神学講座は2016年9月5日から新しい本に入りました。神父様が選ばれたのは、教皇ベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神 ー 三位一体の神についての省察』(2011 春秋社)です。原書は Der Gott Jesu Christi - Betrachtungen ueber den Dreieinigen Gott (1976) です。
神父様がこの本を選ばれた理由はわかりませんが、私には納得できる選択です。J.ラッツインガーが教皇様に選出された後ということもあって、本訳書は出版当時多いに読まれました。書評なども数多く出た記憶があります。私も当時興味を持って読んだことを覚えています。かれが名誉教皇様になられた今、本書をもう一度読んでみることは、かれを教皇様としてではなく、一人の神学者としてとらえなおしてみる良い機会のように思えます。
本書の原著は古い。1976年出版と言うことは、教会の中で第二バチカン公会議後の激動がー揺り戻しといってよいかどうかはわからないがー始まった最中の本ということになる。ラッティンガーは第二バチカン公会議の立役者ではあったが、まだ一人の神学者にすぎない。ミュンヘンの大司教になり、枢機卿として出世していくのは数年先のことであったが、彼にはこの途ははっきりと見えていたのだと思う。
本書は神学書として体系的に書かれたものではない。ラッティンガーが司祭として数カ所でおこなった黙想会の話やお説教がまとめられたものである。したがって話はわかりやすい。難解で何を言っているのかよくわからないと揶揄されることの多いラッティンガーの著作としては珍しい部類に属すると思われる。また、本書の表題の訳語に「の」が使われている。これは原書でも所有格を表していると思われる。「イエス・キリストの神」の「の」とは何なのか。三位一体を所有格で表現できるのか。これが本書を貫く課題のようにも思われた。
内容は三位一体論である。カトリック信仰が結局は三位一体の神を信ずること、教会を信ずること、に帰着すると言えるなら、本書は三位一体論を正面から取り扱ったいわば公教要理原点みたいな性格を持っていると思える。
本書は3章からなる。第1章「神」、第2章「イエス・キリスト」、第3章「聖霊」。当然と言えば当然の章立てである。
三位一体論は長く、激しい論争のなかで成立してきた教理なので、訳者の里野氏は「解説ー三位一体について」のなかで、この論争の歴史を詳しく説明されている。この解説・説明の評価は私の能力を超えるが、教義と信仰を対立するものとしてとらえてはいけないと主張する里野氏の説明は説得力がある。三位一体論は結局はホモウオーシス論だという人もいるが、里野氏はもう少し幅広くとらえて、(ラッティンガーに好意的に)説明している点は、ラッチンガーのお弟子さんとしては当然なのかもしれない。
さて第1章「神」である。本章は4節からなる。1節「名を持つ神」 2節「三位一体の神」 3節「創造主なる神」 4節「ヨブの問い」。今日は第1節「名を持つ神」が紹介された。講義の参加者が訳本を持っていない人が多いということもあり、神父様は基本的には訳文を忠実に読まれ、時折注釈を加えるという形で講義をされる。レジュメ(原文)はすべてご自分でパソコンで入力されていると言うことだが、万年筆よりはパソコンの方が理解を深める筆記方法だという。しかも横書きを好まれるという。
旧約では原初「神」は、「ヤーウエ」は、「名を持たない」というのが定説だから、このタイトルは挑戦的である。ラッチンガーは、現代は(近代というべきか、いずれにせよモダーンは)神の不在の時代と定義するところから始める。神の不在とは人間主義が支配する時代である。つまり、人間を救うのは人間であり、世界を支配する力は人間の手の内にあり、人間のみに力がある。力を失った神はもはや神ではなく、人間にのみ力があるところでは神はもはや存在することを許されない。ラッチンガーの近代主義批判は明確である。
とはいえ、かれは近代主義を全面的に否定しているわけではない。この点の識別はラッチンガー理解、広く言えばカトリック理解にとり決定的に重要と思われるが、それはいずれ本書でも取り上げられるだろう。ヒューマニズム万歳、人間主義第一、の思想が支配する現代日本でこのような思想や主張が誤解を伴わずにどのように受け入れられるのかわからないが、カトリックの近代主義批判は、受け入れるにせよ、否定するにせよ、正確な説明と理解を必要とする。その意味でも本書の意義は大きい。
神を認識できない、とは神の存在証明とかの理論的問題ではないとラッチンガーはいう。それは、現代社会では、人間が生き方がわからなくなった、人間が世界に対し、自分自身の人生に対しどのように関わったら良いのか、がわからなくなったからだ、という。「我」「汝」「我我」という相互関係にどのような関わりをもっていると考えるのか、が神への関係を決めるという。
現代人の多くが人生への関わり方がわからなくなっているとしても、ラッティンガーは、「人間には見られているという意識があります」という。詩編139・1-12が説明される。
主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟られる。
歩くのも、伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。
「神が見ているという意識」とは何のことか。それは、「監視」でありかつ「見守り」だという。日本文化風に言えば、「天知る・地知る・我知る」と同じことなのだろうか。隠しカメラは監視か見守りか。幼児を抱くことは監視なのか見守りなのか。どうも違うようだ。ラッチンガーは、それは旧約の神は「正義の保護者」として語られているからだという。えっ、なんのこと?となるが、ここでは出エジプト記3・7が説明される。難解だが本節の頂点といってよいかもしれない。この論点はこれからも繰り返し出てくるので、ここでは触れるにとどめておきたい。
ここで、再び、神に名があるのか、という問いに戻される。旧約の神が名を持つのは多神教世界の名残なのか。そうではないという。イスラエルの神に対する信仰の発展の中で神の個々の名前が時代と共に生まれては消えていった。確かにヤハウエの名は残った。しかし、十戒の第二戒との関連で、イエスの時代より遙か前に、既に発声されなくなっていたという。つまり、「新約聖書は神の名を知らない。イエスより遙か以前に、旧約聖書のギリシャ語訳において既に、神の名は例外なしに「主」(キュリオス)という呼び名によって置き換えられていた」。
しかし、新約聖書において神は名を持ち始める。神は名によって呼ばれ始める。神はペルソナだから、名がなければ呼びかけられない。名を持つとは呼びかけることができるということだ。ラッチンガーはこれを「交わり」と呼ぶ。「キリストは真のモーゼであり、神の名の啓示の完成」だという。われわれはイエスを通して神に対し「なんじ」と呼びかけることだできる。
では、神の名はなにか。「わたしは『わたしはある』である」。I AM WHO I AM.(当然議論・論争の的で、日本語でも定訳はない。「わたしはあるという者だ」(共同訳)「わたしは、『ある』ものである」(フランシスコ会訳))これが神の名だ。この神の名はイエスから理解されると、「私はあなた方を救う」「神の存在は救い」となる。 本節はお説教としては話が少し彼方此方に飛んでいる嫌いがあるが、本書への導入としてはとても興味深く読めた。
神父様がこの本を選ばれた理由はわかりませんが、私には納得できる選択です。J.ラッツインガーが教皇様に選出された後ということもあって、本訳書は出版当時多いに読まれました。書評なども数多く出た記憶があります。私も当時興味を持って読んだことを覚えています。かれが名誉教皇様になられた今、本書をもう一度読んでみることは、かれを教皇様としてではなく、一人の神学者としてとらえなおしてみる良い機会のように思えます。
本書の原著は古い。1976年出版と言うことは、教会の中で第二バチカン公会議後の激動がー揺り戻しといってよいかどうかはわからないがー始まった最中の本ということになる。ラッティンガーは第二バチカン公会議の立役者ではあったが、まだ一人の神学者にすぎない。ミュンヘンの大司教になり、枢機卿として出世していくのは数年先のことであったが、彼にはこの途ははっきりと見えていたのだと思う。
本書は神学書として体系的に書かれたものではない。ラッティンガーが司祭として数カ所でおこなった黙想会の話やお説教がまとめられたものである。したがって話はわかりやすい。難解で何を言っているのかよくわからないと揶揄されることの多いラッティンガーの著作としては珍しい部類に属すると思われる。また、本書の表題の訳語に「の」が使われている。これは原書でも所有格を表していると思われる。「イエス・キリストの神」の「の」とは何なのか。三位一体を所有格で表現できるのか。これが本書を貫く課題のようにも思われた。
内容は三位一体論である。カトリック信仰が結局は三位一体の神を信ずること、教会を信ずること、に帰着すると言えるなら、本書は三位一体論を正面から取り扱ったいわば公教要理原点みたいな性格を持っていると思える。
本書は3章からなる。第1章「神」、第2章「イエス・キリスト」、第3章「聖霊」。当然と言えば当然の章立てである。
三位一体論は長く、激しい論争のなかで成立してきた教理なので、訳者の里野氏は「解説ー三位一体について」のなかで、この論争の歴史を詳しく説明されている。この解説・説明の評価は私の能力を超えるが、教義と信仰を対立するものとしてとらえてはいけないと主張する里野氏の説明は説得力がある。三位一体論は結局はホモウオーシス論だという人もいるが、里野氏はもう少し幅広くとらえて、(ラッティンガーに好意的に)説明している点は、ラッチンガーのお弟子さんとしては当然なのかもしれない。
さて第1章「神」である。本章は4節からなる。1節「名を持つ神」 2節「三位一体の神」 3節「創造主なる神」 4節「ヨブの問い」。今日は第1節「名を持つ神」が紹介された。講義の参加者が訳本を持っていない人が多いということもあり、神父様は基本的には訳文を忠実に読まれ、時折注釈を加えるという形で講義をされる。レジュメ(原文)はすべてご自分でパソコンで入力されていると言うことだが、万年筆よりはパソコンの方が理解を深める筆記方法だという。しかも横書きを好まれるという。
旧約では原初「神」は、「ヤーウエ」は、「名を持たない」というのが定説だから、このタイトルは挑戦的である。ラッチンガーは、現代は(近代というべきか、いずれにせよモダーンは)神の不在の時代と定義するところから始める。神の不在とは人間主義が支配する時代である。つまり、人間を救うのは人間であり、世界を支配する力は人間の手の内にあり、人間のみに力がある。力を失った神はもはや神ではなく、人間にのみ力があるところでは神はもはや存在することを許されない。ラッチンガーの近代主義批判は明確である。
とはいえ、かれは近代主義を全面的に否定しているわけではない。この点の識別はラッチンガー理解、広く言えばカトリック理解にとり決定的に重要と思われるが、それはいずれ本書でも取り上げられるだろう。ヒューマニズム万歳、人間主義第一、の思想が支配する現代日本でこのような思想や主張が誤解を伴わずにどのように受け入れられるのかわからないが、カトリックの近代主義批判は、受け入れるにせよ、否定するにせよ、正確な説明と理解を必要とする。その意味でも本書の意義は大きい。
神を認識できない、とは神の存在証明とかの理論的問題ではないとラッチンガーはいう。それは、現代社会では、人間が生き方がわからなくなった、人間が世界に対し、自分自身の人生に対しどのように関わったら良いのか、がわからなくなったからだ、という。「我」「汝」「我我」という相互関係にどのような関わりをもっていると考えるのか、が神への関係を決めるという。
現代人の多くが人生への関わり方がわからなくなっているとしても、ラッティンガーは、「人間には見られているという意識があります」という。詩編139・1-12が説明される。
主よ、あなたは私を究め、私を知っておられる。
座るのも立つのも知り、遠くから私の計らいを悟られる。
歩くのも、伏すのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。
「神が見ているという意識」とは何のことか。それは、「監視」でありかつ「見守り」だという。日本文化風に言えば、「天知る・地知る・我知る」と同じことなのだろうか。隠しカメラは監視か見守りか。幼児を抱くことは監視なのか見守りなのか。どうも違うようだ。ラッチンガーは、それは旧約の神は「正義の保護者」として語られているからだという。えっ、なんのこと?となるが、ここでは出エジプト記3・7が説明される。難解だが本節の頂点といってよいかもしれない。この論点はこれからも繰り返し出てくるので、ここでは触れるにとどめておきたい。
ここで、再び、神に名があるのか、という問いに戻される。旧約の神が名を持つのは多神教世界の名残なのか。そうではないという。イスラエルの神に対する信仰の発展の中で神の個々の名前が時代と共に生まれては消えていった。確かにヤハウエの名は残った。しかし、十戒の第二戒との関連で、イエスの時代より遙か前に、既に発声されなくなっていたという。つまり、「新約聖書は神の名を知らない。イエスより遙か以前に、旧約聖書のギリシャ語訳において既に、神の名は例外なしに「主」(キュリオス)という呼び名によって置き換えられていた」。
しかし、新約聖書において神は名を持ち始める。神は名によって呼ばれ始める。神はペルソナだから、名がなければ呼びかけられない。名を持つとは呼びかけることができるということだ。ラッチンガーはこれを「交わり」と呼ぶ。「キリストは真のモーゼであり、神の名の啓示の完成」だという。われわれはイエスを通して神に対し「なんじ」と呼びかけることだできる。
では、神の名はなにか。「わたしは『わたしはある』である」。I AM WHO I AM.(当然議論・論争の的で、日本語でも定訳はない。「わたしはあるという者だ」(共同訳)「わたしは、『ある』ものである」(フランシスコ会訳))これが神の名だ。この神の名はイエスから理解されると、「私はあなた方を救う」「神の存在は救い」となる。 本節はお説教としては話が少し彼方此方に飛んでいる嫌いがあるが、本書への導入としてはとても興味深く読めた。