カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

教権は俗権にまさるー岩島師教会論15(学びあいの会)

2020-10-28 10:12:40 | 神学

3 グレゴリウスの改革

 グレゴリウス7世(1073-85)はクリユーニー出身と言われる。前回紹介の「背景」で述べた3つの弊害の除去に力を尽くした。教会法を整備し、制度の強化に努め、、修道院を教皇直轄にする、聖職者を教皇の指揮下に入れる、などの改革をした。教皇使節が教会会議や司教会議を主催した。教皇中心の中央集権的教会を確立した。シモニアとニコライ主義を禁止した(1)。

「27ヶ条の覚え書き」(ディクトゥス・パパ 1075)(2)を発表する。その主張は次のように画期的なものだった。

 1 教皇の首位権
 2 教皇の裁治の首位権
 3 教会の領域を超える首位権(教権は俗権にまさる)

 こういう教皇中心の教会論は当然教会の内外から強い批判を受ける。特に司教たちからの反抗は強かったようだ。また、東方教会も次のように主張してこれを受け入れなかった。

 1 すべての使徒は同等の権限を有する
 2 教会全体の指導権は6総大司教にある(ローマ・コンスタンチノープル・アンテイオキ   ア・エルサレム・アレクサンドリア・?)
 3 ローマが頭との主張は認められない

 グレゴリウス改革の目的は、教会の刷新と倫理的粛正だったが、司教や修道院長の叙任権を巡ってドイツ皇帝(神聖ローマ手国皇帝)ハインリッヒ4世と対立した。叙任権闘争と呼ばれる(3)。

 1076年 教会会議でハインリッヒ4世を破門(4)
 1077年 「カノッサの屈辱」事件で教皇が勝利する(5)

 その後、皇帝の反撃でグレゴリウスは南イタリアに追放されてしまうが、結局は教会の力が確立される。決着は「ヴォルムスの政教条約」の締結だ(1122年)(6)。簡単に言えば、司教は聖職者が選出し、皇帝の叙任権は廃止された。つまり、叙階は教会が行うことになった。

(グレゴリウス7世)

 

4 グレゴリウス改革の意義

 グレゴリウス改革は意義ある改革であった。岩島師はその意義を以下の3点に要約している。

 ①教会が世俗化し、危機にあったとき、教会の自主性を回復した
 ②ローマ司教が名実ともに教会の指導者となる(ローマ司教が教皇となる)
 ③教会法が、封建社会の世俗法に勝利する

 このほか、職制、秘跡、典礼の法的明確化がなされる。「制度としての教会論」の出発点となったというのが岩島師の説明だ。

5 「二つの剣」の思想 (聖ベルナルド クレルヴォーの聖ベルナール 1090-1153)

 中世のその後の教会の法制的展開はグレゴリウス7世のラインを継承していった。二つの剣の思想とは、社会における霊的権威(教会)と俗権(皇帝や王)を明確に区別し、俗権は教権に奉仕すべき存在とみなす思想のことだ(7)。歴史を動かす思想になっていく。

 清貧運動は次回に回したい。

 


1 以下はグレゴリウス改革についてのWikipediaの説明である。堀米庸三の名著『正統と異端』の視点のようだ。岩島師とは強調点が異なることがわかる。正統とは客観的秘跡論で事効論、異端とは主観的秘跡論で人効論との指摘や、領主から教会への寄進は戦略だったことの指摘など従来からの中世暗黒論を打破した堀米説は岩島師ほど護教的ではない。

青年時代より教皇領で働き、教会法と教会の歴史に精通していた教皇グレゴリウス7世は、当時のカトリック教会の問題点は以下の2点に絞られると考えていた。世俗の権威によって任命される司教や大修道院長たちの問題、それにともなって起こる聖職者の不正や堕落、すなわち聖職者の妻帯や聖職売買(シモニア)である。
 この現状を変えるには教会自身が変革しなければならない。教皇は改革への熱意にあふれてその職務を開始した。グレゴリウス7世は1075年に「教皇令27ヶ条」を提示して、教皇権の世俗の権威への優位を主張した。さらにローマに教会会議を招集して聖職者の妻帯と聖職売買(聖職者の地位と特権を金銭で取引すること)の禁止を徹底するよう求めた。さらに各国においてこれが確実に実行されるため、教皇使節を派遣することで万全を期した。フランスやドイツにおいてこれらの通達は抵抗を受けたが、グレゴリウス7世はあきらめずにこの問題に取り組んだ。
 特に、教皇が世俗の権力による叙任(司教や大修道院長の任命)を禁止する通達を出したことが、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との終生の確執を生むことになる。グレゴリウス7世自身は亡命先のサレルノで失意のうちに死去するが、叙任権闘争において最終的に教会に叙任権が取り戻され(ヴォルムス協約)、司祭の妻帯および聖職売買の禁止は以降徹底されていったことで、グレゴリウス改革は達成されることになった。
2 これは公文書ではない。つまり、回勅でも勧告でも教令でもない。そのため日本では上記のように「教皇令」と訳されることが多いようだ。
3 叙任 ordination とは教会の奉仕職に任命すること。司教や修道院長に任命することだ。叙階(これもordination)を含む用法もあるが、この時代には叙階とは区別されていたようだ。
4 破門 excommunication とは教会法上の制裁で、信者(信徒も聖職者も含む)を教会の共同体から排除すること。大破門と小破門がある。贖罪が終わるまで秘跡に与れない。教会の職務にも就けない。教会の墓地に埋葬もされない。君主が破門されると家臣は封建制度上の臣従義務を解かれるので政治的・社会的意味も大きい。なお、これはカトリックの教会法上の概念で、教会法を持たない他の宗教にはそのままは当てはまらない。
5 あまりにも有名なカノッサの屈辱事件。聞いたことがないという人はいないだろう。カノッサは北イタリアにある。教皇と皇帝の争いはこの後半世紀あまり続く。
6 ヴォルムス条約 Wormer Konkordat 。協約とも訳される。叙任権闘争を終結させたカリクストゥス教皇と神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世との間で1122年に結ばれた条約。簡単に言えば、教皇は司教の叙任権を持ち、皇帝は諸侯として司教の選出に立ち会い、俗権を持つと定めた。
 現在の中国の地下教会の司教任命権を巡るヴァチカンと北京との間の非公開の妥協的交渉が脳裏をかすめる。教皇フランシスコは習近平に膝を屈するのだろうか。思えば、カト研のジョンストン師はかって天安門事件の直後中国を訪れ、地下教会と公認教会の司祭の両方と会っている。だが、ミサはホテルの自分の部屋で一人であげていたという。師の関心は「アジア的霊性の探求」にあり、政治的なものではなかったが、大きな影響を受けたようだ。師はやがて遠藤周作と出会い、共にアジア的霊性を求めて親交を深めていく(W.Johnston,Mystical Journey , Ch.28, 2006)。
7 「二つの剣」という言葉はいろいろな文脈で用いられるようだ。十字軍の話やPCゲームの世界でも使われているようだ。意味の変遷の経緯はよくわからない。

 

 

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