カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

愛と赦しの教え ー エッセンス(5)

2020-06-08 10:35:10 | 教会

第3章の後半部分である。主の祈りの説明が中心となる。

5 イエスが説く愛とは

 キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれる。なぜそう呼ばれるのか。それは、イエスが「神の支配の到来」を告げ、「神と隣人を愛しなさい」
と教えたからだ。ではその「愛」とはなんなのか。

 ここで小笠原師は、愛の根本を物語るエピソードをいくつか紹介する。興味深い説明の仕方である(1)。

まず、マルコ10:17-22が紹介される。「金持ちの若い男」の話だ(2)。若者がイエスに問う。「永遠の命を受け継ぐために、
私は何をすればよいのでしょうか」。次に続くイエスとこの青年とのやり取りが興味深い。長文なので引用する余裕はないが、要は、
イエスは、
①律法主義からの解放
②隣人への無関心からの解放
 の2つを求める。特に、助けを必要としている隣人への無関心から自分自身を解放すること、イエスが宣教のはじめに訴えたのは
こういう隣人愛であった(3)。こういう心の解放を「回心」と呼ぶ(4)。

 このエピソードが示しているのは、確かな「救いの道」は「隣人となる」ことだ。イエスが説く「愛」とは、相手に抱く好ましい思いや
感情のことではない。そうではなく、「相手を大事にすること、相手を尊重すること」だという。こういう愛を「アガペー」と呼ぶ。
よく知られた話ではあるが、キリシタン時代、この「アガペー」には「ご大切」という訳語が与えられていた。愛するとは、
「ひとを大切にする」という意味で理解されていた。師は、「まさに本質をつかんだ名訳であった」と評価している。

6 「ゆるし」を説くイエス

 イエスは「神の支配の到来」を告げた時、「愛する」ことの重要性と並んで、「赦す」ことの重要性を強く訴える。愛と赦しは、神の
支配の到来という福音の二本柱である。では「赦す」とはどういうことか。

 キリスト教で「赦し」の話の時必ず登場するたとえがある。「放蕩息子のたとえ」の話だ。この話を初めて聖書で読んだり、聞いたり
した人は、身勝手な弟より、真面目な兄に同情するだろう。聖書は、イエスは、父親は、なぜこの身勝手な弟をほめるのか。
このパラドックスがとけないと、キリスト教的な「赦し」の概念が理解できない。

(放蕩息子)

 

 このルカ福音書の譬え話には、前半部分(15:11-24)と後半部分(15:25-32)がある。前半部分に「赦し」という言葉は
一度も出てこないが(5)、父親は息子が戻ってきたことを手放しで喜び、祝宴をあげる話だ。なんで怒らないで喜ぶのか。息子は自分は
「お父さんと天に対して罪をおかしました」と言い、父親は「いなくなっていたのに見つかった」と大喜びする。
 後半部分では、怒る兄、許そうとしない兄を描く。父親はしきりに兄を諭すがなかなかわかってもらえない。何がわかって
もらえなかったのか。

 師によると、赦すとは、単なるヒューマニズムとか崇高な道徳的理念なのではない。正しい人が悪い人を許す、ということではない。
「それはわたしたちと神との根本的な関係の問題であり、人間の真の救いに関わる問題なのです」(103頁)。イエスは赦しと悔い改めを
繰り返し訴える。自分の罪が赦されることと、隣人を赦すことは切り離せない、というのがイエスのメッセージのようだ。

 実はこの譬え話は、ルカ福音書が描いている3つのたとえの最後のものだという

①「見失った羊」のたとえ(ルカ15:4-7)
②「無くした銀貨」のたとえ(ルカ15:8-10)
③「二人の息子」のたとえ(ルカ15:11-32)

 イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちの不平不満への答えとしてこれらの喩えを話されたようだ。「悔い改めなさい」がイエスの
メッセージだったようだ。

7 主の祈り

 イエスが言葉と行動を持って訴えた「神の国の到来」という福音は、結局、「愛する」こと、「赦す」こと、の二点にあることがわかった。
この二点は切り離すことができないというのが師の説明のポイントだ。ここから師は「主の祈り」を一行一行詳しく説明を
始める。

 主祷文は前半と後半の二部分にわかれている。前半は父よと呼びかけながら救いのわざを「賛美」する。後半は、わたしたちの救いを
「嘆願」する形になっている(6)。入門講座の中ではもっとも重要な箇所であろう。「祈り」なのでわたしがあれこれ言うのは
控えたい(7)。
 


1 師は、「コラム」において、キリスト教の愛の概念と仏教の愛の概念を比較検討し、仏教における「慈悲」概念はキリスト教の
「神の支配」の福音と通じるものがあるという。また、よく言われる「アガペー」と「エロース」、「フィリア」との違いにも言及している。
私なりにあえていえば、アガペーは「神愛」、エロースは「性愛」、フィリアは「友愛」とでも訳せようか。
2 このエピソードは、マタイ19:16、ルカ16:18-22にも出てくる。
3 我々も日常生活の中で、完璧主義を求めたり(ルールは必ずまもりますとか完全でないと気がすまないとか)、自分の生活水準の向上
にのみに関心を払う(マンモンの神にとらわれるとか)傾向がある。耳の痛い話だ。コロナ禍のただ中にあるわれわれはいま自分を守ること
に精一杯で、隣人愛とはどういう形をとるものなのかわからない。また語る人もいない。
4 「回心」も「改心」もconversionの訳語なので混用されやすい。回心(かいしん)は罪を認めて心を神に向け直すことを意味する。
これを「えしん」と読むと仏教用語になってしまう。また、改心(かいしん)とは単に反省することで、改悛と同義語であり、
日常よく使われる。『NHK新用字用語事典』には、「改心」は載っているが「回心」は載っていない。キリスト教の特殊用語と
みなされているようだ。逆に、『岩波キリスト教事典』には回心は載っていても、改心は載っていない。さすが『広辞苑』には
両方載っている。
5 師はここで、キリスト教の「罪」概念について丁寧に説明を重ねていく。「恥」概念との比較、親鸞の罪意識(悪人正機論)、正義の
愛と赦す愛、傲慢の罪の説明など、まるでミサで師のお説教を聞いているようだ。
6 主の祈りの解説・説明はたくさんあるが、吉池師の解説は絶妙だと私の周りでは評判が高い。読んでいて気持ちがほのぼのしてくる。
吉池好高著『ミサの鑑賞ー感謝の祭儀をささげるためにー』 オリエンス 2018。この本は、新しい『ローマ・ミサ典礼書』
ラテン語規範版の第3版(2002)の総則部分だけが2015年にやっと日本語訳が認証され、この新しい総則に基づいて書かれた
ミサの解説書だ。ミサの典礼はこれからも変更が加えられていくだろうが、しばらくはこの本がミサの手引書の標準となるだろう。
7 念の為に、英訳、日本語訳、キリシタン訳をのせておく。声を出して唱えると、違いを感じる(どれもカトリックでの訳)。

The Lord's Prayer

Our Father, who art in Heaven
 Hallowed be Thy name.
 Thy kingdom come,
 Thy will be done on earth as it is in Heaven

 Give us this day our daily bread.
 And forgive us our trespasses
 as we forgive those who trespass against us;
 And lead us not into temptation,
 But deliver us from evil;
 Amen

For the Kingdom, the power,
and the glory are Yours.
Now and forever.

(主の祈り)
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
アーメン

国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。

キリシタン訳 (1592 年頃 ) 「どちり な ・きりしたん」 ( バチカン本 )  

てん ( 天 ) にましますわれらが 国おや ( おん 親 ), 御名 ( みな ) をたつとまれたまへ, 御代 ( みよ ) きたりたまへ 。 
てん ( 天 ) にお ひてご おんた一での  おぼしめす  ままなるごとく ち ( 地 ) におひてもあらせたまへ 。
われらが日々 ( にちにち ) の 御 ( おん ) やしなひを今日 ( こんにち ) われらにあたへたまへ 。
われら人にゆるし 申 ( も うす ) ごとく われらがとがをゆるしたまへ 。
われらをてんた さんに はなし 玉 ( たま ) ふ事なかれ。
我等を げぅあ く ( 凶悪 ) よりのがしたまへ 。 
あ めん。

 

コメント
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