カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

グレゴリウス改革は中世で最重要の出来事だー岩島師教会論14(学びあいの会)

2020-10-27 11:52:19 | 教会

 10月の学びあいの会はいつもの顔ぶれが集まった。コロナ疲れの頭を神学の勉強ですっきりさせるのも悪くない。

 岩島師の教会論は第16章に入る。「中世教会の自己展開」と題されている。自己展開とはあまり聞きなれない言葉だが、教会が発展したとか最盛期に入ったとかの意味よりも、事態や将来が予測できないような形で進んでいったという意味が込められているように思える。

 S氏はまず「中世」という言葉の意味から話をはじめられた。中世は何時から何時までを指すのか、なぜヨーロッパ史に「近世」はなく、中世の後すぐにルネッサンスだの宗教改革だのが来て近代が始まると考えるのかなど、興味深い話があった(1)。だがこれは岩島師の論旨ではない。岩島師は教会史ではなく、教会論(の展開)を講じておられるのだ。本章の主張は明快だ。グレゴリウス改革こそ西欧中世の教会論の骨格を作ったという。

Ⅰ 中世教会の特徴 - コルプス・クリスチアヌス(キリストの体)

 中世教会の特徴は、一口で言えば、ゲルマン民族との関係の取り方だ。そして岩島師はその代表は「グレゴリウス改革」につきるという。清貧運動やトマス神学の確立、十字軍なども重要だが、グレゴリウス改革こそ中世教会の姿を示すというのが岩島師の主張だ。

1 キリスト教世界の教会
 
 古代教会は不信仰な世界における救いの共同体であった。だが、中世の教会はキリスト教ヨーロッパ世界の支配的な教会に変化した。信仰は人々の誕生において与えられた。教会は宗教であるだけではなく、社会・文化の総合的現象であった。ポプルス・デイ populus dei (神の民)は、単に信仰共同体を意味するだけではなく、異教徒に対抗するキリスト教国という意味を持っていた。

2 「キリストの体」と「キリストの神秘体」の意味の変化

 現在我々はキリストの体はご聖体、キリストの神秘体は教会という意味で用いている。実はこの用法は中世に逆転したもので、現在はその用法を引き継いで用いているという。

 古代教会にはキリストの神秘体という言葉はなく、「キリストの体」が教会を意味していた。4世紀に「キリストの神秘体」(キリストの体 mystical body Ⅰコリント 12:27)という言葉が現れ、聖体を意味するようになった。ところが11世紀になると「聖体論争」(2)の結果、聖体をキリストの神秘体とするのは誤解を招くという理由で、「キリストの体」を使用することになった。

Ⅱ グレゴリウス改革

1 背景

 中世はゲルマン民族の移動に始まる。キリスト教はゲルマン民族のなかに広まろうとする。岩島師は、中世の主題はゲルマン民族国家と教会との関係であったと主張する(3)。

(中世の教会)

 フランク王国(カロリング朝)では、教会は国家の保護下にあり、国王が司教、修道院長を管轄していた。カール大帝(カール1世 シャルルマーニュ 位768-814)は「キリスト/神の代理人」(vicarius Chrisiti/Dei)と自称した。この主張を是正しうるのはローマ教皇だけだが、グレゴリオ教皇以前の教会は弱体化し、危機にあった。岩島師はグレゴリオ改革の背景として以下の3点を上げている。

①教皇権の弱体化
②聖職者の堕落(シモニア=聖職売買、ニコライ主義=妻帯・畜妾)(4)
③俗権の教会支配(領主による教会の私物化)(5)


2 クリユーニーの改革

 ベネディクト会の修道会は堕落していったので、クリゥニーの修道院(クリゥニー会 910年設立)は初代院長ベルノのもと、修道生活を改革し、立て直した(6)。12世紀にはこの運動は全ヨーロッパに広まり、修道院数は300以上を数えた。典礼・ミサ・歌唱・美術などが完成の域に達する。

 本題のグレゴリゥス改革の話は次稿に回したい。


1 ヨーロッパ中世を、一応、西ローマ帝国の滅亡、カール大帝の戴冠(西ローマ帝国の名目上の復活)を経て、宗教改革までと考えるなら、実に1000年余に及ぶことになる。この間の東ヨーロッパ世界、地中海世界(イスラーム世界)、アジア地域にも目配りしないと、すぐに「暗黒の中世」論の罠にはまってしまう。
 ちなみに、帝政末期のローマでキリスト教が公認されたのが313年、国教化は392年、本山のような中心的教会は、ローマ・コンスタンチノープル・アンテイオキア・エルサレム・アレクサンドリアの5カ所だった。ローマ司教は他教会に対して首位性を主張していた。
2 「聖餐論争」とも呼ばれるらしい。聖体におけるキリストの臨在のあり方に関する論争だ。それが「実在」か「象徴」かという問いだ。臨在とは現実にキリストがパンと葡萄酒にいるという理解、象徴とはパンと葡萄酒はキリストの単なるシンボルに過ぎないという理解だ。歴史的にはスコラ神学における化体説(かたいせつ、ケタイとは読まないらしい ミサにおいてパンと葡萄酒がそのまま実体的にキリストの聖体(体と血)に変化するという説明(実体変化)が生まれる。この説を経て第4ラテラノ公会議(1215)で、実在的な臨在の理解が教義とされ、現在まで続いている。なお、16世紀の宗教改革ではルターは実在説をとり、ツヴイングリが象徴説をとったため、プロテスタント教会は分裂していく。カトリック教会では実在説がトリエント公会議(1545-63)で確認されている。第二ヴァチカン公会議(1962-65)はこの化体説を過去の説としたが、聖体におけるキリストの現臨への信仰は現在も教義となっている。
 論争としては、トゥールのベレンガー(1005-88 ベレンガリウスとも)が聖体におけるキリストの現存は現実ではなく象徴だとした(シンボリズム)としたことに始まる。聖体におけるキリストの現存を主張するリアリズムがこれに反論し、その結果、「キリストの体」は教会と聖体の両方を意味するようになった。12世紀になるとこれは混乱を招くとして、教会を指すには「キリストの神秘体」を使うようになる。意味が逆転したことになる。
3 ビザンツ(東ローマ)帝国の変化も考慮に入れたいところだが、この辺は岩島師が歴史家ではなく神学者だからだろう。
4 シモニア simonia 聖職売買 とは、司教職や修道院長職などの聖職を財産として売買したり、相続したりすることを意味する。単に職務なのではなく、巨大な土地などの権益を意味する。シモニアとは魔術師シモンのことらしい(使徒言行録第8章)。
聖職者の妻帯をなぜニコライ主義と呼ぶのかはわからないが、司教・司祭の妻帯はこの時代まで普通だったようだ。現在は独身制になっている(妻帯も畜妾も許されない)。だが他宗教(仏教、イスラム教、ギリシャ正教など)の現状を考えるといろいろな思いが浮かんでくる。
5 領主は自分勝手に司教を任命し、修道院を作れば修道院長を任命していたのだろう。これは封建制、特にヨーロッパの「レーエン封建制」の特徴に関わるので、岩島師は深入りしていない。
6 このクリゥニーはフランス ブルゴーニュ地方。この修道会は、修道士による院長の選出、司教権からの独立、教皇への直属を創立文書によって確保した。初めての民主的な修道会と言われ、デモクラシーの出発点とも言われるようだ。だが12世紀に入るとまたもや規律が弛緩し、シトー会などから批判を受け、やがて衰退していく。


 

コメント
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