Ⅸ カリフ制
【Ⅰ】イスラムと政治
1 イスラムとスイヤーサー
スイヤーサー siyasa とは「政治」のことらしいが、イスラム教は政教一致の宗教であり、政治は宗教と結びついている。ここでは「カリフ制」の特徴が論じられる。
2 カリフ制の意味
カリフ制とは「カリフを首長とするイスラム共同体(ウンマ)の統治制度」と定義されている(「角川世界史事典」)。ウンマは、精神的側面のみならず実際的生活にも関わるため、法執行のための政治権力が必要となる。すなわち、政治とはシャリーアを現実に適用するための統治(政教一致)のことであり、具体的にはカリフ制のことを意味するようだ(1)。
カリフ khalifa とは「後継者」という意味らしく、ムハンマドの死後、共同体の指導者の地位を引き継ぐ者のことで(2)、政治的最高指導者であり、知事・裁判官・軍司令官などを任命する権限を有する。カリフの命令に従うことは全ムスリムの義務だという。
3 カリフ制の成立
カリフ制はムハンマドの死後成立した制度で、コーランには記述がない。共同体の主体的判断つまり「イジュウマー」による(3)。初期の指導者(イマーム)は多数の合意で選ばれた。カリフの選出には様々な駆け引き・策略があったが、少なくとも最初の4人のカリフは民主的に選出された(4)。これを「正統カリフ時代」(632~661)と呼ぶ。
4 ウマイヤ朝のカリフ制
ウマイヤ朝(661-750)では、カリフ位がウマイヤ家に独占された。ウマイヤ家は反宗教的・世俗的政策をとり、私的利益の追求に走った。
ウマイヤ家は、ムハンマドに最後まで抵抗したメッカの大商人で、ムハンマドの孫のフサインを殺害させた上に、非ムスリムを優遇するなど、その支配の正統性が問われた。
①ハーリジー派(アリー軍から離反した過激派)の批判:罪を犯したカリフは認められない
②シーア派の立場:指導者は、神とムハンマドと先代のイマームを通して選ぶべきで、不可謬の人間でなければならない イマームはアリーの子孫でなければならない ウマイヤ朝は認められない
③スンニ派の立場:4代の正統カリフとウマイヤ朝を認める カリフの資格はムハンマドの子孫の限らず、クライシュ族全体に拡大する
5 アッバース朝のカリフ制
アッバース朝(750-1258)はムハンマドの叔父アッバースを祖とする王朝。ウマイヤ朝は「アラブ帝国」であったが、アッバース朝はアラブも非アラブも問わず全イスラムの平等が浸透した「イスラム帝国」と呼ばれる。北アフリカから中央アジアまで500年にわたって支配した。
聖法の代弁者ウラマーと、政治権力者のカリフの間で協調関係が成立した。
ウマイヤ朝のカリフは反宗教的態度をとったが、アッバース朝は広大な地域で他民族を支配するために普遍的な法体系を必要とし、ウラマーはその要請に応えた。広大な他民族からなるイスラム共同体を一人のカリフが、一つの法によって統治するイスラムの古典的な政治体制が初めて成立した。そして現在まで二度と成立することはなかった。
第5代目のカリフであるハールーン・アルラシード(786-809)は王朝の黄金期を支配した。『千夜一夜物語』(英語名アラビアン・ナイト)の説話が描く世界である。
アッバース朝はこのあと奴隷軍団などの軍閥が地方政権を握り、カリフは政治権力を失い、宗教的権威が残されるのみとなった。やがて1258年にモンゴルによって滅ぼされることになる。
次回はカリフ制の展開の話の前に、カリフと教皇の違いについて前置き的に触れてみたい。
(千夜一夜物語)
注
1 S氏はここで、カリフをローマ教皇と比較する議論を展開した。
教皇:教義の解釈、秘跡の授与などをおこなう宗教的権威を有する
カリフ:聖法の執行者であり、聖法や教義を解釈する宗教的権威は持たない すなわち、カリフ制は聖法を適用する政治的権力機構のことである
歴史や現実をみたときこの比較は不十分だろうが、教皇が宗教的権威者で、カリフが政治的権威者である点は大事な区別であろう。教皇には政治の面では皇帝や国王と競合し、カリフは宗教面ではウンマと競合した。
2 ムハンマドは最後の預言者なのでカリフは使徒の資格は持たない。
3 イスラム教の4大法源は①コーラン②ハディース③イジュウマー④キャースである。このうち①と②がイスラム法の根源で「シャリーア」と呼ばれた。時代とともにコーランとハディースだけでは律しきれない問題が生まれ、経典を解釈する方法としてイジュウマーとキャースが生まれた。イジュウマーとは「代表的な法学者(ウラマー)の意見で一致したもの」のことであり、キャースとは「理性による類推」をさす。
4 ここで、イマームとカリフの違いが問題になってくる。いろいろな歴史的経緯があるようだが、現在は、スンニ派はカリフによる統治を認め、シーア派はそれを否定してイマームによる統治を認めているようだ。