カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

思想・職業・葬儀

2016-09-24 11:55:46 | 社会学

 お彼岸ということもあり、最近亡くなったお二人のことを思い出す。知人と言うべきか、友人と言うにはおこがましい。先生と呼ぶべきか。普通に言えば先輩と後輩ということになる。共に社会学者だが、お一人は80過ぎてすぐに、、もう一人は70直前で亡くなった。K氏はプロテスタントの父親を持ちながらマルクス主義者として生き、M氏はプロテスタント系の大学で長く教鞭を執り、比較社会学者、特にスコットランド・北アイルランドのプレシビタリアン(長老派)の研究者として知られていた。考えさせられたのはお二人の葬儀であった。
 K氏は晩年は万葉集や古事記の研究に没頭されていたのでマルクス主義社会学者であり続けたと言って良いかどうかわからないが、思想としてはマルクス主義者であり続けたといえよう。六全協の時代に青春時代を送り、ある歳までは代々木を信じていたと思われる。かれの社会学批判は鋭かった。M氏は大学紛争の時代に社会学に目覚めた。洗礼こそ受けなかったが聖書を常に手元におきながら社会学者としての矜持を守り続けた。
 お二人の葬儀は対照的であった。K氏の葬儀は仏式であった。おそらく日蓮宗だったと思う。葬儀そのものは伝統的な式だった。M氏の葬儀は無宗教式(自由葬)であった。
 人の思想と職業と葬儀がどのようにつながっているのか、このところ考えることが多い。葬儀は遺族の判断によるとはいえ、故人の意向を無視してなされるとも思えない。なぜマルクス主義者の葬儀が仏式で、事実上のクリスチャンの葬儀が無宗教だったのか。これは本人や遺族の意向もさることながら、日本社会がまだ思想(信仰)・職業・葬儀の関連づけに関してパターンないしは規範を作ることに成功していないからではないか、と思った。マルキストの葬儀が仏式だったら違和感を与えないのだろうか。クリスチャンの葬儀が親戚の意向で仏式でなされることもあるというが、これは社会的には違和感を与えるのだろうか。
 思想(信仰)と職業の関係も、特に社会科学者の場合は、いろいろなケースがあって一般化は難しい。普通は、社会科学は「事実」を究明する学問だし、M.ウエーバー風に言えば「価値判断排除」を原則とする。たとえば、かれの『職業としての学問』は次のように言う。

「ある究極の世界観から見て根本的な立場からーその立場は一種類かもしれないし、何種類もあるかもしれませんが、しかし全く別の立場ではない、そういう立場から、ある実践的な態度が、つまり「誠実さ」が導き出されるのだ」(これは三浦展訳85頁で、尾高訳や中山訳とは大いに異なる。私は良い訳だと思う)

原文は
die und die praktishce Stellungnahme laesst sich mit innerer Konsequenz und also:Ehrlichikeit ihrem Sinn nach ableiten aus der und der letzten weltanshauungsmaessigen Grundposition-es kann sein. aus nur einer, oder es koennen vielleicht vershiedene sein-,aber aus den und den anderen nicht.(引用文の綴りは不正確)

 ウエーバーの主張、学問は「明晰さ」と「誠実さ」の獲得をめざすという主張から見れば、お二人の社会学者の人生は同じように誠実なものだった。研究対象も方法論的立場も異なっていたが、お二人とも「誠実な」人生を送られたのだと、私はこのところ一人で納得している。今頃は「お前、今頃何言ってんだ」と二人で天国で笑い合っているのかもしれない。まあ、そう遠くない日にまた一緒に麻雀で一卓囲める日が来ると思って、二人の笑顔を思い出している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする