Ⅲ 清貧運動と托鉢修道会
中世の教会はイノケンチウス3世(1198-1216)のとき絶頂期を迎える。教会はヴォルムス条約(1122)によって叙任権闘争に勝利する。
教皇ウルバヌス2世(在位1198-1216)はグレゴリウス改革を継承し、教皇権を強化する。十字軍が宣言される。そのあとに続くイノケンチウス3世のとき教会は絶頂期に達する。ドイツの国王選任問題でオットー4世を破門、離婚問題でフランスのフィリップ2世を破門、大司教選任問題でイギリス国王ジョンを破門する。こうして11世紀末から13世紀初頭にかけて教皇権は絶頂に達する。12世紀は教皇の世紀ともいえる。
と同時に、堕落する教会に対しては各地で異端運動が起きる。また、教会を改革するための清貧運動が起き、その延長線上に托鉢修道会が誕生してくる。13世紀末には教皇権は揺らぎ始め、14世紀には「教皇のバビロン捕囚」(1309-77)があり、「シスマ Schisma」(教会大分裂 1378-1417)が起こる。やがて教会の世俗化のなかで15世紀にフス戦争(1419-36)が起こり、16世紀の宗教改革の口火が切られていく。
1 カタリ派 cahares
12世紀に発生した異端運動で、中世に発生したものの中では最大のものと言われる。バルカン半島に定着し、やがて西ヨーロッパ各地に広まったようだ。特に南フランスのツゥールーズ、アルビの両地方に広まり、地方の貴族の支持も得た。アルビジョワ派(アルビ派)とも呼ばれる。カタリとは「猫」のことらしい。
教義面ではマニ教(ゾロアスター教)の影響が強く、強固な善悪2元論、霊肉2元論(霊=善、肉=悪)をとる。断食(富の蔑視)や純潔(結婚の蔑視)など極端な禁欲主義・清貧主義をとる。救われるためには教会や社会を捨て、カタリ派に入って厳しい戒律に従って生活せよとした。神論・キリスト論・救済論においてキリスト教の教義とは異なる。
組織としては独自の儀式と位階制を持っていたようだ。イノケンチウス3世はアルビジョワ十字軍を派遣し(1209-29)、続いてドミニコ会が異端審問を徹底し、やがて15世紀初頭には絶滅したとされる。
2 清貧運動 Armutsbewegung
教会内にも清貧運動がおこる。直訳すれば、貧困運動、乞食の運動だ。財産をすべて放棄し、乞食をしながら福音の宣教をする運動だ。教会のあらゆる形式(秘跡や位階など)を否定し、聖書原理主義をとり、教会制度を批判した。
ワルド派 Vaudois
代表例がワルド派だ。清貧運動の中心的存在。フランス・リヨンの商人ワルド(?ー1205)の教えに従う運動体。清貧を完徳の理想とした。ワルドは「リヨンの貧者」とも呼ばれたという。説教が反社会的・反教会的であったため1184年には異端とされたが、イノケンチウス3世の時、教会の信仰告白・位階制・秘跡を認めたので、運動が認可されたという(1)。
3 托鉢修道会 mendicant orders の発生と発展
この清貧運動の延長線上に托鉢修道会が生まれてくる。托鉢修道会は13世紀に生まれた新たな修道会だ。「新」というのは、それまでのベネディクト会のような大修道院制(山奥に定住し自給自足する観想修道会)とは異なるという意味だ。托鉢をしながら、つまり乞食をしながら、使途的生活を生きようとする(2)。具体的には、フランシスコ会とドミニコ会が生まれてくる。
1)フランシスコ会 Franciscan Order
アシジの聖フランシスコ(1181-1226)により創設される。非定住で、今でいえば「ホームレス」の集まりだ。托鉢の貧しさの中で福音宣教に従事した。
写真(アシジの聖フランシスコ)
1209 イノケンチウス3世によって口頭で会則が認可される
1223 ホノリウス3世により文書による会則が認可される
1225 第二の会則が認可される(福音の順守・個人も会も所有権を放棄・金銭受納の禁止・
托鉢による生活)
フランシスコは自分自身を「小さき者 minor」と呼んだため、修道会の正式名称は「小さき兄弟会 Ordo Fratrum Minorum」という。組織としては第1会(男子)、第2会(女子)、第3会(在世信徒)がある。会員数は13世紀末には6万人を超えていたという(3)。
2)ドミニコ会 Dominican Order
聖ドミニコ(ドミニクス 1170-1221)が始めた修道会で、もともとは異端のアルビジョワ派(アルビ派)に対抗する説教に熱心だったようだ。そのため、正式名称は「説教者兄弟会 Ordo Frantrum Praedicatorum」だ。
写真(聖ドミニクス)
1216 『アウグスティヌスの規則』のもとにホノリウス3世によって認可される
1220 ボローニャの第1回総会で自らを托鉢修道会と規定した。清貧と説教と学問をを重視した 異端審問を委託される
組織としては、「観想と活動」の両側面を持つ。学問的にはトマス主義を中心に神学研究の主流となる。当時勃興しつつあった大学、特にパリ大学神学部の中心的存在だった。16世紀以降はアジア、中南米への海外宣教に力を注ぐ。
このように、托鉢修道会は、世俗との区別がつかなくなっていた教会構造の修正を目指すものであった、というのが岩島師の評価である。
4 托鉢修道会の特徴
1)「キリストに倣う」 純粋な信仰の実践
2)兄弟的交わりの重視 庶民の目線での愛の教会像
3)奉仕の生活を通して、教会のこの世の証しをおこなう
4)フランシスコ会・ドミニコ会は従来の修道会とは異なる新しい存在
つまり、托鉢修道会は既存の教会制度へのアンチテーゼであったと言える。
Ⅳ トマス・アクィナスの教会観
1 トマスの教会観
トマスの関心は、人間が神の恩恵に与るにあたって、教会がどのような働きをするか、にある。トマスに独自の教会論はなく、恩恵論・秘跡論との関連で教会が論じられているにすぎない。教会は恩恵の手段であるという考え方だ。次のような文章が引用され、解説されている。
「教会は天使と人間によって構成され、その頭はキリスト。キリストの神秘体 courpus Christi mysticum。 教会の本質は、恩恵、即ち、神の生命への参与にある」
2 仲介者としてのキリスト
人間が神の恩恵に与るのは、キリストの仲介による。この仲介者としてのキリストの人格的行為を、歴史を通じて継承するのが秘跡である。秘跡において働くのはキリスト自身。秘跡の執行者は単なるキリストの道具にすぎない(ー>事効性論の根拠)。教会の頭であるキリストが、秘跡において働き、神の命を与え続けている。
岩島師によると、トマスの教会論はキリストの恩恵、秘跡が中心となっている。その他の要素(聖書・典礼・掟・組織・説教など)は二次的なものとなっている。
教会の職制については、司教・司祭は聖餐への奉仕職とみている。司祭と司教の区別は教会の秩序の源で、教皇は最高の司教で、権威的存在だという。だが、教皇の権威を無制限に認めているわけではなく、全教会の信仰など神学者の内省も考慮されるべきであるとしている(4)。
注
1 運動や修道院の試みが、異端とされるか認められるかは紙一重の差だったようだ。つまり教会側の政治的判断もあったようだ。たとえばアシジの聖フランシスコの初期の活動は境界線上にあったようだ。フランシスコ会の認可は1209年だが、後年これほど発展するとは認可したローマは思いもよらなかったらしい。
2 托鉢 mendicancy とは、鉢をもって歩いて食物などの喜捨を求める行為のこと。要は乞食だ。「貧しさ」はイエスの福音の一つだ。3誓願(清貧・貞潔・従順)の一つである清貧の構成要素だ。清貧は精神的・物質的貧しさを意味するが、托鉢は物質的貧しさを指す。托鉢は清貧の表現の一つだ。
それまでの大修道院制は定住と労働を原則としていたが、托鉢修道会は、全くの無所有で神のみに頼って生きる生き方だ。これは十字架上に死んだイエスの生き方に倣うことなのだという。これが当時の豊かな財産と権力を持った教会へのアンチテーゼであったことは明らかだ。
3 組織の急激な拡大は当然内部対立を生む。いくつかの分派の分裂、統合の歴史をたどる。意思決定が独裁的、一方通行的だからだ。他方ドミニコ会は合議制をとったので組織の分裂は起きていない。
フランシスコ会は教育と宣教に力を注ぐ。教育では、トマス学派が主体の知的なドミニコ会とは異なり、キリスト中心主義的だ。宣教では世界規模で活躍する。日本には1593年にペドロ・バウティスタを皮切りに多くの司祭を送りこみ、殉教している。長崎で活動し、アウシュビッツで殉教したコルベ神父はよく知られている。1982年に列聖されている。
4 あまりよくわからない説明だ。岩島師は基本的に、トマス・アクィナスは教会論を持っていないと言っているようだ。最近のトマス・アクィナス ブームを考えると、本書が著された時代的制約を思わざるを得ない。