者に対して、積極的に作用しているように見える。それらに見出される関係作用は、明らかに関わりを目指すものを想定させる。キェルケゴールの意識の定義に従うなら、それらもやはり物体や動物の意識であるはずである。キェルケゴールは、人間を精神として、また自己として、つまりは意識として扱った。そこには、物体や動物も人間だとする不思議な結論が待ちかまえている。
 このように新たな唯物論的疑念は、キェルケゴールにおける汎神論を暴き出す。それは、キェルケゴールが一般意識を個別意識に分断したことの当然の帰結でもある。このような汎神論では、主体および客体、さらにそれらの細部の全てが勝手気ままに動いており、それぞれの互いの力の均衡の上に世界が成り立つ。このような汎神論は、世界を生き生きとしたものに描くのに好都合なのだが、無秩序な世界像にも容易に転化する。
 主体は、自らが因果律であり、それにおいて客体と区別されるものである。そしてこの区別において因果の秩序は成立する。しかし汎神論では、この主体が複数存在し、それぞれが互いを客体とみなす。そこでの主体と客体は互いに対等であり、因果は両者の力の均衡の上に生まれることになる。同じような主客関係は、主体と因果律の対立として主体自身の中でも発生し、因果律自身の自己矛盾を生む。それらはこの世界における法則の存在を不可能にし、この世界を単なるカオスに変える。つまりその無秩序は、結果と原因を結ぶ絆を消失させる。それは不可知論を復活させ、不可知論は独我論を復活させることになる。ただしそれは、それぞれの主体にもちこんだ因果律の類的普遍性について、汎神論自らが知らない顔をするからこそ成立するだけの虚偽である。人間と動物、人間と物体のそれぞれの因果律は、ある部分同じであり、ある部分異なる。場合によって対立するものでさえある。それは、人間における共同体と個人のそれぞれの因果律が、ある部分同じであり、ある部分異なり、場合によって対立するのと同じである。しかしその因果律は、その類的範囲において一貫している必要がある。
 もし意識の自由が、意識自らにおいて無秩序なものであるなら、そのような自由はただのカオスの別名である。それは自由における不可知論の復活であり、自由における独我論の復活である。ただし意識は、無秩序な世界像とは違い、自らを知り得るし、自らが自らに対して制約を与える因果律として現れるのを知っている。したがってカミュの小説の主人公のように自由を単なるカオスとみなすのは、単なる自己欺瞞である。意識は意識自らの因果律に従わなければならず、人間は人間自らの因果律に従わなければならない。

 上述の二つ目の唯物論的疑念は、キェルケゴールにおける汎神論を暴き出した。しかしそれは、あくまでもそれはキェルケゴールの意識定義の欠落部分を暴き出しただけであり、その意識定義を否定するものではない。そしてその欠落部分を補充すべきなのは、物体や動物と区別されるべき人間の定義である。それを明らかにしてのみキェルケゴールの汎神論は克服される。この人間の定義は、キェルケゴールの意識定義と同様に、現象学的に記述可能な事柄である。というのは、意識は自らを物体や動物と異なるものに扱っており、そこには意識における人間についての了解が存在するからである。またこの区別に対する意識の確信は、自らを客体と区別する意識の確信とも連携している。当然ながらキェルケゴールによる意識の定義も、それを前提にしたものだったと見るべきである。

 意識の自由はいかにして可能なのか? この問いかけを前の記事の終りに提示したときは、客体が支配する因果律から、意識がどのように逃れ得るのか? というぼんやりとした問いかけにすぎなかった。今回の考察はその問いかけに対し、まず客体に対する意識の独立性を示すことで、意識独自の因果律の存在可能性を示し、次にそれと人間独自の因果律との連携を示した。しかしこの展開は、相変わらずに実存主義の手のひらの上にまだ乗っかったままにある。果たしてこの意識独自の因果律は、唯物論においてどのように理解すべきなのであろうか?
(2012/02/24)


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