第15章は「教会の外に救いなし」と題されている。この表現または命題は教会の宗教的排他主義を示すものとしてかってはよく使われた。最近はあまり聞かないので「またこの話か」という感がないわけではないが、岩島師は教会論としては触れずに避けるわけにはいかないテーマであろう。
これは、Extra ecclesia nullus salus という言葉の訳語だ。extra とは、~の外 という意味、 ecclesia は「人々の集まり(教会)」という意味だ。 nullus は否定形、salus は「救い」という意味。直訳すれば no salvation outside the church とでもなる。
これはカトリックの教導職(1)が現代に至るまで固持している思想・信仰である。この信仰についてはいろいろなところでいろいろな人がいろいろ言っているが、結局は、信徒は「使徒信条」第9条「聖なる普遍の教会・・・を信じます」だから教会に「属する」ことが要求されており、あれこれ言うものでもない。
『カトリック教会のカテキズム』は、第2部「キリスト教の信仰宣言」第3章「聖霊を信じます」のなかで、第846項が「教会の外に救いはない」とされ、こう説明している(264頁)。
「これを肯定形にすれば、救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します」(2)
とはいえ、この表現は、人を躓かせかねない表現であり、正確な理解が必要だ。そのため、岩島師はこの思想についての古代から現代にに至るまで歴史的潮流を整理する。歴史的背景の理解なしにこの思想の特徴を正確に知ることは難しい。
1 聖書
この思想の根拠は聖書の様々な箇所に見られる。
1ペテロ 3:20~ (ノアの箱舟のたとえ)
マルコ 16:16 (信じて洗礼を受ける者は救われる:新共同訳)
使徒言行録 4:12 (イエスによる以外の救いはない)
2 教父たち
アンチオキアのイグナチオス、エイレナイオス、オリゲネス、キプリアヌス、スルペのフルケンチウスなどもこの思想を唱えている。特にオリゲネスはこのテーゼの最初の表現者と目されているようだ。
3 教導職
第4ラテラノ公会議(1215):普遍的教会は唯一であり、その外では救われない (3)
ボニファティウス8世(1238-1303):勅書「ウナム・サンクタム」(1302)で「教会の外に救いも罪の赦しもない」と宣言(4)
4 新たな段階
新大陸発見の時代(15世紀末から16世紀)になると、他民族、他宗教が続々と発見される。教会は対処に悩むが、結局はこの命題を撤回しない。
やがてトリエント公会議(1545~)が開催され、対抗宗教改革の発端となる。ここで初めて「福音の伝えられた後は・・・」の文が加えられ、「望みの洗礼」の考え方が表明される(5)。
5 その後の教導職
ヤンセニスムに対抗するなかで、教会の発言にニュアンスの変化が起こってくる。「キリストの救いはすべての人のため」(DS2005)と主張されるようになる(6)。
①ピウス9世の回勅(1863):「やむを得ぬ事情によりカトリックを知らない者が正しく生きるなら・・・救われる」(DS2866)。だが同時に、「しかし教会の外において誰一人救われない」(DS2867)とも述べている。なにか矛盾した表現が併記されている。
②ピウス12世の回勅(『キリストの神秘体である教会』1943):「しかし、不可抗力的無知によりカトリックを知らない者も、願望によって神に認められる」。
これは、トリエント公会議の「教会に属する望み」の表現を受けて、神の願望に従おうとする「善意」を認めている(7)。
③第二バチカン公会議
『教会憲章』第2章「神の民について」の第16項は「キリスト教以外の諸宗教」と題されている。ここに以下のような文章がある。
「また本人の側に落ち度がないままに、まだ神をはっきりとは認めていないとはいえ、神の恵みに支えられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない」(8)。
つまり、「善意」があれば(洗礼を受けていなくとも)救われると言っているようだ。
6 問題の捉え方
ではこの問題をどのように捉えたらよいのか。洗礼を受けなければ救われないのか。教会に属さなければ救われないのか。岩島師はこの問題にアプローチするには以下の4点を確認しておくことが重要だと指摘する。
①他の補足的観点を合わせて考えること
アウグスティヌスのアベルの教会論が示すように、洗礼は救済の必須条件ではない。
②「教会の外に救いなし」は古代中世の世界では自然な考え方だが、現代とは時代環境が異なる
③この命題は、抽象的命題なのではなく、異端への対処など具体的問題への対応であった。発言の意図を正確に知ることが重要だ。
④信仰についての教えは、歴史の中で正される。今日では、時代に合うもっと適切な表現に代えられるべきである。
では、岩島師は、「教会の外に救いなし」と言っているのだろうか。
7 今日の問題として
①今日、キリスト教徒の人類全体に占める比率からしても、キリスト教徒のみが救われると単純に主張できない
②ピウス12世や第二バチカン公会議の教会憲章のラインで「善意に生きる人」をもって従来の命題を解決できるか。出来ないだろう。キリストの教えでは愛こそすべてだが、その愛は信仰による「心の開き」が必要である
③第二バチカン公会議の考え方「教会は救いの普遍的秘跡である」が従来の命題に取って代わりうる。たとえ意識しなくとも、人が神の恵みに達するのはキリストの恵みによる。キリストはすべての人を救った。教会がすべての人にとっての救いを示す。従って、一部の諸宗教の神学者のように、キリスト教を相対化し、他の宗教と同列に論ずることはできない。
岩島師の立場は明快である。歴史の変化を重視し、しかも多元主義をとらない。
岩島師がこう言うのだから、これが現在の日本のカトリック教会の考え方といってよいのであろう。
(マザー・テレサ)
だが、プロテスタントは言う。「教会の外に救いなし」は間違いで、「聖書の外に救いなし」と言うべきだ。また、諸宗教は言う。「キリスト教の外に救いなし」は間違いで、救いに関わる宗教は基本的に平等と言うべきだ。
神学が解くべき課題は果てしない。
注
1 この教導職という概念も曖昧だ。明治政府の宗教政策の中で作られた制度で、神道・仏教・儒教・キリスト教・新興宗教などを統治するためのものだったようだ。具体的には神官・神職・僧侶・牧師などを含む用語らしく、キリスト教の司教・司祭・助祭だけを指すわけではなさそうだ。
2 『カトリック教会のカテキズム・要約』(2010)の第2部第3章はこの部分の要約だが、この「教会の外に救いなし」論への言及・説明はない。
3 中世には公会議が8回開かれたが、この第4ラテラノ公会議は中世教皇権の最盛期に開かれた最も重要な公会議である。イノケンティウス3世によって召集された。聖変化は「実体変化」だと公式に宣言した公会議である。
4 ボニファティウス8世はイノケンティウス3世とならぶ教皇権至上主義者として知られている。フランス王フィリップ4世と抗争し、国王権を押さえようとするが、最後は国王派によって幽閉されてしまう。
5 洗礼は「水による洗礼」が原則だが、「血の洗礼」(殉教者など)や「望みの洗礼」(受洗前の乳幼児など)もある。
6 ヤンセニスムとは、恩恵と予定についてのアウグスティヌスの教説の復興を図ったオランダの神学者ヤンセン(1585-1638)の思想。自由意志と人間の行いを重視するイエズス会と激しい論争を繰り広げる。これは「自由意志論争」とよばれる。自由意志論争(恩恵論争)にはいくつかあるようだが、ヤンセニスムもその一つといえる。なお、DSは資料番号だが、詳説は省きたい。
7 ピウス12世(1876-1958)は、第二次世界大戦勃発直前に教皇に選出され、教皇の政治的中立性を主張した。共産主義的全体主義と自由主義的資本主義の両方から等しく距離をとろうとした。神学の近代主義的傾向を批判した。ピウス10世の「反近代主義者の誓約」(1910)はまだ生きていた。聖母被昇天の教義を制定した。
8 まるで、K・ラーナーの「無名のキリスト教」(anonymous Christianity)を思い起こさせる響きである。