カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

原罪は遺伝する ー 聖母マリア(8)(学びあいの会)

2022-04-01 09:22:02 | 神学


3-3 マリアの無原罪の御宿り

 無原罪の御宿りの教義はマリア論ではあるが中心は「原罪論」だ。つまり罪と恵みの関係の問題だ。では、原罪とは何のことなのか(1)。

 原罪という言葉を聞くとすぐにいろいろな疑問が脳裏に浮かぶだろう。わたしは何も悪いことをしていないのにどうして罪人などと呼ばれるのか。自分がいつか死ぬのは罪を犯したからなのか。
 マリアはいつ原罪を免れたのか。イエスを宿した時か。それとも自分が生まれたとき(母アンナの胎内に宿ったとき)か。
 アダムが罪を犯したから全人類が原罪を免れなくなったのか。だから人間は必ず死ぬのか。ではマリアは死を免れているのか。
 生まれたばかりの赤ん坊(幼児)は無垢ではないのか。どうして汚れのない子どもが幼児洗礼を受ける必要があるのか。
 マリアの無原罪の御宿りの教義はこういう古くからある問いをめぐる論争のなかから生まれてきているようだ。

 キリスト教の伝統では、マリアは神の母として神によってあらかじめ準備された方である。「おめでとう、恵まれた方」(ルカ1:28)とは、原罪とは逆の状態、すなわち、神と共にいる「恵み」がマリアには特別に与えられていることを意味する(マリアの特権)。マリアははじめから神と一致していることが暗黙に示されている。初期の教父たちも、直接は語っていないが、マリアの聖性は感じていたようです。そして教会にはマリアの無原罪についての信仰の長い歴史がある。

 1854年12月8日教皇ピウス9世は、「乙女マリアは全能の神による恩恵と特典によりその懐胎の最初から原罪の汚れから免れていた」と宣言した。ピウス9世は全世界の603人の司教に質問状を送り、546人から賛成を得てこの宣言に至った(2)。
 この教義は、1950年のマリアの被昇天の教義宣言とともに、聖書に根拠がないことと、イエス・キリストを差し置いてマリアを神格化して女神のように崇めているなどの理由で、プロテスタントからは批判された。

 この教義の核心は、マリアは母の胎内に宿ったときから聖化されて神の友愛のうちに創られたということ、そして、マリアは生涯のあらゆる時において恵みに包まれていたということ(3)を、意味する。原罪は、アダムとエワによって始まるが、第二のアダムたるイエス・キリストと、第二のエワたるマリアによって克服された。エイレナオスは「エワの不従順による絆がマリアの従順によって解き放たれた」と述べたという(4)。

 マリアは無原罪であったばかりではなく、その生涯を通じて常に罪から守られていた方であったという古くからの信仰は、現代人には信じがたいことである。人間である以上罪を犯すのは常識であるからだ。しかしトリエント公会議は、「マリアは原罪だけではなく個人的罪からも守られていた」と宣言する(1547年 DH1573)(5)。
 マリアのうちにイエス・キリストにおける神の救いが最も完全な現実となったがゆえに、教会は「マリアこそ恵みにあふれた方」と宣言するのである。マリアは徹底徹尾 神に向かい続けられた。その召し出しに自らを捧げ尽くした。その帰結が「罪無き方マリア」である。これはわたしたちにも慰めと希望を抱かせる。なぜならわたしたちもマリア同様恵みを受けている者だからである。


ムリーリョ 無原罪の御宿り (1660~1665頃)

 



1 原罪の意味は、人間は生まれたときは「神の恵みを欠如している」ということであったが、実際にはアダムの犯した罪が人類全体に伝達されということを意味するようになった。
 原罪の英訳はOriginal Sinだが、ドイツ語訳はEbrsuendeだという。erbとは遺伝するとか、相続するとか、世襲するという意味だ。直訳なら遺伝された罪みたいな語感だ。変な訳語、変な説明に聞こえるが、正式には教皇ピウス9世の教義宣言(1854)に明確に定義されている。少し引用してみよう。
 「聖にして不可分の三位一体の栄誉のため、乙女であり神の母である方の賞賛と盛名のため、またカトリック信仰の称揚とキリスト教の成長のため、我々は、主イエス・キリスト、使徒ペトロとパウロ、および我々自身の権威によって、次の教えを説き示し、告知し、そして定義する。人類の救い主キリスト・イエスの功績に鑑み、至聖なる乙女マリアは、全能なる神による唯一無二の恩恵と特典により、その懐胎の最初の場面において、原罪のすべての汚れから前もって保護されていた。」(DH2803)。マリアは母アンナの胎内に宿った瞬間から無原罪だったという説明のようだ。
 なお、カトリック教会文書資料集は長らくDSと呼ばれてきたが(H.デンツィンガー & A.シェーンメッツァー)、監修者がかわったので1991年からDHと略記されるようになった(P・ヒューナーマン)。現在でもDSとDHが混在使用されているようだ。
 実は原罪の定義は明確だ。「このアダムの罪は起源が一つであり、模倣によってではなく、遺伝によって伝えられて、すべての人に一人一人固有のものとして内在するのである」(トリエント公会議「原罪についての教令」DH1513)。「模倣」説ではなく、「遺伝』説(相続説)がとられている。アウグスブルク信仰告白などプロテスタントの原罪論はもっと厳しく、原罪は遺伝的原罪・生まれながらの疾病・真の罪などと定義されているようだ。これらの原罪観は、ユダヤ教にはみられず、キリスト教のなかで作られたもののようだ。光延師は「ペラギウス論争」を紹介する中でこれらを「教会的原罪論」と少し批判的なトーンで呼んでいる(ペラギウス論争とは原罪は遺伝か模倣かをめぐる主にペラギウスとアウグスティヌスのあいだの論争のこと。アウグスティヌスの遺伝説が勝利し、教会の原罪論はアウグスティヌス的な原罪論になっていく。)
 原罪の観念はキリスト教の根本思想だが、アウグスティヌスやルターにならってこの思想を過度に強調することはわたし個人はあまり好まない。現代人に、あなたは原罪を負っていますとか、原罪のゆえに死ぬ運命にあるのです、とかいってもあまり説得力は無い気がする。無原罪の御宿りの教義宣言も時代の影響が大きかったのだからマリア論でのその位置づけもいずれ変わってくるであろう。
2 換言すれば、この教義宣言は教皇によるものであり、公会議の決定ではない。この時代教皇にはそれだけの力があったとも言えるし、教会は近代主義の思想に追い詰められていたとも言えるし、公会議の決定ではない教義宣言にどれだけの拘束力があるのかとも言える。
3 「成聖の恩恵」といわれる。昔のスコラ神学の用語で現在はあまり使われないようだ。マリアの浄さはイエス・キリストの贖いによるのならマリアが懐胎の瞬間から無原罪だったというのは矛盾するのではないかという批判に対して、教会は「予防的贖い」説で応じた。キリストの贖いは完全だからマリアは罪に陥ることのないよう予防されたという(少し苦しい)説明だ。この対立はトリエント公会議にまで持ち越される。
4 こういう「アダム→キリスト エワ→マリア」という図式がいつ頃登場したのかはわからない。

5 原罪は個人が犯した罪(「自罪」と呼ばれる)とは区別される。だがこの区別が曖昧だと、原罪をアダムからの遺伝と捉えたり、原罪を人間の欲情と同一視する考え方に陥りやすい。これはやはりおかしい。光延師は「現代のカトリック神学においては原罪について、新しい表現方法を見いだす必要が強調されています」(200頁)と述べている。
 なぜこのようなアウグスティヌス的な原罪論や原罪の遺伝説が定着したのか。光延師は、聖書の誤訳説を紹介している(198頁)。「ローマの信徒への手紙」5章12節が、ギリシャ語からラテン語へ翻訳されるとき誤訳されたという。「すべての人間が罪を犯したので」が「すべての人間が彼(アダム)において罪を犯した」と訳され、原罪の起点がアダムとされてしまったという。なお、新共同訳ではここは「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」となっている。一人の人とはアダムのことであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする